四季・めぐりめぐりて

諸々の事情から最近は遠出の城めぐりができませんので、近場の城館跡めぐりをぼちぼちながらやっています。

小谷城(埼玉県)

2018年04月20日 | 城館・城跡


城 名:小谷城(こやじょう)
別 名:―
形 態:砦
時 期:不詳
城 主:不詳(小宮山内膳・小宮山弾正?)
遺 構:―
指 定:―
現 状:河川敷耕地、住宅地
所在地:埼玉鴻巣市小谷(旧・北足立郡吹上町)

「小谷城」と言えば、滋賀県長浜市にある浅井氏の居城であった小谷城(おだにじょう)がメジャーです。日本五大山城のひ
とつに数えられ国指定史跡でもあり、戦国ドラマにはよく登場する城です。
一方、この小谷城は「こやじょう」と読み、小屋城から転じたともいわれるようですが、はっきり言って小谷城(おだにじょ
う)と比較すまでもなくマイナーな城跡です(失礼)。そんなマイナーな城跡って、その界隈の方たちには意外に人気がある
ものです。




前々からこの小谷城(こやじょう)の存在については知っていましたが、説明板がある位置が今一つはっきりしませんでした
ので訪ねることを躊躇していました。とにかく小谷と言う場所の堤防に行ってみようと適当に行って、堤防上を少し歩いたと
ころ運よく説明板を見つけたという次第でした。もし、逆方向を歩いていたら見つからずに諦めて帰ってきたことでしょう。




堤防上に設置されている小谷城跡の説明板
城跡と言っても何も遺っていないが同然の場所にこうした説明板があることはありがたいことです
合併前の吹上町の教育委員会が設置したようです




詳しい説明文です




このように2通り地図を並べていただくことで場所の把握が容易になります。親切な案内板です。




堤防上から見た城跡の一部です




宝勝寺




金乗寺




日枝神社




日枝神社の由緒書 
この中に、日枝神社は小谷城跡から見て東北の方角にあるため、城の鬼門除けとして祀られた社との見方もある」と小谷城跡
に関する記述があります。




堤防上から地図に書かれた鎧塚、元屋敷などと呼ばれる場所はどの辺りかと見てみましたが分りません。




堀跡のようにも見えますが、耕地は色々と手が入っていることでしょうから果たして。




度重なる洪水や堤防の補強等で遺構と呼べるものはないような状態です。地元の方でもいればある程度は地名の場所を教えて
いただけたかもしれませんが、この辺り一帯が小谷城のあった所かと眺めるだけにしておきました。

散策日:平成30年(2018)4月14日(土)
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加納城(埼玉県)

2018年04月19日 | 城館・城跡


城 名:加納城(かのうじょう)
別 名:―
形 態:平城
時 期:室町時代から戦国期か
城 主:本木氏?
遺 構:土塁、空堀
指 定:市指定史跡(平成9年(1997)10月1日指定)
現 状:一部を残し住宅地
所在地:埼玉県桶川市加納

中世の平城跡である桶川市の加納城を訪ねてきました。城跡に関することは現地の説明板にありますで写真を載せておきます。
南北約210m、東西約200mと推定される城域の大方は住宅地「城跡団地」となり、城跡は僅かに遺るだけです。




加納城跡はこんな住宅地の中にあります  ここではまだ城跡に気づきません




「桶川市指定文化財 加納城跡」と刻まれた石柱があります。石碑と言うまではいかず石標ですね。小さなものですし、生垣
の脇に建っていますのでうっかりすると見落としてしまいそうです。
これが有ると無いとでは城館ファンにとっては大きな違いがあります。城館跡訪問の証しですし・・・




携帯電話の中継塔が建っています。




これも隠れるようにして建っている「桶川市指定文化財 加納城跡」の説明板を見つけました




正面から




説明文、写真、縄張図を拡大して  英文の説明を除いてと言った方が早いかも




縄張図 上と下を間違ったわけではありません 説明板では北を下にした縄張図ですのであえて北が上にしました
補足のため加筆してあります




全くのおおよそですが、上記縄張図における城域を黄色の線で囲ってみました。赤色の線で囲った部分が加納城跡として現在
残っている部分です。如何に宅地開発が進んでいるか分ります。その分、「城跡団地」という名称で残していますが。




