四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

お魚銜えたカワセミ

2020年12月31日 | 花・鳥・風景


散歩道 川の中の岩の上に何か小鳥が・・・『カワセミ』だ!
しかもお魚を銜えていました。
安物のカメラとレンズではトリミングしてもこの程度




更にトリミングして・・・




対岸の枯れ草にお魚を銜えたまま移っていきました

今年1年お世話になりました 新しい年もよろしくお願いいたします

姫宮さまと呼び慕われた『多気比売神社』(埼玉県桶川市)

2020年12月30日 | 神社仏閣
◇延喜式内社◇


社 号:多気比売神社(たけひめじんじゃ) 
旧 称:姫宮社
御祭神:・豊葦建姫命(とよあしたけひめのみこと)
    ・倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
神 体:十二単衣冠の座像
創 建:(伝)三代安寧天皇の代(紀元前567年 - 紀元前510年)
社 格:延喜式内小社・旧村社
例 祭:3月15日 例大祭
指 定:-
鎮座地:埼玉県桶川市篠津58

多気比売神社は、平安時代の延長5年(927)に作成された『延喜式』神名帳の『武蔵国足
立郡4座』の一つに比定されている式内社(小社)です。
武蔵国内では小野神社(多摩市)と並んで最も古い神社と言われます。
当社の縁起については境内に設置の説明板を下記に載せておきますので省略しますが、篠
や葦・竹の茂った付近一帯を領く女神を祀ったものであろうと言われます。

なお、『武蔵国足立郡4座』とは
  足立神社  氷川神社  調(つき)神社  多気比売神社




参道(境内)入口
道路の反対側に『赤堀川』が流れています




『社号標』 【延喜式内 多氣比賣神社】と刻まれています




もう一つの『社号標』 【式内 多氣比賣神社】と刻まれています




『多気比売神社 御由緒』

 多気比売神社 御由緒
                              桶川市篠津
⊡ 御 縁 起(歴 史)
 『延喜式』神名帳に戴る足立郡四座のうちの一座「多気比売神社」に比定される当社は、篠津の
集落の南に、赤堀川を望んで鎮座する。赤堀川を挟んで対岸は一面の水田となっているが、かつて
は「篠津沼」という大きな沼があった。篠津とは篠の生い茂った中の船着き場に由来するといい、
祭神である豊葦建〔竹〕姫命を考え合わせるに、恐らくは篠や葦・竹の茂った付近一帯を領く女神
を祀ったものであろう。
 『風土記稿』篠津村の項に「姫宮社当社は〔延喜式〕内多気比売神社にて、祭神は豊葦建姫命な
り神体は女体にて十二単衣冠の坐像〔中略〕金剛寺の持」と載り、江戸期、当社は姫宮社と呼ばれ
ており、延喜式内社の多気比売神社に比定されていたことがわかる。しかし、吉田東伍氏は「大日
本地名辞書」の中でこれを否定し、さいたま市緑区三室の氷川女体神社を本来の多気比売神社であ
るとしている。
 別当の金剛寺は、真言宗の寺院で、社蔵の文化5年(1808)の「姫宮大明神」再建棟札にも「別当
金剛寺専教」の名が見える。
 明治初年、当社は社名を姫宮社から多気比売神社に改め、明治6年に村社となった。同40年大
字五丁台字上耕地の稲荷社を合祀した。
 祀職は、明治初年の神仏分離により金剛寺の僧が姓を金田と名乗って復飾し神職となり、当社の
東隣に居住して昭和20年ごろまで務めたが、その後、加納の桜井家が継いで、現在に至っている。
  【以下省略】




