四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

永田城(埼玉県秩父市)

2018年03月31日 | 100名城以外の城館跡


城 名:永田城(ながたじょう)
別 名:-
形 態:平城(崖端城)
時 期:室町時代
城 主:永田林四郎、諏訪七左衛門、寺尾彦三郎
遺 構:郭・土塁・小口・空堀 
指 定:県選定重要遺跡(永田城跡・昭和44年(1969)10月1日選定)
現 状:栄福寺
所在地:埼玉県秩父市大字寺尾字永田(旧・秩父市)

永田城は、荒川の左岸にあり、比高46mの段丘上にある。段丘は26mの急崖をなしている。城跡には、秩父三十四ヶ所観音
霊場22番札所童子堂 (栄福寺)がある。そんな永田城跡を訪ねてみました。




永田城跡縄張図(梅沢太久夫著「埼玉の城 127城の歴史と縄張」より 赤字は加筆)




山門前も城跡域です




山門脇に設置の「札所22番華台山 永福寺」の説明板  札所の寺名が寺号の永福寺になったり童子堂になったりとややこ
しいので統一してね。




山門前の六地蔵尊 まあ城跡とは関係ないのですが、このブログのお約束事ですので。




藁葺き屋根の山門(仁王門)




扁額には「阿吽」とあります  札所だけに千社札だらけです




天井、梁と貼れるところならどこにでも・・・




格子でお顔がよくわかりませんがとてもユニークな顔立ちの「阿」 童子仁王だそうです。




同じく「吽」




山門の後ろ姿です




童子堂を斜めから




正面から童子堂を




彫刻が素晴らしい  本尊と堂内は撮影禁止です




「秩父札所22番 西陽山永福寺」の説明板  
山号は華台山のはずですが、この説明板では西陽山。一体どういうことでしょう。ますます混乱してしまいます。




本堂

取敢えずお寺さんの建物関係が一応終えましたので本題の城跡の遺構に移りましょう




縄張図の「あ」の土塁  削平されたのかすっかり通路に変っています




縄張図西側の「い」の土塁 「あ」と「い」の間の郭内に民家があります




上記場所を少し拡大で




「い」の土塁を北方から南方へ
写真左側が郭内 右側が郭外で堀跡が見られます




上の写真とは逆方向に




西側の土塁  上の写真の土塁より郭内側にある




小口  喰い違い小口になっている




西側北方の土塁




縄張図の「う」の堀
木が生い茂っていて堀底が見えないが水堀になっている




本堂裏は舌状地形で墓地となっているが周囲は急崖である




縄張図の「え」の地点  「う」からの延長でかなりの高さがある




縄張図の「お」の地点  「う」、「え」の延長沿いにある




縄張図の「か」の地点  舌状地形の先端(北側)で土塁跡がみられる




上記「か」の地点から小河川を望む




縄張図の「き」の地点




縄張図の「く」の地点から崖下を見下ろす
巡礼道になっているが足場が非常に悪い(最初はここを上って下りました)




「く」から望む武甲山と秩父公園橋




「く」から見下ろした巡礼道入口




ここから永福寺(永田城跡)まで往復してしまいました。上のほうは道らしきものがなく藪を抜けて童子堂の裏当たりに出ました。
なぜこんなところをと理由は聞かないで下さい。いつものことですので・・・
ここ永田城跡も一度では用が済まず二日続けての訪問でした。これだから新しい所が増えません。

散策日:平成30年(2018)3月28日(水)・29日(木)

諏訪城(埼玉県秩父市)

2018年03月30日 | 100名城以外の城館跡


城 名:諏訪城(すわじょう)
別 名:蓼沼城・大野原城
形 態:平城(崖端城)
時 期:南北朝時代
城 主:諏訪民部
遺 構:郭・土塁・空堀 
指 定:県選定重要遺跡(諏訪城跡・昭和44年(1969)10月1日選定)
現 状:諏訪神社
所在地:埼玉県秩父市大野原蓼沼(旧・秩父市)

諏訪城は、荒川と横瀬川が合流する地点の比高約30mの急崖山にあり、城主は、北条氏邦家臣諏訪民部と伝える。
秩父市大野原に所在するそんな諏訪城跡を訪ねてみました。城跡内を秩父鉄道が横断し、郭の一部を分断しています。




