四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

有氏神社(埼玉県神川町)

2020年05月31日 | 神社仏閣


社 号:有氏神社(ありうじじんじゃ)
祭 神:武蔵七党のひとつ児玉党の祖・有道維行(ありみちこれゆき)を祀ると伝わる
創 建:不詳
指 定:-
鎮座地:埼玉県児玉郡神川町下阿久原34(旧神泉村)

藤原北家流・藤原伊周の家司だった有道惟能が藤原伊周の失脚により武蔵国に下向し、その子息の
有道惟行が神流川の中流部にあった阿久原牧を管理し、ここに住して児玉党の祖となった有道氏で
ある。また「有」とは、有道氏の略称であり、有氏とは有道氏を指すとされる。




有氏神社境内




   有道氏の祖廟
 武蔵野の開拓者、さらには、関東武士の元祖、として有名を馳せた児玉党の開祖である有道
一族の祖廟は、詳らかでない。しかれども、有道惟行が朝廷の命により長官を勤めた阿久原の
牧近くには、有道氏を祭る有氏明神があり、古くより地域の住民によりお祀りされている。
 日本古来の宗教観では、先祖霊や特別な功績を上げ尊敬される人々の霊を人格神として祭る
のが自然である。
 阿久原地区には、古くより「有氏明神に隣接した北の位置にありし古い石塔を東北に移転し
た際に、人骨が発掘されこれは阿久原牧時代の有道氏一族の墓であろう」との言い伝えがあり、
しかも、「有氏神社には御神体が存在しない」などのことより、有氏神社は、有道氏一族の霊
域(墓地)に祠を建て、祭り始めたものであり、古くは霊域の重要な位置を占めたと推定され
る有氏明神に隣接した東北部の畑の中にある古石塔(地下に眠る遺骨)こそ有氏明神の御神体
であるとの説がある。この石塔は、児玉党もしくは近在の有道氏一族の関係者によって、室町
時代後期から江戸時代初期の間に建立されたものと推定されるが、品格の高い見事な石塔であ
る。
 今回、古石塔及び周辺土地の管理者であり、長年に渡り秩父瀬地域住民の中心となって有氏
神社をお祀りしてきた児玉党の流れを汲む浅見家21代当主新一氏のご尽力により、古石塔が整
備復元されたことは、惟行生誕1000年を迎えるにあたり、誠に意味有るものといえよう。今後
児玉党並びに有道氏に関係する方々はもとより、その恩恵を受けている地域の方々は、時に参
拝し、武蔵野の開拓と土地生産性に基盤を置いた武家政治の確立に貢献した先祖の方々の往時
を偲び、明日への活力としていただければ幸いである。
                                   平成14年正月 
                                  記 児玉党末裔




室町時代後期から江戸時代初期の間に建立されたものと推定される「石塔」




社殿  土台を含めても人の背丈の2倍程度の小さな社であり、本殿はない
破風には児玉党本宗家の家紋(紋章)「軍配団扇紋」が入っています




「有氏神祠碑」 明治26年建立の石碑




「児玉党祖有道惟行 生誕壱千年記念碑」 平成12年建立の記念碑




「有氏神社の盤台祭り」説明板

散策日:平成30年(2018)2月9日(金)

行司免遺跡(埼玉県嵐山町)

2020年05月29日 | 官衙・国分寺・廃寺跡


名 称:行司免遺跡(ぎょうじめんいせき)
形 態;複合集落跡
時 代:縄文・古墳時代
指 定:嵐山町指定史跡(名称:行司免遺跡の井戸 平成2年〔1990〕4月1日指定)
現 状:農地
所在地:埼玉県湛山町大字大蔵字行司免

埼玉県嵐山町大蔵地内の『行司免遺跡』を訪ねてみました
発掘調査後埋め戻されていますので、井戸以外の遺構を見ることはできません

行司免遺跡を南側から  
右側の 茶色の建物は『国立女性教育会館』 その左側に『菅谷館跡』があります
並木の所が「都幾川」 付近を『鎌倉街道上道』が走っています




行司免遺跡を北側から  
耕地が整備されてビニールハウスがいくつも建ち並び始めていましたので、そのうち耕地自体も
見れなくなってしまいそうです




『嵐山町指定史跡 行司免遺跡の井戸』説明板

  嵐山町指定史跡 行司免遺跡の井戸
                             指定 平成2年4月1日
                             所在 大字大蔵字行司免
                             時代 鎌倉時代末期