『鳥居』 両部鳥居




『扁額』 【多気比売神社】と揮毫




『大シイ』と『力石』




『多気比売神社と大シイ』説明板

  多気比売神社と大シイ
   桶川市指定文化財【多気比売神社の大シイ】 種別:記念物(天然記念物) 昭和36年4月1日指定
 篠津の多気比売神社は、平安時代に編さんされた『延喜式』(延長5年【927】完成)の「神名帳」
に名が載る足立四座の一つで、桶川市内で最古の神社です。祭神は「豊葦建姫命」です。地元では
「ひめみやさま」と親しまれ、古くから安産の神様として信仰を集めてきました。
 鳥居の脇にそびえる大シイは、高さ13メートル、根回り6,7メートル、枝張り南北17メートル、東
西14メートル、樹齢は約600年と推定されている古木の風格が漂うご神木です。5月末頃には黄色い
房状の花が咲き、9月にはドングリに似た小さなシイの実が熟します
 鎮守の森の象徴ともいえるこの大シイは、境内の他の樹木とともに、篠津地区の人々の信仰と親愛
の情によって、大切に守られてきました。歳末には氏子たちによって境内地の古木に張る太い注連縄
が作られ、前年の縄とは張り替える習わしが続けられています。
                                    平成27年3月
                                   桶川市教育委員会




『力石』
【享保八年 篠津村 奉納力石三十三貫目  卯二月吉日 岩崎氏】と刻まれている




『大シイ』
根元にある石標には【文化財天然記念物 多氣比賣神社と大椎】とあります




『参道』




『手水舎』
写真では分りませんが、手水舎屋根の降り棟鬼飾りには「右三つ巴」が入っています  
水盤には「卍」が刻まれています  両者とも当社の神紋ではありません




参道右側の『御神木』




『拝殿』
社殿のある領域は一段高くなっています




境内末社 左:『天神社』  右:「稲荷社」




『拝殿』




拝殿向拝鬼飾りには神紋である「十六弁八重菊」




向拝の木鼻、蟇股などの彫刻




『拝殿扁額』 【姫宮大明神】と揮毫されています




拝殿内 「十六弁八重菊」の入った内幕の先が『幣殿』 その先の格子戸の向うが『本殿』




参道には『狛犬』がありませんでしたが、幣殿の奥の本殿入口の両側で本殿を守っています




社殿を右斜め前から
『本殿(覆殿)』
祭神は篠や葦・竹をの茂った一帯を守る女神と言われるが、本殿背後には竹林があります
右側の祠は末社『三峰社』




末社『三峰社』




『本殿(覆殿)』裏側  右の大木は『御神木』




竹の枝がさしてあります




本殿(覆殿)裏側の中心下部の小さな穴は「神様が受けとめた参拝者の穢れや、災厄を後
ろの穴から追い出してあげるために開けられている」という口伝があるそうです。




本殿脇の『御神木』

参拝日:令和2年(2020)11月1日(日)

復元西戸2号墳(埼玉県毛呂山町)

2020年12月29日 | 古墳


埼玉県毛呂山町の越辺川(おっぺがわ)流域にある三つの古墳群のうちの一つ【西戸(さいど)古
墳群】の2号墳の石室が毛呂山町歴史民俗資料館(同町大類)の庭に移築復元されていますので訪
ねて来ました。
 築 造:7世紀初頭
 別 名:行任塚
 墳 形:不明 



石室 天井部は原形をとどめていません




石室




西戸2号墳説明板




西戸2号墳説明文




発掘調査時の測量図




「西戸古塚記」碑




「西戸古塚記」説明板
     西戸古塚記
 この石碑は西戸二号墳上に建てられていたもので、明治二六年(1893)にこの古墳を発掘したと
きの様子を記したものです。縦書10行、漢文により刻まれ、その概要は次の通りです。

  入間郡川角村西戸に行任塚と云う古い塚がある。
  今年の秋、長雨により表土が崩れて石が出て来たので、下を掘ってみると槨(横穴式石室か)
  がすがたをあらわした。槨の内部は分かれて二つになっていて、その広さはどちらも一丈
 (畳)ばかりであった。中からは人骨・刀・鏃・金環が発見され、人骨は数体分あり、主従関
  係にあるようで、殉死者がいたようだ。この古墳は、行任その人の古墳であろうか。生きた
  人が一緒に葬られたのであるから、この墓の被葬者は貴人と考えられる。
  この土地の所有者は供養のために石碑を建てることを考えられ、私(この碑文の作者)も同
  感であるから、明治癸巳の初冬(明治二六年)古塚の由来を書き記したのである。

