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四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

回顧 現存12天守 (3)

2016年01月17日 | 現存12天守
現存12天守のうち実にその3分の1が四国地方にあります。この(3)ではその四国にある4城を。




【 丸亀城 】 国指定史跡、重要文化財   香川県丸亀市  日本100名城 78    攻城日:2012(平成24)年8月13日

石垣の城として有名な丸亀城の威容を初めて見たのは2011年8月のことでJR予讃線の車窓からでした。この時から丸亀城の攻城を考えるようになり、
翌2012年8月13日に攻城した次第です。その後3年間も8月になるとやはり車窓から眺めてきましたが、この先は再攻城することも車窓から眺めることもないようです。





【 松山城 】 国指定史跡、重要文化財   愛媛県松山市  日本100名城 81    攻城日:2012(平成24)年8月7日

この日は猛暑で、何本ものペットボトルを空にしていました。上りはロープウェイを利用しましたが、帰りは二の丸跡(二の丸史跡庭園)を見て行こうと乾門から徒歩で
下って行ったのですが途中「ロープウェイ駅方面」の看板を見ましたのでその方向へと進んだ次第です。上り坂でしたが山のことですから下るだけでなく登ることもあろうと
ハーハーしながら登りました。しかし一向に下りになりません。これは山麓駅に向かっているのではなく山頂駅に向かっているのだと気付いた時には既にかなり
山頂方面に引き返していたわけです。登ってきた道を引き返し山麓を目指しましたがこの時は体力の限界に来ていたようで、手はパンパンに浮腫んでいましたし、
脚を上げるのさえも大儀になりこのままその場に倒れてしまおうかとすら思いましたが、そうもいかずどうにかこうにか山麓まで辿り着きました。
本来は城に関する話しを書くべきなのでしょうが、これが一番の(楽しくない)思い出となってしまいました。





【 宇和島城 】 国指定史跡、重要文化財   愛媛県宇和島市  日本100名城 83  攻城日:2012(平成24)年8月8日

宇和島城攻城の前月に南予地方を襲った豪雨はあちこちに被害をもたらしていたようです。宇和島城もやはり同様で土砂崩れが発生し、井戸丸方向ルートは閉鎖。更に登城道も
土砂崩れで仮設階段がパイプで組まれていたという状況でした。しかし、天守や立ち上がり門は無事でしたし、天守にも上がれたので井戸丸跡を見られなかったことは我慢しましょう。





【 高知城 】 国指定史跡、重要文化財   高知県高知市  日本100名城 84  攻城日:2011(平成23)年8月8日

♪高知の城下へ来てみいや じんまもばんばもみな踊る の歌につられて2011年から5年連続で8月になると高知入りをしてきました。当然、高知城も5年連続で攻城しました。
天守まで上がったこともあれば、大手門手前で天守を眺めて終わりにしたりと色々ですが、どこの城が好きですかと訊かれれば「高知城」と答える自身です。
無論、ほかにも好きな城は沢山ありますが。いくら好きな城のひとつでも5年も行けば十分でしょう。
※ この記事を書いた時点では5年連続の状態でしたが、この後も行っていますので実際には6年連続になります。

回顧 現存12天守 (2)

2016年01月13日 | 現存12天守
たかが12天守ではないか、簡単に制覇できるだろうと言われるかも知れません。されど12天守、
おいそれとは行きませんでした。関東に居を構える自身にとっては全てが遠方の地にある天守ですので
隣町へちょいと出かけてくるようなわけにはいきませんし、それなりの体力、軍資金も必要ですしね・・・

この(2)では近畿・中国地方の4天守の城を。




『彦根城 】 国指定史跡、国指定名勝、国宝、重要文化財  滋賀県彦根市 日本100名城 50  攻城日:2011(平成23)年4月30日

国宝4天守(攻城当時・現在は5天守)で最初に天守に上がったのがこの彦根城でした。彦根駅に降り立つとまず迎えてくれたのが徳川4天王と言われた
彦根藩初代藩主井伊直政の騎馬姿の銅像。
街路灯には「ひこにゃん」のフラッグが列をなして飾られていました。いわゆるゆるキャラブームのきっかけとなったのがこの「ひこにゃん」とも
言われておりますが、そのひこにゃんも見ましたし、大名庭園玄宮園を含めての広大な彦根城に城の美しさを知らされたものです。