北側部分を東方から西方に観ていますが完全に更地になっています




上の写真の逆方向です 北西隅に遺るこの物見台跡のようなものは土塁の削り残しのようです




西側を北方から南方に見ています




南側の土塁と堀跡を西方から東方に見ています




上記写真の逆方向です  




祠  堀跡の外側(南側)に位置しています  ここの地主さんの氏神様のようです




中央を東西に延びる土塁を南方から




土塁の上です




説明板の縄張図にある  今も残る「おりひずみ」 とはこの道でしょう(もう少し近くで撮ればよかったですね)

どうしたことでしょう。この加納城跡には迷うことなく一発で行けましたし、普通なら見落としていたであろう標柱もすぐに
見つけました。そんな自分が信じられません。まあ、次はいつも通りに迷い迷うことでしょうから。

散策日:平成30年(2018)4月12日(木)
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鴻巣御殿(埼玉県)

2018年04月18日 | 城館・城跡


城 名:鴻巣御殿(こうのすごてん)
別 名:御遊獵御旅館
形 態:御殿
時 期:江戸時代
城 主:(小池長門守、隼人助)・徳川家康、秀忠、家光
遺 構:-
指 定:-
現 状:御成東照宮・住宅地
所在地:埼玉県鴻巣市本町4丁目8番

後北条氏家臣小池長門守が北条氏康の命を受けてこの地に砦を築いた。後北条氏滅亡、小池氏は徳川家康の家臣関東郡代伊奈
忠次の配下となり、伊奈忠次の命により長門守の子隼人助は、家康の鷹狩の際の宿泊所として砦跡に御殿を建造した。徳川3
代にわたって使用されたが、その後は使われなくなり小池に返却され、小池氏が東照宮を建立した。




鴻巣御殿跡があるのは鴻巣市本町4丁目8番とまでしか把握していませんでした。とにかく本町4丁目を探し、更に8番を探
し、更に更に、その8番の一区画を探すしかありませんでした。ということで某所の駐車場に車を駐車して、住居表示の看板
を頼りに本町4丁目8番までどうにか辿り着き、8番の区画をほぼぐるっと1周して見つけたのが御成東照宮と染め抜かれた
幟です。
そこには、「日本一小さな東照宮入口」という小さな看板と「東照宮入口 御成町神社」とある小さな石標がありました。も
し、幟がなければ看板と石標を見逃して更に周囲を探していたかもしれません。以前は小さなさな石標のみで看板はなかった
ようですので探すのも大変だったようです。でも、「鴻巣御殿趾」とはどこにも書いてありませんので、御殿跡に東照宮があ
るということを知らなかったら仮に石標に気づいても素通りをしてしまったかも知れません。




路地を入った突き当りに東照宮はあります。
確かに小さいですね。一般のお宅に見かける氏神様の祠でさえこれよりも大きなものはざらにありますから。




鴻巣御殿趾の説明板の下にあるこの手水鉢は享保12年(1727)に小池軍八郎が奉納されたもの
単体での写真は失念




左が御成町集会場




東照宮の文字が見えると思いますが、御成東照宮と呼ばれるも正式の社名は「東照宮」 どこの東照宮も同様です
でもよく見て下さい。東照宮と刻まれた部分の色と祠の色が違います。これは市内仲町にあった熊野神社に祀ってあったお宮
をいただいて転用したようで、熊野神社と刻まれていたものを東照宮と入れ替えたようです

賽銭箱のほうが祠(東照宮)よりも大きそうです。




本題の鴻巣御殿跡の説明板です。
最近まで鴻巣御殿跡の跡地の比定地も明らかでなかったが、平成6年の試掘調査によってその一部が確認された。とあります。
それまでは勝願寺も比定地のひとつであったようです。勝願寺といえば、真田信之の正室であり、徳川家康が養父である小松
姫の墓(分骨)がありますし、三つ葉葵紋の使用を許されたお寺ですから徳川家とも所縁がるわけですから比定地の候補にな
ったのも当然かと思います。

またまた余談ですが、本年2月から市内の某酒屋さんからオリジナル商品「鴻巣御殿」という銘柄の清酒が販売されています。
鴻巣市には蔵元はありませんので、市外の何れかの蔵元に醸造をお願いしたようです。
私は飲みませんから購入することもないですが(失礼)