 なお、地元には道祖土(さいど)の祖である平維新(行任)と云う人物が初めてこの地に入り、
行任塚はこの人の墓であり、近くの丸山城(不明)は平維新が築いた城であると云う伝説があり
ます。殉死者や平維新伝説と云った内容は史実とは考えられないでしょうが、これらの碑文や伝
説から、明治中頃の人々がどのような思いで古墳を見つめていたのかが理解され、大変貴重な資
料となっています。

散策日:令和2年(2020)12月7日(月)

横塚山古墳(埼玉県熊谷市)

2020年12月28日 | 古墳


名 称:横塚山古墳(よこづかやまこふん)
別 名:―
墳 形:前方後円墳
規 模:全長約40m、後円部径22.5m、高さ後円部で3.2m、前方部で2.5m
築 造:5 世紀末頃(推定)
出土品:円筒埴輪・朝顔形円筒埴輪など
指 定:市指定記念物 史跡 (名称:横塚山古墳 昭和44年(1969)9月11日指定) 
所在地:埼玉県熊谷市大字中奈良字横塚

この横塚山古墳に面する妻沼バイパスは数え切れないほど通っていますが、車の往来が激
しい上に駐車場もありませんので中々寄ることが出来ませんでした。
今回思い切って少し離れた場所の田園の中の道端に駐車して古墳まで。
この横塚山古墳は下野国の国造の任を終えて当地を開拓した奈良別命の墓所だとの伝承が
奈良神社にあるようす。




古墳の南側裾に設置の『横塚山古墳』説明板

  熊谷市指定文化財史跡
   横 塚 山 古 墳
                       指定年月日  昭和44年9月11日
                       所 在 地  熊谷市大字中奈良字横塚
 横塚山古墳は、古墳の形態として代表的な前方後円墳であり、長軸は東西方向を向いています。
 墳丘は、一部消滅して現在では全長30m、後円部最大径22,5m、前方部先端幅12m、高さは後円部
で3,2m、前方部で2.5mです。
 妻沼バイパスの工事に伴って、昭和46年と51年の二度にわたり墳丘部が調査され、周溝の幅が確認
されています。この周溝により、墳丘は本来東西40mの長さであったと推定されます。周溝の幅は、
後円部南側で、5,8mです。
 本古墳の造られた年代は、周溝内から出土した円筒埴輪や朝顔形円筒埴輪によると5世紀末と考え
られます。しかし埋葬施設が調査されておらず不明な点が多く明確ではありません。
 本古墳の周囲は、現在、水田になっていて、他に古墳は見られませんが、付近で埴輪片や土器片が
採集されます。かつては、付近に数多くの古墳があり、横塚山古墳を中心とした古墳群があったこと
が考えられます。
  平成8年3月                     熊谷市教育委員会




国道407号妻沼バイパスの建設に伴い後円部の一部が削り取られています




墳丘南側




墳丘北側




墳頂




墳頂にはこんな石が

散策日:令和2年(2020)10月20日(火)

奈良別命の徳を称えて建立された『奈良神社』(埼玉県熊谷市)

2020年12月27日 | 神社仏閣
◇延喜式内社◇


社 号:奈良神社(ならのじんじゃ) 
旧 称:熊野社
御祭神:奈良別命(ならわけのみこと)
創 建:不詳
社 格:延喜式内小社・旧村社
例 祭:4月15日 (春祭り) 10月15日(秋祭り)
指 定:-
鎮座地:埼玉県熊谷市中奈良1969