【 姫路城 】 世界文化遺産 国指定特別史跡、国宝、重要文化財   兵庫県姫路市 日本100名城 59  攻城日:2013(平成25)年8月13日

姫路城を訪れたのは平成の大修理中のときのことです。これ以前に攻城したことはありませんし、この後もありませんので大修理中の写真しかありません。
大修理中に行ったのでは天守に上がれないこと等から大修理後にしようかと悩みましたが、今になってみるとこの先見ることはできない姿を見たことは正解だったと思います。
大修理後の姿はいつでも見られるわけですので・・・天守にも上がってみたいし、見てこなかった西の丸なども見てみたいが、再び姫路城を訪れる機会を得ることは難しそうです。





【 松江城 】  国宝、国指定史跡  島根県松江市   日本100名城 64    攻城日:2013(平成25)年8月6日

松江城天守が国宝指定を受けたのは昨2015(平成27)年7月8日のことです。現在の文化財保護法施行5番目となる天守の国宝指定ですが、ここに至るまでは
松江市の国宝指定に向けての数々の施策を行ってきましたが、行方不明になっていた築城日を裏付ける祈祷札を発見したことが指定への決定的なものになったようです。
この国宝となった天守の素晴らしさもさることながら、復元された南櫓等にも非常に関心があった自身です。1枚の古写真に写っている櫓を、石垣のどの石の位置に
立っているかで大きさを割り出して復元した様子をテレビの城番組で観ていたからでした。石垣が古写真当時のまま残っていなければ不可能だった訳ですから。
重要文化財としての松江城天守は上がったけれど、国宝としての天守は上がっていません。同じものでありながら重文と国宝では何か違うような気がする自身です。





【 備中松山城 】 国指定史跡、重要文化財  岡山県高梁市  日本100名城 68  攻城日:攻城日:2013(平成25)年8月6日

日本100名城の制覇はとても無理な話なのでせめて現存12天守の制覇だけでもと思うようになりましたが、12天守の中で唯一の山城である備中松山城を攻略するだけの
体力の自信はありませんでした。しかし、だからと言って諦めたら12天守制覇は叶わないことから、人の2倍3倍の時間がかかることを覚悟で挑んだ城です。
先日のテレビの城番組では上空からの映像も流していましたが、それを見て本当に凄いところを上がっていったのだと自分ながら感心してしまいました。
昨今、竹田城などとともに「天空の城」、「雲海に浮かぶ城」として脚光を浴びていますが、仮に再び備中松山城を攻城する機会が出来たとしても、
自身にとってはあまりのきつさから「1度行ったからいいや」と2度目であることを口実に途中で諦めてしまうかも知れませんので行きません・・・とは言い切れませんが。

回顧 現存12天守 (1)

2016年01月12日 | 現存12天守
去る1月7日(木)夜、BS朝日で「歴史ミステリー 日本の城見聞録 新春4時間スペシャル 永久保存版! 現存12天守に攻め入る!!」が放映されたので観てみました。
自身も2013年8月13日に攻城した「姫路城」で一応現存12天守を制覇しました。攻城記についてはその都度このブログで紹介させて
いただきました(ブログの引っ越しに伴いブログ形式の違いから、一部写真が表示されなくなったり文字位置がずれていたりしますが)。

そんな現存12天守の城、回顧などとオーバーな表現を用いてしまいましたが、当時の入城券(入場券)、パンフレットの紹介がてら2、3行ですが振り返ってみたいと思います。
なお、断るまでもないことですが、画像中の入城券(入場券)とパンフレットの縮小率は異なっております。




【 弘前城 】 国指定史跡、重要文化財  青森県弘前市  日本100名城 4  攻城日:2012(平成12)年5月4日

予定では桜が丁度満開になる時の攻城になるはずでしたが、数日前に満開になってしまい行ったときは大分散っていました。
それでも取り敢えずは桜の弘前城を観ることが出来ましたし、複数の櫓や門も遺っており楽しませていただきました。

現在は、石垣の本丸の一部が外側に膨らんだ「はらみ」のため、天守を「曳屋(ひきや)」で約80m
移動して石垣の工事中のため本来の天守の姿を見られるのは当分先のことになってしまいました。





