四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

関東管領山内上杉氏の居城 平井城跡

2024年05月12日 | 100名城以外の城館跡

関東管領山内上杉氏の居城・平井城跡を14年ぶりに攻城してきました。城跡の状態は以前とほとんど変わ
りませんでした。

城館名:平井城
別 名:ー
築城者:上杉憲実
築城年:永享10年(1438)
廃城年:天文21年(1552)
遺 構:なし(復元:土塁、内堀、竪堀)
現 状:関東管領平井城址公園
指 定:群馬県指定史跡(名称 平井城金山城跡 平成11年〔1999〕4月30日指定)
所在地:群馬県藤岡市西平井字新曲輪235-1 ほか

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平井城の築城には諸説あり、一説には永享10年(1438)に勃発した永享の乱に際して関東管領上杉憲実が家臣の
総社(前橋市)長尾氏に築かせたと伝わります。応仁元年(1552)には関東管領上杉顕定が修復・拡張したとい
い、発掘調査ではこの時期の遺物が出土しています。
天文21年(1552)の小田原北条氏の攻勢により落城するまで、関東管領・山内上杉氏の拠点・居城として繁栄し
ました。

        《パンフレット『関東管領 平井城址公園 金山城址公園』(藤岡市教育委員会)から抜粋引用》
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本丸内から土塁(復元)を  背後の山が平井城の詰城であった金山城があった金山


土塁の上から本丸跡を


本丸内に設置されている平井城関連の各種説明版  
左から
 【関東管領と山内上杉氏】
 【平井城築城】
 【山内上杉氏と平井城周辺】
 【関東管領と山内上杉氏 年表】
 【みかほ王国
   [平井城御城印取扱場所]
 【城跡を探る】
 【関東管領平井城址公園の整備と活用】



上掲各種説明版の中の【城跡を探る】から
 〇主郭および周辺部概要図  ※①②③記号は管理人の書き込み



上掲①のところには、上杉氏・平井城に関する石碑、歌碑や説明版などが多数立っています


『関東管領 上杉氏一族之碑』


『永享の乱 藤岡郷平井城平井詰(金山)城二ヶ月に及ぶ攻防戦史』


二の丸跡
〇主郭および周辺部概要図②



本丸東側の郭(東郭?)の内堀と竪堀(いずれも復元) 北方から
〇主郭および周辺部概要図③
本来は本丸に直接接していますが、間に牛舎があることから本丸からいったん道路に出て北上し、本丸と
三の丸跡の境の道を来てここに至ります。



竪堀(復元)


本丸東側の郭(東郭?)の内堀と木橋(いずれも復元) 南方から
土橋の先に見える民家の前の道を歩いて来て土橋を渡り郭に至りました。


攻城日:令和6年(2024)5月9日(木)

吉良上野介陣屋跡.と陣屋井戸(群馬県藤岡市)

2023年10月31日 | 100名城以外の城館跡

藤岡市白石地内に忠臣蔵で有名な吉良氏の陣屋跡と陣屋井戸があるとのことから訪ねてきました。


陣屋建物の遺構はありませんが、この畑の場所に陣屋があったとのことです。
標柱と説明板が建てられています。


「吉良氏陣屋跡」説明板
  忠臣蔵に登場する吉良上野介義央の祖父義弥の時代、寛永五年(1628年)頃、徳川家康より
  上野国白石村に740石の所領を新たに拝領し、陣屋を置き当地を支配した。
  吉良氏は朝廷と幕府との間の儀式や作法を指導する「高家」の役職に就き、義弥・義冬・義
  央の三代にわたり、赤穂義士の討ち入りが決行された元禄十六年(1703年)まで続いた。
とあります。


ここ一帯が陣屋敷地であったのでしょう


井戸は四阿の覆屋で保護されておいます。吉良上野介義央は白石で誕生したという伝説があり、こ
の井戸の水を産湯をつかったといわれるようです。


「吉良上野介陣屋跡井戸」説明板


井戸

散策日:令和5年(2023)10月26日(水)