  ここ嵐山町南部耕地のほ場整備に伴って、昭和58年~60年に発掘調査された行司免遺跡は、 
この井戸の周囲約5万平方メートルに広がっていました。
 遺跡は、縄文時代、古墳時代、中世の複合集落でしたが、この井戸は中世の建物跡群ととも 
に検出されました。井筒部の規模は、上部で2.0、底部が1.08、深さは2.9メートルを測ります。
井戸は、一旦素掘の堀り方を湧水面である岩盤面まで掘り、底に方形の木枠を組み、その上か
ら玉石を小口積みにした円形の井戸側を構築するものです。旧地表面は、すでに失われており、
井戸の上部構造は不明ですが、出土遺物の年代から13世紀末~14世紀前半期頃使用されていた
と考えられます。

        平成2年11月
                               嵐 山 町 教 育 委 員 会  




井戸は転落防止等の観点から四角錐の鉄骨で覆われています




繁茂した草のために石組みまでは見ることが出来ませんでした

散策日:令和元年(2019)11月25日(月)

菅原稲荷塚古墳(埼玉県深谷市)

2020年05月25日 | 古墳


名 称:菅原稲荷塚古墳(すがわらいなりづかこふん)
別 名:堂山古墳
墳 形:円墳 
規 模:径31m、高さ4m
築 造:6世紀後半
出土品:埴輪
指 定:-
所在地:埼玉県深谷市普済寺(旧大里郡岡部町)

「稲荷塚古墳」という名称の古墳は各地にあります。古墳の墳頂には神社が祀られていることが多
く、その神社名をとって古墳名としていることに由来するものでしょう。
この菅原稲荷塚古墳は、平安時代末期にこの地を治めていた岡部氏の館があったとされる一画にあ
り、物見台としての役割を担っていたのではないかと推測されています。




西方から




南方から




墳頂に鎮座する「稲荷神社」




墳頂から北方にある菅原神社・厳島神社を望む

散策日:平成29年(2017)12月14日(木) 

鎌倉街道 上道跡 -日高市・高萩-(埼玉県日高市)

2020年05月22日 | 鎌倉街道


鎌倉に上る道筋のひとつ『鎌倉街道上道』は、上州から児玉・寄居・小川・嵐山・鳩山・毛呂山・
鶴ヶ島を通って日高に入ります。




今回は、ここ女影交差点から鎌倉街道交差点までを紹介したいと思いますが、「線」で紹介するだ
けの写真は撮っていませんので、「点」で2,3か所を。




女影交差点を南方向に緩い坂を下って行くと下小畦川に架かる『諏訪橋』があります。
霞野神社の旧称が諏訪神社であったことに由来するのでしょうか。




霞野神社の鎮座する杜
南北朝時代の建武2年(1355)7月、鎌倉幕府の復興を願う鎌倉十五代執権北条高時の遺子時行は、
信濃で諏訪頼重らに擁立され挙兵、建武の新政に不満を持つ武士と合流しながら鎌倉街道を南下鎌
倉を目指しました。そして7月22日、それを阻止しようとする足利直義軍と初めて合戦に及んだのが
女影原と呼ばれるこの一帯であったようです。




霞野神社前




霞野神社の鳥居の斜め前は変則の五差路になっていますが、鎌倉街道上道は左側の道をそのまま進
みます。




狭い住宅街の道を抜けて田園を少し進行すると、第二小畔川に架かる橋の先に、『鎌倉街道上道
碑』と『鎌倉街道上道』説明板が建立されています(冒頭の写真)




『切通し』  当時からのものでしょうか
『鎌倉街道上道碑』と『鎌倉街道上道』説明板が建立されている場所は「日高市大字高萩」で、
切通しを挟んで左側は「大字大谷沢」、右側は「大字中沢」になります(どうでもいいことですが)