【 松本城 】 国宝、国指定史跡  長野県松本市  日本100名城 29  攻城日:2009(平成21)年9月21日他1回

初攻城は他の場所に観光に行ったついでの思い付きで攻城したもので、時間が遅かったこと等から濠の外側から
天守等を望むだけでしたが、現存12天守のある城の最初の攻城はこの松本城となりました。
2度目の攻城は2013(平成25)年10月9日でしたが、バスツアーに参加しての攻城でしたからスケジュールに追われ
自分なりの見学はできませんでした。しかし、念願の天守にも登れましたので良しとしています。





【 丸岡城 】 重要文化財  福井県坂井市丸岡町  日本100名城 36  攻城日:2012(平成24)年11月13日

この丸岡城へは福井駅から路線バスで往復しました。その福井市にはやはり日本百名城に選定されている「一乗谷城」があり、こちらも攻城
したかったのですが、列車の都合でその時間が取れずに断念してきました。更に、この3年前の2009(昭和21)年10月、丸岡城からそう遠くない
芦原温泉に出かけていたにもかかわらず丸岡城を訪ねることもなく金沢城を訪ねていたのですから今にして思えば勿体ないことをしたものだと。





【 犬山城 】 国宝  愛知県犬山市  日本100名城 43   攻城日:2011(平成23)年5月1日

この年から名城巡りをするようになりました(とは言え今日までに巡った城はほんの僅かですが)。その第一弾が2日間で滋賀、愛知2県の4名城を
巡るという計画でした。2日目後半すなわち最後がこの犬山城であったわけです。最後にしてあいにくの雨模様となってしまいましたが大雨でなかったのが救いでした。
実はこの雨でぬれてしまうからとパンフレットは入城時には敢えて貰わず、攻城を終えてから貰って帰ることにしたのですが、貰わずに来たことを帰宅後気付き、
犬山市の観光協会さんに事情を説明して送っていただいたという恥ずかしい思い出を作ってしまった城でもあります。

松江城天守 国宝に

2015年05月16日 | 現存12天守


現存12天守のひとつである島根県の「松江城天守」が新たに国宝に指定されることになりました。

これは、15日に開かれた文化庁の文化審議会が松江城天守を国宝に指定するよう下村文部科学大臣に答申したことにより近く答申通りに告示されるものと思われます。

松江城天守は、他の多くの天守とともに戦前の国宝保存法により国宝に指定されていましたが、昭和25年の文化財保護法の制定により他の国宝ともども重要文化財と
改称されました。つまり、国宝イコール重要文化財であったわけですが、重要文化財の中で価値の高いものをあらためて国宝に指定しました。天守では姫路城、松本城、彦根城、
犬山城の4城(天守)が国宝の指定を受けました。このことにより、国宝イコール重要文化財であるにもかかわらず、新たな国宝が指定されたことにより、旧法では同じ国宝で
あったものの重要文化財のままである8天守は、国宝4城の格下という形になってしまったといっても過言ではないと思います。

そんな中、松江城に関しては平成21年に「松江城を国宝にする市民の会」が発足、同22年には松江市が「国宝化推進室」を設置し国宝指定への活動を行ってきました。
松江城と国宝4城を色々な角度から比較し国宝に値する城(天守)であることもアピールしていました。さらに、昭和12年から所在が分からなくなっていた2枚の祈とう札を
捜しだしました。祈とう札は城が創建された際、城の平和を願って奉納されたと伝えられ、国宝の指定につながる貴重な史料であり、「慶長十六」などと書かれていて
慶長16年に城が完成したことが裏付けられるなどのことが今回の答申につながったものと思います。

天守が国宝に指定されるのは63年ぶりとのことで国宝4城から国宝5城となるのもすぐのようです。
自身は、2年前の平成25年8月にこの松江城を訪城しておりますが、この後、国宝松江城(天守)を再訪城することは色々な「不足」のため無理でしょう。

なお、写真は平成25年8月に訪城した際に撮ったものです。          

「松本城」再攻城(長野県松本市)

2013年10月11日 | 現存12天守


創 始
松本城は戦国時代の永正年代はじめに造られた深志城が始まりです。戦国時代になり世の中が乱れてくると、信濃府中といわれた松本平中心の井川に
館を構えていた信濃の守護小笠原氏が、館を東の山麓の林地区に移すと、その家臣らは、林城を取り囲むように、支城を構えて守りを固めました。
深志城もこの頃林城の前面を固めるために造られたのです。その後甲斐の武田信玄が小笠原長時を追い、この地を占領し信濃支配の拠点としました。
その後、天正10年(1582)に小笠原貞慶が、本能寺の変による動乱の虚に乗じて深志城を回復し、名前を「松本城」と改めました。

