四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

平成30年度歴史講座「戦国の城館」第2回

2018年09月30日 | 講演会・講座


埼玉県立嵐山史跡の博物館主催による
平成30年度歴史講座「戦国の城館」
第2回「葛西城をめぐる北条氏と上杉氏の攻防」
講師 谷 口  榮 氏 (葛飾区産業観光部観光課主査学芸員)
日時 9月28日(金)13:45~15:30
会場 国立女性教育会館研修棟 講堂

を聴講してきました。




今更紹介するまでもありませんが、国立女性教育会館研修棟です。




今回の講座資料

葛西城跡は、まだ訪ねたことはありませんが、発掘調査の後、環状7号線をはさみ葛西城址公園・御殿山公園として埋め戻さ
れているようです。講師のお話をお聞きして興味がわきましたので、遺構云々はともかく、機会があったら訪ねてみたいと思
うに至った城跡です。

聴講日:平成30年(2018)9月28日(金)

柏原城(埼玉県狭山市)

2018年09月29日 | 100名城以外の城館跡


城 名:柏原城(かしわばらじょう)
別 名:城山砦・上杉城・上杉砦
形 態:崖端城
時 期:天文14年(1545)
築城主:上杉憲政
城 主:上杉憲政
遺 構:土塁・空堀
指 定:市指定史跡(昭和48年〔1973〕3月1日指定)
    県選定重要遺跡(昭和44年〔1969〕10月1日選定)
現 状:城跡
所在地:埼玉県狭山市柏原2346-2ほか

天文年間に山内上杉憲政が、後北条氏に奪われた川越城を奪還すべく包囲した際に陣を敷いたとされる柏原城を再訪しました。
柏原城跡については色々な呼び名があり、狭山市においては「城山砦跡」と呼んでいるようですが、城のあった場所は大方の所
で「城山」と呼ばれ、一般名詞に過ぎません。地名の付いた「柏原城」と呼ぶ方が城を特定しやすいので、ここではこの名称を
使わせていただきます。

柏原城跡は、狭山市内では唯一の中世城郭と言われ、高さ10m程の河岸段丘上に築かれた城(砦)で、本郭・二の郭・三の郭
からなって居ます。
天文6年(1537)7月に、小田原北条氏の手に落ちた「河越城」を奪還するために、天文14年(1545)9月から半年近くにわ
たり、上杉憲政が陣を敷いたのが、この柏原城です。上杉軍が北条氏康に敗れたごは、北条氏の手に移り、同氏の城として機能
したと考えられます
その一方で、鎌倉時代に畠山重忠に従った柏原太郎の館跡ではないかと言われるようです。また、南北朝時代に鎌倉公方の足利
基氏が入間川に滞陣した際の出城とする説や、明応5年(1496)に上杉顕定が上杉朝良方の河越城を攻めたとき、顕定と手を結
んだ足利成氏の子の政氏が着陣したところともいわれています。




現地説明板にある縄張図  
数か所加筆しましたが。以前の説明板には三の郭の記述、縄張図にも三の郭の表示があったようですが、現在の説明板には両者
ともありません。その理由は分りません。




北側の小口  こちらが大手でしょうか




二の郭の端にある 城山稲荷大明神  




三の郭跡はこの辺りでしょうか




小口に向かって左側にある土塁   土塁の内側は空堀




喰い違い小口のようです
左側は空堀  正面に二の郭(馬出)