 【奈良神社が鎮座する奈良の地は、北は利根川・南は荒川のほぼ中間に位置し、神社の南1㎞程の処には古代
の官道である東山道(後の中山道)が通っている。
  神社の歴史・由緒
 神社創建は、今から1530年前、飛鳥に宮都が置かれた(592年~和同3年710年)に崇陣神天皇の第一皇子豊城
入彦命の四世の孫にあたる『奈良別命」が初めて下野の国(栃木県)の国造に任ぜられ、武蔵の国の荒地を拓き
人々の発展と安住の地を造られた祖であり、郷民たちが奈良別命の徳を称え神社を建てたと伝えられている。奈
良の地名は、この地方を開拓した奈良別命をもって奈良と称したと言われております。
 古くからの歴史を有する奈良神社は、延喜式内社と呼ばれていますが、この式内社とは、平安時代に醍醐天皇
の命により作られた律・令・格の施工細則を集成した法典の中に、神祇官が作成した官社帳に記されている神社
で、近郷では、幡羅郡4座と記されている式内社のうちの一社で古くから奈良村の総鎮守であった。】

                【当社社務所前掲示板に貼られた『延喜式内社 奈良神社」説明書から抜粋】




『一の鳥居』
国道407号を妻沼方向に進行し「中奈良」交差点を左折、少し進行した右側に酒店があります。酒
店手前の角を右に入ったすぐのところに建立されています。
実は、ここに鳥居があると知ったのは奈良神社を参拝して帰宅後のことで、この鳥居の写真を撮る
ためだけに翌日再び奈良神社に赴き、徒歩で鳥居まで行って撮ってきたものです。
鳥居付近には駐車できるところがありません。
ここに限らず、実際には2度3度と行っているところだらけですが、下調べ不足を曝してしまいます
ので、そのことには触れないでいるだけです(恥)




『扁額』 【奈良神社】とありますが「ならのじんじゃ」と読むようです




一の鳥居から約130mのところに石灯籠があります




『二の鳥居』
初めは一の鳥居かと思っていた鳥居です
空の色を見れば一の鳥居と二の鳥居を撮った日が違うことが分ってしまいますが・・・




『扁額』には一の鳥居と同じく【奈良神社】とあります




鳥居の柱の裏にはしっかり【延喜式内社 奈良神社】と刻んであります




2対目の石灯籠と『三の鳥居』




『三の鳥居』
一の鳥居、二の鳥居は「明神鳥居」でしたが三の鳥居「両部鳥居」です




『扁額』 【奈良之神社】と揮毫されています  
このことからも「ならじんじゃ」ではなく「なら の じんじゃ」という呼称であることが分ります




『三の鳥居』両部鳥居を横から




『手水場』




『狛犬』と『拝殿』




『狛犬』




『拝殿』




『賽銭箱』
「菊花心に三つ巴」紋です 外側の〇は装飾で入れたものかと思います 本来は〇なし




『向拝』猿股の彫刻




拝殿の『扁額』 【奈良之神社】と揮毫されています
額下辺に「菊花心に三つ巴」紋が入っていますが、これには外の〇がありません




『拝殿内』
格子戸とガラス戸の二重になっていてカメラがガラスに反射してしまいうまく撮れません




社殿を右斜めから




社殿を左斜めから




『本殿』




『本殿側面』




本殿側面に施された彫刻




本殿の斜め背後から




社殿の左側にある境内社殿
左から  国魂神社・八坂神社・怡母社・金山社・天神社・伊奈利神社




「堅牢墜神」と刻まれた安政4年の石塔  
さて何なのでしょう 後で調べてみます(忘れてしもうかも知れませんが)




『神楽殿』




『社務所』




社務所前の掲示板に貼られている『延喜式内社 奈良神社」説明書
ガラスの内側のためガラスに景色が反射してしまい読みにくいですが、冒頭に記したのはこの説
明文の前半部分です。




奈良神社の遠景  残念?二の鳥居は笠木の端のほんの一部しか入っていません(右端の白い部分)

参拝日:令和2年(2020)10月20日(火)

荒川水流を臨む交通の要所に鎮座する『知形神社』(埼玉県深谷市)

2020年12月26日 | 神社仏閣
◇延喜式内社〔論社〕◇


社 号:知形神社(ちかたじんじゃ)
旧 称:知形大神社
御祭神:・瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと)
    ・思兼命(おもいかねのみこと)
創 建:不詳
社 格:延喜式内小社〔論社〕・旧村社
例 祭:10月15日 秋祭り
指 定:-
鎮座地:埼玉県深谷市田中612-1(旧・大里郡川本町)