天守築造
豊臣秀吉は天正18年(1590)に小田原城に北条氏直を下し天下を統一すると、徳川家康を関東に移封しました。この時松本城の小笠原氏は家康に
従って下総へ移ると、秀吉は石川数正を松本城に封じました。数正・康長父子は、城と城下町の経営に力を尽くし、康長の代には天守三棟(天守・
乾小天守・渡櫓)をはじめ、御殿・太鼓門・黒門・櫓・塀などを造り、本丸・二の丸を固め、三の丸に武士を集めました。また城下町の整備をすすめ、
近世城郭としての松本城の基礎を固めました。天守の築造年代は、康長の文禄2年から3年(1593~4)と考えられています。
  (松本城管理事務所発行 国宝松本城パンフレットより引用)




現存天守12城のひとつで国宝でもある「松本城」を初めて訪ねたのは4年前の9月でした。
この時は、休日であったこともあり、天守を目指す人は長蛇の列でした。そのうえ着いた時間が遅かったこともあり、何時間も列に並んでと
いう余裕はありませんでしたから、濠の外から松本城天守群の姿を見るにとどまってしまいました。天守に上がってこそ現存12天守制覇に
という思いからいつの日にかはと考えていたましたが、今回、あることでその機会を得ましたので再攻城してきました。
ただ、今回も十分な時間が取れませんでしたので、ゆっくりとはいきませんでしたが。  




黒門(復興)
松本城の正門にあたります




本丸跡から見た天守群
左から 月見櫓(手前)、辰巳附櫓(奥)、天守、渡櫓、乾小天守




乾小天守の丸太柱


]

大天守1階




天守2階鉄砲蔵
2階鉄砲蔵には火縄銃と関連資料が展示されています




武者窓




天守4階 御座の間
いざというときは、城主がいるところ(御座所)になる




天守からみた本丸跡




天守5階から6階(最上階)への階段




天守6階天井
井桁梁でがっちり組まれています
中央に祀られているのは「二十六夜神」




「二十六夜神」の謂れ




天守6階から見た「埋の橋」
老朽化したので修繕中のためここからは本丸に入れず




月見櫓内部
ここも修理中でした  
 
攻城日:2013年(平成25年)10月9日(水)           

現存天守12城を制覇

2013年09月16日 | 現存12天守


去る8月13日に、世界遺産・国宝である「姫路城」を攻城したことによって、一応、『現存天守12城』を制覇しました。
最初に現存天守の城を訪ねたのは平成21年9月のことでした。この時は、『現存天守12城』を意識したわけではありません。
そこに城があったから訪ねたにすぎませんでした(そこにと言っても遠方ですが)。
『現存天守12城』を意識して訪ねるようになったのは平成23年以降のことです。たかが12城、されど12城です。
いずれも遠方の地にあり、おいそれと攻城できるものではなく、別件の旅との抱き合わせでのものが大半でした。
そうして、漸く4年弱で12城を制覇しましたが、「姫路城」については昨日のブログに記したよう大天守の大修理中で天守内部には
入れませんでしたから、0.5城扱いになるかもしれませんね。そしてもうひとつ、時間の関係で堀の外側から見るだけで天守に入れ
なかった城があり、これも0.5城扱いでしょうから、12城制覇とは言え11城分でしょうか。
この足りない0.5城と0.5城については、いずれの日にか各々1城に数えられるようにできればよいのですが・・・  




現存天守の城を攻城した際の入城券とパンフレットです。入城券が手元に残らないシステムになっている城もあり、攻城数と入城券の数は一致していません。
ある1城だけ入城券もパンフレットもまだ手にしていないところがありますが・・・ 

姫路城(兵庫県姫路市)

2013年09月15日 | 現存12天守


姫路城の創築は南北朝時代の初めとされる。羽柴(豊臣)秀吉が姫山に三重の天守を築いて近世城郭としての体裁を整え姫路城と改称した。
今日に残る城の形にしたのは徳川家康の娘婿池田輝政で、9年の歳月を費やして慶長14年(1609)、五重六階地下一階の大天守に3基の
小天守を結んだ天守群を中心に、多くの櫓と門が並び建つ大城郭を築き上げた。その後本多忠政が西の丸などを増築し、複雑な縄張をもつ名城が完成した。
明治時代に失われた部分もあるが、昭和の大修理が施され、平成5年に日本を代表する城として世界遺産に登録された。 (「日本100名城公式ガイドブック」より引用) 

