四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

カワウ(河鵜)

2021年02月28日 | 花・鳥・風景




いつもの散歩道 川の中の岩の上に黒い鳥 カラスとは違っていました
立っていた岩から水の中に入り そして飛び去ってしまいました
撮った写真を調べてみました 『カワウ(河鵜・川鵜)』のようです
数え切れないほど散歩で見ている川ですが 今まで見たことはありませんでした 

このあと何度かこの場所や付近に行ってみましたが再びカワウの姿を見ることはできませんでした

撮影日:令和3年(2021)2月21日(日)

畠山重忠公史跡公園の芭蕉句碑(埼玉県深谷市)

2021年02月27日 | 歌碑・句碑


 句 :  むかしきけ 秩父殿さえ すまふとり
     (むかしきけ 秩父殿さへ すもうとり)

出 典: 『芭蕉庵庄文庫』
所在地:埼玉県深谷市畠山(旧・大里郡川本町) 畠山重忠公史跡公園
建立日:昭和52年(1977)11月3日
建立者:石澤無腸門下

※秩父殿 ⇔ 畠山重忠(秩父庄司重忠)




【碑陰】
畠山重忠公は秩父氏六代の裔にしてこの地に生まれ年少の頃より怪力にして大石を投げしことなど口碑に
残れり ここに芭蕉翁の公を讃えし一句を選び石澤無腸門下相はかり小碑を建立す
 昭和五十二年文化の日




畠山重忠公史跡公園
写真左側に芭蕉の句碑は建立されています




【畠山重忠公像】
一ノ谷「鵯越えの逆落とし」で、怪力自慢の畠山重忠は愛馬「三日月」を背負って崖を駆け降りたという

散策日:令和3年(2021)1月7日(木)

荒川聖天の芭蕉句碑(埼玉県深谷市)

2021年02月26日 | 歌碑・句碑


 句 :  川上と この川下や 月の友

出 典: ー
所在地:埼玉県深谷市荒川(旧・大里郡花園町) 聖天宮境内
建立日:慶応3年(1867)8月
建立者:行庵




句碑の前のツバキの花を入れてみました・・・




【聖天宮】
近くを荒川が流れていますのでこの句はの地にあっているかも知れませんね




【向拝】
立派な彫刻です。二股大根の彫刻も
聖天さまとは、もとは歓喜天と呼ばれる神様とのこと。
大根は歓喜天の代表的な供物として知られるようです。
この二股大根が交差している様子は、夫婦和合や縁結びなどを表しているとか

散策日:令和3年(2021)1月7日(木)

本庄児玉地域「再発見シリーズ」紀行冊子

2021年02月25日 | エトセトラ


埼玉県北部地域振興センター本庄事務所が発行した下記冊子を3年前に頂いてきました。
本庄・児玉地域の散策に役立っています(まだ訪問先は僅かですが)

◇ 中山道最大の宿『本庄宿』の再発見 改訂版(本文88ページ)
   本庄市滝岡橋~上里町神流川橋
      平成29年(2017)11月発行
       ※平成29年(2017)2月発行の中山道最大の宿『本庄宿』の再発見(その壱)と
        同年3月発行の(その弐)を合体・改訂したもの
◇再発見シリーズ第2弾
   中山道の脇往還
  藤岡道の再発見 (本文36ページ)
    本庄市・金鑽神社~上里町・藤武橋
      平成29年(2017)2月発行の

◇再発見シリーズ第3弾
   児玉を巡る
  鎌倉街道の再発見 (本文56ページ)
    美里町~本庄市児玉町~神川町
      平成30年(2018)2月発行

同事務所の職員が現地に出向いて取材し、執筆、イラスト、デザインすべてを手づくりで作成した力作です
冊子名で検索していただければWebでも冊子と同じものを見ることが出来ます
現在も冊子の頒布をしているかは不明です 

吉祥寺の芭蕉句碑(埼玉県深谷市)

2021年02月24日 | 歌碑・句碑


 句 :  頓てしぬ 氣しきは見えす 蝉の声
      (頓天志奴氣之幾盤見衣壽蝉農己恵)  
      (やがてしぬけしきはみえずせみのこえ) 