散策日:平成30年(2018)4月14日(土)
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三ツ木城(埼玉県)

2018年04月17日 | 城館・城跡


城 名:三ツ木城(みつぎじょう)
別 名:―
形 態:平城
時 期:14世紀代
城 主:安立遠元あるいは安達盛長と言われるが実際の所は不明
遺 構:二重土塁、水堀
指 定:県選定重要遺跡(昭和44年(1969)10月1日選定)
現 状:山林
所在地:埼玉県桶川市川田谷字城山




城山公園と言っても城跡が公園化されたわけではなく、公園の西縁に中世の城・三ツ木城跡があり、周辺の小字名が「城山」と
なっていることからが名称の由来とのことです。



城山公園園内図 中央の三角の部分が三ツ木城跡




三ツ木城跡南側の遠景




このあたりが城跡の南東端かと 用水路は堀跡かと




上記場所から若干北方へ進んだ位置 竹藪の中に土塁が見えます




三ツ木城跡の説明板




何とか読める程度に拡大




説明板の場所から若干北寄りから見た土塁




城跡東側の一部




北側の遠景




二重土塁の堀底




二重土塁

西側に回ることはできませんでした(公園外周の西側、南側道路を無駄に歩いただけになってしまいました)し、郭内も確認
できませんでしたが藪状態と推測します。




折角ですから公園内も散策  彫刻広場と時計塔




中池




噴水のある大池




花壇はチューリップが満開でした










遺構はほんの僅かしか見ることが出来ませんでしたが、公園の散策と考えれば・・・

散策日:平成30年(2018)4月12日(木)
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秩父氏館(埼玉県)

2018年04月15日 | 城館・城跡


城 名:秩父氏館(ちちぶしやかた)
別 名:吉田城・鶴ヶ窪城
形 態:平城(館)
時 期:平安時代後期か
築城主:秩父武基
城 主:秩父氏
遺 構:なし
指 定:県指定旧跡(秩父氏館跡 昭和36年(1961)9月1日指定)
現 状:吉田小学校
所在地:埼玉県秩父市下吉田3833

遺構はないと言われようが武蔵武士の祖である秩父氏の館跡に一度は行っておこうと訪ねてみました。
この場所の前を通ったことは数知れずですが・・・




秩父氏館跡台地北側の斜面の塁壁 崩落防止の措置が施されいますが、当然、往時のものではありません。




秩父氏館跡台地東側の斜面の塁壁




秩父氏館跡にある吉田小学校への坂道   左側にあるのは 吉田小学校への標識  右にあるのは・・・




秩父氏館跡への標識  親切ですね




吉田小学校正門
館跡見学のため校庭内立ち入りの許可をもらいに受付まで行ってきました。
見ておきたいものの場所も教えていただき快諾をいただきました。
見学は授業等に迷惑が及ばない時間帯を選んだことは言うまでもありません。




校庭の一角にある「秩父館跡」説明板と万葉歌碑




 秩父氏館跡は、神田堀・やまめ沢・吉田川に仕切られた台地上の、吉田小学校周辺と伝えられている。
 桓武天皇6代の孫、平将常が武蔵権守に任ぜられ、秩父郡中村郷に住して秩父氏を名乗った。その子武基は秩父牧別当を兼ね
たので、下吉田牧林に館を築き、その子十郎武綱が鶴窪台地を選び居館としたといわれれる。
 武綱は後三年の役(1083~1087)に戦功をたて、秩父牧の名馬の名と共に関東武士の名声を上げた。武綱より重綱・重弘・重
能を経て重忠に至っている。また武綱の子孫は分かれて土肥・畠山・千葉・豊島・葛西・江戸・河越の各氏等、有力な武蔵武士
となっていった。




秩父氏系図を拡大して




航空写真も拡大で




万葉歌碑 (市指定文化財)




詠まれている歌の説明板




市指定天然記念物の吉田小学校の大ケヤキ(樹齢800年)