「昭和の大修理」から半世紀が過ぎ、大天守には傷みや汚れが目立つようになったことから、屋根、壁面の修復を主工事とした「平成の大修理」が
平成21年(2009)に着手され、現在も修理中ですが、ほぼ終了したようです。大天守が見られない、天守に入れない。そんな姫路城に行っても
仕方ないので修理が終えてから行けばよい。と思う反面、修理を終えた姫路城ならいつでも訪ねられるが、修理しているところ、ましてや天守の屋根を
目の前に出来ることなどこの先ない。見ておけば良かったと後悔することになるかもしれない。ということで・・・  




姫路駅から姫路城に徒歩にて。 連日、猛暑の下にいたので体がへばりきっていました。そして、この日も猛暑でした。




桜門橋の向こうに見えるのが大修理中の大天守 

素屋根

鉄骨トラス構造で建設された素屋根は、備前丸からの高さが約52mになり、13階建てのビルの高さに相当します。素屋根の壁面には約800枚の
メッシュシートが取り付けられ、南側と東側には実物大の姫路城大天守の線画を描いています。この線画はギネス級の巨大なもので、素屋根に隠された
大天守の存在感をアピールしています。                     (パンフレット「白鷺の大天守ふたたび」より引用) 




大手門から三の丸跡へ




「世界遺産 姫路城」の石碑の先に天守群が




大修理中の大天守と小天守群




入城券売り場
ここで入城券とともに予約してあった「天空の白鷺」入館券を購入




菱の門 




いの門




ろの門




ぬの門




備前門
この備前門から、素屋根の内部に設けられた姫路城大天守修理見学施設「天空の白鷺」へ向かいます。
見学予約をしてありましたので、ほとんど待つことなくエレベーターに乗れ8階に行けました。




天空の白鷺8階の見学窓から見た「最上層の大屋根」の修理状況

この日は作業が行われておりませんでした。また、ほとんど修理完成の状態でした。
修理が終えてしまうと、こうして目の前に大屋根を見ることはできません。




屋根目地漆喰




7階の見学窓からは壁面修理の模様が見られますが、こちらもほとんど終えていたようです。




1階見学スペースから見た大天守の石垣










天空の白鷺8階から城内を見下ろす
画像に線が入っているのは、窓のガラスに線が入っていたためです。 




7階から   
こうした櫓なども見て歩く予定だったのですが・・・




小天守




水の三門




水の二門




水の一門




ほの門




にの門




にの門 東方下土塀




はの門   
  
ここで今回の姫路城攻城は取りあえず終わりに。
門ひとつ撮るにも、ひっきりなしに往来する見学者が切れる一瞬を待つのですが、なかな人の流れは切れず人が入ったままのものが多くなりました。




あまりの暑さとのどの渇きから、帰り際に、普段は食べることのないものを「氷」ののれんのお店で。    
  

来年1月15日で「天空の白鷺」は閉館になり、その後1年半をかけて素屋根の足場などが解体されるそうです。そして、再来年には大修理なった
大天守が見られるようようですので、もし、再攻城の機会を得られれば、今回見られなかったところも合わせて見学したい。そう思う私です。

攻城日:2013年(平成25年)8月13日(火)             

「高知城」ふたたびみたび(高知県高知市)

2013年09月14日 | 現存12天守


南海の名城・高知城

高知城は、日本で唯一本丸の建築群がすべて現存する、江戸時代の姿を今に伝える城郭である。
もともとこの場所には南北朝時代に築かれた大高坂城があり、戦国時代には長宗我部元親が岡豊城より移り築城に取り組んでいた。しかし、
治水に難儀し、わずか3年で元親は浦戸城へ本拠を移した。その後、関ヶ原の戦いの功績で遠州掛川より入国した山内一豊がこの地を城地と定め、
慶長6年(1601年)秋から築城をはじめた。 一豊は築城家として知られた百々越前守安行を総奉行に任じ、近隣諸村から石材や木材を
取り寄せ工事を進めたが、難工事の末城のほぼ全容が完成したのは10年後、二代藩主忠義の治世に移った慶長16年にことであった。
享保12年(1727年)には一部の建物を残し焼失、ただちに復旧にあたったものの財政難もあって天守閣が復興するまでに20年以上の歳月を
要している。その後、明治維新により廃城となり本丸と追手門を除くすべての建物が取り壊され、公園となっていまに至っている。別名を鷹城。
  ( 高知城管理事務所発行のパンフレット「国指定重要文化財 高知城」より引用)   
   