空堀




空堀  右側が小口東側にあった土塁




二の郭




柵の向こうの左側が二の郭  右側が小口方向




本郭への小口




本郭小口から本郭内を




本郭内から小口を振り返る




本郭と北側・東側の土塁




北側土塁上




土塁上から空堀を




本郭東側土塁




本郭から眼下の住宅団地を  その先には入間川が流れています




南側にある小口への坂道  かつては竪堀であったとされます
右上の柵のある所が二の郭




南側小口まで下りてきました




搦手口と言ってもよいでしょうか




趣のある看板です




大手小口にある説明板と同じものですが、冒頭に記したように縄張図に三の郭の表示はありませんし、記述もありません。




こうして南側から見ると柏原城(城山砦)が、段丘の上に築かれていることがよくわかります。

初めてこの柏原城跡(城山砦跡)を訪ねたのは1年9か月ほど前のことですから、余程のことがない限りは以前のままの形で
あると思っていましたが、案の定、前回と全く変わってはいませんでした。
それを承知で再訪したのは、最近の投稿を見ていただければ察していただけるかもしれません。
しかし、前回と同じような写真しか撮れないのは、無意識のうちにも自分なりの撮影パターン(癖)が出来てしまっているの
かもしれません。

再訪日:平成30年(2018)8月30日(木)

砂久保陣場(埼玉県川越市)

2018年09月28日 | 古戦場・陣所


名 称:砂久保陣場(砂窪陣場)
別 名:―
形 態:陣所
時 期:①天文14年(1545)  ②天文15年(1546)
築城主:①上杉憲政       ②北条氏康
城 主:①上杉憲政       ②北条氏康
遺 構:―
指 定:市指定史跡(昭和33年〔1958〕3月6日)
現 状:砂久保稲荷神社
所在地:埼玉県川越市砂久保

戦国時代に扇谷上杉氏、山内上杉氏、古河公方足利氏の連合軍と小田原北条氏が河越城をめぐり戦ったときに張られた陣所と
される砂久保陣場跡を訪ねてみました。砂久保稲荷神社一帯がその場所とされておりますが、遺構はありません。
なお、上記概要で①、②とした部分は説が二つあるためです。




写真にある大きな説明板がいつ設置されたのかはわかりません。以前は高札型の説明板が設置されていたようです。残念なが
ら写真は持ち合わせておりませんが、内容は次の通りであったようです。

【市指定史跡  砂久保陣場跡】
天文15年(1546)のいわゆる川越夜戦の時のことである。
上杉憲政は前年の14年9月末からこの砂久保に陣をとり、8万余騎の兵力をもって川越城を攻めさせた。しかし川越城は北
条綱成がわずか3千の兵をもって翌15年4月までよく持ちこたえた。やがて援軍にかけつけた北条氏康の8千の兵は、4月
20日の夜半に憲政の陣を急襲して敗走させ、まもなく川越城を救援した。この砂久保は川越城の南西4キロのところにあり、
正保頃開墾された村で、この合戦の当時は広漠たる原野に過ぎなかった。
     平成元年2月    川越市教育委員会

上記説明文では、上杉憲政が砂久保に陣をとりとあり上杉方の川越野戦における陣場としております。また、「埼玉の館城跡」
(埼玉県教育委員会編)や、諸先輩方のHPやブログ等でも多くの方が同様の記述をしており、砂久保陣場は上杉憲政の陣場
との認識となっていました。