小前田氏館跡

2023年08月18日 | 100名城以外の城館跡


深谷市小前田(旧・花園町)地内の『小前田氏館跡』を訪ねてきました。
館跡と言っても、昭和40年代の圃場整備で遺構は完全に失われてしまい、館跡の東を流れる用水路の一部がかつ
ての水堀跡とされるだけのようです。
小前田氏は、鎌倉時代に猪俣党の藤田氏の祖とされる五郎政行の孫にあたる信国が小前田の地に居館を構え、小
前田野三郎と称したのが始まりとされるようです。
その後も小前田氏は綿々と続き、藤田氏に属し、後北条氏とは敵対関係にあったようですが、藤田氏が後北条氏
への降服後は鉢形城主北条氏邦に仕えたとしています。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐における鉢形城攻めの際は、小前田越前守は氏邦の奥方と光福丸
を守護し脱出の際の交戦で討死したとされています。小前田氏が小前田氏館を居館としていたのはいつまでのこ
とかはわかりませんし、これ以前に小前田郷に関して、長谷部兵庫助らの10名から11名の「小前田衆」や、大森
越前守などの名が出てきますが、これらの者と小前田氏・小前田氏館との関係もよくわかりません。

城館名:小前田氏館跡(おまえだしやかたあと)
別 名:御前田館・陣屋
築城者:小前田信国
築城年:鎌倉時代
廃城年:天正18年(1590)
現 況:農地、宅地
遺 構:水堀(用水路の一部?)
指 定:-
所在地:埼玉県深谷市小前田 陣屋 (旧・大里郡花園町)

上の写真の中央辺りで用水路が「くの字」に曲がっていますが、そのあたりから先が小前田氏館跡とされます。
下の地図の赤線で囲った左上角からの写真です。



小前田氏館は東西に長い方形の館で四方を土塁が巡っていたといわれます。
地図上に赤線で囲った部分が館の範囲です(概ねですが)
近年まで土塁の一部が残っていたようですが現在は消滅しています。
また、館跡西側を流れる用水路の一部が小前田氏館の水堀跡と言われますが、他の三方も水堀が巡っていたと考
えられるのは当然です。ただし、その痕跡はどこにも見られません。


館跡西側を流れる水堀跡(用水路)  この写真では用水路の右側が館跡です


フェンスの手前が用水路 フェンスの向こうが館跡


現在の館跡の中央に走っている道路から 道路突き当りに水堀跡(用水路)があります


館跡東端から南東方向を 道路の先は館跡の外ですが、写真中央のやや左側に見えるのが「道の駅はなぞの」の
アルエット(花園地域物産館)


ということで何もな~い小前田氏館跡を散策してきましたので、散策の証として撮ってきた写真から何枚かを掲載してみ
ました。この10日前には「黒田古墳群」を。更にその11日前はすぐ近くにある「橋屋遺跡」を訪ねています。近くにある
この三カ所なら同じ日に回れるだろうになぜ三回に分けてと思われるかもしれませんが、そうはいかなかった理由があり
まして・・・縄文時代、古墳時代そして中世と異なる時代を一度には無理な話です(これは冗談)


散策日:令和5年(2023)8月17日(木)

高坂館跡 再訪

2023年07月21日 | 100名城以外の城館跡


名 称:高坂館跡(たかさか やかたあと)
別 称:高坂城跡、高坂藩陣屋跡
遺 構:土塁、堀跡
選 定:埼玉県選定重要遺跡(名称:高坂館跡 昭和51年〔1976〕10月1日選定)
所在地:東松山市高坂834ほか 
 
高坂館跡を久しぶりに訪ねてきました。前回は平成27年(2015)2月のことでしたから約8年半ぶりという
ことになります。以前と特段変ったところはないようでしたが、数年前に市の教育委員会が土塁の前に説
明版を設置したようでしたので、それを見てこようとの単純な動機でした。
境内では猛暑の中を6人程の職人さんが剪定作業をしており、邪魔をしないようにと写真は控えめに・・・


