四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

美里町阿那志地区の蓮と水車

2024年07月27日 | 花・鳥・風景

児玉郡美里町の阿那志(あなし)地区、関越自動車道と県道31号寄居本庄線とが交差(元阿那志交差点)
する側道沿いにの一角に蓮の花が咲いています。
この蓮は、日中友好のシンボルとして1997年に中国から日本に贈られた「大使蓮」のようです。
此処については以前から知ってはいましたが、いつも素通りで見学は今回が初めてでした。
ただ、午前11時台という時間帯でしたので開花していたのはだいぶ少なかったですが・・・



北阿那志老人会子供会とある水車 水車が回るのに合わせて中の絵も回っています










左側の建物は光勝寺本堂  お寺さんと蓮とを意識したわけではないでしょうが?



散策日:令和6年(20241)7月26日(金)

新一万円札の顔「渋沢栄一翁」のマンホールカード

2024年07月26日 | マンホール諸々

去る7月3日(水)に発行された新紙幣の内の1万円札の顔となった「渋沢栄一翁」のマンホールカードを
本日7月26日(金)から、『道の駅おかべ』ふるさと物産センター(埼玉県深谷市岡688-1 )で配布する
とのことから行って頂いてきました。
マンホールカードなるものが配布され始めた頃は、「マンホールカード? なにそれ!」といった感じで
したが、配布が重なっていくとともに、マンホールカードに使うマンホールのデザインも凝ったものが増
えてきたようです。そんなこと等からマンホールカードなるものの存在が浸透し、人気にもなっている昨
今です。それに加え、近代日本の産業経済の基礎を築いた深谷市出身の偉人である渋沢栄一翁が、新1万
円札の肖像となったことを記念したマンホールカードですから相当数の方が押し寄せることは容易に想像
できることでした。
案の定、時間の余裕をもって出かけたものの予想以上の列ができていましたし、配布予定時間を繰り上げ
て配布が始まったようです。
写真は、ふるさと物産センター入口横に設けられたマンホールカード配布場所で配布を受けている皆さん。



「渋沢栄一翁」のマンホールカード表面と裏面


「渋沢栄一翁」のマンホールカードをゲットすべく並んでいる皆さん
このテントの下には折り返し7列くらいの列ができており、並んだ際に手渡されたアンケート用紙に銘々
書き込んでいました。



この時の最後尾はトイレの端まで来ていました


マンホールカードと深谷駅をコラボしてみました


渋沢栄一翁のマンホールカードのデザインに使われているマンホールの設置場所
マンホールカードに記載されている位置座標(緯度東経) 36°11'32.3"N  139°16'51.9"E
は深谷駅北口のこの場所です

※本日から始まった新1万円札の顔「渋沢栄一翁」のマンホールカードの配布ですが、本日午後に
予定配布枚数に達したようです


カード入手日:令和6年(2024)7月26日(金)

深谷グリーンパークのユリ

2024年07月19日 | 花・鳥・風景

今年も『深谷グリーンパーク』(深谷市樫合763)の【ユリ】を見に行ってきました。
春はチューリップと桜を、夏はユリをと深谷グリーンパークへ行くのがここ数年来の定番となっています。
実は、チューリップに関しては今年は3回目の訪問でした。最初(7月5日)は蕾が付き始めた頃、2度目
(7月13日)は1~2分咲き程度でした。今日(7月19日)あたりが最高の見頃のようで、猛暑にも関わら
ず多くの方が写真を撮りに訪れていました。



5色5品種 約20,000本のユリが咲いています  色・品種ごとの列とランダムの列とがあります








赤色 品種:エスケープ


オレンジ色 品種:クリスカー


ピンク色 品種:チャイコフスキー


白色 品種:リッチモンド


黄色 品種:エバートン





散策日:令和6年(2024)7月19日(金)

岩殿の弁天沼と睡蓮

2024年07月08日 | 花・鳥・風景

東松山市岩殿の田村麻呂伝説がある『弁天沼』(鳴かずの池)まで行ってきました。
今年もまた睡蓮が咲いているかもしれないと・・・
弁天沼は、岩殿観音の参道入口の東方約 100mのところにあり、北側にはかつて阿弥陀堂があり、その阿
弥陀堂跡地の正面に弁天沼と呼ばれるこの池があることから、かつては浄土庭園があったのではないかと
も言われています。
更に、東方200m弱の所には、『足利基氏塁館』(足利基氏館館)があります。ここは貞治2年(1363)に
起きた「岩殿山合戦(苦林野合戦)」の際に、足利尊氏の次男鎌倉公方足利基氏が陣所にしたと伝わる史
跡です。





