四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

大沼公園弁天島の板碑(埼玉県熊谷市)

2017年11月28日 | 史跡・遺跡・文化財


国内に所在する板石塔婆の中で最古の紀年銘嘉禄3年(1227)の板碑が、熊谷市須賀広(旧江南町)の大沼公園の
弁天島に建てられているとのことで訪ねてみました。
但し、現在建てられているのは複製品で、実物は、江南文化財センターに展示保存されています。
板碑は、肉彫で阿弥陀三尊像を描いた画像板碑ということで詳細は省きます(これを書いている本人が理解できて
いませんので)

当該板碑は、昭和8年に発見されるまで、熊谷市須賀広地内の水田と小溝にかかる橋材として使用されていたよう
です。昭和36年7月に村道の改修工事に伴い、大沼付近の地蔵堂に移転。以来、弁天島の板碑として広く紹介され、
町民等の親しむところとなりました。平成元年11月には、傷みの目立つ現品を収蔵庫に保管し、代わりに、復元模
型を現地(大沼公園弁天島)に設置したということです。




まずは大沼公園の姿から
いまほどには整備されていなかった昔、畔にはお店がありお土産品やお菓子などを売っておりました。
中学の卒業記念にといって、クラスのほぼ全員が自転車に乗って行ってきた思い出があります。




大沼の真ん中に浮かぶ弁天橋
朱色のお堂が遠くからでもよくわかります。




弁天橋を渡って・・・




鳥居も建っています




写真中央に見えるのが板碑




弁財天




嘉禄三年銘板石塔婆の説明版




嘉禄三年銘板石塔婆(複製品)




複製品を見たらやはり実物も見てみたいと、(板碑の事は何もわからないくせに)
日をあらためて江南文化財センターへ




職員の方に写真撮影の許可をいただきましたので何枚か。

右端:嘉禄三年銘板石塔婆  (県指定文化財 平成2年(1990)3月28日指定)
中央:弘安銘曼荼羅板石塔婆 (市指定文化財 平成9年(1997)1月20日指定)
左端:寛喜銘板石塔婆    (県指定文化財 平成2年(1990)3月28日指定)




ちょっと角度を変えて




嘉禄三年銘板石塔婆  欠損部分を書き加えてあります




企画展開催中でした

大沼公園散策日:平成29年(2017)10月30日(月)
文化財センター:平成29年(2017)11月 7日(火)

雷電山古墳・大雷神社(埼玉県東松山市)

2017年11月27日 | 古墳


名 称:雷電山古墳(らいでんやまこふん)
墳 形:前方後円墳(帆立貝形)
時 期:5世紀初頭(推定)
指 定:市指定史跡(昭和31年(1956)2月6日三千塚古墳群として指定)
所在地:埼玉県東松山市大谷

社 名:大雷神社(だいらいじんじゃ)
祭 神:大雷命(おほいかづちのみこと)
創 建:貞観元年(859)※社伝
指 定:-
所在地:雷電山古墳の墳頂部

三千塚古墳群東松山市大谷地区の丘陵(川越カントリークラブのある丘陵)に広く分布した古墳群で、雷電山古墳は
それらの盟主墳と考えられ、出土した埴輪は埼玉県では最古級のものと言われます。大雷神社は、その雷電山古墳の
墳頂部に建てられた神社です。




県道391号(大谷材木町線)沿いにある大岡小学校の道向いに川越カントリーへの入り口を入ります。
大岡小学校の前に「雷電山古墳」と大きく書かれた看板がありますからすぐにわかりますが。