    『高坂館跡』前回訪問時の投稿



高済寺本堂




高坂館跡説明版  ※金属製のため読みづらいので下に転記します
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埼玉県選定重要遺跡  高坂館跡
高坂館跡は高坂氏の居館として南北朝時代に造られました。近年の発掘調査で、現在地の南にある高坂二番町遺
跡(現・子育て支援センターマーレ周辺)から、高坂氏が活躍した時期(十四世紀前半)のかわらけや輸入陶磁
器が出土し、当時の館の中心はもっと南にあった可能性があります。
現存する土塁や堀は、『鎌倉大日記』に伊勢宗瑞(北条早雲・明応の政変に際し明応三〈一四九四〉年に在陣)が、
『正法寺文書』に北条氏康(松山城攻めに際し永禄五〈一五六二〉年に在陣)がそれぞれ在陣したとの記述がある
や、発掘調査で土塁や堀を改修した痕跡が見つかったことから、戦国期に整備されたものと推定されます。
館というよりも”城”のような規模になっていた「高坂館跡」は、戦国期の激しい動乱を今に伝える貴重な遺跡です。
【館の規模 南北二三〇m・東西一七〇m 土塁頂部と堀底の比高差八m】
 平成三十一年三月                            東松山市教育委員会

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高済寺本堂の西側にある土塁 実際にはもっと延びていたようですが道路によって消滅しています。




土塁西側の堀跡 木が伐採されていました。右上に「加賀爪氏累代の墓」が見えます。




土塁上を北方から南方に見ています。土塁上にあった木はすべて伐採されています。たくさんの土嚢が置
かれていますが地盤が緩んでしまったのでしょうか?




土塁の北端にある「加賀爪氏累代の墓」(埼玉県指定旧跡 昭和38年〔1963〕8月27日指定)
前回の訪問時は周囲が木立になっていましたが伐採されていました。墓所の右端に建立されていた石灯篭
もなぜか地輪のみになっていますし、やはり以前は見ることのなかった土嚢が積まれているのもなぜか違
和感が。


訪問日:令和5年(2023)7月19日(水)

小倉城跡の桝形虎口は石積みの壁

2023年04月18日 | 100名城以外の城館跡


比企郡ときがわ町にある『国指定史跡 比企城館跡群 小倉城跡』の桝形虎口発掘調査の結果が発表されま
した。詳細は下記の新聞報道のとおりです。
比企城館跡群とは、菅谷館跡(嵐山町)、杉山城跡(嵐山町)、松山城跡(吉見町)と、小倉城を一括に
したもので、平成20年(2008)に国史跡に指定されました。
なお、小倉城跡の所在地はときがわ町となっていますが、国指定の史跡範囲は小川町、嵐山町を含む3町
にまたがっています。しかし、その大半はときがわ町分であり管理等も同町で行っており、ときがわ町に
ある城跡として認識されております






【小倉城跡復元想像図】 ときがわ町教育委員会生涯学習課発行パンフレット『小倉城跡』から
この復元想像図の上部③とあるところが「桝形虎口
(ますがたこぐち)

小倉城跡を攻城したのは過去2回ありますが何れもだいぶ前の事です。最近では一昨年(2021)の秋です
が、麓の大福寺まで行っただけですから行ったうちにはカウントしていません。
9年前(平成27年・2015)の4月に攻城した時の写真から桝形小口のものを載せておきます。石積みの壁
が発見になる以前のものですから何の役にもならないことは重々承知のうえで、どんな所か参考程度に。



郭1(本郭)のある場所から北側の虎口方向を


虎口


虎口から桝形虎口方向を


土塁外側から虎口方向を


桝形虎口


岩盤を削った跡  さすがにこの時は石積みは発見なっていませんが。
小倉城跡は随所に石垣や石積みが見られますが、直ぐ隣りの小川町に緑泥片岩の産出地があり、「国指定
史跡青山・下里板碑製作遺跡」もあることから、その緑泥片岩を利用した可能性も考えられるところです。

以前と比べだいぶ整備されたようでもあることから3度目の攻城をしたいところですが、山登りができる
状態では無いので・・・

比企遠宗館跡伝承地 三門館跡(埼玉県滑川町)

2021年12月21日 | 100名城以外の城館跡


写真中央の丘陵が『三門館跡』(みかどやかたあと)と言われる場所です。泉福寺から撮影

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に合わせて、比企地域9市町村(東松山市、滑川町、嵐山町、
小川町、川島町、鳩山町、吉見町、ときがわ町、東秩父村)では、この放映を契機として地域の活性化に
つなげようと、『大河ドラマ「鎌倉殿の13人」比企市町村推進協議会』を立ち上げ、さまざまな取り組み
をしています。
12月に入ってから、関係場所等に【比企一族と武蔵武士 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ゆかりの地】の幟
旗が立ったり、ポスターが貼られたりしています。
また、リーフレット「鎌倉殿を支えた 武士の故郷 比企の史跡マップ」も配布されています。
リーフレットにはアクセスMAP、比企地域の源氏・比企一族関連史跡の写真と説明文が各町村一か所(東
松山市のみ二か所)掲載されています。