切通しを抜けて更に進むと国道407号線と交差します。この交差点名は「鎌倉街道」とそのもの。
交差点を横切ってそのまま進行すると狭山市・所沢市・府中市等を経由して鎌倉に入ります。

散策日::平成30年(2018)9月3日(月)他

第3回 調査研究発表会「古文書からみえてきた鉢形領を支えた人びと」

2020年05月20日 | 講演会・講座


秩父歴史文化研究会
「北条氏邦の鉢形領を支えた人びと調査研究部会」主催による

第3回調査研究発表会
「古文書からみえてきた鉢形領を支えた人びと」

日 時:2020年(令和2年)3月1日(日)10;00~16:30
会 場:秩父市歴史文化伝承館
内 容:
 ◎報告 
  (1)「小前田衆について-小前田の開発-」   添 野 彬 浩 氏 (秩父歴史文化研究会)
  (2)「中世の貨幣価値について」        大 島 和 夫 氏 (秩父歴史文化研究会)
  (3)「秩父左近・右近について」        堀 口 智 彦 氏 (秩父歴史文化研究会) 
 ◎講演 「小田原北条氏と秩父-藤田氏・秩父氏をめぐって-」
           浅 倉 直 美 氏(顧問・指導助言者・埼玉県文化財保護審議会委員) 
 ◎指導者  浅 倉 直 美 氏(戦国史研究家)
       千 嶋  壽 氏(秩父市文化財保護審議会委員)
       梅沢太久夫 氏(元埼玉県立歴史資料館館長)
 ◎質疑応答

に行ってきました(2ヶ月半以上過ぎてしまいましたが)

この研究発表会は、秩父歴史文化研究会の会員の方が調査研究した結果を発表するもので、今回が
3回目になります。
回を重ねるごとに内容の濃い発表会になっており、会員の方々の熱意がうかがえます。

ただ、今回は都合により午前中だけの聴講と、資料・資料集の購入だけで帰ってきました。




会場入口




左:レジメ 発表会資料 (35頁)                              500-
中:戦国史料集 第2集 秩父郡   資料集(138頁) 上段に史料原本の写真 下段にその釈文  1500-
右:戦国史料集 第2集 別編秩父郡 解説集 (58頁)  釈文の読み下しと解説          1000-

資料集の史料原本は、北条氏邦関連のもので、研究会の方々が見つけて歩いたものが多数含まれているよう
です。
今回の史料の所蔵者の中に懐かしい名前を見つけました。




会場の歴史文化伝承館(中央公民館)《左》と市役所本庁舎・市民会館《右》前の広場(駐車場)
毎年12月3日に催行される秩父夜祭で、団子坂を上がって6台の山車(屋台4台、笠鉾2台)が集
結してクライマックスを迎える場所です。

開催日:令和2年(2020)3月1日(日)

令和元年度歴史講座2「うつわから見た中世のくらし大転換」講義資料

2020年05月19日 | 講演会・講座


埼玉県立嵐山史跡の博物館主催
令和元年度歴史講座2「うつわから見た中世のくらし大転換」

第1回 兵(つわもの)の時代のうつわ-煮炊具から見る中世前史-
講 師: 末 木 啓 介 氏(埼玉県教育局文化資源課)
日 時: 令和2年(2020)2月14日(金)13:45~15:30

第2回 中世陶磁器の生産と流通-埼玉県立博物館特別展『つぼ・かめ・すりばち』展の成果から-
講 師: 宮 瀧 交 二 氏(大東文化大学 文学部 歴史文化学科 教授)
日 時: 令和2年(2020)3月6日(金)13:45~15:30

第3回 中世におけるうつわの使用について-構造人類学的手法を用いて読み解く試み-
講 師: 田 中  信 氏(前川越市立博物館長)
日 時: 令和2年(2020)3月19日(木)13:45~15:30

会 場: 国立女性教育会館研修棟 講堂 (埼玉県比企郡嵐山町菅谷)