出 典: ー
所在地:埼玉県深谷市中瀬410(旧・深谷市) 長勢山義光院 吉祥寺境内 
建立日:天保12年(1841)5月
建立者:齋藤南々、田川鳳朗




【碑陰】
末尾に 天保十二年 の文字が見えます




吉祥寺山門




本堂の前に建つ〔吉祥天〕の横に句碑が建立されています

散策日:令和3年(2021)1月7日(木)

妙光寺の芭蕉句碑(埼玉県深谷市)

2021年02月23日 | 歌碑・句碑


句 :  艸臥て 宿かる頃や 藤の花  
    (くたぶれて やどかるころや ふじのはな) 
 
出 典:『笈の小文』
所在地:埼玉県深谷市深谷市下手計988-1(旧・深谷市) 瑠璃光山遍照院妙光寺境内 
建立日:文久3年(1863)10月、
建立者:妙光寺十一世住職亮海師




【碑の表面】
引導一千人供養
 文久三年癸亥冬十月
 妙光寺十一世左學頭亮海建
      尾高惇忠書

この碑の主たるは引導一千人供養で、芭蕉の句は碑陰に刻まれています
  
尾高惇忠・・・新一万円札の肖像画となる近代日本経済の父といわれる渋沢栄一の義兄にして実業家で
富岡製糸場の初代場長等を務めた人物
今年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』にも登場していますが、尾高惇忠の生家は妙光寺と同じ深谷市下
手計地内にあり、距離にして400mちょっとのところにあります。




【妙光寺山門】
引導一千人供養碑は以前は山門の裏側にあったようですが、このように山門が新しくなったに伴い本堂の
前の方に移されたようです




引導一千人供養・芭蕉句碑はここに・・・

散策日:令和3年(2021)1月7日(木)

大河ドラマ『青天を衝け』~八幡神社が諏訪神社に~

2021年02月22日 | エトセトラ


21日(日)NHK大河ドラマ『青天を衝け』第2回が放映されました。
その中で渋沢栄一の生まれ在所である血洗島村の村祭りが大人の事情で中止になってしまいまし
たが、栄一はある計画を思い付き、獅子舞いを村の鎮守である諏訪神社で舞うシーンがありまし
た。
このシーンは栄一がまだ幼い頃のもの。




こちらは栄一が成長してからの祭りの模様です




上記シーンの【血洗島 諏訪神社】に見立ててロケが行われたのが、埼玉県比企郡嵐山町鎌形地内
にあるこの【鎌形 八幡神社】でした。
なお、【鎌形 八幡神社】と渋沢栄一とは何ら接点はないようですし、実際の【血洗島 諏訪神社】
は現存する立派な神社ですが、鎌形八幡神社は、森の中の神社で、周りに住宅等もありませんから
余分なものがなく写り込む心配もなく、絵になる場所ですからロケ地として最適だったのでしょう。
撮影は、昨年9月4日・5日の2日間行われたとのことですが、ここでロケが行われたことは隠すど
ころか堂々と公表されていたようです。
実は、このロケが行われた11日後の9月16日にここ鎌形八幡神社を参拝していました。
写真を見ていただければわかる人には分ると思いますが、普段なら何本も立てられている「木曽義
仲」の幟が1本もありません。また、社殿に上がる石段の手摺は取り外されされて支柱だけになっ
ています。
この時はまさかここでロケが行われたとは知りませんでしたので、大雨で幟を撤去したのかと位に
しか考えませんでした。
今にして思えば、ロケのために幟を一旦撤去し、手摺も外し、未だ元に戻していなかったのだと理
解するに至っています。




一番上の写真のシーンはこの場所




2番めの写真のシーンはこの場所

2日間に亘って撮影した割には放映されたのはほんの僅かな時間でしたが・・・

旧渋沢邸「中の家」の渋沢栄一翁

2021年02月21日 | エトセトラ


渋沢栄一翁の生地にある旧渋沢邸「中の家」(なかんち)に渋沢栄一翁が帰ってきました。
と言ってもアンドロイドですが。昨年7月に公開された【渋沢栄一記念館】のものに続く2体目で
2月13日(土)から公開されていますのでお会いしに行ってきました。