 ① 小川町 仙覚律師遺跡(県指定・旧跡) ② 嵐山町 菅谷館跡  
 ③ 吉見町 岩殿山安楽寺(吉見観音)   ④ ときがわ町 慈光寺          
 ⑤ 鳩山町 笛吹峠(鎌倉街道上道)    ⑥ 川島町 金剛寺            
 ⑦ 東秩父村 浄蓮寺           ⑧ 滑川町 三門館跡           
 ⑨ 東松山市 扇谷山宗悟寺・巖殿山正法寺         

今回は、このうちの 《⑧滑川町 三門館跡》を訪ねてみました。  
リーフレットにある説明は次の通りです。

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和泉にある泉福寺より東へ200mに位置しており、源頼朝の父で義朝などに仕えた比企遠宗、比企尼の館
ではないかとする言い伝えがあります。また、『吾妻鑑(建久四年二月十日の条)』に頼朝が伊豆に流さ
れた際に、困窮した部下を毛呂太郎季綱が助けたことから、その恩に報いるためこの館の周辺とされる泉、
勝田の地を与えたともされており、毛呂氏の所領とする説もあります。現在は、館を囲っていた空堀(水
のない堀)と土塁の一部が残っています。

豆知識:頼朝の乳母である比企尼は、この地から20年間に渡り、伊豆に配流中の頼朝に米などを送り続けました。 
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幟が立っているここからも館跡に行けます。
過去2度ほど館跡の散策をしていますが、今回はここまで・・・
『三門館』 ← 過去記事




丘陵の東側の谷津入り口前の道端に新しく設置された『三門館跡」説明板
12月に設置されたばかりで、今までこうした説明板はありませんでしたが、「鎌倉殿の13人」に合
わせて設置したようです。道路向かいにも数本の幟が立っています。

※自身の認識する範囲では、この「三門館跡」が比企氏の(伝承地としているものの)館跡という
のは近年言われ始めたもので、それ以前は比企氏の「ひ」の字もなかったように思います。




【比企遠宗館跡伝承地 三門館跡】とあり、内容は上記説明文とほぼ同じで、館跡の形状が詳しく
書かれています。
館跡の範囲については専門家の間でも見解が違っています。




説明板にある「館跡の堀」の写真

散策日:令和3年(2021)12月15日(水)

足立遠元館跡(埼玉県桶川市)

2021年11月26日 | 100名城以外の城館跡


2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には埼玉県ゆかりの人物が多く登場する予定のようです。
足立遠元もその一人で、武蔵国足立郡を本拠とした地方豪族で源頼朝挙兵直後から頼朝に従い側近となり
ました。文武に優れ、武士ながら公文所寄人となり、「十三人の合議制」(鎌倉殿の13人)の一人でもあ
りました。
足立遠元の館跡と伝わる場所は、さいたま市に1か所、桶川市に3か所あるようですが、これらのうちどの
場所が真実の足立遠元の館跡なのかを決定する資料は得られておらず特定はされていません。そのうちの
一つである桶川市総合福祉センターを訪ねてみました。遺構はなく『伝足立右馬允遠元館跡』の石碑が建
つのみでありますが、地元では昔から一本杉のところが足立右馬允遠元の館跡と言い伝えられています。
かつてはこの一本杉の根元に板石塔婆6基と、足立右馬允の家紋と共に「神明宮建久三歳城主足立右馬允建
之 文化六巳歳再建 府川甚右衛門尉義重」と刻まれた石祠があったことから、ここを足立遠元館跡と推定し
ているようです。


名 称:足立遠元館跡あだちとおもとやかたあと
別 名:伝足立右馬允遠元館跡、足立氏館、足立遠元屋敷、足立館
形 態:館
時 期:平安末期
築城主:足立遠元
遺 構:-
指 定:桶川市指定旧跡(名称:伝足立右馬允遠元館跡 指定日不明)
現 状:桶川市総合福祉センター
所在地:埼玉県桶川市末広2-8-29



