四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

五厘沼窯跡(埼玉県滑川町)

2017年10月31日 | 古代窯跡


名 称:五厘沼窯跡(ごりんぬまかまあと)
形 態:窯跡
時 期:古墳時代終末期(6世紀末~7世紀初頭)
指 定:県指定史跡(名称・五厘沼窯跡群で昭和55年(1980)3月29日指定)
所在地:埼玉県比企郡滑川町羽尾4532

【五厘沼窯跡】
古墳時代に造られた県内最古級の須恵器(すえき)窯跡。五厘沼と呼ばれている沼に向かって斜面に掘られた登窯です。
岩盤を幅2~2.5メートル、高さ1.5~1.7メートルくらいで長さ15メートルほど掘り、トンネルのようにして斜面なりに
上に登っています。現在砂で埋め戻して保存しています。  (滑川町ホームページ「主な文化財」から引用)




窯跡と五厘沼
路端に標柱が立っていなければ、ただの小屋として見過ごしそうです。




窯の斜角は15度くらいのようです。
覆屋の横には案内板も設置されていますが・・・




滑川町がまだ滑川村であった昭和55年(1980)3月の設置のようで、すでに37年経っています。読むには読めないことも
ないのですがだいぶ褪せていますので読むとなると一苦労するでしょう。





格子・金網越しに覗いてみましたが、砂で埋め戻されていますので窯跡の形状は確認できません。




大した変わりはありませんが別角度から・・・

雨天でしたので、傘をさしての写真撮影し始めたのですが、撮りずらいため途中からは濡れながらになりました。

散策日:平成29年(2017)10月15日(日)

石田国分寺瓦窯跡(埼玉県鳩山町)

2017年10月30日 | 古代窯跡


名 称:石田国分寺瓦窯跡(いしだこくぶんじかわらかまあと)
形 態:窯跡
時 期:8世紀中ごろ
指 定:県指定史跡(平成8年(1996)3月19日指定)
所在地:埼玉県比企郡鳩山町大字赤沼

武蔵国最大規模の古代寺院である勝呂廃寺(すぐろはいじ)創建をきっかけとして操業を開始した。石田1号窯は、その
構造から東海地方の工人が築窯(ちくよう)に関わっていたと考えられ、陶製仏殿や大型の円面硯えんめんけんなど特殊
な遺物も生産していた。8世紀中頃には、武蔵国分寺創建期の瓦を生産し、10世紀初頭には衰退したと考えられる。                           
                              (鳩山町役場ホームページ「鳩山窯跡群」より引用)




時期の異なる二つの窯跡がわずかに離れた場所に並んでいます




これで地形が分るかと思いますが・・・




この複数の説明板が立って入るすぐその先に窯跡があったようです




並んでいる案内板・説明板




位置関係がよくわかる案内図板です




石田国分寺瓦窯跡説明板その①です




石田国分寺瓦窯跡説明板その②です




石田1号窯跡




石田1号窯跡の説明板

赤沼古代瓦窯跡は埋め戻しをせずに覆屋で保護され、一応窯跡を見ることができますが、こちら石田国分寺瓦窯跡は発掘
調査後にすべて埋め戻されており、このあたりにあったということくらいしかのみしかわかりませんでした。かといって
発掘したままの状態で置くわけにはいきませんので、埋め戻して保存して置かなければなりませんので仕方ないことです。

散策日:平成29年(2017)10月11日(水)・17日(火)

赤沼古代瓦窯跡(埼玉県鳩山町)

2017年10月29日 | 古代窯跡


名 称:赤沼古代瓦窯跡(あかぬまこだいかわらかまあと)
形 態:窯跡
時 期:飛鳥時代
指 定:県指定史跡(昭和25年(1950)3月30日指定)
所在地:埼玉県比企郡鳩山町大字赤沼字水穴前

鳩山町農村公園内にある赤沼古代瓦窯跡を訪ねてみました。農村公園内とは言え、芝生広場や浸水施設といった中心部
からは300mほど離れた場所の斜面を利用した場所にあります。