クラブハウスの少し手前の右側に雷電山古墳はあり、標柱や神社の社号標、幟立てが建っています。




標 柱




社号標と幟立て




右側の生垣前に「三千塚古墳群」の説明板が建っています




判読できる程度に大きくしてみました




鳥居  




鳥居の右側付近の古墳の斜面の模様




石階段を上った先に見えるのが社殿




社殿




大雷神社と社号が入った扁額の縁周りは龍の彫ものです




社殿全体を斜めから




社殿左手にある「明治百年記念之碑」  大雷神社由緒沿革が書かれています




先程の標柱等が建っていた場所から更にもう少しクラブハウスに近づくと生垣の切れ目に別の説明(案内)板が




「大雷神社祭礼相撲場跡」の説明板です




この説明板のある所から古墳を上ってみました(大雷神社の裏側)が、相撲場跡らしき場所はわからず




大雷神社の社号標の右手下はゴルフ場 
プレーをしている人は古墳には興味なさそうでした(勝手な想像をするな) ゴルフをやらない人は古墳巡り(誰のこと)




大雷神社の参道は、川越カントリーのクラブハウスの手前とばかり思っていると大間違いで、ここが参道の始まりです。
同じ東松山市大谷地内でもこちらは県道307号(福田鴻巣線)沿いにあります。
荒川水系の一級河川・滑川の支川である角川に架かるこの石橋は雷電橋と言います。明治22年(1889)3月、旗立、鳥居と
ともに大谷村氏子中が寄進したもので大理石の敷石も現存している。
大雷神社は、ここから北へ1.2Km先にありますから、ここの鳥居が一の鳥居ということになるでしょうか。
参道左側の道路は後世のものでしょう。




参道には石燈籠が建っています




幟立てには「大谷村」の文字が




鳥居です
このままこの先も参道で川越カントリーの中を通り前半で紹介した参道入口に繋がっているようです。




社号額

散策日:平成29年(2017)10月30日(月)・11月4日(土)・6日(月)

比丘尼山横穴墓群(埼玉県東松山市)

2017年11月24日 | 古墳


名 称:比丘尼山横穴墓群(びくにやまよこあなぼぐん)
形 態:横穴墓群
時 代:古墳時代終末期
所在地:埼玉県東松山市大谷

比丘尼山と横穴墓群についての説明は、現地の説明板の写真をアップしますので省略します。

この写真は、県道307号(福田鴻巣線)の道端から見た比丘尼山
田んぼの中の道路を直進し、突き当りを右折して少し行ったところに横穴墓があり、説明板と標柱が建っています。




説明板と標柱




同上




説明はこの説明板で
ここは「おうけつぼ」でなく「よこあなぼ」と呼ぶようですね




説明板のすぐ左側に横穴墓への上り口があります。距離はありませんが急斜面ですので両脇の篠を数本ずつしっかり
掴みながら登りました。帰りも同様です。




篠の間に横穴墓が見えます




中は暗いのでフラッシュを焚いて




更にアップで




他に開口した横穴墓は見当たりませんでしたから、埋められたのかもしれません。でも横穴墓「群」に変わりはなし。
この前の散策路は、ウォーキングトレイル大谷伝説の里コースです。




荒神社のほうに向かってみました




ウォーキングトレイルの分岐点
この標識のすぐ先に荒神社があります  小さな社です




荒神社
「あらかみしゃ」と読むのでしょうか「こうじんしゃ」と読むのでしょうか?ふたつの読み方があるようですが。
荒神とは、民家の代表的な屋内神で、竈の神様として祀られるそうですが、でも、ここは田んぼのそばです。
竈・・米・・田んぼという流れでしょうか? 詳しいことはわかりません。




恐れながら格子の間から中を覗かせていただきましたが、中には更に祠があって扉が閉められてれていました。




比丘尼山を遠方から

散策日:平成29年(2017)11月6日(月)

比企能員館(埼玉県東松山市)