知形神社は、延長5年(927)に作成された『延喜式』神名帳の『武蔵国横幡羅郡4座』の
うちの「田中神社」の論社の一つです。
田中神社の論社はこの知形神社の他に、八幡神社(熊谷市三ケ尻)、田中神社(熊谷市三
ヶ尻)の二社があります。
知形神社が鎮座する(旧・川本町)田中の地は、東西に熊谷と秩父、南北に深谷と嵐山を
結び、さらに荒川水流を臨む古来より栄えた交通の要所といいます。
知形神社が田中神社に比定されるのは「田中」の地に鎮座するということを根拠にしてい
る以外の確証はないようです。




参道・境内入り口
左側に『社号標』 【知形大神社】とあります




『鳥居』




『鳥居扁額』 【正一位知形大明神】とあります




境内の模様




『手水舎』




『参道』




『狛犬』




『拝殿』
社殿背後の大きな木が御神木




社号看板 【知形大神社】とあります




『拝殿内』




『本殿(覆殿)』横から『幣殿』、『拝殿』方向に




拝殿主棟鬼飾りには「右三つ巴」紋




社殿の左側に末社殿が3棟並んでいます




左から 八坂神社・諏訪神社・琴平宮・雷電神社・見目神社




左から 浅間神社・手長神社・稲荷神社・八幡神社




左から 荒神社・金山社・天満宮・愛宕神社




社殿裏の『御神木」と3基の石祠




『御神木』




拝殿前から参道を入口方向に

参拝日:令和2年(2020)10月21日(水)

越生駅前の太田道灌像(埼玉県越生町)

2020年12月25日 | まち歩き


太田道灌ゆかりの町である入間郡越生町の「越生駅前」(JR東日本八高線・東武鉄道越生線)に、
太田道灌の銅像が設置されたとのことで早速行ってきました。
※逆光でよくわかりませんが・・・




本日配布された【埼北よみうり】(埼玉県北部地域に配布)でこのことを知りました




『越生駅』と『道灌おもてなしプラザ』




太田道灌像




太田道灌像 お顔をアップで




太田道灌像背面
台座に【昭和五十年十月 慶寺丹長 作  令和二年十二月 建立】
とありますが、この像は、四代目慶寺丹長(けいじたんちょう)作のもので、神奈川県伊勢原市役
所前に建立されている太田道灌像と同じ鋳型で昭和50年に制作された兄弟像で、長い間日の目を見
ずにいましたが、縁あって越生町が譲り受けたとのことです。

なお参考ですが、越生町では太田道真・道灌父子ゆかりの「龍穏寺」にも太田道灌像が建立されて
います。

散策日:令和2年(2020)12月25日(金)

水田の中に鎮座する『田中神社』(埼玉県熊谷市)

2020年12月24日 | 神社仏閣
◇延喜式内社〔論社〕◇


社 号:田中神社(たなかじんじゃ)
旧 称:天神社・天神宮・田中天神社
御祭神:・武甕槌命(たけみかづちのみこと)
    ・少名彦名命(すくなひこなのみこと)
    ・天穂日命(あめのほひのみこと)
創 建:不詳
社 格:延喜式内小社〔論社〕・旧村社
例 祭:1月25日  例祭
指 定:-
鎮座地:埼玉県熊谷市三ケ尻671

田中神社は、延長5年(927)に作成された『延喜式』神名帳の『武蔵国横幡羅郡4座』のうちの「田中
神社」の論社の一つです。
田中神社の論社はこの田中神社の他に、八幡神社(熊谷市三ケ尻)、知形神社(深谷市田中)の二社が
あります。
江戸時代は「天神社・天神宮・田中天神社」と称していましたが、明治末年三ヶ尻の八幡神社に一時合
祀、その後まもなく、現地に復帰再興したと言います。
今でこそ小さな社であすが、昔は大きな社で参道も800mほど離れた庚申塚付近まであったと言います。
当社は、国道140号彩甲斐街道と埼玉県道47号深谷東松山線の交差する「武体西交差点」の南西側近く
に鎮座しています。荒川の扇状地内で四方を水田に囲まれており、もとは「天神社」と呼んでいたが、
水田の中にあるのことから「田中天神」と称されるようになったと言います。
駐車場はありませんし、路上駐車できる環境卯ではありませんから、武体西交差点角にあるコンビニの
駐車場をお借りして参拝となりました。