農村公園の施設がある方向から  右手の斜面に窯跡が見えてきました




道路から少し上がった斜面にあります




逆方向から少し離れて




窯跡は覆屋で保護されています




施錠されていますので覆屋の中には入れませんが、金網の貼られた窓からのぞくことはできます




窓上に貼られた手書きの史蹟の標札 赤沼の「赤」は「阿伽」とも




説明板  足場が不安定なため正対して撮れませんでしたが何とか読めると思います




こちらは覆屋に張られた復元図ですが見上げるような形で撮ったものですから




金網越しに撮った窯跡

ここから約200m先に時代の異なる「石田国分寺窯跡」がありますが、これについては別に投稿します。

散策日:平成29年(2017)10月11日(水)・17日(火)

亀の原窯跡群(埼玉県ときがわ町)

2017年10月28日 | 古代窯跡


名 称:亀の原窯跡群(かめのはらかまあとぐん)
形 態:窯跡
時 期:平安時代前半
指 定:県指定史跡(平成13年(2001)3月16日指定)
所在地:埼玉県比企郡ときがわ町大字玉川字日野原(旧玉川村)

平安時代前半に須惠器と瓦を焼いた窯跡群。武蔵国分寺や熊谷市寺内廃寺に瓦を供給していました。




県道172号線ときがわ町玉川と嵐山町鎌形との境に立っている「県指定史跡 亀の原窯跡群」の標識




標識の先にある道路を少し歩くと再び標識 標識左側の未舗装の山際の道を歩いて




小高い山と山(丘程度か)に囲まれた耕地




しばらく歩くと案内板が見えました  (写真撮影のため反対側の舗装道路に移動しました)




案内板のある周りが窯跡群のようです




案内板




説明文の部分をアップで




亀の原窯跡群地形測量図の部分をアップで  このあたりが窯跡7基からなるB群




この削平地は作業城跡のようです




同上




この写真では亀の原窯跡群は収まり切れません 
この写真の左方に窯跡2基からなるA群がありますがいずれも今はその姿を見ることはできません

散策日:平成29年年(2017)10月11日(水)

歴史講座「武蔵の鎌倉御家人」第3回

2017年10月27日 | 講演会・講座


埼玉県立嵐山史跡の博物館主催
平成29年度歴史講座「武蔵の鎌倉御家人」3 
    『武蔵武士児玉党の本拠』-発掘調査と歴史的環境の視点から―
       講師:恋河内昭彦氏(本庄市教育委員会 文化財保護課)
日時:10月27日(金)13:45~15:30、
会場:国立女性教育会館 講堂

を受講してきました。
  
武蔵七党のひとつ児玉党の本拠とそれにかかわる史跡の発掘調査についてお話をいただきました。今年初頭に
小代氏館や越生氏館などを散策しておりましたので、それに関係するお話でしたので、またひとつ知識が増え
たのではないかと自負しています。

この歴史講座「武蔵の鎌倉御家人」は、あと1回(最終回)開講されますのでこれも受講予定でいます。 

会場の女性教育会館講堂前の並木も色づき始めています。




会場の女性教育会館講堂




今回の資料  A3サイズ6枚本文11ページにわたるものです

開講日:平成29年(2017)10月27日(金)

十郎横穴墓群(埼玉県鳩山町)

2017年10月25日 | 古墳


名 称:十郎横穴墓群(じゅうろうよこあなぼぐん)
形 態:古墳(横穴墓)
時 期:古墳時代後期
指 定:町指定史跡(昭和54年(1979)4月25日指定)
所在地:埼玉県比企郡鳩山町大字石坂字重郎

比企地区には多くの横穴墓群が存在するようです。その中のひとつである鳩山町の十郎横穴墓群を訪ねてみました。




十郎横穴墓群へのルートは複数あるようですが、白山神社からのルートを選びました。神社は山の上にあるようでし
たので、まず上り口を探さねばなりません。車1台がやっとの坂道を少し登った右手に白山神社はありました。着い
てしまえば、何だここだったのかと思えるも、それは結果論で、着くまでは果たして行けるのかと不安でした。