2017年11月23日 | 100名城以外の城館跡


城 名:比企能員館(ひきよしかずやかた)
別 名:-
築城年:不明(鎌倉期)
所在地:埼玉県東松山市大谷・宗悟寺周辺一帯の何れかの場所

比企能員(ひきよしかず・?―1203)
鎌倉時代初期の武将。能員の養母比企尼は源頼朝の乳母であり、頼朝が伊豆に配流されると武蔵国比企郡(埼玉県比企郡・
入間郡)に移り住み、なにかと頼朝のめんどうをみた。その関係から能員も早くから頼朝に仕え、平氏打倒、奥州征伐にも
活躍した。さらに比企尼の娘が2代将軍頼家(よりいえ)の乳母となり、また能員の娘が頼家に嫁して(若狭局(わかさのつ
ぼね))一幡(いちまん)を生んだ。かくして能員は幕府創業以来の功臣として、また頼家の側近としてしだいに重きをなし
ていった。しかし1203年(建仁3)頼家の重病に際し、後を一幡が継ぐことによる比企氏の勢力増大を恐れた北条氏によっ
て、能員は9月2日謀殺され、続いて一族も滅ぼされた。     【出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)】

比企能員の館が東松山市大谷にあったということから、ネットで皆さんの情報を探して参考にさせていただき、比企能員館
あったと推定されている場所を散策してみました。あくまで伝承で、館があったかは不確かなようですが、この大谷地区は
比企氏とゆかりが深いことは地名等からも見て取れますので、館はあったと信じたいものです
冒頭の写真は宗悟寺の山門ですが、この寺も比企氏とはゆかりのある寺です。




比企能員館は宗悟寺の東の城ヶ谷(じょうがやつ)にあったらしいとのことから城ヶ谷沼へ。
右側の道路奥のうっすらと見える堤の後ろが城ヶ谷沼。かつては釣り場だったようでその名残の看板や小屋があります。
沼の西側(写真左側)に館を構えたのではと推理する方もおるようです。竹林の中には平場があるとかですが、なんせ藪
の中、さすがに勘弁です。場所さえ確認できれば十分です。




沼を背にして




城ヶ谷沼




宗悟寺の西方にある比丘尼山  これは宗悟寺寄りの南東方向から撮ったもの
「比丘尼山」は、比企能員の養母で、伊豆に流されていた源頼朝を援助した比企郡司遠宗の妻が、夫の没後、比企禅尼と
なりここに草庵を結んだんといういうことから呼ばれています。更に、周辺には能員の娘で二代将軍頼家の妻若狭局が頼
家亡きあと移り住んだと伝える場所などもあります。




この谷(やつ)の奥に若狭局が亡き夫頼家への思いを断ち切るために櫛を投げ入れたという串引沼(古名:奇比企沼)が
あります。




辻に石仏が建つ長閑な田園の道を串引沼に向けて歩きます。




左の山が比丘尼山 




串引沼に着きました。
丁度影になっているところに石碑が建っています。何か謂れでも書かれているのかと思いきや串引沼改修の碑




堤下段に「串引沼と若狭局の悲話」の看板が建っています。




読める程度に大きくしてみました(こうすれば内容を転記する必要がありませんので・・・即ち手抜き)




堤上段から来た道を振り返ります。




まるで湖のような串引沼  でもやっぱり灌漑用の沼なんです。
今は、川越カントリーの一部になってしまっていますが、この沼の先に若狭局隠棲址があるようです。
ゴルフ場と化した今では遺構は望めないでしょうが、梅ケ谷という場所らしいです。




この沼の底に亡夫への思いを断ち切るために投げ入れた形見の鎌倉彫の櫛が眠っているかと思うとまさしく歴史ロマンです。




沼の南西端に社が見えます。




社名札(扁額)が掲げられていませんので何という社なのか  上はゴルフ場です。




同所からもう一度串引沼を・・・

これら比丘尼山や串引沼などを含む「大谷伝説の里」をみなさんは1日で歩くようです。しかし、自身はそのうちの
数か所を散策するために都合5日も通いました。同じ場所を2度3度と訪ねなければならないという全く計画性のな
いことをやっています。まあ、ここに限ったことではなく、ほかのところもほぼ同様です。この記事とて、数日の散
策で撮った数多くの写真の中から選んだ写真で構成しました。1回(1日)で済ませればもっといろいろなところに
出かけられるのに・・・