諏訪城跡縄張図 (梅沢太久夫著「埼玉の城 127城の歴史と縄張」より)




諏訪城跡入口の標柱
標柱左脇の道をそのまま進めば諏訪城跡に着きますが、ここに至るまでが大変です。道(侵入口)が分らず地元の方に教えてい
ただいた所を入って車1台がやっとの細い曲がりくねった道を数百m走りました。
この写真では写っていませんが、標柱の東側には土塁跡らしきものがあります。




内郭(主郭)跡へ向かいます。左の麦畑は西郭(2廓)の一部




内郭(主郭)には諏訪神社が建立されています




「諏訪神社」の扁額のある鳥居




石灯篭と社殿 左側のフェンスの外側は荒川側の急崖です




諏訪城跡の説明板の類はありませんでした、あったのは神社の由来の書かれた看板ですがほとんど読めません




社殿 社務所と一体になっています




「諏訪神社」扁額




社殿前から見た主郭内
滑り台、ブランコ、鉄棒の遊具の脇に盛土がありますが、遊び場として盛ったもので土塁ではないと思います。




同じく社殿前から見た内郭(主郭)内東側




鳥居東側にある土塁空堀跡?




内郭(主郭)から外郭に出ました 右側が西郭(2廓)
丁度秩父鉄道の電車が走ってきました。線路の向こうが東郭(3郭)跡ですが遺構の確認ができません。




西郭(2廓)跡には太陽光発電のパネルが並べられています。まだ稼働前の準備中のようですが、準備作業に来ていた所有者の
話しですと、地山を壊すことは禁止されていることから盛り土をして地山は保護したとのことでした。




西郭(2廓)外郭の折れのある土塁




水田跡の窪地




秩父鉄道の線路と水路
線路左側(東側)は東郭(3郭)跡  水路は内郭部に入って、深さ4~6m上幅6~8mの谷になる




ここ辺りも東郭(3郭)跡ですがやはり太陽光発電のパネルが並んでいます。
最近はあちらこちらに太陽光パネルが見られます。エネルギー対策に重要なことなのでしょうが、景観が損なわれているのが
ちょっと残念です。




諏訪神社社殿脇(東側)の谷 天然の水堀ですね。先ほどの水路はここに流れてきています。先の方で横瀬川に合流しています。




社殿裏(北側)




社殿裏 上記写真と反対方向に




社殿裏の急崖の突端(北端) 青い橋が和同大橋  左側が荒川 右側が横瀬川
天然の要害でこちらから攻められることはないでしょうが、正面から攻められて追い込まれたときはこれ以上後退できません。
まさに文字通り背水の陣となります。




木立でよく見えませんが中央のモスグリーンの部分が横瀬川




荒川

実はこの諏訪城攻城でも大失敗をしています。秩父市内にはいくつもの諏訪神社があるようで、こことは別の諏訪神社の所在
地を調べてしまい、行ってみたら諏訪城跡の諏訪神社とは全く雰囲気の違う諏訪神社でした。幸い近くに公民館がありました
ので、そこで改めて調べていただきましたら、走行距離にして約10㎞も離れていました。
更に、上のほうでも触れましたが、付近に辿り着けど中々肝心の諏訪城跡に辿り着けずといった具合でした。更にさらに写真
の失敗で2日続けて攻城する羽目に・・・いつものことですが

散策日:平成30年(2018)3月28日(水)・29日(木)

阿左美氏館(埼玉県皆野町)

2018年03月29日 | 100名城以外の城館跡


城 名:阿左美氏館(あさみしやかた)
別 名:-
形 態:館
時 期:戦国末期
城 主:阿左美氏
遺 構:石垣 
指 定:町指定史跡 (昭和59年〈1984〉4月1日指定) 
現 状:宅地
所在地:埼玉県秩父郡皆野町下日野沢

北条氏邦の家臣であった阿左美氏の館跡を訪ねてきました。秩父最大級といわれる当時の石垣が今でも遺っており、現在もご子
孫の方が生活しておりますので道路から石垣を見る程度の散策となりました。