上記3回の講座が予定され、第1回については予定通り実施されましたが、2回・3回については、
新型コロナウィルス拡大防止のために残念ながら中止となってしまいました。
中止となった2回分の講義資料が先日(5月16日)送られてきましたので、時間を見て目を通し
たいと思います。果たして、どこまで理解できるか自信はありませんが・・

このほかにも参加を予定していた複数の講座が中止になりましたし、毎年度、定期的に開催されて
いる講座やシンポジウム等も中止になったり、予定すら立っていません。
人が多く集まるという性質のものですから仕方ないことではありますが・・・

回顧 第23回 和紙の里文化フェスティバル2008(埼玉県東秩父村)

2020年05月16日 | まつり・イベント


本来なら、本日5月16日(土)と明日17日(日)の2日間にわたり、埼玉県で唯一の村である東秩
父村の「和紙の里」を会場として、『第35回和紙の里文化フェスティバル』が開催される予定でし
た。
しかし、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、各地のイベント・まつり等が中止になった
ように本フェスティバルも中止となってしまいました。

今年はどんな催しが予定されていたかまでは分りませんが、毎年、美術展・文化財展や、村内や近
隣の或いは遠方の愛好会等による太鼓演奏、よさこい、書道パフォーマンスなどなど毎年趣向を凝
らした催しが行われています。近年においては、国内有数の和太鼓集団『鬼太鼓座』(おんでこざ)
が、東秩父村に合宿所を有することから、村の行事にも積極的に参加しており、今回の和紙の里文
化フェスティバルが催行されていれば参加して、見事なパフォーマンスを見せてくれたかもしれま
せん。

ということで、今年は中止になってしまいましたので、干支が一回り前の平成20年(2008)5月17
日(土)・18日(日)に行われた『第23回和紙の里文化フェスティバル』のうち、17日を見学して
おりますので、その時の写真を何枚か紹介したいと思います。




彫刻の森の展望台から『和紙の里』(正式名称は「東秩父村和紙の里」)全景を
この平成20年(2008)当時はまだ「道の駅」登録にはなっておらず、約8年半後の平成28年(2016)
10月30日(日)に、埼玉県20番の道の駅「和紙の里ひがしちちぶ」としてオープンしました。
更に、この道の駅としてのオープンに併せて、同村安戸地内にあったJA東秩父農産物直販所・フー
ドコートも移転新築して新たにオープンしています。
また、東秩父村のマスコットキャラクター『わしのちゃん』(本名:槻川わしの)が誕生したのは
平成22年(2010)10月10日のことですから、この『第23回和紙の里文化フェスティバル』には当
然のことながら姿を見せておりません。




中庭の一画に設けられた『村内ふるさと市』




『東秩父村文化財展』会場の【伝承館】




そば処「すきふね和紙の里」




庭園の一部




村内奥沢地内から移築された茅葺屋根の『細川紙紙漉き家屋』(県指定有形民俗文化財)
ここもお茶席として使われていました




内手自治会太鼓愛好会




落合太鼓愛好会




比企広域消防音楽隊 
東秩父村は秩父郡に属しているものの、広域行政においては秩父地方ではなく隣接する比企郡の自
治体とともに比企広域市町村圏組合を構成し、比企圏域に属しており、消防も比企広域消防に属し、
小川消防署東秩父分署を持つ。そんな関係から音楽隊は東秩父村の催しではよく演奏しています。




大分暑い日であったことから木陰に入って演奏を聴いたり見たりする方が多数




3B体操   ところで「3B体操」ってなに?