次に、上掲写真説明板の砂久保陣場跡部分の内容を全文転記しておきます。

【砂久保陣場跡(市指定・史跡)】
 砂久保陣場跡は、戦国時代に扇谷上杉氏、山内上杉氏、古河公方足利氏の連合軍と小田原北条氏が河越城をめぐり戦ったときに
陣が張られた場所です。
 関東の戦国時代は、享徳3年(1544)、鎌倉公方足利成氏が関東管領山内上杉憲忠を謀殺した享徳の乱から始まります。成氏は、
古河に移り古河公方を称し、山内上杉氏と扇谷上杉氏と対立しますが、この三者はその時々敵味方を換えながら合戦を繰り返して
いきます。明応2年(1493)、伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆の堀越公方を滅ぼし、その子氏綱の代には小田原を拠点に相模、武蔵
に進出して両上杉氏と敵対するようになります。
 河越城を本城とする扇谷上杉家では、天文6年(1537)、朝興が没し朝定が跡を継ぐと、父の遺言に従い勢力挽回を掛けて北条
氏を攻めますが反撃され、逆に河越城を失うことになります。その後天文10年(1541)北条氏の代替わりに乗じて朝定は、河越
城奪還を企てますが失敗します。
 単独で北条を追い払うことができないとみた朝定は、山内上杉憲政と手を結び、氏康が駿河今川氏との対戦のために駿河国境に
出陣中の隙を衝いて、天文14年(1545)9月26日、河越城に向けて侵攻し、同城を包囲します。北条方の河越城では、北条綱
成(氏康の義弟)と、同宗哲(氏康の叔父)が守将を努め、籠城戦を展開します。両上杉氏は、戦いを正当化するために古河公方
足利晴氏(妻は氏康の妹)に出陣を懇願し、10月27日に上杉軍に迎えます。こうした状況に対し氏康は、河越城の死守を優先
し駿河からの全面撤退と引き換えに今川氏と和睦を成立させ、11月初め頃に小田原に帰陣します。河越城は籠城したまま年を越
します。
 天文15年(1546)に入ると氏康は、足利晴氏に城兵3,000人の助命嘆願をしますが拒否されます。しかし、3月初めに扇谷上
杉氏の宿老で岩付城の太田全鑑を離反させ味方に引き入れられたことで、氏康は4月17日に出陣に踏み切り、砂窪(砂久保)に
着陣しました。そこで足利晴氏に再度城兵の助命を懇願しますが、取次ぎを拒否されると、4月20日、上杉憲政が氏康陣所の砂
窪に攻めかかります。氏康は劣勢を跳ね除け、これを迎撃するとともに、城内からは綱成らも撃って出て、両方面から北条方は勝
利します。この結果、上杉憲政は平井城に、足利晴氏は古河に敗走し、扇谷上杉氏は当主の朝定とその重臣難波田善銀が戦死し滅
びます。
 一般には「河越夜戦」と伝えられ、城兵3千と援軍8千の北条軍が、連合軍八万とも六万五千とも云われる大軍を闇夜に乗じて
奇襲し破った合戦とされていますが、兵の数には後世の誇張があり、また実際には奇襲戦ではなく迎撃戦であったようです。いず
れにしろ、この時の合戦によって北条氏の関東支配が優位に展開し始めたという意味では、関東の戦国史を語る上で貴重な合戦で
あったことはまちがいありません。
      昭和33年3月6日指定                         川越市教育委員会

この説明文では川越野戦に至る前段まで詳しく説明がなされています。しかし、以前の説明文とは逆に北条氏康が砂窪(砂久保)
に着陣し、これを上杉憲政が氏康陣所の砂窪に攻めかかるも、氏康は劣勢を跳ね除け、これを迎撃したとあります。
つまり、砂久保陣場は上杉憲政の陣所ということから、北条氏康の陣所へと見解が逆になっていますが、それなりの理由となる
文書等が発見になったのでしょうか?

なお、この砂久保陣場から約8km離れた所にある「柏原城跡〈城山砦跡〉」(狭山市)の現地説明板では、
「『新編武蔵風土記稿』によると、天文年間に山内上杉憲政が、後北条氏に奪われた川越城を奪還すべく包囲した際にここに陣
を敷いたとされており」
とあります。
以前の説明文の見解ですと、上杉憲政は柏原城と砂久保陣場の2か所に陣所を構えたことになりますので、これには無理があり、
砂久保陣場は氏康の陣所と考えた方がよいのかもしれません(あくまで素人の見解ですが、正直なところは分りません)

しかしながら、ここ砂久保陣場跡の説明板には、新旧ともに「柏原城跡〈城山砦跡〉」に関する文言はひとつもありません。




上掲説明板の主な城・要害図




砂久保稲荷神社社殿




奥の建物は社務所兼砂久保集会場




《参考》 川越市志多町に所在する河越夜戦の舞台となった東明寺  ※平成22年(2010)5月16日撮影 以下同じ




門前に設置の「河越夜戦跡」説明板




東明寺境内に建立されている「河越夜戦跡」石碑

散策日:平成30年(2018)8月19日(日)

三ツ木原古戦場(埼玉県狭山市)

