創 始
松本城は戦国時代の永正年代はじめに造られた深志城が始まりです。戦国時代になり世の中が乱れてくると、信濃府中といわれた松本平中心の井川に
館を構えていた信濃の守護小笠原氏が、館を東の山麓の林地区に移すと、その家臣らは、林城を取り囲むように、支城を構えて守りを固めました。
深志城もこの頃林城の前面を固めるために造られたのです。その後甲斐の武田信玄が小笠原長時を追い、この地を占領し信濃支配の拠点としました。
その後、天正10年(1582)に小笠原貞慶が、本能寺の変による動乱の虚に乗じて深志城を回復し、名前を「松本城」と改めました。
天守築造
豊臣秀吉は天正18年(1590)に小田原城に北条氏直を下し天下を統一すると、徳川家康を関東に移封しました。この時松本城の小笠原氏は家康に
従って下総へ移ると、秀吉は石川数正を松本城に封じました。数正・康長父子は、城と城下町の経営に力を尽くし、康長の代には天守三棟(天守・
乾小天守・渡櫓)をはじめ、御殿・太鼓門・黒門・櫓・塀などを造り、本丸・二の丸を固め、三の丸に武士を集めました。また城下町の整備をすすめ、
近世城郭としての松本城の基礎を固めました。天守の築造年代は、康長の文禄2年から3年(1593~4)と考えられています。
(松本城管理事務所発行 国宝松本城パンフレットより引用)
現存天守12城のひとつで国宝でもある「松本城」を初めて訪ねたのは4年前の9月でした。
この時は、休日であったこともあり、天守を目指す人は長蛇の列でした。そのうえ着いた時間が遅かったこともあり、何時間も列に並んでと
いう余裕はありませんでしたから、濠の外から松本城天守群の姿を見るにとどまってしまいました。天守に上がってこそ現存12天守制覇に
という思いからいつの日にかはと考えていたましたが、今回、あることでその機会を得ましたので再攻城してきました。
ただ、今回も十分な時間が取れませんでしたので、ゆっくりとはいきませんでしたが。
黒門(復興)
松本城の正門にあたります
本丸跡から見た天守群
左から 月見櫓(手前)、辰巳附櫓(奥)、天守、渡櫓、乾小天守
乾小天守の丸太柱
]
大天守1階
天守2階鉄砲蔵
2階鉄砲蔵には火縄銃と関連資料が展示されています
武者窓
天守4階 御座の間
いざというときは、城主がいるところ(御座所)になる
天守からみた本丸跡
天守5階から6階(最上階)への階段
天守6階天井
井桁梁でがっちり組まれています
中央に祀られているのは「二十六夜神」
「二十六夜神」の謂れ
天守6階から見た「埋の橋」
老朽化したので修繕中のためここからは本丸に入れず
月見櫓内部
ここも修理中でした
攻城日:2013年(平成25年)10月9日(水)