「高知城」を訪れるのは今夏で3年目でした。
過去2年とも、追手門から入って行きましたが、別の方(裏?)から攻城してみました。  




県庁の前あたりから見た天守 




御台所屋敷跡




御台所屋敷跡前の道路から 「黒鉄門」を




城内三社跡付近の石垣




「廊下門」と「西多聞」 こうした方向からは初めて見ました  




二の丸跡から望む天守




やはり二の丸跡の別の位置から




「詰門」の2階 
本丸と二の丸を結ぶ通路となっている。家老・中老などの詰所として用いられたことからこの名がついた




廊下門




「本丸御殿」と「天守」




本丸御殿入り口正面の「式台の間」




大河ドラマ「功名が辻」で、千代役・仲間由紀恵が着用したもの




御殿内部  黒潮と鯨の潮吹きを表現したといわれる欄間




御殿内部  「上段の間」(主君が家臣と対面した所)と、「武者隠し」




本丸御殿の庭(一部)




天守1階  高知城に関する資料が展示されている




天守2階(だったと思います)




天守内部の階段 2階と3階を結ぶ階段? 




天守最上階(6階)の天井
6階の間を写したかったのですが、人、ひとだらけでしたので、天井で我慢してください




「廻縁」




「鯱」 雄の方か雌の方かは? 




天守最上階から見た「二の丸跡」




天守最上階から見た「黒鉄門」 




天守から望む城下




「黒鉄門」




「鐘撞堂」




「三の丸跡」から




追手門から出て・・・




追手門脇の堀に咲いていた蓮を・・・   
  
高知城を裏から攻めたのは全くの思いつきでしたから、「搦手門跡」にも寄らず(位置を全く把握していなかった)等、今回も攻略失敗・・・

攻城日:2013年(平成25年)8月11日(日)           

備中松山城(岡山県高梁市)

2013年09月12日 | 現存12天守


備中松山城は、秋庭重信」が延応2年(1210)に築いたのが最初とされる。城のある臥牛山は中国山地と瀬戸内とを結ぶ交通の要衛を見下ろす位置にあり、
毛利家などの城塞として機能していた。江戸時代になり、小堀正次・政一(遠州)親子の修築を経て、天和年間(1681~84)、水谷勝宗の大改修で
近世三大山城とされる最終的な城の形となった。城の縄張りは4つの峰にまたがり、天守は標高430mの小松山の本丸に建つ。二重二階の天守は現存する
天守の中で最小であるが、日本一高いところに建っている。平成9年、本丸の南御門をはじめ、平櫓・土塀などが再建された。
                                              (「日本100名城公式ガイドブック」より引用) 

「日本100名城」(財団法人日本城郭協会選定)全部を制覇するのはとてもできる相談ではありません。せめて「現存天守12城」だけでも攻城できたらと思うように
なり、ぼっちらぼっちらと城めぐりを始めた次第です。 それには問題がありました。上記説明文にもあるように「備中松山城」は、地理的問題もさることながら、
現存天守の中では一番高いところに建つ山城です。途中までは車で行けるものの、その先は約20分山道を歩いて登らなければなりません。今の私にそれだけの体力の
自信はありません。しかし、ひとつでも攻城を放棄すれば12城制覇は成りません。諦めるか挑戦するか迷った末に、ひとが20分のところを例え1時間かかろうと
2時間かかろうと休み休みでも攻城しようと決めたわけです。そのために伸縮式の杖と携帯用酸素ボンベを用意して行きました(杖は現場に置いてありましたが)  




攻城予定の前日の夕刻、備中松山城のある高梁市に入り、市内のホテルに1泊しました




予約してあった乗合タクシーの出発時刻までには間がありましたので、駅前を散歩(3歩)
数日後に控えた「備中たかはし松山踊り」の準備が進んでいました






駅前通りの左右の歩道にはこんなタイルが 






備中高梁駅前から乗った乗合タクシーで「ふいご峠(8合目)」まだ上がってきました
ここから先は徒歩です。遊歩道を行く、林道(?)を行くか。途中で合流のようですが、舗装された林道を