2018年09月25日 | 古戦場・陣所


名 称:三ツ木原古戦場
概 要:天文6年(1537)三ツ木原で武蔵の支配を狙う北条氏綱と扇谷上杉朝定の戦いがこの辺りで行われたとされる
指 定:―
遺 構:―
現 況:三ツ木公園
所在地:埼玉県狭山市新狭山3丁目

天文6年(1537)7月11日、北条氏綱は川越城を攻略するため、三ツ木に着陣しました。これに対し扇谷上杉朝定は15日
川越城を出陣し、三ツ木原で両軍は争いましたが、朝定合戦は後北条氏方が勝利し、朝定は松山城へ敗走し、16日川越城は
落城しました。
三ツ木原の古戦場では、数々の戦が行われたところらしく、これ以前の元弘3年(1333)の新田義貞と北条高時軍の戦い、永
享12年(1440)上杉持朝が将軍義教の命で結城満朝を討った時の戦いがあったとされます。

三ツ木原古戦場跡は、川越狭山工業団地の南西隅「三ツ木公園」として残っていますが、本来はもっと広範囲であったと思わ
れます。




三ツ木公園の南側の道路に面して建てられている「三ツ木原古戦場跡」の標柱  公園内後方に石碑と説明板が見えます





「三ツ木原古戦場の碑」と「三ツ木原古戦場の碑」説明板




汚れていて読み辛いかもしれませんが、何とか読めそうですので説明文の転記は省きます




石碑の裏面にも色々と刻まれています
金子和泉守国重は、武蔵七党のひとつ村山党に属した金子十郎家忠の子孫とのことも触れています




三ツ木公園内の一角




同上




この辺りで緑が残るのはこの三ツ木公園のある一画だけかもしれません




三ツ木公園の東側(正しくは北東側)の道路
車の先に見えるのが西武新宿線の線路 この左手少し先に「新狭山駅」があります




東側道路を挟んだ三ツ木公園の反対側は川越狭山工業団地で、世界の「HONDA」の工場です。




三ツ木公園北側の状況




北側道路から見える世界の「HONDA」

工業団地、住宅地として大規模な開発がされたようで、古戦場跡もその侵略の犠牲になっても不思議でなかったなかで、こうし
て一部かも知れませんが、三ツ木公園として古戦場跡が残されたことは歴史の大事な財産かも知れません。

散策日:平成30年(2018)8月29日(水)

高見原古戦場(埼玉県小川町)

2018年09月22日 | 古戦場・陣所


『長享の乱』とは、長享元年(1487)から永正2年(1505)にかけて、山内上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上
杉家の上杉定正(没後は甥・朝良)の同族の間で行われた戦いの総称です。この戦いの中に「長享三戦」と呼ばれる合戦があ
りました。

長享2年(1488)2月 5日 相模国 実蒔原の合戦  (現神奈川県厚木市・伊勢原市)
  同 年     6月18日 武蔵国 須賀谷原の合戦 (現埼玉県嵐山町)
  同 年    11月15日 武蔵国 高見原の合戦  (現埼玉県小川町・寄居町)

長享の乱に至る経緯や詳細を書くだけの知識や能力はありませんので省きますが、長享三戦のひとつ「高見原の戦い」の場と
なった高見原とされるのは、現在の比企郡小川町高見・大里郡寄居町今市辺りだと言われています。そんな高見原跡を散策し
てきました。

【長享2年6月に須賀谷原の合戦が行われてから約4か月後、11月に再び両上杉氏が鎌倉街道に沿った高見原で3度目の激
突をしています。この合戦は扇谷上杉方の勝利に終わり、山内上杉氏は鉢形城に敗走しました。この合戦の後、明応3年(1
494)7月に扇谷上杉氏は再度高見原に出陣し、荒川を挟んで山内上杉氏と対峙しましたが、扇谷の大将・上杉定正が落馬
して頓死し、扇谷上杉方は河越城に敗走しています。(改訂歩いて廻る『比企の中世・再発見』埼玉県立嵐山歴史の資料館発
行から)】