県道284号線沿いにあるバス停「日野」の向かい側に「阿左美氏館跡」の標柱がありますので同所の坂を上がっていきます。




この標柱のある坂を上がって行くと数分で着きます。




途中、菜の花が綺麗だったもので・・・




石垣が見えてきました。現在ここには2軒のお宅があり何れも阿左美氏のご子孫とのことです。




石垣の前に立派な説明板が建っています。早速・・・




これを見れば詳しい説明はいらないでしょう(説明しろと言われてもできませんが)
誤字がひとつあります。折角立派な説明板なのに、勿体ない。




西側のお宅への入り口坂の石垣




道路から西側のお宅の前の2重石垣を




池 この日は水が張られていませんでした




古道を上がり切った所




古道から西側石垣を




古道から石垣を西方から東方に




2重石垣お外側の石垣の張り出し部




東側のお宅はこの石垣の上に




石垣を西方から東方に




石垣を東方から西方に




東側のお宅へは右側の道を




東側のお宅へ入る坂道の右側にも石垣が続いています




眼下に県道284号線が見えます

説明板によれば門の礎石も遺っているとのことですが、それらしきものは見当たりませんでした。

実は今回も失敗をしてしまいました。バス停と標柱を見落としてかなり進んでしまい、ここだろうと細い山道をかなり上まで上
がっていってしまい、下りてくるのがこれまた大変でした。
下りてきた場所で男の方2名が作業をしていましたので場所を教えてもらい標柱のある場所まで引き返してきた次第です(恥)

散策日:平成30年(2018)3月28日(水)

企画展「鉢形城その後~開城後の鉢形城」

2018年03月25日 | 企画展・見学会


現在、埼玉県寄居町の「鉢形城歴史館」で開催中の
  平成30年度春季企画展「鉢形城その後~開城後の鉢形城」
に行ってきました。




企画内容  (チラシの裏面から抜粋転載)




案内板に貼られたポスター 




鉢形城歴史館入口 館内は例にもれず撮影禁止ですのでこれより先の写真はありません




上記のとおり館内写真撮影禁止ですので代わりに入館時に頂いたパンフレット(図録のミニ版?)の表紙両面を載せておきます
開くと中には展示品の写真や開城後にかかわる解説が載っています。展示品は、「昌国寺」蔵の朱印状や文書等が中心です。
北条氏邦の家臣であった水野長勝は、鉢形城開城後は徳川家康とは従兄弟であったことから鉢形領内の赤浜に500石を知行され、
旗本に登用されています。
赤浜に構えた屋敷に創建したのが昌国寺で水野家の菩提寺となっています。詳しくは個々で調べて下さい(完全な手抜きです)
なお、私も昨年2月に昌国寺を訪ねていましたので興味ある古文書でした。
この画像の背景のになぜこの紋様を使ったのか分かってもらえますか? 言われずとも分っているとのこと有難うございます。

「水野氏陣屋跡-昌国寺」本ブログにアップしてあります。クリックでリンク

企画展の見物を取敢えず終えましたが、寄居町役場の会議室で行われる講演会「謎解き鉢形城・・・」までは時間がありました
ので今年も・・・




深沢川を渡って




そうです。鉢形城の桜・エドヒガンを観ようと・・・




寄居町の花かたくりとのコラボで




かたくりのアップ




「町指定天然記念物 鉢形城の桜・エドヒガン」の説明板




公募で愛称が「氏邦桜」と決まった鉢形城の桜・エドヒガンのライトアップもあるようで




おもてなし 私も一杯頂きました
今年の「寄居北条まつり」のポスターも  今年の開催日は5月13日(日)のようです

1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めの時、鉢形城主北條氏邦は前田利家を総大将とする5万人の豊臣勢を相手に
僅か3500人の兵力で1ヶ月余の攻防戦を続けるも、6月14日に開城した。 秀吉が、前田利家、上杉景勝両将鉢形城攻めを
催告し、包囲攻撃したのが、この年の5月13日と言われている。奇しくもこの今年の寄居北條まつりはまさにこの日です。

企画展の話がいつの間にか寄居北條まつりの話になってしまいましたが、これほど企画展と関係ある話はないでしょう。




緋毛氈が敷かれた縁台 やはり桜に似合います




もう一度氏邦桜こと鉢形城の桜・エドヒガンの写真で・・・

訪館日:平成30年(2018)3月24日(土)

