四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

鉢形城(埼玉県寄居町)

2014年11月21日 | 日本100名城
■ 国指定史跡 鉢形城跡



国指定史跡 鉢形城跡
指定 昭和7年4月19日       
所在 寄居町大字鉢形地内

鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となりました。指定面積は約24万㎡です。
城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。
鉢形城は、文明8年(1476)関東管領(かんとうかんれい)であった山内(やまのうち)上杉氏の家臣長尾景春(ながおかげはる)が築城したと伝えられています。
後に、この地域の豪族藤田泰邦(ふじたやすくに)に入婿した、小田原の北条氏康(ほうじょううじやす)の四男氏邦(うじくに)が整備拡充し、現在の大きさとなりました。
関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐(かい)・信濃(しなの)からの侵攻への備えとして重要な役割を担いました。
また、鉢形城跡の周辺には、殿原小路や鍛冶小路などの小路名が伝わっており、小規模ながら初期的な城下町が形成されていたことが窺えます。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開しました。
1ヶ月余りにおよぶ籠城(ろうじょう)の後に、北条氏邦は6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しました。
開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一(なるせまさかず)・日下部定(くさかべさだよし)が代官となり、この地を統治しました。【現地の案内板「史跡鉢形城跡」から引用】




一応、案内板にある「鉢形城跡曲輪配置図」を頭の中に入れて城攻め開始です。しかし、予定通りにいかないのはいつものことで、場所の特定ができなかったり見落としだらけでした。
攻めた順ではありませんが何枚かの写真を・・・青空の下の城跡を撮りたかったのですが、残念ながら曇天でしたので・・・




荒川に架かる正喜橋のたもとに建てられた「史跡 鉢形城祉」碑




搦手にある「笹曲輪跡」




「石垣」






「本曲輪(伝御殿曲輪)跡の土塁」
道路を挟んだ反対側に「本曲輪(伝御殿下曲輪)跡」があるが、現在は、人材シルバーセンターとなっています。






「伝御殿曲輪跡」(本曲輪跡)




「鉢形城本丸祉」碑
本丸碑の後方は土塁となっており、土塁の先は断崖絶壁




本丸土塁から寄居市街を望む。すぐ下は荒川の玉淀河原。ここで寄居北條まつりの合戦が行われます。








「二の曲輪跡」
1枚目は手前が、2枚目は右側が、3枚目は柵の向こう側が二の曲輪跡です




「二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀」1
左側が二の曲輪 右側が三の曲輪




「二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀」2手前が二の曲輪 




「二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀」3
左側が二の曲輪 右側が三の曲輪




「二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀」4
左側が二の曲輪(伝秩父曲輪) 堀底に「畝」が見えます






「木橋と堀」








「三の曲輪跡」と「四脚門」(復元)




三の曲輪の「井戸跡」






伝秩父曲輪の庭園(復元)  池は枯れていました




「石組排水溝跡」






「石積土塁」  ちょっときれいに復元しすぎの声もかすかに・・・






「虎口」 諏訪曲輪(諏訪神社)に通ずる
石積土塁の後ろの部分には「櫓」が建てられていた可能性があるとのこと




「伝諏訪曲輪跡」(諏訪神社)




「大手」  諏訪神社の鳥居を出たあたりが大手であったと推測されている






「伝逸見曲跡」と「堀」




「馬出」 この後方を深沢川が流れています




「深沢川」






「外曲輪」と「土塁」




このあたりが外曲輪と搦手の間にある「馬出」と思うのですが、全く自信ありません。この場所(右側)には「鉢形城三鱗会」の建物があります。




「鉢形城歴史館」






何せ広大な城跡ですから、全部攻め歩くことはできませんでしたし、見落としや写真の撮りはぐれも多々ありましたが、一応は攻め終わりました。

外曲輪内に設けられている「鉢形城歴史館」において、「越相同盟と北条氏邦 関東三国志」なる特別展が開催されておりましたので、城攻めの疲れどりを兼ねて入館してみました。
常設展示、特別展示とも撮影禁止ですので、写真はありません。

攻城日 2014年(平成26年)11月20日(木)            

山中城(静岡県三島市)

2014年11月15日 | 日本100名城
■ 国指定史跡 山中城跡



山中城は、戦国時代末期の永禄年間(1560年代)に、小田原に本城をおいた後北条氏が築城しました。
その後天正17年豊臣秀吉と不仲となった北条氏政は、秀吉の小田原攻めに備え、急遽、堀や岱崎出丸等の整備、増築を行いました。
しかし翌天正18年(1590年)3月29日、増築が未完成のまま、4万の豊臣軍の総攻撃を受けました。北条軍は4千で、必死の
防戦もかいなく鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。このときの城主松田康長、副将間宮康俊、豊臣方の
一柳直末等武将の墓が三ノ丸にある宗閑寺境内にあります。400年前の遺構がそのまま復元されている山城は全国的にも非常に珍しい
ものです。堀や土塁が良く残っており、尾根を区切る曲輪の造成法。架橋や土橋の配置など箱根山の自然をとり入れた山城の作り方など、
目を見張るものがあります。昭和9年(1934年)国の史跡として指定されています。 【 三島市観光協会のパンフレット「山中城跡」から引用 】