写真に撮ったところが実際に合戦の場になったか否かは知るべきもありませんが、こんなところなんだと思って頂ければと。




高見城本曲輪から望む高見原と言われる高見地区    眺望の関係でちょっとずれているかもしれませんが




高見地区  この辺り一帯で合戦があったのでしょう




高見地区   高見城も合戦の場となったようです 
この道は鎌倉街道上道です   右のカーブの少し先から今市地区(寄居町)




今市地区に入りました  今市地蔵前です
鎌倉街道上道は矢印の方向に曲がって進みます  写真では切れてしまっていますが、今市地蔵堂の左側も道路が走っており、
矢印と反対方向(地蔵堂右側、丁度車が走っている方向 多分これが旧道)の道路と合流します。この道を行くと畠山重忠の
生地である畠山重忠館跡(畠山重忠史跡公園)方向です。




今市地蔵堂の境内に設置されいる「鎌倉街道(上道)のみちすじ」の大きな案内板




①が須賀谷原の合戦の場所と言われるところ  ②がこの高見原の合戦 の場所と言われるところです
②の印の右に「畠山館跡」、その下に畠山重忠の重臣であった本田親恒(近常)の「本田館跡」の表示が見えます




鎌倉街道沿いの今市地区  道端に何やら標柱と祠が見えます
(この辺りの実際の鎌倉街道はこの道より少し西側を走っていたようです。この写真では右の方)




標柱には一部剥離していますが、  
  高見原古戦場跡  慰霊首塚稲荷  長享二年(1488)
とあります。
無論近世のもので地元の篤志家が建立したのでしょう。




覆屋の中に納められているのは石の小さな祠です   覆屋には稲荷鳥居が取り付けられています

戦国時代は、応仁の乱(応仁元年〔1467〕)から始まった(諸説あり)と言われます。その過程において発生した「長享の乱」
は「享徳の乱」(享徳3年〔1454〕~文明14年〔1483〕)とともに 関東版の応仁の乱とも称され、応仁の乱が11年間の戦
いであったのに対し、長享の乱は約30年にわたる争いでした。
この結果、上杉氏は衰退し、北条早雲の関東進出を許す結果となりました。そうした歴史のひとつの舞台が高見原に繰り広げら
れたわけです。そんな歴史を後世に伝えていくことは大切なことでしょう。

散策日:平成30年(2018)7月19日(木)

平成30年度歴史講座「戦国の城館」第1回

2018年09月19日 | 講演会・講座


埼玉県立嵐山史跡の博物館主催による
平成30年度歴史講座「戦国の城館」
第1回「関宿城と中世利根川水運」
講師 新 井 浩 文 氏 (埼玉県立歴史と民族の博物館)
日時 9月14日(金)13:45~15:30
会場 国立女性教育会館研修棟 講堂

を聴講してきました。




会場はいつもの国立女性教育会館研修棟講堂




講座資料




女性教育会館本館前の庭に咲く百日紅  




関宿城 千葉県野田市(旧関宿町)スーパー堤防の下にわずかに残った本丸曲輪跡と城址の碑  2010.1.30撮影




御三階櫓を模した関宿城博物館  2010.1.30撮影

聴講日:平成30年(2018)9月14日(金)

山口城(埼玉県所沢市)

2018年09月16日 | 100名城以外の城館跡


城 名:山口城(やまぐちじょう)
別 名:児泉城
形 態:平山城
時 期:平安時代末期
築城主:山口家継
城 主:山口家継・高清・高治・高実
遺 構:土塁
指 定:県指定旧跡(昭和37年〔1962〕10月1日)
現 状:商業施設ファッション市場サンキ
所在地:埼玉県所沢市山口1517番地ほか