参道入口  目の前は歩道付きの車道でひっきりなしに車が往来しています
『社号標』には【田中神社】と刻まれています




『一の鳥居』と『参道』




一の鳥居『扁額』 【延喜式内 田中神社】とあります




『参道』




『石灯籠』




『二の鳥居』




二の鳥居の手前左側にある地震封じの『要石』
境界石であり、幡羅郡、大里郡、榛沢郡の境界に建っているそうです
「要石」は、鹿嶋神宮、香取神宮が有名だそうで、埼玉県では、ここだけではないかと
思われるそうです。




『鳥居奉献記念』碑
      鳥居奉献記念
抑々武蔵国44座の1社とたたえ奉る延喜式内田中神社の御祭神は武槌命少名彦名命天穂
日命を奉祭し土人の古き伝説には田中天神と呼び菅原道真公併祀の鎮守にて家内安全交通
安全学問高揚の神として氏子の崇敬今に壮んなり
茲に御影石の大鳥居を御奉献そ大神の御安泰と氏子の守護と繁栄を御祈念申し奉る
右側に埋存せる天然石は常陸国鹿島の要石と同様の伝説を存す 又武蔵国幡羅大里榛名の
三郡の彊域を示す境界石として永遠に伝えん
              
天神とあるが菅原道真の天神ではなく、古代以来の天津神天神信仰である天神が正しいよ
うです。




『狛犬』




『拝殿』




向拝の「蟇股」、「木鼻」の彫刻




『扁額』 【田中神社】と揮毫されています




『拝殿内』 
本殿前の戸が閉まっていて中をうかがい知ることはできません




社殿の右側にある末社
しかし中はぐちゃぐちゃになっています




拝殿主棟鬼飾りには「右三つ巴」紋




『本殿(覆屋)』




社殿全体を




『御神木』




遠景と言う程ではありませんが・・・

参拝日:令和2年≪2020≫10月21日(火)

八幡太郎義家公駒留の杉『三ヶ尻八幡神社』(埼玉県熊谷市)

2020年12月23日 | 神社仏閣
◇延喜式内社〔論社〕◇


社 号:八幡神社(はちまんじんじゃ)
通 称:三ヶ尻八幡神社
御祭神:誉田別命(ほんだわけのみこと)
創 建:天喜4年(1056)あるいは寿永2年(1183)
社 格:延喜式内小社〔論社〕・旧村社
例 祭:4月15日  例大祭
指 定:-
鎮座地:埼玉県熊谷市三ケ尻2924

熊谷市三ケ尻に鎮座する三ケ尻八幡神社は、延長5年(927)に作成された『延喜式』神名帳の『武蔵国
幡羅郡4座』のうちの「田中神社」に比定されるの論社の一つです。
田中神社の論社はこの三ケ尻八幡神社の他に 田中神社(熊谷市三ケ尻)、知形神社(深谷市田中)の
二社があります。
三ケ尻八幡神社は、平安時代、源頼義・八幡太郎義家親子が天喜4年(1056年)の奥州征伐の際、この
地に本陣を設け、鎌倉の鶴岡八幡宮の遥拝所を建てて戦勝を祈願したことに始まるとも、鶴岡八幡宮の
社領となった寿永2年(1183)に創建したとも言われます。
このいずれもの創建の由来から考えれば、『延喜式』以後に創立された神社となり三ヶ尻八幡神社が式
内社とはなりえないということになるようです。ただし、これ以前から何らかの聖地、祭祀がなされた
場所であったとすればその可能性はありますが。そうした難しいことは抜きにして延喜式内社及びその
論社と言われる神社を順拝していますが、この三ヶ尻八幡神社の境内には「八幡太郎義家公駒留の杉」
と言われる御神木もあり、延喜式内社云々でなくとも参拝に値する神社です。