白山神社社殿




今回の目的はここではないのですが・・・




ここまで来たからにはお参りをして無事に目的地につけますようにと。




十郎横穴墓群へ行くには、幟立ての手前左側に斜面を下る階段がありますので、ここを降りていきます。




手すりの付いた石階段をいくつか下りていきます。




十郎横穴墓群の標識が見えました。その右上に横穴が見えます。




三基の横穴墓が並んでいます。




横穴墓群前に設置された案内板 判読しにくいようなので下記に転記します

鳩山町指定史跡 十郎横穴墓群
 指定 昭和54年4月25日
 所在 大字石坂字重郎
 時代 古墳時代後期
横穴墓とは、国指定史跡吉見百穴(吉見町)に代表される古墳時代後期の墓制の一つです。
十郎横穴墓群は、越辺川にのぞむ丘陵の南向斜面に位置し、凝灰岩質砂岩層を掘りぬいて構築されたもので、現在、
三基が開口しています。平成2年の現況測量調査の結果、他にかなりの横穴墓が埋没しているものと思われます。
比企地方には、この他に黒岩横穴墓群(吉見町)、天神山横穴墓群(滑川町)、尾根横穴墓群(嵐山町)、比丘尼
山横穴墓群(東松山市)があります。
                             平成4年3月     鳩山町教育委員会




左:2号墓  右:1号墓 




1号墓




2号墓




3号墓  崩落していました




左から3号墓(笹で隠れている) 2号墓  3号墓




横から見るとこんな感じです

探索の起点とする白山神社へのルートを探すための目標としたのが石坂集会所でした。そこで自身の記憶にある集会所が
てっきり石坂集会所だとばかり思いこんで行ってみたところ全く別の名の集会場でした。よく調べることより、いい加減
な記憶を優先してしまったおかげで無駄な距離と時間を費やしてしまいました・・・はい、いつものことですが。

散策日:平成29年(2017)10月11日(水)

滝之城横穴墓群(埼玉県所沢市)

2017年10月24日 | 古墳


名 称:滝之城横穴墓群(たきのじょうおうけつぼぐん)
形 態:古墳(横穴墓)
指 定:市指定史跡(昭和51年(1976)年4月1日指定)
    県選定重要遺跡(昭和51年(1976)10月1日 名称:滝之城横穴群で選定)
所在地:埼玉県所沢市城字本村

滝の城跡は3度ほど城攻めに行っています。改めて行ってきたわけではありませんが、今回は、空堀や郭跡といった
城跡ではなく、本丸跡の下のほうに埋もれている滝之城横穴墓群について記録しておきたいと思います。



滝の城跡散策道案内板にも横穴墓群が発見された場所が書き込まれています




当該部分をアップしてみました  城山神社(本丸跡)参道の階段の横のほうのようです




本丸跡に鎮座する城山神社




城山神社境内に「滝の城横穴墓群」の説明版が設置されています 




横穴墓群が発見されたのはこの参道の鳥居の先の少し行った右のほうのようです




この写真の右下あたりではないかと思います。
今は埋め戻されていますので見ることはできませんが、このあたりに横穴墓群があるのだということだけを記憶に
とどめておきたいと思います。

使用した写真:平成22年(2010)1月31日・平成26年(2014)3月24日撮影のもの

玉川陣屋跡(埼玉県ときがわ町)

2017年10月23日 | 100名城以外の城館跡


名 称:玉川陣屋跡(たまがわじんやあと)
別 名:―
形 態:陣屋
遺 構:?
指 定:町指定史跡
所在地:埼玉県比企郡ときがわ町大字玉川 2776-1根際集落センター付近(旧玉川村)
 
玉川陣屋跡
文禄年間(1592~1596)ころに、徳川家康が関東支配のため、大久保長安によって設置された小陣屋です。宝永7年
(1710)に廃止されるまで周辺50箇村あまりを支配したと言われています。県道のバイパス工事などに伴う発掘調
査により陣屋表門をはじめとするたくさんの建物跡が発見され、古文書により推定されていたこの場所が玉川陣屋跡
であることが証明されました。(埼玉県立嵐山史跡の博物館発行 改訂 歩いて廻る「比企の中世・再発見」より引用)