山口氏は、平高望を祖とする桓武平氏の流れを汲んだ武蔵七党のひとつ村山党の支族です。平良文(村岡五郎)の後裔である
平頼任が武蔵国多摩郡村山(現在の東京都武蔵村山市)を領し村山氏(村山頼任)を名乗り村山党の祖となる。その子・頼家
の子息は入間郡各地に分散し、大井・宮寺・金子を称した。そのうちの一人村山家継が武蔵国入間郡山口(現在の埼玉県所沢
市山口)に在して山口氏(山口家継)を名乗ったのが始めで、その居城が山口城であった。なお、その子・家信が川越市仙波
に居館を構えて仙波氏(仙波七郎)を名乗った。

城跡は、県道55号線の交差点に「山口城趾前」の名称がつけられたのみで長年放置されていた。平成12年(2000)になり
商業地として開発されることとなり、当初は遺構を取り壊して完全に整地される計画であったが、遺構の保存を求める運動が
起こされ、商業地として開発される敷地のうち一部が整備されて保存されることになった。現在は城跡であった部分の殆どは
整地されて商業施設となっているが、保存運動によって残存した土塁や空堀のごく一部分が保存されている。




山口城趾前交差点  山口城址の標柱脇の議員の看板や山口城跡説明板の上の大きな看板が目障りですが、保存に至る経緯を
考えれば仕方ないことでしょう      城趾・城址・城跡  3通りの漢字が使われていますので忠実に(笑)




県道55号線沿いにある「山口城跡」の標識




山口城跡の説明板
今年新しくなったようですが、内容は以前のものとほとんど変わっていません。




左側を走っている道路が埼玉県道・東京都道55号 所沢武蔵村山立川線




現在残っているのは、第1号土塁の一部 第2号土塁 第3号土塁のようです




土塁が現存する辺りが城の中心部であったようです




山口文化財案内図
全部散策できれば良いのでしょうがそうも行きませんので興味ある場所のみを散策しましょう(後日になりますが)




第1号土塁を北側から




第1号土塁を西側から




第2号土塁を北西側から




第2号土塁を北側から




第3号土塁を北側から




第3号土塁を北東側から




第3号土塁を東側から




第2号土塁を南西側から




山口城跡から東へ2km弱行った所にある山口氏の菩提寺として創建されると伝えられる瑞岩寺




山門と山号「祥雲山」の扁額




門前にある瑞岩寺の指定文化財の説明板   山口氏の墓搭についての説明もあります




山門をくぐると大きな石灯篭が一対  その先に本堂が
この石灯篭は例の石灯篭です・・・そう、徳川将軍家の墓所である増上寺にあったもの。




本堂に掲げられた寺号「瑞岩禅寺」の扁額
寺紋は曹洞宗の宗紋(大本山総持寺)である五七の桐紋




六地蔵尊  これが目的ではないのですがいつものお約束事ですので




鐘楼




覆屋の中の山口氏の墓搭3基  
これが目的で瑞岩寺を訪ねたわけで、この写真だけでも良かったのですが折角ですから他の写真も載せた次第です。



確かに3基には間違いありませんが・・・ちょっと考えてしまいます。

山口城跡の訪問は今回が2回目でしたし、内容も前回と変わり映えしませんが、
ここしばらくの間、武蔵七党の関係個所、特に村山党関係の城館跡を散策してきたものの、山口城跡だけが数年前(平成24年
(2012)1月15日(日))の訪問でしたので再度の散策となりました。

再散策日:平成30年(2018)8月19日(日)

大井氏館(埼玉県ふじみ野市)

2018年09月13日 | 100名城以外の城館跡


城 名:大井氏館(おおいしやかた)
別 名:―
形 態:館
時 期:平安時代末期~鎌倉時代初期?
築城主:大井家綱?
城 主:大井氏
遺 構:―
指 定:―
現 状:宅地
所在地:埼玉県ふじみ野市大井(元入間郡大井町大井)

大井氏は、武蔵七党のひとつ村山党の祖である村山(平)頼任の孫の家綱が武蔵国入間郡大井に在し大井氏を名乗ったのが始ま
りとされるようです。大井氏の居館は苗字の地であるこの大井に築かれていたようですが今一つ場所がはっきりしません。




