■ 国指定史跡 鉢形城跡
国指定史跡 鉢形城跡
指定 昭和7年4月19日
所在 寄居町大字鉢形地内
鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となりました。指定面積は約24万㎡です。
城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。
鉢形城は、文明8年(1476)関東管領(かんとうかんれい)であった山内(やまのうち)上杉氏の家臣長尾景春(ながおかげはる)が築城したと伝えられています。
後に、この地域の豪族藤田泰邦(ふじたやすくに)に入婿した、小田原の北条氏康(ほうじょううじやす)の四男氏邦(うじくに)が整備拡充し、現在の大きさとなりました。
関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐(かい)・信濃(しなの)からの侵攻への備えとして重要な役割を担いました。
また、鉢形城跡の周辺には、殿原小路や鍛冶小路などの小路名が伝わっており、小規模ながら初期的な城下町が形成されていたことが窺えます。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開しました。
1ヶ月余りにおよぶ籠城(ろうじょう)の後に、北条氏邦は6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しました。
開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一(なるせまさかず)・日下部定(くさかべさだよし)が代官となり、この地を統治しました。【現地の案内板「史跡鉢形城跡」から引用】
一応、案内板にある「鉢形城跡曲輪配置図」を頭の中に入れて城攻め開始です。しかし、予定通りにいかないのはいつものことで、場所の特定ができなかったり見落としだらけでした。
攻めた順ではありませんが何枚かの写真を・・・青空の下の城跡を撮りたかったのですが、残念ながら曇天でしたので・・・
荒川に架かる正喜橋のたもとに建てられた「史跡 鉢形城祉」碑
搦手にある「笹曲輪跡」
「石垣」
「本曲輪(伝御殿曲輪)跡の土塁」
道路を挟んだ反対側に「本曲輪(伝御殿下曲輪)跡」があるが、現在は、人材シルバーセンターとなっています。
「伝御殿曲輪跡」(本曲輪跡)
「鉢形城本丸祉」碑
本丸碑の後方は土塁となっており、土塁の先は断崖絶壁
本丸土塁から寄居市街を望む。すぐ下は荒川の玉淀河原。ここで寄居北條まつりの合戦が行われます。
「二の曲輪跡」
1枚目は手前が、2枚目は右側が、3枚目は柵の向こう側が二の曲輪跡です
「二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀」1
左側が二の曲輪 右側が三の曲輪
「二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀」2手前が二の曲輪
「二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀」3
左側が二の曲輪 右側が三の曲輪
「二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀」4
左側が二の曲輪(伝秩父曲輪) 堀底に「畝」が見えます
「木橋と堀」
「三の曲輪跡」と「四脚門」(復元)
三の曲輪の「井戸跡」
伝秩父曲輪の庭園(復元) 池は枯れていました
「石組排水溝跡」
「石積土塁」 ちょっときれいに復元しすぎの声もかすかに・・・
「虎口」 諏訪曲輪(諏訪神社)に通ずる
石積土塁の後ろの部分には「櫓」が建てられていた可能性があるとのこと
「伝諏訪曲輪跡」(諏訪神社)
「大手」 諏訪神社の鳥居を出たあたりが大手であったと推測されている
「伝逸見曲跡」と「堀」
「馬出」 この後方を深沢川が流れています
「深沢川」
「外曲輪」と「土塁」
このあたりが外曲輪と搦手の間にある「馬出」と思うのですが、全く自信ありません。この場所(右側)には「鉢形城三鱗会」の建物があります。
「鉢形城歴史館」
何せ広大な城跡ですから、全部攻め歩くことはできませんでしたし、見落としや写真の撮りはぐれも多々ありましたが、一応は攻め終わりました。
外曲輪内に設けられている「鉢形城歴史館」において、「越相同盟と北条氏邦 関東三国志」なる特別展が開催されておりましたので、城攻めの疲れどりを兼ねて入館してみました。
常設展示、特別展示とも撮影禁止ですので、写真はありません。
攻城日 2014年(平成26年)11月20日(木)