散策日:平成29年(2017)10月30日(月)~11月6日(月)の間の数日

宗悟寺(埼玉県東松山市)

2017年11月22日 | 神社仏閣


名 称:扇谷山 宗悟寺(そうごじ)
宗 派:曹洞宗
本 尊:釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)
創 建:元久元年(1204)?
中 興:天正20年(1592)
開 基:森川金右衛門氏俊
所在地:埼玉県東松山市大谷400

宗悟寺は、江戸時代を通じて当地を治めていた旗本森川氏の菩提寺で、初代森川氏俊が興しました。鎌倉二代将軍
源頼家が伊豆の修善寺で暗殺された後、宗悟寺の西にある比丘尼山は、伊豆に流されていた源頼朝を援助した比企
郡司遠宗の妻が、夫の没後、比企禅尼となりここに草庵を営んだということから呼ばれるようです。
比企禅尼の孫で、鎌倉二代将軍源頼家の妻若狭局は、頼家が伊豆の修善寺で暗殺された後、宗悟寺の西にある比丘
尼山の周辺に逃れて移り住み、尼となり草庵を結んで頼家を弔う為に寿昌寺を創立したとされています。この寺を
天正20年(1592)に、森川氏が現在の地に移して興し宗悟寺と改号し、森川家の菩提寺としました。
同寺には頼家の位牌が残されておりますし、山号の「扇谷山」からもわかるよう比企氏ゆかりの寺です。




参道入口の右側に案内板が建っていますが何も書かれていません。以前は近隣の社寺の地図が貼られていて森川氏
陣屋の表記もあったようですが、だいぶ古いものでほとんど判読できない状態だったようですから。




参道  なかなかよい雰囲気です




山門




山号「扇谷山」の扁額  扇谷・・・鎌倉にある地名です 比企氏とゆかりあるだけのことはあります




立派な山門です  薬医門ですね




白山妙理大権現とあります




石仏が並んでいます




本堂




本堂




寺号「宗悟寺」の扁額




本堂を斜めから




比企一族顕彰碑




本堂裏手にある森川氏累代の墓




宗悟寺開基の墓とあります
この墓所には森川氏初代と二代の墓があります




この列が森川氏初代と二代の墓石(宝篋印塔)のようですが、どれが誰のものかは分りません




他にも供養塔などが多数あります




墓地の一番高所にも森川氏累代の墓があります 
こちらの墓所は三代以降のものです




森川氏累代の墓とあります




高所左手にもたくさんの墓石が並んでいます やはり森川氏一族のものでしょう




墓地高所から望む秋葉神社のある台地  この西側あたりに森川氏陣屋があったと推定されています




こちらは山門前からのもので、丁度正面に秋葉神社・陣屋跡推定地があります
陣屋(館)に向けて宗悟寺を建てたことがよくわかります

散策日:平成29年(2017)10月30日(月)・31日(火)

森川氏陣屋(埼玉県東松山市)

2017年11月21日 | 100名城以外の城館跡


城 名:森川氏陣屋
別 名:-
形 態:陣屋(館)
築城年:天正20年(1592)
築城者:森川欽衛門氏俊
指 定:―
遺 構:?
所在地:埼玉県東松山市大谷650付近(推定)

埼玉県東松山市大谷地内に、徳川家旗本森川が築いた陣屋跡・森川氏の菩提寺があるとのことで訪ねてみました。
とは言え、陣屋跡の場所ははっきりと特定されているわけではなく遺構もないようで、これも推定地にすぎませ
ん。菩提寺・宗悟寺については別記事にします。