校舎裏にある「県選定旧跡 秩父氏館跡」の標柱 角度を変えたものをまた載せておきます
城館好きにとって石碑・標柱は非常に大事なもの これだけを見て満足する方もいるくらいです(オーバーですね)
側面には「吉田町教育委員会」と旧の町名のまま




やはり校舎裏にある「八幡宮※※」碑 
館跡にある八幡宮に関する歴史等が刻まれたもので大正7年建立のようです。碑文を読み下すことはできませんが、
城主秩父十郎武綱従源義家於奥羽之役  四世孫畠山重忠逐分祀鶴岡八幡宮於城中   
などとの秩父氏や畠山重忠など名が出てきます
※※部分は 蹟趾のようですが正しく判読できませんでしたので(恥)




校庭  
周囲の土塁は館があった当時のものではなく、校庭造成で削平した結果掘り残した部分が土塁状に見えるだけのようです。




台地南側を浸食している山女沢の樹木でしょう




台地(秩父氏館跡・現吉田小学校)から台地北側の街並みを望む




余談ですが台地東側の道路沿いにある酒造の煙突には銘柄の「秩父小次郎」とあります。
しばらく前に醸造酒「秩父小次郎」を知り調べてみたのですが、秩父氏の中に秩父小次郎を名乗る者はおりませんでした。

散策日:平成30年(2018)4月10日(火)
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忍城(埼玉県)

2018年04月14日 | 城館・城跡
続日本100名城 118 忍城



城 名:忍城(おしじょう)
別 名:―
形 態:平城
時 期:15世紀後半(文明11年〔1479〕以前)
築城主:成田氏
城 主:成田氏、松平(東条)氏、松平(大河内)氏、阿部氏、松平(奥平)氏
遺 構:土塁、沼の一部(水城公園)
指 定:県指定旧跡
施 設:行田市郷土博物館
所在地:埼玉県行田市本丸

何度となく訪ねている忍城ですが、続100名城のスタンプラリーが始まりましたのであらためていってきました。














攻城日:平成30年(2018)4月14日(土)
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久昌寺砦(埼玉県)

2018年04月13日 | 城館・城跡


城 名:久昌寺砦(きゅうしょうじとりで)
別 名:―
形 態:砦
時 期:不明
城 主:不明
遺 構:平場、堀切
指 定:―
現 状:山林
所在地:埼玉県秩父市久那

久昌寺砦は、秩父札所25番久昌寺と弁天池を挟んだ南の痩せ尾根上にあり、2007年に発見されたが記録伝承はなく歴史等は
不明です。
城跡は標高約360mの頂部を中心に築かれており、7つの平場と3本の堀切からなるようですが、尾根幅も狭く、郭と言えるほ
どの規模もありません。




久昌寺砦跡縄張図(梅沢太久夫著「埼玉の城 127城の歴史と縄張」より)




岩谷山久昌寺の本尊は聖観世音菩薩です 久昌寺は別名を御手判寺と言います 
札所入口にある「二十五番」の石柱とお地蔵様  その先は小さな石橋  赤い山門は仁王門




山門(仁王門) 「御手判寺」の扁額が架かっています  門の向こうに見えるのが観音堂




崖脇に見える観音堂




久昌寺の説明板   




観音堂  本尊の聖観世音はこの観音堂に納められています
右下のシールは御朱印受付所で頂いてきたものです




同じく観音堂




扁額は「圓通閣」とありますがこの写真では見えませんね




弁天池を挟んで本堂、弁天堂があります




左:弁天堂  右:本堂




本堂




弁天堂




蓮池  蓮です 仏さまには蓮ですから




句碑と弁天池




弁天池越しに見える観音堂の屋根
お堂の前に池を配しているのは極楽浄土への浄土庭園を意識したのでしょうか?




左:弁天沼  右:蓮池




お参りも済みましたので本題の久昌寺砦を攻めに行きましょうか




縄張図左側の尾根の裾の西側から攻めることに
縄張図と見比べながら登っていきましたが、図の番号の位置と実際の位置が中々合致しません。写真説明での位置番号は間違
っている可能性大ですので、現況はこんな状態ということで参考程度で見て下さい。




平場7あたり  草の緑がはっきりした先辺りが堀切3かと思われますが自信なし




眼下に池を望む




平場




平場




堀切2?




平場4か?