桶川市総合福祉センターの一角に建つ『伝足立右馬允遠元館跡』碑
揮毫は当時の桶川市長によるもののようです
「一本杉」と呼ばれた古木は、この石碑の奥の白い建物のあたりであったということです




『碑陰』 碑文は下記の通り
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遠元は源氏の家人で平治の乱に武勇と友情の誉れを挙げ 源頼朝の公文所設立には寄人に登用され
 やがて勲功十人の一人として左衛門尉に任じられた 鎌倉幕府の宿老である この碑は古くから
この地が遠元館跡と伝えられて来たが、近時人口急増し この伝えを知る人の少ないのを嘆き 当
市下日出谷出身の岸義弘氏が 当市へ贈られたものである
  昭和五十三年二月吉日
                                  桶川市教育委員会 
                                    文 田中利治
                                    書 坂巻 紀
                                    石工 本木石材店
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石碑と生垣の間が狭いため斜めから撮るのがやっと・・・

余談になりますが、石工は本木石材店とあります。同じ桶川市内に「加納城」跡がありますが、加納城は、岩槻太田氏の
支配下にあった「鴻巣七騎」と呼ばれた土豪の一人である本木氏によって築かれたと推定されるようです。同じ本木です
のでもしかしたら。更に、俳優として活躍する元シブがき隊のモッくんこと本木雅弘さんも桶川市出身ですので、やはり
もしかしたら。





桶川市総合福祉センターと石碑  日影になっていたため石碑がはっきりとは映りませんでした

散策日:令和3年(2021)11月13日(土)

安達盛長館跡(埼玉県鴻巣市)

2021年11月19日 | 100名城以外の城館跡


鎌倉幕府における「十三人合議制」の一人である安達盛長の館跡と伝わる鴻巣市糠田地内の放光寺
を再訪してきました。
安達盛長は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で鎌倉幕府の御家人で、源頼朝の流人時代から
の側近。当然、鎌倉に屋敷を構えていましたが、しかし、大蔵御所からは遠い甘縄という場所であ
りました。源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍(丹後の局)を室としました。娘・亀御前
は頼朝の弟範頼と結婚しています。他の有力御家人はそれなりの官位を受けていましたが、盛長は
無官であったとのことでもあります。

名 称:安達盛長館跡あだちもりながやかたあと
別 名:-
形 態:館
時 期:不詳
築城主:安達盛長
遺 構:-
指 定:-
所在地:埼玉県鴻巣市糠田1435 放光寺

安達盛長は、源頼朝に仕える前に糠田の地に館を構えていたと伝えられ、その場所が放光寺の辺り
ということで、放光寺のあるところとは特定はされていないようです。
ただ、「鴻巣市史」では、糠田の地は在地領主だった奴加田氏の本領としているようです。





門の左側に設置されている「木造安達藤九郎盛長坐像・糠田出土渥美壺」説明板
木造安達藤九郎盛長坐像についてのみ下に転記
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埼玉県指定有形文化財(彫刻) 平成元年3月17日指定
木造安達藤九郎盛長坐像
 ここ糠田山毘盧遮那院放光寺の開基は、源頼朝の御旗奉行を務めた安達藤九郎盛長とされ、本堂には
この盛長の坐像が安置されている。
 像の高さは77.4センチメートル。寄木造りで水晶の玉眼が入れられている。蓮西と名乗った出家後の
姿であるが、作者は不明。製作年代は南北朝時代と思われる。
 安達藤九郎盛長は治承4年(1180)源頼朝の挙兵に応じて相模の国で功を挙げ、同国を安堵(主君が
臣下に対して土地の権利や職位を保証すること)された。
 その後、盛長の所領は相模・下総・武蔵にまで及んだ。さらに建久5年(1194)には頼朝の信任をう
けて鶴岡八幡宮の奉行人となった。
 正治元年(1199)1月の頼朝の死後出家したが、その後も北条時政や大江広元等とともに、重要訴訟
の調査・裁決などに係わるなど幕府の要職にあり、三河の守護にも就いた。正治2年(1200)死去した。
                            埼玉県教育委員会  鴻巣市教育委員会
  
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上掲説明板から「木造安達藤九郎盛長坐像」の写真を




本堂




「盛長公之墓所」
昭和58年、伊豆・修善寺の安達盛長の墓から、台座などが寄贈されて、新しく設けられた墓所(供養塔)

散策日:令和3年(2021)11月17日(水)