講演会「謎解き鉢形城~発掘調査報告会~」

2018年03月24日 | 講演会・講座


講演会「謎解き鉢形城~発掘調査報告会~」

日 時:平成30年3月24日(土)13:30~16:30
会 場:寄居町役場 601会議室
講演会
(1)講演「鉢形城跡について」
    講師 梅沢 太久夫 氏(元埼玉県立歴史資料館長)
(2)報告「平成29年度伝逸見曲輪の発掘調査について」
    報告者 石塚 三夫 氏(鉢形城歴史館長)
(3)講演「鉢形城跡の発掘調査の今後の展望について」
    講師 橋口 定志 氏(NPO法人としま遺跡調査会副理事長)
内 容:国指定史跡鉢形城跡では、第2期保存整備事業に伴い平成29年の秋に伝逸見曲輪の発掘調査を行いましたが、
    発掘調査の成果や鉢形城跡の概要を分りやすく発表というもの。
主 催:鉢形城歴史館(寄居町役場)

を聴講してきました。




講演会が行われた埼玉県寄居町役場




今回の資料です

北条氏邦関係のあることに関し誤った認識を持っていたことが今回の講演会で分りました。正しくはどうなのかを講師の
先生にお聞きしましたので今後は新たな認識で(何を認識違いしていたかは言えません・・・恥ずかしくて)
大変勉強になりました。

聴講日:平成30年(2018)3月24日(土)

講演会「東山道の発掘から古代の坂戸を考える」

2018年03月23日 | 講演会・講座


29年度坂戸市文化団体連合会企画講演会
  知ろう郷土の歴史を!!
東山道の発掘から古代の坂戸を考える

講師:坂戸市教育委員会 加 藤 恭 朗 氏
日時:平成30年3月23日(金)14:00~16:00
会場:坂戸市文化会館 第1会議室(平成の間)

を聴講してきました。

「東山道武蔵路の発掘から古代の坂戸を考える 坂戸で発見された古代の官道」
をテーマに、東山道武蔵路や隣接する勝呂廃寺の発掘状況等を中心にパワーポイントによる画像で紹介解説をしていただきま
した。講話の中で登場した勝呂廃寺や南比企窯跡群など実際に見学してきたことがあっただけに理解しやすく大変勉強参考に
なる講演会でした。




上記地図は、資料「東山道武蔵路を探る~路でつながる古代の国分寺と坂戸~」からの転載
下記は、同資料「2東山道武蔵路ってなぁに?」から抜粋引用させていただきました。

 都と地方を結ぶ官道は、7世紀後半から本格的な整備が始まったと考えられています。古代の武蔵国(現在の埼玉県・
東京都・神奈川県の一部)は、「東山道」に所属していましたが上野国(現在の群馬県)と下野国(現在の栃木県)を通過
する、東山道かの本道からは外れた位置にありました。
 このため、東山道から南下して武蔵国府(現在の東京都府中市)へ向かう官道が整備されました。この官道については、
奈良時代の歴史書『続日本紀』に記されていますが、名称までは記載されていないため、便宜的に「東山道武蔵路」と呼ば
れています。
 しかし、上野国から武蔵国府へ向かい再び同じルートで戻るのは当時の人々にとっても負担であったため、宝亀二年(7
71)に武蔵国は東山道から「東海道」へ所属替えとなりました。これによって、官道としての東山道武蔵路は役目を終え、
東海道を使用して相模国(現在の神奈川県)から武蔵国府をを経由し、下総国(現在の千葉県北部)に向かうルートに変更
になりました。以下略




資料 2種類 
左のカラーのものは、第1回国分寺市・坂戸市合同企画展(平成27年11月~平成28年3月)の際の資料ですが、今回の講
演会でも活躍です。   

聴講日:平成30年(2018)3月23日(金) 

矢井伊勢守館(埼玉県深谷市)

2018年03月22日 | 100名城以外の城館跡


城 名:矢井伊勢守館(やのいいせのかみやかた)
別 名:-
形 態:館
時 期:戦国末期
城 主:矢井伊勢守重家
遺 構:- 
指 定:-
現 状:宅地
所在地:埼玉県深谷市藤野木(旧・深谷市)