最頂部の平場3か?  更に下(東方)に2段の平場があります




同じく平場3を先に進むと太い木のところで段差がありますがそこから平場2か?




平場2  この平場の南側の一段下がった所にも平場あり祠があります




平場1か? 




この先は藪で平場らしきものは見えません
この藪の先にも平場があるとすれば上の写真の場所は平場1でないことになってしまいますが、取敢えずは平場1ということ
で通します。
ここで折り返します。来た時と戻るときの視線は違いますので、戻りながらの写真も載せておきますが、来た時の写真の説明
との整合性がとれない可能性大ですが・・・




堀切1  浅いので自信ありませんが写真中央部あたり




平場2









平場3




平場4




堀切2




平場5




平場6




尾根筋




平場7

以上平場と堀切のある尾根(久昌寺砦)を往復してみましたが、写真説明に間違いがあるかもしれないことは初めに記したと
おりです。
また、行きついた平場の藪の先には縄張図に記された平場はないという前提での説明であることも承知ください。




弁天池の方向に戻ります

久昌寺砦には郭と言えるほど広い平場ではありませんし、堀切も幅がなく、攻撃から身を守るには程遠いものですが、城跡の
要件は備えて
いるようです。
「埼玉の城 127城の歴史と縄張」では、”秩父にはこのような小規模な城郭が多いが、これを見る限り、城郭を軍事的機能
面でのみ考えるのは躊躇せざるを得ないだろう。南眼下には荒川の流れが一望出来る。ここは荒川通運の監視を目的にした場
所であったのだろうか。”と結んでいます。

散策日:平成30年(2018)4月7日(土)
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小島氏館(埼玉県)

2018年04月12日 | 城館・城跡


城 名:小島氏館(おじましやかた)
別 名:―
形 態:館
時 期:平安時代
城 主:小島氏
遺 構:土塁、空堀
指 定:―
現 状:長松寺
所在地:埼玉県本庄市小島

武蔵七党のひとつ丹党の秩父五郎基房の子四郎重光は、現在の本庄市小島・杉山・下野堂などを領して領地名から小島氏を名
乗ったのが始まりとされ、長松寺は小島氏の居館跡と伝わるようです。
本堂西側、北側にL字型に土塁、空堀が遺っています。また、当寺西側に南北長い参道がある唐鈴神社があるが、元は長松寺
と一体のものであったようです。




長松寺の由来が記された説明板




お約束の六地蔵尊




本堂




本堂




本堂に架かる寺号「長松寺」の扁額




鐘楼




西側にある土塁、空堀を南方から北方に見ています。
土塁は低く、空堀は浅くなってしまっているようですが、形を認識するには十分です。




同上




同じく西側土塁、空堀を北方から南方に見ています。脇の道は唐鈴神社の参道。




本堂北側の山林の中に遺る土塁と空堀  西方から東方に見ています。




北側の土塁を正面(南方)から見ています。




土塁の上を東方から根移封に観ています。




唐鈴神社の参道と一の鳥居




二の鳥居




二の鳥居の脇にある唐鈴神社の由緒書  文字が滲んで見えるのは写真の失敗です。




社殿近くにある唐鈴神社の説明板




唐鈴神社社殿

この小島氏館跡訪を訪ねる9日前の3月29日に四方田氏館跡を訪れています。この二つの館跡は車で数分の距離なのにかか
わらず別々の日に訪ねるという誠に不経済かつ効率の悪いことをやっています。
これに限らずいつも同様なことをやっています。秩父の館跡もしかりです。如何に学習能力が欠如しているか・・・

散策日:平成30年(2018)4月7日(土)
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奈倉館(埼玉県)

2018年04月11日 | 城館・城跡


城 名:奈倉館(なぐらやかた)
別 名:―
形 態:館
時 期:室町時代
築城主:奈倉加賀守行家
城 主:奈倉加賀守行家、同重家、同下野守重則
遺 構:土塁、水堀の一部
指 定:町指定史跡
現 状:農地、宅地
所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町下小鹿野納蔵