森川氏は森川欽衛門氏俊といい、徳川家康に仕え、家康の伊賀越えに同行した家臣のひとりです。天正18年(1590)
に家康が関東に移封されると、氏俊は比企郡大谷村(現・東松山市)や山田村(現・滑川町)・杉山村(現・嵐山町)
など2000石を知行され、天正20年(1592)この大谷村に陣屋を築いたということです。
「埼玉の中世城館」という書物の中に、東松山市大谷650番地に「某陣屋」として紹介されているのが、森川氏陣屋
ではないかとのようです。(残念ながら自身はこの書物は所有しておりません)

秋葉神社が鎮座する丘陵(舌状地)で、石垣の右側あたりが該当場所のようです。




東側(写真左側)の丘陵の上に秋葉神社が鎮座します。
この西側のいずれかの場所に陣屋があったと推定されているようです。




秋葉神社側から西方向に向けて




秋葉神社の社号標と鳥居  ここへは民家の脇をを入って行きます




社殿




秋葉神社の社額




社殿側面




秋葉神社の案内(説明)板
陣屋が築かれてからだいぶ後に勧進されたようですね




この案内板前の道がかつての秋葉道でしょうか




森川氏陣屋があったと推定される場所付近から北方にある宗悟寺を望む

散策日:平成29年(2017)10月30日(月)・11月4日(土)

泉福寺館(埼玉県滑川町)

2017年11月20日 | 100名城以外の城館跡


城 名:泉福寺館(せんぷくじやかた)
別 名:―
形 態:館
指 定:-
遺 構:土塁・空堀
所在地:埼玉県比企郡滑川町和泉1681番地・泉福寺

泉福寺館は、時代不詳の城館です。東方200mの丘陵上にある三門館との関連も指摘されるようですが、やはり詳細
は不明のようです。館の跡に泉福寺が建立されたのか、先に寺があったのも不明です。泉福寺は滑川東岸の比高10m
程の丘陵地にあり、本堂背後の竹林の中に空堀が残っています。

泉福寺は新義真言宗智山派の寺院で山号を八幡山と号します。開山は建久元年(1190)ですが、寺の歴史について
は、幕末の落雷により本堂が焼失したため不明とのこと。




三門館跡下の道路から泉福寺を




参道の手前にある石仏 右手に参道があります




参道と寺号標




すっかりお約束ごとになってしまった六地蔵尊




庭園越しに本堂を




本堂




本堂と庭園を上の方から




左上の建物(収蔵庫)に泉福寺の本尊で国指定重要文化財である阿弥陀如来坐像が安置されている
拝観については手続きを要す(要予約・手続き詳細は略)




泉福寺阿弥陀如来坐像の説明板
源氏に関わりの深い女性とその子供とか鎌倉という文言が記されていますが、やはり鎌倉に関係深いあの人物との
関連があるのでしょうか?




何のお堂かは調べていません




阿弥陀三尊の大型の板碑
この板碑には通例の名号題目ではなく、漢文で何かの事跡が刻まれていますが、銘文は摩滅がひどく判読不明です。




本堂背後の竹林
入ってすぐのところに空堀があります(写真中央・下から上に向って撮ったものですが高さが出ていませんね)




腰郭のような平場です。更に右は切岸状態になっていて1条の空堀があるようですが、枯れた竹で埋まっています。




境内から見た展望台のある二ノ宮山(滑川町で一番高い山)




やはり境内から見た三門館跡

散策日:平成29年(2017)10月30日(月)・31日(火)

三門館(埼玉県滑川町)

2017年11月19日 | 100名城以外の城館跡


城 名:三門館(みかどやかた)
別 名:和泉の陣城
形 態:館
時 期:不詳
指 定:―
遺 構:土塁・空堀
所在地:埼玉県比企郡滑川町大字和泉字三門1238付近

滑川町大字和泉字三門地内に、「三門館」(みかどやかた)と呼ばれた城館跡があるというので訪ねてみました。
場所は、八宮神社南の一帯というこで、土塁や空堀が遺るとのことでした。