現存する主屋は栄一の妹夫妻が明治28年(1895)が建てたもの。
家屋・アンドロイド見学に訪れた方たちも多数・・・でも一度にでありませんので。
新型コロナウイルス感染予防対策のために家屋内には入れませんので外からの見学です。
栄一翁が帰郷の際に寝泊まりしていた部屋は一番左の部屋だったようです。




寝泊まりに使っていた部屋で正座している栄一翁
【渋沢栄一記念館】にあるものよりも晩年の姿で80歳ころのお姿のようです。
とても人造人間とは思えない精巧さ。

見学日:令和3年(2021)2月19日(金)

渋沢栄一 青天を衝け 深谷大河ドラマ館

2021年02月20日 | 企画展・見学会


2月14日から始まったNHK大河ドラマ『青天を衝け』のドラマ館が、去る16日にオープンしまし
たので見学に行ってきました。
会場は、深谷市仲町地内の「深谷生涯学習センター・深谷公民館1階」
新型コロナウイルス感染防止の観点から、館外で連絡カードを作成し入館、体温測定、手指消毒、
マスク着用、 ソーシャルディスタンス  入場料(800円)を支払いドラマ館に・・・




渋沢邸入口で渋沢栄一(吉沢 亮さん)、千代(橋本 愛さん)が出迎えてくれました




こちらは栄一の母ゑい(和久井映見さん)




藍玉 乾燥藍葉 (模造品)

見学日:令和3年(2021)2月19日(金)

西和田 春日神社(埼玉県越生町)

2021年02月19日 | 神社仏閣


社 号:春日神社(かすがじんじゃ)
旧 称:内裏大明神、春日社
御祭神:武甕槌神(たけみかづちのかみ)
相 殿:天児屋根神、斎主神、比売神、誉田別神、木花咲耶比売神、菅原道真公、倉稲魂神、
    大己貴神、太田神、大宮比売神、中筒男神、表筒男神、底筒男神、神功皇后、大日霊神
創 建:不詳ながら、延暦元年(782)の創建だと伝えられる
社 格:旧村社 
例 祭:10月9日
指 定:-
鎮座地:埼玉県入間郡越生町西和田317

越生町西和田に鎮座する『春日神社』は、越生十六郷の総鎮守と言われ、征夷大将軍坂上田村麻呂
東夷征伐の際、現在の地に遷し宮殿を築し、内裏大明神を祀る。平将門が当地に内裏を置いたとさ
れると言うことです。
坂上田村麻呂や平将門の伝承は数多く真偽のほどは別にして訪ねてみました。

なお、【越生十六郷】とは、上野村・今市村・如意村・黒岩村・和田村・大谷村・鹿下村・成瀬村・
津久根村・大満村・黒山村・小杉村・堂山村・上谷村・箕和田村・竜ケ谷村の諸村のようです。




『春日神社略記』
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越生総社 春日神社略記
  御祭神
天児屋根神 武甕槌神 斎主神 比売神 誉田別神 木花咲耶比売神 菅原道真公 倉稲魂神 
大己貴神 太田神 大宮比売神 中筒男神 表筒男神 底筒男神 神功皇后 大日霊神 
十六柱之神を祭る
  由緒
延暦元年(782年)創建
  内裏山獅子岩の傍に祭祀されたるを征夷大将軍坂上田村麻呂東夷征伐の際、現在の地に遷し宮殿を築し、内
 裏大明神を祀る。平将門が当地に内裏を置いたとされ、その後、延喜年中常陸大據、平国香(将門の伯父)が
 修繕、松山城々主上田能登守の再建を経て、寛政10年4月内裏大明神春日大明神改め、春日神社、越生十六郷
 総鎮守と定む。慶安3年将軍徳川家光より社領を賜う。明治4年上地令によりこれを奉遷。
  描、平安末期藤原季綱公、越生郷に移住し、阿諏訪山に遊猟せし時氏神秩父郡高山の峰に光を放ち、季綱公
 之を謹み拝し当社に祭ると伝承されている。
  内裏と称するは越生郷内、内裏宮常住、明応3年と有る。内裏の称累代社家石井氏の家号と同じくするもの也。
 昭和20年以降国家の庇護を離れ氏子崇敬者皆様の基とし現在に至る。
  現在の社殿は今上陛下御大典(平成5年)の折修繕されたものである。
                                  平成28年8月吉日 
                                      春日神社宮司記