国道254号線(川越街道)沿いにある特性寺  この徳性寺を含む東側一帯が館跡の推定地とされるようです




山道脇に設けられた徳性寺の説明板  残念ながら大井氏・館跡に関する記述はありません




もう一つの説明板にもやはり大井氏に関する記述はありません




川越市の南院(廃寺)或いは川越城から移築されたともいわれる山門  大井氏館跡とは関係ない建物ではありますが・・・
川越市に 北院(喜多院)・中院・南院 と並んでいたわけで 廃寺となったその南院のことですね。




本堂




寺号「徳性寺」の扁額  ガラス戸にある紋は天台宗の宗紋で菊花を基調にした「三諦星」紋




板碑群   これら板碑が大井氏と結びつくかどうかは不明ですが




弘安の板碑    鎌倉街道と伝えられる古道に面した「坂上の石塔畑」(東台)から出土したそうです




国道254号線を横切って東に少し行った場所にある「大井戸」
残念ながら説明板の文字が褪色していてよく読めません




大井の地名の由来となった「大井戸」(復元)




大井弁天の森

他にも何か所か確認しておきたかった場所がありましたが、宅地化が進んでいたため見つけられませんでした。
まあ、こn辺りに大井氏の居館があったということだけで満足しておきましょう。

散策日:平成30年(2018)8月19日(日)

勝呂氏館(埼玉県坂戸市)

2018年09月10日 | 100名城以外の城館跡


城 名:勝呂氏館(すぐろしやかた)
別 名:勝呂豊前守館・勝呂屋敷 
形 態:居館
時 期:平安時代末期
築城主:不明
城 主:伝勝呂豊前守(永禄年間)
遺 構:―
指 定:―
現 状:宅地
所在地:埼玉県坂戸市石井1905番地 宗福寺近辺

勝呂氏館は、宗福寺近辺地域が永禄年間(1558~70)の頃、後北条氏の家臣であった勝呂豊前守の居館跡と伝わる。勝呂(勝、
須黒とも)氏は、武蔵七党のひとつ村山党に属し、勝呂に住し、「吾妻鏡」にみえる恒高、その子頼高は承久の乱(承久3年・
1221)で討死している。豊前守はその子孫で後北条氏没落後は上総国久留里藩の里見家に仕えたという。(「埼玉の館城跡」)




県道256号線(川越片柳線)の「石井下宿交差点」の手前に「宗福寺」の寺号標が建つ入口があります。
電柱の後ろに見える屋根が保育園で、左側の建物が宗福寺ですが、この辺りが館跡のようです。




宗福寺本堂




境内にある板石塔婆




板石塔婆の説明板  ・・宗福寺は平安末期以来このちを領した勝氏の館跡に隣接して・・ とあります
かつては付近に堀跡や土塁といった遺構があったようですが宅地化に伴い消滅しているようです




坂戸市塚越に所在する「西光寺」
勝呂氏館とは直接関係ないのですが、「勝」の銘が入った宝篋印塔があるとのことで足を延ばしてみました。




門前にある西光寺の説明板  末尾に宝篋印塔のことが記されています




折角ですから西光寺本堂の写真を




本堂裏にある墓地の中の住職歴代の墓所の中にある宝篋印塔

実は、勝呂氏館跡として同じ坂戸市石井地内にある「大智寺」も推定地になっています。そのため大智寺の方を「勝呂氏館」と
呼び、宗福寺の方を「勝呂豊前守館」と称している方もおられ中々複雑です。一応、大智寺についても散策はしてあります。

散策日:平成30年(2018)8月19日(日)

仙波氏館(埼玉県川越市)

2018年09月07日 | 100名城以外の城館跡


城 名:仙波氏館(せんばしやかた)
別 名:―
形 態:館
時 期:平安時代末期?
築城主:仙波氏(仙波七郎家信)
城 主:仙波氏
遺 構:―
指 定:市指定史跡(昭和33年〔1958〕3月6日指定)
現 状:長徳寺
所在地:埼玉県川越市仙波町3丁目31―23(長徳寺)