矢井(やのい)氏は武蔵七党のひとつ猪俣党出身である可能性があるとされます。矢井伊勢守重家は深谷上杉四宿老のひとりに数
えられています。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めによる深谷城開城により、北条氏に近かった矢井伊勢守重家は、危害が及ぶのを
恐れて家臣とともに上野国尾島村で隠棲しました。その後、深谷に戻り現在の地に館を構えて移住し、「矢井」から「加藤」に苗
字を改めた。重家は、藤野木で天正20年(1592)に没したが、その後も子孫の方が館跡に居住し現在に至っています。
内堀などの遺構もあったようですが、土地改良によって今は消滅しています。また、屋敷跡の大半は老人ホームとなっています。
現在の居宅は、言うまでもなく当時のものではありませんが、旧家の雰囲気は十分に感じられました。
なお、現に生活している一般のお宅ですので、プライベートに触れない程度に、写真は離れた場所から2枚ほど撮らせていただく
だけにしました。

散策日:平成30年(2018)3月15日(木)

国指定史跡 幡羅官衙遺跡群(埼玉県深谷市・熊谷市)

2018年03月20日 | 官衙・国分寺・廃寺跡
■ 国指定史跡 幡羅官衙遺跡群



埼玉県深谷市と熊谷市にまたがる国指定史跡「幡羅官衙遺跡群」(はらかんがいせきぐん)を訪ねてみました。
深谷市の幡羅官衙遺跡と熊谷市の西別府祭祀遺跡(西別府官衙遺跡群も一部)を併せて「幡羅官衙遺跡群」としています。
正式に国指定史跡となる前から何度か他の史跡見学の折に付近を歩いてはいましたが・・・




深谷市東方地内の新設中の道路から正倉院跡方向を見ています。熊谷衛生センターの建物方向に向かって正倉院はあったようです。




新設中の道路脇に設置されている「古代幡羅郡役所跡 幡羅遺跡」の説明板




上記説明板の地図部分  発掘されたところは埋め戻されていますので遺構によって場所を特定することができません。地図を基
に大まかな場所を特定して写真を撮っていますので正確ではありません。




説明文




中央の森が湯殿神社ある場所で、この一帯が「西別府祭祀遺跡」(熊谷市分)です
手前の畑が実務官衙域の一部分かと思われますが、果たして・・・




湯殿神社の社号標石柱
左側にある道路沿いに湯殿神社の表参道があります




湯殿神社の表参道




参道入口に設置されている「西別府官衙遺跡群」の説明板
文字が細かくて写真では判読できませんのでの一部(国指定史跡の指定区域となった西別府祭祀遺)を転記しておきます。

西別府祭祀遺(熊谷市指定文化財史跡)
 湯殿神社が所在する台地の縁辺部に位置し、7世紀後半から11世紀前半に至るまで連綿と行われた水辺の祭祀(湧泉祭祀)の
遺跡で、湯殿神社裏の湧水地点をちゅうしんにして、7世紀後半の石製模造品と、7世紀末以降の土師器・須恵器などが多数出土
しています。
 水の恵みを願う7世紀後半の石製模造品を用いた祭祀が、7世紀末から8世紀初頭にかけて群家が成立したことにより群家に所
属する公の祭祀と変遷し、9世紀後半には願文や吉祥文字を墨書した土器などを用いた祭祀へと変化していったことが推測されま
す。




上記説明板の地図部分




湯殿神社社殿




湯殿神社社殿東脇にある西別府祭祀遺跡入口




昭和38年の西別府祭祀遺跡の調査地点を示す標柱




湯殿神社社殿裏の水路(堀)  西方から東方に




湯殿神社社殿裏の水路(堀)  東方から西方に




湯殿山の水神様




御手洗池




西別府廃寺(古代寺院跡)は、蔵のあたりからその先一帯であったと思われます。中央に少しだけ見える茶色の建物が特別養護
老人ホーム永寿苑です。




実務官衙域(深谷市分)は、この前方一帯辺りと思われます。




国の文化財審議会が「幡羅官衙遺跡群」を国指定史跡するよう文部大臣に答申したことを報じる新聞記事
官報に登載されて初めて国指定史跡となりますが、答申されたということは国指定史跡に決定も同然です