奈倉館は、畠山重忠の後裔加賀守行家が在名(名倉)を氏として、ここに構えた居館であり、館跡内の妙見宮は遠祖平良文の
信仰に倣ったものであろうとの伝承がある。

そんな畠山重忠に所縁ある館跡「奈倉館」を訪ねてみました。




現地に設置の「小鹿野町文化財案内」板から




奈倉館跡の方向を示す表示板




四阿




標柱があります




→ 奈倉館跡  とありますのでここを東に進むことに  
先ほどの「四阿・奈倉館跡」の標識に従わず別方向を歩いてしまいましたので、ここに辿り着くのに一苦労(いつものこと)




畑の向うの家々のある場所も館跡の一部のようです。
白い山肌を見せているところが国指定天然記念物「ようばけ」で、1500万年前に堆積した地層の大露頭です。




両脇の樹木が繁茂したところの堀が「八幡沢」 ここからが「堀の内」や「打出」と呼ばれる館跡




八幡沢から来た道を振り返ってみました




堀(八幡沢)の中




館跡南東部に設置の「小鹿野町文化財案内」板




  小鹿野町文化財案内

町指定史跡 『奈倉館跡』 昭和37年9月20日指定

奈倉は、秩父氏館(吉田町)に居住した武蔵武士の秩父氏から分かれた奈倉氏が移り住んだ所と伝わる。ここを本拠地とした
のは、奈倉加賀守行家(1459~1552)同重家、下野守重則(1529~1570)の3代と伝えられている。
館は、赤平川が下小鹿野で鍛え流れを変え、さらに西に向かう地点の左岸河岸段丘上に築かれている。標高は211~216
m、段丘上は緩く北東へ傾斜し、比高差約20mの急崖となり、赤平川へ落ちる。館は、八幡沢と赤平川に挟まれた台形状を
した東端部分にある。西側河岸段丘部には、奈倉重家が永禄元年(1558)秩父大宮の妙見宮(現秩父神社)を勧請したと
いわれる妙見宮、同じく重家が開基し、奈倉氏の菩提寺となった曹洞宗大徳院があり、奈倉氏の持仏と伝えられる阿弥陀如来
像(町指定有形文化財)が残る。

本当は写真で済ませたかったのですが、縦長なもので見づらくなりますので(仕方なく)転記しました。
他は写真で済ませます(手抜きです)




奈倉館跡周辺図




奈倉館の記録と伝承




奈倉館の遺構  見取図については別個に冒頭に載せてあります




館跡西側部分 北西隅に八幡社跡があります




八幡社跡




八幡社跡から東方にある摩利支天跡に繋がっている石塁




摩利支天跡から八幡社跡に延びる石塁を見る




摩利支天跡




摩利支天跡の東側にも石塁があり その間に小口がある




小口部分をアップで 




小口の東側の石塁側面




小口の東側の石塁全体




石積みの状態がよくわかります




石塁の上から赤平川を望む




少し離れた位置から小口の様子を




土塁 物見の跡?




更に東側は農地(畑)で石塁等の遺構は見当たりません




館跡ほぼ中央に建つ「奈倉館跡」の標柱




南東隅から館跡内を




館跡東側を南北に走る道路 この周囲も館跡です  一通り歩いてみましたが生活の場ですので写真は控えます




再び民家のある館跡の一部を遠景で




妙見宮 社殿左隣の建物は奈倉会館(集会場)




奈倉氏の菩提寺 大徳院




お約束の六地蔵尊  両側に三尊づつというのは初めての体験です




本堂




門前にそびえる小鹿野町指定天然記念物「大徳院の一本杉」




大徳院北側の急崖と流れる赤平川  白く見えるのは奈倉橋

民家のある館跡内を歩いていたとき地元の高齢の男性と少しだけ話した。「骨接ぎの名倉堂は、ここの奈倉の子孫なんだ」と
言った。名倉堂という有名な接骨院があることについては昔から知っていたが、ここの奈倉氏の子孫がルーツだったとは初め
て知った。そもそも、奈倉氏・奈倉館というのを知ったのは最近でであるが・・・

散策日:平成30年(2018)年4月5日(木)
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宮崎城(埼玉県)

2018年04月10日 | 城館・城跡


城 名:宮崎城(みやざきじょう)
別 名:民部城・宮崎砦・民部砦
形 態:平城
時 期:室町時代
城 主:黒沢民部
遺 構:土塁、堀、土橋
指 定:―
現 状:山林
所在地:埼玉県秩父市大字大野原字宮崎