日本100名城にも選定されている静岡県三島市の「山中城跡」を攻めてみることにしました。正直、体力的に山城を攻めるのは非常に
きつい状況にありましたが、後北条の縄張りは素晴らしいし、障子堀、畝堀は是非とも見ておきたかったものですから。三島大社がある
ことからでしょうか、社の形をしたJR三島駅前からバスに乗って約30分、バス停「山中城跡」で下車。




車中、雪をかぶった富士山が見え隠れしていましたが、初めての道ゆえ、どこで見えるかわからず、見えたときに慌ててカメラを向けるわけ
ですから、すでに遅しです。どうにか1、2枚撮れましたが、何せ走行中のバス、しかも窓ガラス越しですから綺麗にとはいきませんでした。








ここから城攻めを開始するわけですが、駐車場に駐車車両あれど城攻めの方ではありませんでした。山中城跡案内所・売店は月曜日で休業の日。
100名城スタンプについては、予め三島市の観光協会さんに問い合わせをし、営業時間外でも押印できるように外に設置してあるとの回答をいただいておりました。
城攻めで疲れてしまい忘れてはいけないので、城攻め開始前に押印(スタンプが劣化していましたが)。売店裏の登城口から城攻めに入りました。




登城を始めてすぐに山中城跡の案内板がありました。更に進むとまた案内板が。この間、さほどの距離はありませんでした。
帰宅後撮った写真を見比べたら、設置日が異なっており、文面に若干の違いがありました。

まだたいして歩いていないし急激な坂ではなかったものの既に息はゼイゼイ。先が思いやられます。








「 出丸御馬場曲輪 」

ここ出丸御馬場曲輪を始め、各曲輪、堀等にはそれぞれ説明板が設置されていました。それら説明版の写真も
載せればわかりやすいのですが、それだけでも相当の枚数になってしまいますので省略させていただきます。






「 出丸御馬場堀 」








「 岱崎出丸 」








岱崎出丸「 一の堀 」
堀が畝になっています




岱崎出丸あたりから富士山が良く見えました






「 すり鉢曲輪 」
写真ではよくわかりませんが、中央をくぼませて上に向かって緩やかな斜面となっています。




「 武者溜り 」




「 構築途中の曲輪跡 」
どこがどうなのかよくわかりませんでしたが

見落としもありますが、一通り曲輪跡等を見終えましたので、曲輪跡を周回するようにして案内所方向に戻ることにしました。
この間、誰にも会うことはありませんでした。




山中城跡はまだ半分以下しか攻めきっておりません。今度は、本丸等のある縄張りを攻めなくてはなりません。

案内所の道向かいにある広場の方から入って攻める方法もあったようですが、目の前の国道1号線を箱根峠方向に歩くことにしました。




三ノ丸にある「 宗閑寺 」






宗閑寺境内にある山中城主松田康長、副将間宮康俊などの武将の墓(上)
隣には、豊臣方の武将一柳直末の墓碑もうらみを忘れたように並んでいます。






宗閑寺裏手にある「 箱井戸跡 」(上)と「 田尻の池 」(下)




実はここで大変なことを知るに至りました。つい1週間ほど前の11月4日から、城跡の整備・工事が始まっており通行止めで、
二ノ丸や西ノ丸・西櫓等の高いところにある曲輪には資材等が置かれているようでした。これでは肝心の障子堀・畝堀を見学できなくなってしまいました。
この箱井戸跡周囲にも工事関係者が来ており作業中でした。




箱井戸跡・田尻の池から再び国道1号線に戻り再び箱根峠方向に歩きますと、駒形諏訪神社の鳥居があり、ここから本丸方向に行けるようでした。

事情があり鳥居は潜らずに脇を抜けて参道に。そして、神社には行かずに脇の坂道を登り(自身にはかなりきつい坂道でゼーゼー)






「 北ノ丸 」に辿り着きました




「 北ノ丸 」と「 本丸 」を結ぶ「 本丸北橋 」






「 天守櫓跡 」






「 本丸跡 」




「 矢立の杉 」 呼称の由来は、出陣の際に杉に矢を射立て勝敗を占ったためと。






「 本丸西橋 」と「 櫓台 」






「 本丸堀 」 本丸と二ノ丸の間にある堀で畝堀になっています




工事中で二ノ丸虎口から先(上)には行けません。城跡にいるのは工事関係者のみでここでも、城跡をめぐっている人の姿はありませんでした。




先に進めませんので、高台から西ノ丸方向眺めるしかありませんでした。








さすがに障子堀は見えませんでしたが、畝堀はよく見えました。






「 兵糧庫跡 」・「 弾薬庫跡 」ここで取りあえずは城攻めを終了し、駒形諏訪神社前を通り国道1号線に出て、バス停「山中」から
三島駅まで戻り、再び新幹線に乗り帰路へ。往路のバスの車中からよく見えた富士山も、帰りは雲にすっかり覆われていました。

息をゼーゼーさせながらの山城攻めは厳しいものでした。工事中のため見られなかった箇所もありましたがそれでも素晴らしい山城攻めができたと思っています。

個々の説明を入れれればよかったのでしょうが、文才がないために名称のみになってしまいました。

攻城日:2014年(平成26年)11月10日(月)