平成30年2月13日付けの官報に国の史跡に指定したとの告示がなされ、正式に国指定史跡に登録されました
※「幡羅官衙遺跡群」に関する部分のみを抜粋

これで埼玉県で20件目の国指定史跡となりましたが、深谷市にとっては初めての国指定史跡です(熊谷市には既に
国指定史跡「宮塚古墳」があります)




「幡羅官衙遺跡群」を構成する幡羅遺跡発見の立役者である知久裕昭さん(深谷市職員)が、これまでの研究成果を
まとめた「武蔵国幡羅郡から見た古代史」(まつやま書房)を本年1月下旬に出版しましたので、発売とほぼ同時に
購入しました。ただし、まだ読んでいません(恥)

散策日:平成30年(2018)3月15日(木)

武蔵武士の本拠を訪ねる3 丹党加治氏の遺跡を巡る ③

2018年03月19日 | 史跡・文化財めぐり〈団体〉


智観寺で宝物殿の収蔵品や中山信吉らの墓を見学後は、智観寺のすぐ東方にあった中山家範館跡の散策です。
館跡の一角に中山家範館跡碑と中山家範館跡説明板が並んで建てられていますが、これは館跡碑。




石碑の右側に建っている中山家範館跡の説明板 褪色してほとんど読めない状態ですが、写真元画を拡大して何とか読んでみました。
文面は次の通りです。

埼玉県指定旧跡
   中 山 家 範 館 跡
                                         飯能市大字中山496番地2ほか
                                         昭和38年2月7日指定
 中山氏は武蔵七党の一つ丹党の出で、鎌倉時代の加治家季の頃に中山に居住し、中山を氏とするようになったという。館の西方に
位置する智観寺には、加治家季夫妻の供養のために建立されたと推定される板碑(仁治2・3年、1241・1242年)がある。
 中山家範は後北条氏に従い、天正18年(1590)八王子城で戦死している。
 この館は小規模なものであり、周囲に推定幅4~6メートル、深さ1~2メートルの堀をめぐらしていた。この内堀は東西約60
メートル、南北約90メートルで、外郭は東西約110メートル、南北約130メートルと推定される。館の北には勘解由山があり、
館は丹生堀と加治堀の水源にはさまれていた。また西に智観寺、北西に丹生社、北に鎮守12社が置かれた。
 館の周辺には中山家に仕える武士の居宅や田畑があり、中山氏は日常は農業経営を行い、武芸の鍛錬に励み、戦闘にあたっては武
士団の長として活躍した。
 館跡は戦後、北堀及び西堀の一部が残されていたが、現在は宅地化が進み、空堀が北西部隅に残されるのみとなっている。
  平成8年3月
                                              埼玉県教育委員会
                                               飯能市教育委員会




上記説明板の地図部分 撮影したそのままでは見づらいので加工してあります。
現在地の文字の左側に黒点がありますが、遺構はその場所に土塁と堀跡がわずかに残る程度で、周囲は完全に住宅街と化しています。




僅かに残る土塁と空堀跡です。ガレージの向こう側に石碑と説明板が建っています。ガレージの向こう側の道路からは、ガレージの
陰になっていますのでこの遺構は見えません。
石碑や説明板があるから、また、この場所に中山家範館跡の遺構があるといった予備知識があれば、土塁や堀跡を遺構と認識できる
かもしれませんが、石碑や説明板もなく、予備知識もなかったら、ここが館跡とはお城ファンでも気付かないかもしれません。




反対方向から見た土塁や堀跡 こう見ただけではただの窪地くらいにしか見えません。




中山家範館跡見学の後は最後の見学場所加治神社です。




「中山氏と加治神社」説明板




「加治神社寛永十九年石灯籠」説明板




社殿前の参加者の様子




社殿

丹党加治氏の遺跡巡りもここ加治神社で無事終了。現地解散となり参加者は最寄り駅や市民会館へなどと帰路につきました。

散策日:平成30年(2018)3月16日(金)