土地の伝承では、五所五郎丸の居館と言われるも裏付けるものはない。また、毛呂太郎季綱が、武蔵国泉・勝田の
土地を賜ったという記録から毛呂太郎季綱の居館があったのではないか。しかし、鎌倉時代を通して毛呂氏の所領
であったと思われるも三門館や泉福寺との関係を示すものはないとのこと。詳細は不明ですが、何らかの城館があ
ったのは確かなようです

上の写真は、泉福寺から見た三門館跡です。左斜め上に向って走っている道路の先に八宮神社があります。
取敢えずは八宮神社を目指します。




八宮神社方向への道路です。




道路右側上が三門館跡のようです。




朱色の鳥居が見えます。八宮神社です。




鳥居をくぐり神社に向います。




八宮神社社殿  思ったほどは大きくはありません。




案内板(由緒書)
創建年代は不詳とあります。
神社境内前方には、中世の城址や、建久2年開山の泉福寺があるとあります。
三門館に関する情報でもあればと期待したのですが、残念ながらその記載はありません。




境内末社




境内敷地はかなりの広さがあります。ここに館があったのではと考えたくなります。




鳥居前方に祠があります。




左:鎌足大権現  右:羽黒山  が祀られている。
多分、多分ですがこの2基とも、ごく近くの別の場所に祀られていたものをここに移して並べて祀ったのではな
いかと勝手に推測しています。




鎌足大権現の石祠の側面には嘉永六丑年四月吉日と刻まれていますので、1853年のもののようです。
『鎌足権現(藤原鎌足)ごんげん様は足にご利益のある神様といわれて、古くから人々に親しまれてきました。
いつの頃からか草履を供える習慣ができました』
それにしてもどこに行っても「藤原氏」ですね。ここもやはり藤原氏の流れをくむ地なのでしょうね。




予め調べておいた地点から三門館跡とされる場所に。山と言おうか林と言おうか。
完全に藪状態です。




尾根上から東方向(実際には南東方向になるのですが便宜上東方向とします。以下それに合わせた方位で表現し
ます)に下る竪堀ですが、灌木や草、枯葉等で埋まっています。
これは下(東)から上(西)に向って撮った写真です。




堀底を下に向ってみましたが、落葉等で埋まっているように見えてもズブズブト入り込むし、弦が足に絡んだり
倒木があったりで中々進めません。堀底と堀の渕を行ったり来たりです。
ここ以外の竪堀でも同様な状況だったと思います。それ以前に竪堀を見つけるのが大変ですが。
この写真も下から上に。




先のほうに麓の民家の屋根が見えるのですが、足場の悪い堀底で滑り、バックやカメラ、被服が土だらけになって
しまいました。これ以上、藪状態の斜面の堀底や堀のふちをを歩くのは無理で、危険を伴いそうでしたので引き返
しましたが、引き返すのもこれまた大変でした。
写真では分りにくいですが中央部の灌木等が生えているところが空堀(竪堀)です。




尾根の上に戻りました。台地南方に延びる堀跡と土塁です。




堀跡と土塁と言ってよいのか分りませんが、とにかく堀跡と土塁です。




同上




堀跡と土塁の途切れたところで、若干傾斜のある平場に出ました。




出たところを左(東側)に行ってみました。ここからも麓に下りられますが、民家の裏庭に下りてしまいます。




平場




先ほどの平場の更に南側です。冒頭の写真の中央あたりです。南方から北方向に撮っています。
ここの段差のすぐ下が下り口のようです。




中央の明るくなっている所が下り道のようです。




石造物が倒れるようにして建っています。




明るくなっているところが道路です。




民家の脇に下りてきました。冒頭の写真の右側民家のところです。




道路に戻ってから、台地東側の谷津の回り込み、途中で下るのを断念した竪堀がみられるかと探しました。しかし
木が生い茂っていて確認できませんでした。写真左端に写っている家の裏当たりに下りてくると思うのですが。