『社号標』 【八幡神社】とのみ刻まれています




『一の鳥居』
県道47号(深谷東松山線)に面しています 車道すれすれまで下がっての撮影




『狛犬』 1対目です




大きな石灯籠が両端に建つ参道




道路を横切ったところに『二の鳥居』があります




右側には横参道があります




二の鳥居脇の参拝者駐車場に設置の『熊谷市三ヶ尻八幡神社社叢ふるさとの森』説明板
だいぶ褪色していますので判読が厳しい状況にあります

   熊谷市三ヶ尻八幡神社社叢ふるさとの森
                             昭和59年3月30日指定
 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようとこの社叢が、
「ふるさとの森」に指定されました。
 この「ふるさとの森」八幡神社は、天喜4年(1056)、鎮守府将軍源頼義と、嫡男八幡太郎義家が、
前九年の役出陣にあたり、特にこの地に兵をとどめ、戦勝を祈ったところであります。
 ここは、平成12年に新装となった本殿・拝殿を中心として、多くの大樹が緑豊かな社叢を形成し、
中には、義家が愛馬をつないだといわれる杉の巨木も,神木として時を語っております。
 林相は、主に、スギ・ヒノキ・スダジイ・モミ・カシなどから構成されています。
     平成16年3月
                             埼玉県 熊谷市




二の鳥居は木製の「両部鳥居」




段差を設けることによって参道の勾配をいくらか和らげています




石段を上がると『三の鳥居』




『三の鳥居』




『手水舎』と『三の鳥居』




『手水舎』  最近改装したようです




『社務所』




『拝殿』 その1




『狛犬』  二対目です




『拝殿』 その2




『拝殿』 その3
賽銭箱には「左三つ巴」紋が施されています




『扁額』 【八幡神社】と揮毫されています




『拝殿内』 奥のガラス戸越しに本殿がうっすらと見えます




拝殿を左斜めから




『絵馬』 
「武蔵国𤭖尻郷 八幡神社」とありますが「𤭖」(みか)が「三ヶ」となったようです




透塀の左側奥に『八幡太郎義家公駒留の杉』があります




『八幡太郎義家公駒留の杉』
杉の根本に座する石祠は「諏訪社」と「稲荷社」




「八幡太郎義家公駒留の杉」があり、義家がこの地の杉に愛馬を繋ぎ、祈願したと伝わる

覆屋の柱に貼りつけられた木札には
「八幡太郎義家公駒留の杉  一〇五六年奥州騒乱(前九年の役』鎮定の砌 源義家公が
この杉に愛馬をつなぎ無事を祈願したといわれている」とあります




『本殿』




『本殿大棟』




本殿大棟鬼飾りには「左三つ巴」紋




透塀の隙間から拝殿の裏側を




やはり透塀の隙間から『本殿』を





本殿側から拝殿方向




本殿背後から




拝殿の右側にある境内社群




左:『浅間神社』  右:『琴平神社』




【末社合祀殿】 左から
 『林 稲荷神社・上野 愛宕神社・古家 天神社・4馬場 諏訪神社』
 『馬場 天手長男神社・森 坂下 林 久保 天手長男神社・八幡 雷電神社・上宿 八坂神社』
 『宮嶋 赤城神社・中宿 八坂神社・橋下 稲荷神社・城下 八坂神社』




『御嶽神社』
朽ちた鳥居の前にもう一つ鳥居があります 御嶽神社のものか境内社全体のものかは不明




拝殿手前にある『祓戸大神』
  



『遥拝所』




『再建之碑』
    再建之碑
 篆額 鶴岡八幡宮 宮司 吉田茂穂
 当社の創建は、第70代後冷泉天皇の御宇天喜4年、鎮守将軍源頼義・義家父子奥州出陣
の砌、
当地に旌旗を停め戦勝を祈願したことに溯る。寿永2年後の征夷大将軍源頼朝、当時の三
ヶ尻郷を相模国鶴岡八幡新宮若宮御領として寄進されてより、当社は同宮の分祀として
源家武士の崇敬篤く、更には三ヶ尻の里の総鎮守として庶民の尊崇を集めていたのであ
る。
  《以下長文に付き省略》
  平成13年12月吉日
                         八幡神社宮司 猿田宣久謹書