武蔵武士の本拠を訪ねる3 丹党加治氏の遺跡を巡る ②

2018年03月18日 | 史跡・文化財めぐり〈団体〉


 智観寺は、平安時代元慶年間(877~885)武蔵7党の一つ、丹治武信の創建である。丹治氏は、28代宣化天皇の曾孫、
多治比古王より出、武蔵国司として任ぜられ次第に土着豪族として勢力を拡大した。その後、中山に本拠を構え、加治氏として名
乗った末裔が、「中山氏」となったのである。
 加治氏は鎌倉時代北条氏に仕え、その板碑塔婆は県指定文化財となり、その館跡は当時の面影を残す重要な資料として千葉県佐
倉市の国立民族博物館に模型として採用されている。ちなみに板碑とは、畠山重忠と戦った加治家季公を弔った碑である。
 中山氏は、天正18年(1590年)八王子城を最後まで守った勇者中山勘解由家範の働きが豊臣秀吉、徳川家康に絶賛され、
その子照守は徳川家旗本に、弟、中山信吉は15歳で家康の小姓となった。さらに、信吉は水戸徳川家の付家老として幕府より派
遣され、黄門様として親しまれる2代光圀を世継ぎとして3代将軍家光に言上した功績で知られている。また、信吉は林羅山、伊
達政宗とも昵懇であった。寛永19年(1642)に卒し智観寺に葬られる。以後、13代までの墓がある。なお。日光輪王寺に
も碑がある。                (チラシ「真言宗豊山派 常寂山蓮華院智観寺」から転載)




飯能市民会館会議室での昼食・休憩を終えて「丹党加治氏の遺跡を巡る」午後の部に出発です




住宅街の道を歩いて中山氏のもう一つの菩提寺である智観寺へ向かいます




智観寺の参道前に着きました  文化財表示の標柱と寺号標の石柱




中々味のある手書きの案内板




参道




山門をくぐって境内へ




山号「常寂山」の扁額




山門を入ってすぐの左手にある鐘楼




智観寺 宝物殿
普段は公開されておりませんが、今回、特別に公開をしていただき住職さんからの説明もありました




宝物殿に収蔵されている飯能市指定有形文化財木造薬師如来坐像の説明板
宝物殿内は撮影禁止ですので残念ながら薬師如来坐像の写真はありません




これらは宝物殿に収蔵されているものですが、上述の通り撮影禁止のため写真は撮れませんでしたが、この写真は、頂いた「丹党
加治氏の遺跡を巡る」の資料の中に掲載の写真です。
(出典元として、資料には、飯能市郷土館特別展図録『中山氏と飯能・高萩』2003からの転載とあります)




丹党加治氏の板碑
この板碑の写真も上記同様ですが、ブログ用に説明文の位置だけを編集させていただきました。
この2基の板碑は智観寺墓所に建立されていたものですが、現在は宝物殿に収蔵されています。
右側の仁治二年銘の27は、亡母「名阿弥陀仏の五七日(三十五日)供養のため
左側の仁治三年銘の28は、元久2年(1205)6月の二俣川の合戦で畠山重忠に討たれた加治家季の三十八年忌にあたり建てたと
される。
いずれも阿弥陀如来を示す種子を本尊とし、形態や名分の書き様が共通していることから。家季の息子、助家が父母の供養のた
めに造立したと考えられる。(資料の説明文から抜粋)




宝物殿見学の跡は中山信吉公らの墓の見学のため本堂横にある墓所に向かいましたが、雨がポツリポツリと降り始めていました。




本堂




本堂に掲げられた山号「常寂山」の扁額




「中山信吉と智観寺」についての説明板




上記説明板の中から「中山氏墓所図面」部分を




住職さんの初代中山信吉公の墓についての説明を聞く参加者




信吉公の墓は大きな宝篋印塔です。下から見ただけでも大きいことがわかります。




角度を変えて




中山信義墓石碑




左:6代中山信敏夫人の墓    右:6代中山信敏の墓




左:9代中山政信夫人の墓    右:9代中山政信の墓




左:8代中山信昌夫人の墓   右:8代中山信昌の墓




左:?  中央:初代中山信吉夫人の墓   右:初代中山信吉息女の墓  




7代中山信順の墓




13代中山信宝の墓




左:12代中山信守夫人の墓   右:12代中山信守の墓




左:10代中山信敬夫人の墓   右:10代中山信敬の墓




左:3代中山信治夫人の墓   右:5代中山信成の墓




3代中山信治の墓

他にも中山氏の墓がありましたが全部を撮ることはできませんでした。




風軒跡(中山信正霊屋跡)の説明板




石柱、石敷、石柵が遺る




智観寺に関する資料

散策日:平成30年(2018)3月16日(金)