三門館跡を散策するにあたり、いろいろな方のHPやブログ等で現場を確認してありました。しかし、写真で見た
のと、実際現場に来て見るとでは全く違います。
参考にした写真は、10年以上も前のもののようで、藪状態にはなっておらず、堀跡にしても土塁にしてもはっきり
とわかります。年月が経過すれば現況が変っていしまうのはどこにでもあることです、逆に、藪状態であったもの
が整備されて見やすくなったという城館跡もあるわけです。

この三門館跡と誰しもが対で訪問する泉福寺館については追って別記事にします。

散策日:平成29年(2017)10月30日(月)・31日(火)

記念講演会Ⅰ「上杉家と日本刀」

2017年11月18日 | 講演会・講座


さいたま市にある「埼玉県立歴史と民俗の博物館」では、現在、特別展「上杉家の名刀と三十五腰」を開催中です。
その記念講演会の第1弾として、

記念講演会Ⅰ「上杉家と日本刀」
開催日:11月18日(土)
講 師:公益財団法人佐野美術館 館長 渡邉 妙子 氏
会 場:埼玉県比企郡嵐山町  国立女性教育会館 講堂

が開講されましたので聴講してきました。
竹の刀と木の刀は持っていますが、鉄の刀(本身)は残念ながら持っていません。日本刀についても特段の知識が
あるわけでもありませんが、後学のためにと・・・

記念講演会の第2弾として、12月2日(土)には、記念講演会Ⅱ「関東と上杉氏」が歴史と民俗の博物館講堂を会場
として開講されるようですが、残念ながら申し込みが間に合いませんでした。

館内(講演会)は、録音、動画・写真の撮影が禁止されておりましたので会場の写真はありません。




会場の女性教育会館 講堂前の並木の枝の葉はほぼ落ち尽くしていました。




施設内茶室付近の紅葉が綺麗です。

聴講日:平成29年(2017)11月18日(土)

酒井氏陣屋(埼玉県滑川町)

2017年11月15日 | 100名城以外の城館跡


城 名:酒井氏陣屋
別 名:-
形 態:陣屋(館)
築城者:酒井重勝
時 期:江戸時代初期
指 定:-
所在地:埼玉県比企郡滑川町福田1205成安寺一帯

埼玉県比企郡滑川町福田1205に所在する曹洞宗心田山成安寺(じょうあんじ)の境内一帯は、徳川家旗本酒井氏の
陣屋跡と推定されるとのことから訪ねてみました。
酒井陣屋初代酒井重勝は、徳川家康の伊賀越えに同行した家臣の1人のようです。

徳川家旗本酒井重勝(1549-1613・通称は与九郎または作右衛門尉)は、徳川家康の家臣として活躍し功績をあげ、
家康の関東入府(天正18年(1590)8月1日)に伴い武蔵比企郡福田、岡部、上総山部郡土気合わせて2000石を知行
される。慶長3年(1600)の関ヶ原の戦い後に加増を受け5000石となる。福田村に建てられた酒井氏陣屋は、江戸
の旗本屋敷が整備される寛永期頃まで重勝一族の本願地として何らかの形で存続していたものと推定されています。
成安寺の開基は酒井重勝で、同寺には酒井氏陣屋領主の歴代墓所があります。

陣屋当時の遺構は残っていないようですが、どこかしら陣屋を思わせるところもあります。




成安寺の寺号標  ここから山門・本堂まではかなりの距離がある参道です。
寺号標の前を県道173号(ときがわ熊谷線)が走っていますが、寺号標と県道の間に側道があります。




参道沿いに立つ石仏、庚申塔が並んでいます。
左側の少し高い所には舗装された道路が走っていて、成安寺境内に車両で行く場合はこちらの道を。
木がこんもりしたところは馬頭観音堂