木陰を求めて
右側の2階建ての建物は「研修会館」 実行委員会本部や「和紙の里創作美術展」の会場




浅間神社獅子舞保存会 (村内大内沢 浅間神社)




浅間神社獅子舞
村内には、浅間神社の獅子舞のほかにも 萩平の獅子舞(字萩平 八幡山神社) 朝日根の獅子舞
(字朝日根 八幡神社)があり、年ごとに交代で参加しているようです。




沖縄音楽エイサー「きらく会」




舞台から降りて中庭いっぱいに広がって




同上
どちらからお越しいただいたのは分りませんが、それなりに名の通ったグループのようです。




コント山口君と竹田君
この日のメインはこのお二人のコントだったかもしれませんね。
山口君はお隣小川町の出身ですので、そんな縁からの出演のようでした。
このころは既にコンビでの活動よりも個々での活動が多くなっていたように感じますが・・・




くりぃむしちゅー(有田哲平・上田晋也)は、このコント山口君と竹田君の元付き人で弟子。
彼らの旧コンビ名である「海砂利水魚」の名付け親でもあるが、このコンビ名である「海砂利水魚」
を「くりぃむしちゅー」に変えてしまったのがウッチャンナンチャンの内村光良だ。




大内沢太鼓愛好会




『和紙の里』近くの畑に咲いていた「ポピー」

平塚宿江戸見附(神奈川県平塚市)

2020年05月14日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:平塚宿江戸見附
構 築:平成13年(2001)復元
所在地:神奈川県平塚市見附町1  旧国道1号線沿

東海道五十三次七番目の宿場町「平塚宿」にあった『江戸見附』
各宿場の両端には城門に似た見附が設けられ、一般的に江戸側の出入口に当るものを『江戸見附』、
京都側にあたるものを『京方見附』或いは『京口見附』『上方見附』と呼んでいた。
明治初期に駐日イタリア公使のバルバラーニ伯爵が母国に持ち帰った写真をもとに復元された。




なお、『京口見附』跡は、平塚市平塚4-3にあるようです。

撮影日:平成23年(2011)5月22日(日)

諸々の事情から遠出の散策ができず、近隣の史跡巡りをしていますが、行く先も減ってきているうえに
新型コロナウイルのの影響で、その近場さえもいけない状況。そんなこともあり更新の材料ががありま
せんので、数年前の写真を探し出して繋げたいと思いますが、それも数回で底をつきそうです。

回顧 寄居北條まつり2009(埼玉県寄居町)

2020年05月10日 | まつり・イベント


今から遡ること430年前の天正18年(1590)、豊臣秀吉の指示によって小田原攻めが始まった。
本城である小田原城は10数万余の兵に囲まれ、支城は次々と落とされていった。
北條氏邦の鉢形城も同年5月13日、豊臣方の前田利家・上杉景勝ら北国勢35000(その後、加勢を
得て50000)に包囲され、鉢形勢は城兵3500をもって籠城したが、1か月後の同年6月14日、城兵・
領民の助命を条件に開城し、氏邦は前田利家の預かりの身となり、金沢の地で没した。

そんな豊臣軍と鉢形勢の攻防戦を再現した戦国絵巻「第59回寄居北條まつり」が、本日である令和
2年(2020)5月10日(日)に開催予定でしたが、新型コロナウイルスの拡散防止の観点から中止と
なってしまいました。

このため、見学記を載せたくも祭り自体が存在しませんので、「第59回寄居北條まつり」の代わり
に、11年前の平成21年(2009)4月12日(日)に開催された「第48回寄居北條まつり」の様子を紹
介してみたいと思います。




「第48回寄居北條まつり」が開催された当時は、鉢形城公園(鉢形城跡三ノ曲輪・伝秩父曲輪)で
出陣式・アトラクションが行われていました。
写真は、三ノ曲輪や二ノ曲輪などに集まった出陣式前の武者や見学者




三ノ曲輪・伝秩父曲輪に備えられた大砲
柵の向こうは絶壁で、下を荒川が流れるまさに天然の要害




秩父曲輪から見下ろす玉淀河原 攻防戦が行われる場所




まつりを盛り上げる陣太鼓
3組の太鼓チームが参加していましたが、これは「北條陣太鼓」




「重忠太鼓保存会」と「武蔵流東松山太鼓」
重忠・・・武蔵武士の鑑と言われる「畠山重忠」は、お隣川本町(現深谷市)の出身
北條氏邦が活躍した時代よりだいぶ前の平安末期から鎌倉期初頭に活躍した武士ですから、氏邦と
時間を共有したことはありませんが。