国指定史跡 鉢形城跡
指定 昭和7年4月19日
所在 寄居町大字鉢形地内
鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となりました。指定面積は約24万㎡です。
城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。
鉢形城は、文明8年(1476)関東管領(かんとうかんれい)であった山内(やまのうち)上杉氏の家臣長尾景春(ながおかげはる)が築城したと伝えられています。
後に、この地域の豪族藤田泰邦(ふじたやすくに)に入婿した、小田原の北条氏康(ほうじょううじやす)の四男氏邦(うじくに)が整備拡充し、現在の大きさとなりました。
関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐(かい)・信濃(しなの)からの侵攻への備えとして重要な役割を担いました。
また、鉢形城跡の周辺には、殿原小路や鍛冶小路などの小路名が伝わっており、小規模ながら初期的な城下町が形成されていたことが窺えます。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開しました。
1ヶ月余りにおよぶ籠城(ろうじょう)の後に、北条氏邦は6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しました。
開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一(なるせまさかず)・日下部定(くさかべさだよし)が代官となり、この地を統治しました。【現地の案内板「史跡鉢形城跡」から引用】
一応、案内板にある「鉢形城跡曲輪配置図」を頭の中に入れて城攻め開始です。しかし、予定通りにいかないのはいつものことで、場所の特定ができなかったり見落としだらけでした。
攻めた順ではありませんが何枚かの写真を・・・青空の下の城跡を撮りたかったのですが、残念ながら曇天でしたので・・・
荒川に架かる正喜橋のたもとに建てられた「史跡 鉢形城祉」碑
搦手にある「笹曲輪跡」
「石垣」
「本曲輪(伝御殿曲輪)跡の土塁」
道路を挟んだ反対側に「本曲輪(伝御殿下曲輪)跡」があるが、現在は、人材シルバーセンターとなっています。
「伝御殿曲輪跡」(本曲輪跡)
「鉢形城本丸祉」碑
本丸碑の後方は土塁となっており、土塁の先は断崖絶壁
本丸土塁から寄居市街を望む。すぐ下は荒川の玉淀河原。ここで寄居北條まつりの合戦が行われます。
「二の曲輪跡」
1枚目は手前が、2枚目は右側が、3枚目は柵の向こう側が二の曲輪跡です
「二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀」1
左側が二の曲輪 右側が三の曲輪
「二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀」2手前が二の曲輪
「二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀」3
左側が二の曲輪 右側が三の曲輪
「二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀」4
左側が二の曲輪(伝秩父曲輪) 堀底に「畝」が見えます
「木橋と堀」
「三の曲輪跡」と「四脚門」(復元)
三の曲輪の「井戸跡」
伝秩父曲輪の庭園(復元) 池は枯れていました
「石組排水溝跡」
「石積土塁」 ちょっときれいに復元しすぎの声もかすかに・・・
「虎口」 諏訪曲輪(諏訪神社)に通ずる
石積土塁の後ろの部分には「櫓」が建てられていた可能性があるとのこと
「伝諏訪曲輪跡」(諏訪神社)
「大手」 諏訪神社の鳥居を出たあたりが大手であったと推測されている
「伝逸見曲跡」と「堀」
「馬出」 この後方を深沢川が流れています
「深沢川」
「外曲輪」と「土塁」
このあたりが外曲輪と搦手の間にある「馬出」と思うのですが、全く自信ありません。この場所(右側)には「鉢形城三鱗会」の建物があります。
「鉢形城歴史館」
何せ広大な城跡ですから、全部攻め歩くことはできませんでしたし、見落としや写真の撮りはぐれも多々ありましたが、一応は攻め終わりました。
外曲輪内に設けられている「鉢形城歴史館」において、「越相同盟と北条氏邦 関東三国志」なる特別展が開催されておりましたので、城攻めの疲れどりを兼ねて入館してみました。
常設展示、特別展示とも撮影禁止ですので、写真はありません。
攻城日 2014年(平成26年)11月20日(木)