写真で見るとそれほどでもないようですが、実際に歩くとかなりきついです
乗合タクシーに同乗してきた京都から来たという親子連れの姿がもう見えません




石段もかなりきつい




石垣群が目の前に。こういうのを見ると疲れも飛ぶ・・・そう思うだけでやっぱりきつい




大手門跡付近の石垣




三の平櫓東土塀(国指定重要文化財) 




黒門跡 




天守が見えました。やっと着きました




二の丸跡から見た(左から) 「六の平櫓」・「五の平櫓」・「天守」
* 天守以外は平成9年に復元




五の平櫓から天守方向に  




二重櫓(国指定重要文化財)  




左から 六の平櫓・南御門・五の平櫓・天守




入城券を購入して、いざ本丸・天守へ 






備中松山城天守(国指定重要文化財)  




左から 五の平櫓・本丸南御門・六の平櫓 と 本丸




接続(つなぎ)廊下
「この天守は二重二階であり、ここは一階ではなく、八の櫓と天守をつなぐ廊下である」とあります






天守内部の一部  






階段
踊り場を付けた曲がった階段、幅も狭く勾配が急であり、敵がすぐに上がれないように工夫されている




天守から見た「二重櫓」




二の丸跡から見下ろした城下
備中松山城がいかに高いところにあるか実感できます   
 
完璧とはいかないものの備中松山城の攻城を終え下山。再び、ふいご峠から予約しておいた乗合タクシーで備中高梁駅まで戻り目的達成
次の目的地へ・・・  

攻城日:2013年(平成25年)8月7日(水)           

松江城(島根県松江市)

2013年09月11日 | 現存12天守


松江城は、慶長12年(1607)、堀尾吉晴が徳川幕府の許可を得て宍道湖を見下ろす標高28mの亀田山に築城した。慶長15年(1610)に築かれた
外観五重内部六階の天守は現存12天守のひとつ。極めて実戦的な天守で、板張部分のいたるところに石落や狭間が設けられるなど、防備面での工夫が凝らされていた。
縄張も本丸の周囲は多聞櫓で囲み、石垣や土塀には屈曲や折れを多用するなど防御性の高いものであった。水堀がよく残り、
また二の丸の隅櫓群や多聞櫓の一部が再建されて、かつての威容を偲ぶよすがとなっている。       (「日本100名城公式ガイドブック」より引用)




「松江駅」に着いたのは午後3時少し前。本当はあの人気の列車で早いうちに松江入りしたかったのですが、乗車券争奪戦で涙をのんだものですから・・・
「松江駅」からバスに乗り、「県庁前」で下車




県庁前に建立されている「松平直政公」の銅像。もともとこの場所は三之丸のあったところ
松平直政公は、堀尾三代、京極一代、松平十代と続いた松江藩の松平家初代の藩主




目の前には、松江城の堀と高石垣と櫓が




堀に沿って大手前広場に行くと、ここには松江開府の祖「堀尾吉晴公」の築城と城下造成を指揮する姿の銅像が建立されている




馬溜跡と高石垣 
左の櫓が「中櫓」(復元)  右の櫓が「太鼓櫓」(復元)




登閣券売り場(自動販売機)で登閣券を購入して天守へ




天守西面  




天守上部




付櫓




付櫓に設けられた天守入口
鉄延板張りの大戸があり、入ると桝形の小広場が二段ある  




地階と井戸
地階は、籠城用生活物資の貯蔵庫であった




天守内部の一部




寄木柱




桐の階段
各階の間に設けられてある。階段を引き上げたり、防火防腐のために桐を使った




石落とし




天守最上階  




天守最上階からの眺め   




太鼓櫓(復元)




中櫓(復元)   




南櫓(復元)   




3つの櫓を1枚に収めるのは難しい!!  どうにか見えれば
左から「南櫓」、「中櫓」、「太鼓櫓」 




南櫓  
  
攻城時間に限りがあったものの、それなりに松江城を攻めてきました。
再びバスに乗って「松江駅」に戻り、次の目的地に・・・

攻城日:2013年(平成25年)8月6日(火)