この武士団は「寄居町議会」




武士団が集結してきました
この頃は先頭の幟も統一されてなく、団体名。企業名等が入ったものが大方を占め、形状もまちま
ちでした。




「小田原城馬廻衆」  北条氏の本城小田原城がある小田原市からの応援




伝諏訪曲輪と呼ばれる角馬出跡の諏訪神社社務所前で出陣までのひと時を




出陣式の前に舞台上や舞台前で色々なアトラクションが行われていました




剣道連盟隊の「寄居十六騎」と白抜きされた真紅の旗指物が恰好いいですね
豊臣軍と氏邦軍との和睦の橋渡しをした正龍寺の和尚さんの姿もありますが、どの方か分りますか




出陣式のために舞台前に集結していきます




舞台に登壇した各隊の大将と旗持ち 前列には現代の武将たち(各自治体などのお偉方たち)




勢揃いした武士団




出陣式を終えた武士団は、本曲輪前の道路から荒川に架かる正喜橋を渡って寄居町の市内に入りパ
レード(行軍)し、攻防戦の会場となる玉淀河原に向いました。

鉢形城公園で出陣式・アトラクションが行われたのは翌年2010年の第49回までで、翌々年2011年の
第50回は、東日本大震災が起きたことから北條まつりは秋の10月に2日間にわたり行われ、前夜祭は
鉢形城公園で行われた。
2011年の第51回から、攻防戦が行われる玉淀河原で出陣式が行われた後、市内をパレードして再び
玉淀河原に戻って攻防戦が行われるようになった。
更に、その後は寄居駅前のソースカツ丼で有名な今井屋の前から出発し、市内をパレードして玉淀
河原に至り攻防戦を繰り広げるという今の形になり、パレードの距離がだいぶ減ってきています。




「小田原ちょうちん踊り」  北条氏の本城小田原城がある小田原市からの応援




「小田原ちょうちん踊り」




初代北条早雲 二代北条氏綱隊 三代北条氏康 四代北条氏政 五代北條氏直の北条五代




鉢形城主北条氏邦室 大福御前




上州の「箕輪城隊」 北条氏邦が城主を勤めたことのある城




保育園児による「ちびっ子忍者隊」
小田原市の「北条五代まつり」で言うところの「風魔小太郎隊」に相当か




「乙姫ちゃん隊」
鉢形城の内堀であった深沢川にあったとされる四十八釜(すがま)にまつわる民話。いわゆる「竜
宮伝説」から商工会青年部が創り出したキャラクターが“乙姫ちゃん”




攻防戦が繰り広げられる玉淀河原




攻防戦を観ようとする見物客でいっぱいです




鉢形城公園から市内をパレード(行軍)してきた武士団が続々と玉淀河原に入ってきます
鉢形城主北条氏邦隊




北條五代も到着




模範演武  一般の参加者ではなく所謂プロの方のようです




大砲①




大砲②  対岸の崖下には北条氏邦軍 




大砲③ 火炎をと言いたいのですが煙しか撮れません で・し・た




豊臣方の前田軍




攻防戦①




攻防戦②




攻防戦③




全員が攻防戦に参加したわけではありません  
格好良く表現すると後方支援部隊もいます  早い話が見学部隊




戦い終えて・・・

来年2021年は無事に開催されることを願っています 
中止となった「第59回」は、中止として記録に残し、「第60回」として・・・

番いの雉

2020年05月06日 | 花・鳥・風景


散歩の途中、以前、雉に出会った場所を時折覗いてみますが、そんな簡単に再び遭遇はしてくれま
せん。

昨日の散歩道で、道路沿いの畑に、名前は分りませんが、蕾を付けえた花があったことから何気な
く目をやりました。
すると、株と株の間に動くものが。「雉」でした。今まで、この場所で雉と遭遇したことはありま
せんでした。
畑の畦道におりて雉の姿を追ってみました。てっきり雄だけかと思っていたのですが、傍に雌もい
て、くっついたり離れたりしながら、畑の土の中にくちばしを・・・










撮影日:令和2年(2020)5月5日(火)