発掘された建物跡は埋め戻され、遺構もないようですが、石碑が建てられているとのことで訪ねてみました。




県道171号線沿いに建立されている玉川陣屋跡石碑 写真中央部




同上




根際集落センターの道路を挟んだ斜め向かいに石碑はありますので、根際集落センターを目標にするとよいでしょう。




道路向かい側から




石碑  碑文はちょっと読めませんね




石碑裏面には玉川陣屋見取図が刻まれています。
その下に 昭和47年9月 の文字が刻まれておりますが、石碑の建立年月でしょう。



玉川陣屋跡見取図を見易くするため(?)加筆してみました(黒線と黄文字)




道向かいにある堀と土盛 遺構ではないと思いますが・・・

散策日:平成29年(2017)10月11日(水)

吉田家住宅(埼玉県小川町)

2017年10月22日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:吉田家家住宅(よしだけじゅうたく)
形 態:民家(農家)
建 立:享保6年(1721)江戸時代中期
指 定:国指定重要文化財(平成元年(1989)5月19日指定)
所有者:個人
所在地:埼玉県比企郡小川町大字勝呂424

吉田家住宅は、享保6(1721)年に建築された実年代のわかる県内最古の民家です(年号のわかっている中では)
昭和59年(1984)の調査の時、柱に貼りつけてあった棟札が見つかり、「享保六丑歳霜月吉祥日」と記されてい
たことから、この民家を建設した時の祈祷札であることがわかりました。平成元年(1988)に国の重要文化財建
造物に指定されました

建物の構造や概要については吉田家住宅や町ののホームページに詳細が載っていますので省きますが、この吉田
家住宅には数度お邪魔しております。
ここに掲載した写真は初めて訪問した時のもので、冒頭の写真に挿入したパンフレットはその際に頂いたもので
す。
当時から軽い食事が摂れましたし、いろいろなイベントも行われていました。

写真の説明はしません。見ての通りですので説明の要もないようなので(本当は手抜き)



















おまけ ↓



ここを訪問した約ひと月前の3月21日(土)放送のテレビ番組「出没!アド街ック天国」で【嵐山小川】が紹介さ
れました。そのベスト20の中にこの吉田家住宅が第17位でランクインしていました。これはその時の画像です。
当時はまだアナログ放送のころで、テレビ画面を直接写したものですから、こんな写真になってしまいました。

訪問・撮影日:平成21年(2009)4月26日(日)

実は、つい最近久しぶりにこの吉田家住宅に行ってきました。中ではお客さん(見学客)が囲炉裏を囲んでいまし
たので遠慮して中には入らず、外からの写真を何枚か撮って来ただけですが後日アップしたいと思います。
ちょっとだけ変化がありましたので・・・

旧新井家住宅(埼玉県長瀞町)

2017年10月21日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:旧新井家住宅
形 態:民家(養蚕農家)
建 立:江戸時代中期(推定)
指 定:国指定重要文化財(昭和46年(1971)6月22日)
所有者:長瀞町
所在地:埼玉県秩父郡長瀞町大字長瀞1164

岩畳の名勝地長瀞。長瀞駅から宝登山神社へ向かい、宝登山神社少し手前の左側の方に、長瀞町郷土資料館と併設された
国指定重要文化財旧新井家住宅があります。
太い柱や梁は、格式高い昔の旧家ならではの建物です。
旧持ち主より長瀞町に寄贈され、昭和50年(1975)3月、元の場所同町中野上からここに移築され、町が所有管理してい
ます。




旧新井家住宅




旧新井家住宅の説明板




旧新井家住宅表側の全景




住宅表側




住宅表側




屋根  下地となる竹の上に長方形の薄い栗板を重ね、この上に石をのせて板を押さえています。




ざしき  写真下の一段下がったところが あがりえん




でえ(出居) 高い身分の人を招いたり、親戚や知人を呼ぶときに使用
左にあるのが畳の敷かれた おくのでえ
右の板戸の先の部屋は ざしき 日常の生活の場




でえどこ(台所)



うまや出入口




住宅裏側と竹林




併設の「長瀞町郷土資料館」内に展示されている新井家住宅の模型




新井家住宅裏の竹林

訪問日:平成25年(2013)6月9日(日)