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歴史上の有名人が幾人も出てきますが、日本三大怨霊の一人とされる平将門の伝説は各地に数多く
あるようで真偽のほどは定かではありません。
藤原季綱公とは隣の毛呂郷(現在の毛呂山町)の在地領主であった毛呂氏の祖と言われる人物か。




玉垣に囲まれた参道
参道の外側(右側)に、『春日神社略記』看板。『若宮八幡神社』、
『史蹟藤原大納言遠峯・季綱邸蹟桓武平氏新皇 平将門 内裏蹟』碑がります




『割拝殿』
【随神門】の額が懸っていますが、随神門(随身門)の特徴である左右の随神像はありません




割拝殿を抜けると石段でその先に社殿等があります




『手水舎』




左:『拝殿』 と 右:『神楽殿』




『拝殿』




【越生總社 春日神社】と揮毫された社号額(扁額)と葵紋の門帳




『本殿(覆殿)』
拝殿と本殿(覆殿)とは離れて建てられています




『神楽殿』
手前正面に【恵比寿・大黒】像が置かれています




境内社『内裏大黒天社』




境内社『八坂神社』




左:『若宮八幡神社』右:『史蹟藤原大納言遠峯・季綱邸蹟 桓武平氏新皇 平将門 内裏蹟』碑




『史蹟藤原大納言遠峯・季綱邸蹟 桓武平氏新皇 平将門 内裏蹟』碑




境内西側の道路沿いに線路方向に向って建っている『春日神社流鏑馬』の標柱と『文化財解説板』
『解説板』の上部には【昭和28年の流鏑馬】の写真プレートが、下部には【春日神社の流鏑馬】と
題した説明板が貼られています。その内容は次の通りです。
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    春日神社の流鏑馬
 毎年10月9日のハツグンチ(初九日)に、大谷から「一の馬」、西和田から「二の馬」が出て、この直線道路に
設けた馬場を騎馬が駆け抜けていた。幕末のころまでは、今市村(現大字越生)の「三の馬」も参加していた。
 当地の流鏑馬は、坂上田村麻呂が東征の折に奉納したのが起源で、長く途絶えていたのを戦国時代に松山城主の
上田能登守が再興したと伝えられている。また、堂山の最勝寺に伝来していた流鏑馬と、春日神社が所蔵していた
大般若経を交換したとの伝承もある。
 大谷と西和田、各々数十軒で組織するマトウ組(的組=流鏑馬組)が永く伝統を継承していた。昭和34年(1959)
を最後に大谷が退いてからは西和田だけで続けられていたが、昭和41年に台風で中止され、以来中断されたままに
なっている。
    平成27年3月
                                 越生町教育委員会

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この標柱・文化財解説版とJR八高線の線路との間にあるこの道路で流鏑馬が行われていたようで
す。
「堂山の最勝寺に伝来していた流鏑馬と、春日神社が所蔵していた大般若経を交換したとの伝承も
ある」とありますが、物と物との交換なら分りますが、流鏑馬(祭事・行事)と大般若経(物)と
交換とは凡人の私にはよくわかりません。
極端な言い方をすれば物は渡せば終わりですが、流鏑馬は人と時間を必要としますので、そう簡単
にはいかないことの筈(無知ですみません)あくまで伝承ですから深く考えない方が・・・と言っ
てみたものの




流鏑馬と大般若経を交換したと言う伝承は興味あります。
5年前に撮った越生町堂山に所在する「最勝寺」の写真のうちの参道入口のものです 
最勝寺の門前にある【最勝寺縁起】には流鏑馬と大般若経の交換についての記述はありませんでし
たが、
【新編武蔵風土記稿による最勝寺の縁起】の中に、
「寺寶  大般若經四箱。この經はむかし和田村の春日社にありしを、故ありて當寺にうつせりと
いふ、經文の奥書をよび箱の圖を上に記す」
という一文があります。故ありしとしかありませんので流鏑馬と交換したかどうかは定かではあり
ませんが、春日神社にあった大般若経が最勝寺に移ったことは確かなようです。

参拝日:令和3年(2021)1月5日(火)