藤岡市にある『七輿山古墳』は6世紀前半につくられた三段築成の前方後円墳で、6世紀代の古墳と
しては東日本最大級のもののようです。そんな国指定史跡である七輿山古墳を散策してきました。
名 称:七輿山古墳(ななこしやまこふん)
別 称:-
墳 形:前方後円墳 三段築成
規 模:全長150m、前方部幅115m、後円部径85m、高さは前方部・後円部ともに16m
築 造:6世紀前半
出土品:円筒埴輪・朝顔形埴輪・人物・形象埴輪類や須恵器・土師器
指 定:国指定史跡(名称:七輿山古墳 昭和2年〔1927〕6月14日指定)
所在地:群馬県藤岡市上落合831
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『七輿山の伝説』
七輿山の名前の由来は、羊太夫の伝説からきています。奈良時代に新設された多胡郡を賜った羊太夫は、八束の小脛とい
う神童の引く天馬に乗って朝廷へ日参していました。ある日、羊太夫は悪ふざけで昼寝をしている小脛の両脇に一本づつ
生えている白羽を抜いてしまいました。すると、神通力を失い天馬が走らず、朝廷へ日参できなくなりました。朝廷は羊
太夫が謀叛を計っているとして討伐軍を派遣しました。八束城を追われた羊太夫の一族が落ち合った場所が「落合」とい
う地名になり、羊太夫の女房ら7人がここで自害し、それぞれ輿に乗せ葬ったので「七輿山」と言う名称が伝えられてい
ます。
《藤岡市ホームページから引用》
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後円部東端の裾部から七輿山古墳の散策開始です
説明板が設置されています
『国指定史跡 七輿山古墳』説明板
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国指定史跡
七興山古墳
所在地 藤岡市上落合八三一-一ほか
所有者 国ほか
この古墳は、周辺の地形を利用して造られた三段築成の前方後円墳です。大きさは全長一四六㍍、後円部径八
㍍、前方部幅一〇六㍍、前方部と後円部の高さは一六㍍です。
四回にわたる範囲確認調査で、墳丘の周りに内堀・中提帯・外堀・外提帯・埴輪列が明らかになりました。ま
た、前方部前面にはコの字状に三重目の溝が巡っています。出土遺物は円筒埴輪・朝顔形埴輪のほかに人物・馬・
盾などの形象埴輪があります。特に、円筒埴輪は七条凸帯を有し、径五〇㌢、高さ一・一㍍の大型品です。古
墳の埋蔵施設は不明ですが、出土遺物から六世紀前半に造られたものと考えられます。
藤岡市教育委員会
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墳丘中段(と言っても僅かな高さですが)に「石幢六面六地蔵」があります。
沢山の石仏が並んでいます
よく見るとみんな首がありません。「首なし地蔵」と言われているようですが、これは地蔵ではなく五百羅漢で
すね。なぜ首がないかの説は幾つかありようですが、ここにそれを書くと長くなってしまいますので・・・
墳頂を目指します
後円部の墳頂です
後円部墳頂東端に後円部の外側を向いて釈迦三尊がありますが、これも首がありません。
立札があり「重要文化財にかってに補修や損傷を与えることは、文化的価値を著しく損なわれます。文化財を大
切にしましょう! 藤岡市教育委員会」とあります。
後円部から前方部方向を見ています
くびれ部分あたりでしょうか?
前方部
前方部西端の裾 いくつもの石は「葺石」でしょうか?
前方部を西方から
手前が前方部
前方部先端 濠跡 奥に見えるのは堤の一部?
墳丘北側面 手前が前方部
墳丘北側面
後円部の北東端あたり
後円部
後円部東側
後円部東側
散策を開始したところまで戻ってきました
後円部南方から前方部方向に
墳丘から離れたところを歩いてきましたが、墳丘が大きすぎて全体の姿を1枚の写真におさめることはできませ
んでした。付近を含めて見落としてきた場所が複数ありますので再訪する機会があったら、それを含めてその時
は更に離れた場所を歩いてみたいと思うのですが・・・
散策日:令和5年(2023)4月20日(木)