秩父志などに黒沢民部住すとし、屋敷跡と伝えるようです。
荒川に架かる秩父橋の下流右岸に25m前後の断崖の段丘内部を流出する滑沢が大きく湾曲した15mから20m近い深さの
渓谷に南西、南、東の三方向を囲まれた舌状地形の小さな台地に宮崎城跡はあります。空地と接する北側に小口、土塁、土橋、
堀跡がしっかりと遺っている単郭の要害です。
しかし、東西方向からの侵食や台地の崩落が少しずつですが確実に進行しているようです。なお、郭先端部(南側)が1mほ
ど低く造られていますので、この部分を便宜上二郭と表示しておきます。宮崎城は鉢形城の支城とも伝えられ、また、鉢形北
条氏の家臣の中に黒沢の名が見られるとのことから黒沢民部も家臣であったかもしれません。




宮崎城跡付近地図  おおまかですが土塁等の位置を加筆してあります。
地図では斜面部がありますので舌状形状台地の幅が広くみえますが、実際の郭はもう少し細いようです。

付近に車を止めておける場所はありませんし、車1台が通れる程度の道路しかありませんので路駐は無理ですし迷惑をかける
との情報から(きちんとお参りしたうえで)龍石寺さんの駐車場に止めさせていただき徒歩にて城跡探しに出かけました。




方向音痴を特技とするだけあって、一発で目的地に行く筈もなくあちらこちらと捜し歩き目標物である原島病院辺りらしき地
点の場所に着くも病院らしきものは見当たりません。
またここでも人のお世話になることとし、付近の住宅へ帰ってきた親子連れの方にお聞きしたところ、原島病院はすでに無く
なっており、ここも病院があった場所とのこと。宮崎城のことも知っていて、入口まで案内してくれました。
そして、この写真が案内してもらって入った入口の先にある城跡入口です。




宮崎城跡が見えてきました




段丘内部を流れてきた滑沢が宮崎城跡の北東隅のこの地点で大きく曲がります 




高低差が分るように若干斜めから小口の模様を




郭外の北側正面からの小口




土橋西側の堀 荒川に流れ込む




土橋東側の堀 滑沢に流れ込む




郭内から小口超しに郭外を




小口前から郭内を




郭東側 樹木の所が滑沢の渓谷




同上




郭西側 断崖の下は荒川




郭西側の崩落部分  こうした崩落が2~3か所見られました




郭先端部(南側) 地図上に二郭と表示した場所




二郭 主郭との段差がよく分かります




同上 別角度から




同上




郭先端部(南端)から渓谷(滑沢)の対岸に見える段丘




郭先端部(南西端)から荒川を




成澤城跡の若干上流の滑沢の中にある滝(?)  地図上に赤●した地点
下流にもまだ3か所ほど滝があるようです いかに高低差のある滑沢か分るようですね




滝の更に上流地点である大宮橋 沢は左方に流れています




大宮橋の上から




宮崎城跡の先端部から見えた段丘から宮崎城跡を見てみようと道を探したところ、大畑汚水中継ポンプ場の前の道を下れば行
けることが判明   白い建物がポンプ場   こちら側の段丘は宮崎城跡段丘より2m程低いようです




対岸の道路上からみた宮崎城跡郭東南隅




東南隅の滑沢  写真下部中央から斜め右上方に見える場所 ここにも小さな滝が見えました




対岸の道路上からみた宮崎城跡郭先端部(南側)




南西側の崖下 滑沢の流れが荒川に合流しています




秩父橋まで来れば宮崎城跡の遠景を見られるかと思い  旧秩父橋の説明板
実は宮崎城跡を探すときこのあたりもふらふらして通りがかりの方ふたりばかりに目標の原島病院の場所と行き方をお聞きし
たのですが、原島病院を知りませんでした。すでに無くなっていたのでは分らないはずです。




旧秩父橋




旧秩父橋の南方にある現在の秩父橋




宮崎城跡と表示したところが宮崎城跡に間違いないと思いますが、ちょっとだけ自信がありません。




折角ですのでちょっとアップで・・・


散策日:平成30年(2018)4月5日(木)・7日(土)
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