四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

「松本城」再攻城(長野県松本市)

2013年10月11日 | 現存12天守


創 始
松本城は戦国時代の永正年代はじめに造られた深志城が始まりです。戦国時代になり世の中が乱れてくると、信濃府中といわれた松本平中心の井川に
館を構えていた信濃の守護小笠原氏が、館を東の山麓の林地区に移すと、その家臣らは、林城を取り囲むように、支城を構えて守りを固めました。
深志城もこの頃林城の前面を固めるために造られたのです。その後甲斐の武田信玄が小笠原長時を追い、この地を占領し信濃支配の拠点としました。
その後、天正10年(1582)に小笠原貞慶が、本能寺の変による動乱の虚に乗じて深志城を回復し、名前を「松本城」と改めました。

天守築造
豊臣秀吉は天正18年(1590)に小田原城に北条氏直を下し天下を統一すると、徳川家康を関東に移封しました。この時松本城の小笠原氏は家康に
従って下総へ移ると、秀吉は石川数正を松本城に封じました。数正・康長父子は、城と城下町の経営に力を尽くし、康長の代には天守三棟(天守・
乾小天守・渡櫓)をはじめ、御殿・太鼓門・黒門・櫓・塀などを造り、本丸・二の丸を固め、三の丸に武士を集めました。また城下町の整備をすすめ、
近世城郭としての松本城の基礎を固めました。天守の築造年代は、康長の文禄2年から3年(1593~4)と考えられています。
  (松本城管理事務所発行 国宝松本城パンフレットより引用)




現存天守12城のひとつで国宝でもある「松本城」を初めて訪ねたのは4年前の9月でした。
この時は、休日であったこともあり、天守を目指す人は長蛇の列でした。そのうえ着いた時間が遅かったこともあり、何時間も列に並んでと
いう余裕はありませんでしたから、濠の外から松本城天守群の姿を見るにとどまってしまいました。天守に上がってこそ現存12天守制覇に
という思いからいつの日にかはと考えていたましたが、今回、あることでその機会を得ましたので再攻城してきました。
ただ、今回も十分な時間が取れませんでしたので、ゆっくりとはいきませんでしたが。  




黒門(復興)
松本城の正門にあたります




本丸跡から見た天守群
左から 月見櫓(手前)、辰巳附櫓(奥)、天守、渡櫓、乾小天守




乾小天守の丸太柱


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大天守1階




天守2階鉄砲蔵
2階鉄砲蔵には火縄銃と関連資料が展示されています




武者窓




天守4階 御座の間
いざというときは、城主がいるところ(御座所)になる




天守からみた本丸跡




天守5階から6階(最上階)への階段




天守6階天井
井桁梁でがっちり組まれています
中央に祀られているのは「二十六夜神」




「二十六夜神」の謂れ




天守6階から見た「埋の橋」
老朽化したので修繕中のためここからは本丸に入れず




月見櫓内部
ここも修理中でした  
 
攻城日:2013年(平成25年)10月9日(水)           

「上田城」再々訪(長野県上田市)

2013年10月10日 | 日本100名城
■ 国指定史跡 上田城跡



長野県上田市の「上田城」を再々訪してきました。再々訪と言っても2度目の時は、100名城のスタンプを押すために寄ったという程度でしたし、
今回は、ツアーでの訪城でしたので十分な散策とはいきませんでした。ツアーですので、本来なら皆さんと一緒に観光ガイドの方の後をついて行って
説明を聞きながらと言うことになります。しかし、個人的に観たいところがあったものですから、特別にお願いして途中から別行動を取らせていただきました。




二の丸堀跡  かつては電車の線路として使われましたが、現在は遊歩道となっています




上田城 南櫓・北櫓・東虎口櫓門




東虎口櫓門




真田石   東虎口櫓門右手の石垣にある高さ約2.5m・幅約3mの大石
真田信之(信幸)が松代城移封にあたり父・真田昌幸の形見として持っていこうとしたところ、微動だにしなかったという言い伝えが残る




本丸堀




東虎口櫓門を内側(本丸側)から




北櫓




南櫓・北櫓・櫓門内部見学のため南櫓の石段を上って
別行動を取らせていただいた理由はここにありました
市立博物館等も観覧できる共通券でしたが時間の関係でここのみのけんがくとなりました




南櫓内




東虎口櫓門窓から




真田氏が上田城に居城したのは僅か40年で、仙石氏・松平氏の居城年数より遥かに少ないにも拘らず、上田城と言えば真田氏の代名詞
しかも、真田氏が築いた城は破壊され、今あるのは仙石氏が築いたもの・・・それでもやっぱり上田城は真田氏の城として通っています




北櫓




石落とし




真田神社




真田井戸




西櫓




西櫓を別角度から

と言うことで、今回は郭跡の散策はできませんでした。

攻城日:2013年(平成25年)10月9日(水)          

「小諸城」再び(長野県小諸市)

2013年10月09日 | 日本100名城


三の門

小諸城の起りは、平安時代から鎌倉時代にかけて「源平盛衰記」や「平家物語」に登場する小室太郎光兼(木曽義仲の武将)が、現城址の東側に館を築いた。
またその後、大井光忠が小室氏の勢力をおさえて鍋蓋城を築きその子光為がさらに出城として乙女城、別名白鶴城(二の丸跡)を構えたが、武田信玄の攻略により落城。
信玄はこの地が重要であることから山本勘助と馬場信房に命じて築城した。”酔月城”ともいわれている。

その後、織田信長の将滝川一益、徳川家康の将松平源十郎康国が城主になった。さらにその後、仙石秀久が城主となって二の丸・黒門・大手門を建て、その子忠政が
三の門・足柄門を建て現在の小諸城が完成した。その後、城主は徳川・松平氏など六氏に変り、元禄15年(1702年)、牧野氏が入り十代続いた。
この城の特徴は、全国的にも珍しい城下町より低い穴城で、浅間山の火山灰でできているため、水を用いず、崩れやすい断崖が堅固な要塞となっている。
明治4年(1871年)の廃藩置県で役割を終え、明治13年(1880年)に神社を祀り、懐古園と呼ぶようになった。
現在は小諸公園として小諸市が管理運営をしている。            (懐古園パンフレットから引用転記)

今回が2度目となった小諸城の攻城(見学)。とは言え、ツアーでの見学でしたから時間に制限がありましたので、前回、見て来ようと向かったものの途中で引き返してしまった
「大手門」(小諸城址=懐古園とは別の場所に移築されている)を是非とも見ておきたかったものですから、前回見た城跡よりも重きを置いて・・・




二の丸跡




北の丸跡




南丸跡




黒門橋




紅葉谷(空堀)




お駕籠台跡




本丸跡




本殿




庭園




山本勘助の鏡石




石垣




天守台石垣




馬場跡




水の手展望台からの千曲川




中仕切門跡




番所跡




大手門




大手門の説明板




大手門を内側から

攻城日:2013年10月9日(水)