長浜氏館(埼玉県上里町)

2020年04月03日 | 100名城以外の城館跡


名 称:長浜氏館(ながはましやかた)
別 名:浮浜城
形 態:館
時 期:平安末期
築城主:長浜三郎信光
城 主:長浜氏・笠原掃部
遺 構:土塁・空堀
指 定:-
現 状:住宅地
所在地:埼玉県児玉郡上里町長浜字城

上里町にある長浜氏館(別称:浮浜城)跡を訪ねてみました。概要については、現地に建立されて
いる長浜氏館跡碑の碑陰碑文を載せておきましたので省略します。
暫らく前までは、土塁・空堀が良好な形で遺っていたようですが、現在は、宅地造成等の影響で僅
かに遺るのみです。




長浜氏館跡の集落入口に建立されている『長浜氏館跡』碑
折角の立派な石碑なのですが、陰刻部分が白く塗られていないので、文字が読めず、石碑と気付か
ずに素通りしてしまいました。
碑の横にコンクリートで固定して置かれたポストは何か違和感を感じますが、かつては史蹟ガイド
が入っていたそうです。私がのぞいた時は埃だけ。




【長浜氏館跡碑】 碑陰碑文
  長 浜 氏 居 館 之 由 来
この地、大字長浜字城は、鎌倉時代より武威を振るった丹党の名族、長浜氏が居住した館跡と伝え
られ、浮浜城とも呼ばれています。長浜氏は新里恒房の子三郎信光を祖とし、長浜の地名をもって
家号としました。太平記によれば一族の長浜六郎左衛門光経(顕寛)は、南朝の忠臣新田義貞に仕
え、最高軍事指揮官である侍所としての重責を担い鎌倉攻略をはじめ全国各地を転戦し、建武4年
(1337)新田義顕と共に越前金ヶ崎城で討死しました。
  平成10年12月




興国寺から石碑のあるあたりまでが館跡のようで集落となっていますが、その周囲は田畑です。
まさにこの一角が浮き上がっており、浮浜城を偲ばせます。




集落の裏手に回ってみました。往時の姿は留めてはいないようですが、土塁と堀跡が遺っています。



大分低くはなっているようですが、折の部分にも土塁と堀跡が。




周囲と比べても集落のある所は一段高くなっています。左に見える赤い屋根の堂宇が興国寺。

散策日:令和元年(2019)12月6日(金)

五十子城(埼玉県本庄市)

2020年03月14日 | 100名城以外の城館跡


名 称:五十子城(いかっこじょう)
別 名:五十子陣・五十子の陣
形 態:平城(陣城)
時 期:15世紀中頃・長禄元年(1457)頃
築城主:上杉房顕
城 主:山内上杉氏
遺 構:-
遺 跡:東五十子城跡遺跡(埋蔵文化財包蔵地)
現 状:商業施設
所在地:埼玉県本庄市東五十子(旧本庄市)

五十子城(五十子陣)は、15世紀中頃に関東管領である上杉房顕が、古河公方である足利成氏との
対決に際し、武蔵国児玉郡五十子(現在の本庄市東五十子・西五十子)に築いた平城(陣)です。
本庄台地北縁部にあり、眼下の低地は利根川低地となる。台地西縁には女堀川が流れ、南縁には小
山川が流れ、3方を深さ3~5mの谷に守られた天然の要害で、文明9年(1477)年に長尾景春に攻
め落とされ、陣が解体するまで山内上杉家の拠点として活動し続けた。城郭は国道17号等の開発に
より破壊され、今は原型を止めていません。   




本郭跡の一部とされる場所に建つ「てんぐ茶屋」




てんぐ茶屋敷地内の片隅に鎮座する「稲荷神社」 
元々は五十子城の土塁の上にあったものが、現在の場所に移されたようです。




やはり本郭跡の一部で、てんぐ茶屋の東隣にある元ビジネスホテルの跡  城山館 ⇒ 二番館




【ほんじょうかるた】石碑 
 く 桑茂る 五十子合戦 古戦場




建物裏にある遊園地跡の微高地




元ビジネスホテルの東端 本郭跡の土塁跡か? 堀はかつての堀か?




本郭跡の北側を流れる「女堀川」 この橋の名は「城山橋」




「女堀川」

散策日:令和元年(2019)12月6日(金)