拝殿の左側には石碑が幾つも建立されています




社号標『三尻村 靖國社』
参拝者駐車場の奥には靖国社があります




『靖国社』

参拝日:令和2年(2020)10月21日(水) 

曼珠沙華の里に鎮座する『久保島大神社』(埼玉県熊谷市)

2020年12月22日 | 神社仏閣
◇延喜式内社〔論社〕◇


社 号:久保島大神社(くぼじまだいじんじゃ)
旧 称:山神社・山神大権現
御祭神:・大山祇神(おおやまづみのかみ)
    ・伊弉諾命(いざなぎのみこと)
    ・伊弉册命(いざなみのみこと)
創 建:不詳
社 格:延喜式内小社〔論社〕・旧村社
例 祭:4月17日  春祭り
指 定:-
鎮座地:埼玉県熊谷市久保島471

熊谷市久保島に鎮座する「久保島大神社」は、久保島村西部の鎮守だった山神社に、久保
島村東部の鎮守だった神明社、村社二柱神社(聖天社)など七社とその境内社を明治42年
(1909)に合祀したといいます。いずれも無格社でありましたが、山神社が村社に昇格し、
社号を現社号に改称した
と言います。
この山神社が『延喜式』神名帳の『武蔵国 播羅郡4座』の一つ「楡山神社」に比定される
式内小社の論社とされています。




参道入口




『社号標』 【村社 久保島大神社】と刻まれています




『石灯籠』と『一の鳥居』




一の鳥居『扁額』 【久保嶋大神社】とあります  ※鳥居では「島」 扁額では「嶋」




『二の鳥居』
一の鳥居から数メートルのところにありますが、参道が短いためか?




二の鳥居『扁額』 【久保嶋大神社】と揮毫されています




両部鳥居です  横から見なくても分るって・・・




二の鳥居脇に建っている『久保嶋大神社鳥居の由来』

   久保嶋大神社鳥居の由来
               所在地  熊谷市久保島四七一の二番地
 平成十六年十二月解体した際に、柱のほぞから願主と大工の名前とともに、嘉永二己酉年(1849年)
四月吉日の建立を示す墨書が発見されました。
 建立以来一五六年ぶりに立て替えられた鳥居は、明神鳥居系の中でも両部鳥居と呼ばれ、笠木が反り
返っている曲線構造です。柱は、転びと言われ少し斜めになっており、補助の控柱で支えているのが特
徴的です。
 世界遺産で知られる厳島神社の鳥居と同じ型で、熊谷市内でも木造鳥居として極めて重要です。





『手水舎』




『社殿』(左)と『社務所』(右)




『参道』と『拝殿』




『狛犬』




『拝殿』




『拝殿内』  【久保嶋大神社】と揮毫された奉献額が掲げられています




拝殿の左側部が鉄骨で補強されています




『絵馬』 
”曼珠沙華の里に鎮座する  結びの神 久保島大神社”
曼珠沙華の咲くころに訪ねればよかったかな




拝殿主棟の鬼飾りに「卍」紋
但し、卍を反転させた形の卐「右まんじ」になっています。
卍というとどうしても寺院を連想してしまいますし、地図でも寺院を表す記号は卍です。
しかし、卍を神紋にしている神社もありますので不思議ではありません。




『社殿』  「本殿」は覆殿になっていますので本殿そのものは見ることが出来ません




社殿の左側ににある『庚申塔』




『本殿(覆殿)』背面




『本殿(覆殿)』の大棟鬼飾りは「鬼」です




社殿裏側の曼珠沙華群生地
残念ながら時季外れでしたので茎が残るのみでした




境内社 左:『三峰神社』  右:『稲荷社』




境内の模様

参拝日:令和2年(2020)10月21日(水)