山門  中々の雰囲気があります




山門を抜けると前庭とでも言いましょうか、池があります。




池越しに馬頭観音堂を




塀に囲まれた境内へ




境内




お約束の六地蔵尊




本堂に掲げられた山号額(扁額)




角度を変えて本堂を




本堂の左上にも池があります




墓所の一角にある酒井氏の墓所 (全部は掲載できませんが)




初代酒井重勝から重之、重頼、重春、重見までの5代にわたる墓石があるようです。




成安寺境内(敷地内)に所在する馬頭観音堂(福田馬頭観音)




木の枝の影で見づらいですが馬頭観音堂の説明板




馬頭観音堂正面




馬頭観音堂右側面




観音堂裏にある板碑  滑川町内最大の板碑で高さ 323Cm




上記板碑の右方にある「建長の板石塔婆(板碑)」




建長の板石塔婆説明板
滑川町最古の板碑で町指定文化財とのこと




参道付近の模様です。
ここ一帯に酒井氏の陣屋があったとの推定ではありますが、本当にこの場所にあったと思える風景です。

と、ここまで2日続けて訪問して撮った写真のなかからセレクト(オーバーかな)したものをアップし、一応、
酒井氏陣屋跡と推定されるという成安寺を紹介した本稿を書き上げました。
しかし何か物足りない。馬頭観音堂裏の2つの板碑は2つが並んだ写真があった方が分りやすいだろう。観音堂
の向拝格天井の馬姿絵の写真もあった方がよいかもと考え、3度目の訪問をしました。




そしてこれが、だいぶ剥離していますがあらためて撮ってきた観音堂の向拝格天井の馬姿絵




2つの板碑を1枚に収めたもの

この日、丁度、成安寺の住職さんが観音堂の周りを掃除しておりましたので、ここが酒井氏陣屋跡と推定されてい
るとのことですので連日にわたりお邪魔させてもらっていますと挨拶をし、折角、住職さんにお会いできたのです
から、「陣屋跡の遺構が残っているところあるのでしょうか?」とお聞きしてみました。「いや、ここに陣屋はな
かった。重勝がこの寺を開基したが、陣屋があったのはあそこの方です」と、寺から200mほど離れた北方にある道
路のほうを指し、場所を教えてくれました。
更に、いろいろな方のブログ等を参考にして冒頭に書いた知行地比企郡福田、岡部、上総山部郡土気のことに触れ
ますと、「岡部ではなく岡です」とのことでした。
現在は深谷市の一部となっている岡部であるなら岡部藩があったから変だなと薄々感じてはいましたが、「岡」な
らすぐ近くの東松山市にありますから納得できます。
成安寺のある場所に陣屋がなかったとしても、みなさんあくまで成安寺一帯を推定とし、成安寺と特定しているわ
けではありませんから決して間違っているわけでありません。
イヤー、まさかこんな話が聞けるとは思っていませんでしたから3度も行った甲斐がありました。




陣屋があった場所は写真中央の道路を入っていったあたりだと教えていただきました。
たまたま近くの方が庭先の畑で作業をしていましたので、「この辺に家康の家臣であった酒井氏の陣屋があったと
お寺の住職さんからお聞きしてきたのですが分りますか?」と尋ねてみましたが、分らないとのことでした。
酒井氏や陣屋のこと自体を知らないような感じでした。




このあたりに酒井氏の家来が2人住んでいたとの住職さんの話でした。




住職さんが教えてくれた陣屋のあったところとはこのあたりだと思います。




陣屋があってもおかしくはないような雰囲気のところです。




陣屋があったとされるところの前の道路から成安寺方向を。
どちらに陣屋(館)があったにせよ、このあたり一帯が酒井氏の陣屋跡には変わりはないわけですから・・・

散策日:平成29年(2017)10月30日(月)・31日(火)・11月4日(土)