仙波氏は、平高望を祖とする桓武平氏の流れを汲んだ武蔵七党のひとつ村山党の庶流です。村岡五郎(平良文)の5代目平頼任
が現在の東京都東村山市付近に在し、村山氏(村山頼任)を称した。その子・頼家の子息は入間郡各地に分散し、大井・宮寺・
金子を称した。そのうちの一人村山家継は埼玉県所沢市山口に城を構えた。その子・家信が川越市仙波に居館を構えて仙波七郎
と称し(仙波氏の祖)、その南部一帯に広域な荘園を構えた。そんな仙波氏館跡と推定される長楽寺を訪ねてみました。
異説によると仙波氏館は喜多院のある場所にあったのではないかとも・・・




長徳寺南側は坂道です。下っていくと国道16号線に突き当たります。




長徳寺山門付近  坂の下に見えるのが観音堂




川越市教育委員会による「市指定・史跡 仙波氏館跡」説明板
天台宗の末寺とだけありますが、仙波喜多院末ですね。
”境内に、もと若干の土塁と堀があったといわれ”あるとは書かれていません。あったといわれ、とあるだけで、実際土塁も
堀も見当たりませんでした。




山門前に建てられている「川越市指定史跡 仙波氏館跡」の標柱
右側面に 昭和三十三年三月六日指定 と大きく書かれています




山門を別角度から




山門から本堂を




山号「冷水山」と揮毫されたの扁額




本堂




寺号「長徳寺」と揮毫された扁額
出入り口ガラス戸のガラスに入っている「丸に竪三引き両紋」  長徳寺の寺紋でしょう
この丸に竪三引き両紋が仙波氏の家紋であったかどうかについて調べてみましたが結論は出ませんでした。しかし、仙波氏と
同じく平良文を祖とする三浦氏の家紋は丸に三つ引き両紋(三浦三つ引両)です。竪横の違いはありますが、仙波氏の属する
村山党は、三浦氏を敵として戦った(衣笠城合戦)仲とは言え、同じ平良文の後裔と考えれば、丸に竪三引き両紋が仙波氏の
家紋であったことは十分に考えられます。




大棟鬼飾りにも当然ながら丸に竪三引き両紋




境内から見る長徳寺観音堂の相輪




「稚児(いもっこ)観音」 左手にサツマイモを持っています 
川越名物の芋にかけてかと思ったのですが、稚児観音というのがあるようです。芋を持っているのは洒落かも知れませんが。




多層塔  別に意味はないのですが境内の一風景ということで




山門の内側に建立されている石灯篭
徳川家の菩提寺増上寺の有章院(第7代将軍 家継)の霊廟に地方の大名から献上されたものですが、どういうわけかここにも。
その理由については、過去記事「金子十郎家忠館」で簡単な説明をしてあります。




長徳寺観音堂(川越観音)




長徳寺本堂よりも低地にあることが分ります




この観音堂の前にも増上寺の有章院(第7代将軍家継)の霊廟に献上された石灯篭がありますが、献上した大名は山門内側の物
とは異なります
徳川氏とは無関係のお寺に何故三つ葉葵が入った石灯篭があるのか最初は不思議だったのですが、事情を知って納得。
しかし、よそのお寺(増上寺)に寄進されたものを移築してもと思いますが、やはり三つ葉葵に惹かれるのでしょうか?




観音堂前から本堂方向を
仙波氏館(長徳寺)が台地の上に築かれていたことがわかります




川越まつりで曳き廻される地元仙波町の山車   人形は、仙波七郎家信の二子・仙波二郎安家です。
仙波二郎安家は、元暦2年(1185)に源頼朝が相模の勝長寿院へ落慶供養のための参詣した際と、建久元年(1190)の頼朝上
洛の際に随兵に選ばれています。

今回も遺構がないことから仙波氏館とは直接には関係ないことばかりになってしまいました。
暑い中、川越駅から徒歩で往復しましたが、皆さんが書いている目安の時間よりだいぶかかってしまいました。

散策日:平成30年(2018)7月8日(日)