中島にあるお堂は弁財天が祀られている『弁天堂』


水面は『ヒシ(菱)』で覆い尽くされています






弁天堂


弁天堂の右方に建立されている石碑  この写真ではわかりませんが題額に『辨財天』と刻まれており、
碑文には悪龍を退治云々と刻まれています



弁天沼の東側 ここに睡蓮が咲いています
写真右側の四阿後ろのあたりに阿弥陀堂があったと言われます







睡蓮とヒシ(菱)

散策日:令和6年(2024)7月8日(月)

熊谷市・大塚古墳

2024年07月05日 | 古墳

7月1日、雨が降ったりやんだりという天候の下、熊谷市大塚地内にある『大塚古墳』を訪ねてきました。
同古墳は、熊谷スポーツ文化公園の北東角の向かい側にあり、現在、墳丘には熊野神社が鎮座しています。
『大塚古墳』は福川右岸の自然堤防上に造営された中条古墳群の大塚支群に属する古墳です。中条古墳群
は、かつては前方後円墳、円墳、方墳など39基を数えたそうですが、その多くは開墾などにより破壊され、
半壊した墳丘を留めるものが2基という状況のようで、そのうちの1基が大塚古墳です。
上の写真は、古墳の西側から撮ったものです。


名 称:大塚古墳(おおつかこふん)
別 称:中条大塚古墳(ちゅうじょうおおつかこふん)
墳 形:円墳 
規 模:直径約59m、高さ1.2mの基壇上に、直径35m、高さ4m以上の円形の塚がのった形
    石室は横穴式石室 全長9.6m、最大幅3.4m、現在、玄室は奥室だけ残る
築 造:古墳時代後期(7世紀前半)
出土品:鉄鏃・鞘尻金具・須恵器の大甕など
指 定:熊谷市指定史跡(名称:大塚古墳 昭和34年〔1959〕11月3日指定)
所在地:埼玉県熊谷市大字365



熊野神社参道  参道は大塚古墳(熊野神社社殿)の南側に設けられています


参道脇に大塚古墳の石室の天井部に使用されたものと思われる大きない一枚石
石室は埋め戻されたようで見当たりませんでした



『大塚古墳』説明板
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熊谷市指定文化財史跡
   大塚古墳    
                       指定年月日  昭和34年11月3日
                        所 在 地  熊谷市大字大塚
 大塚古墳は、古墳時代後期(7世紀前半)につくられた円墳で当地を支配していた豪族の墓であろうと
推定されています。
 墳丘は、直径約59m、高さ1.2mの基壇上に直径約35m高さ4m以上の円丘がのった形です。全体
で、5.2m以上の高さになると考えられます。
 現存する墳丘は、北西部分のみ残存していて、墳丘全体の約四分の一が残っている状態です。
 二度にわたる発掘調査により、埋葬施設は、奥室・前室をもつ複室構造の胴張型横穴式石室であること
が確認されています。
 石室内から、鉄製小札・鉄鏃・金銅製鞘尻金具・勾玉のほか、金箔装漆塗木棺の破片が出土し、西側の
基壇上からは、須恵器の甕が列をなして出土しました。
                        平成16年7月  熊谷市教育委員会

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南南西側から墳丘を


墳頂(熊野神社)への登り口


西方に向かっている石段を登り登り朱色の屋根の末社のところで北方に向きを変えて


墳頂に鎮座している熊野神社の社殿


社殿裏側(北側)の状況


葺石と思われる大き目の石が何個か露出しています(写真ほぼ中央)


墳丘下北側の状況

散策日:令和6年(2024)7月1日(月)

渋沢栄一 新一万円札を交換してきました

2024年07月03日 | エトセトラ

本日7月3日、20年ぶりに新紙幣が発行されました。
新紙幣発行のお祭り騒ぎに乗せられて新紙幣交換(両替)に行ってきました。新一万円札の顔となった渋
沢栄一公が生まれたのは現在の深谷市。その深谷市の埼玉りそな銀行の深谷支店で交換できるとの情報を
もとに出かけてきた次第です。
発行日早々に新紙幣を手にすれば価値があるというわけでもありませんし、ずっと我が家に居てくれるわ
けでもなく、2、3日もすれば手元から旅立ってしまう栄一公(新紙幣)ですが、それでも発行日に深谷市
でという一つの思い出にと・・・
上の写真は、両替した新一万円札を深谷市役所のロビーにある渋沢栄一公の像の前で記念撮影したもので
す。



新紙幣との交換(両替)が行われた店舗の中は幾重にも列ができこの混雑。更に、入りきれない方の列が
店舗の外にもできていました。交換が始まる前から並び、交換が始まってから約3時間でやっと両替機の
前に。トータルで何時間を費やしたことでしょうか。



報道のクルーが何組も来ていました。両替した新紙幣を見せながらインタビューに応じる主婦の方や男性
も複数名。店舗内に限らず外にも当然ながらクルーが・・・当日のこの日、深谷市内で新紙幣交換をした
のはこの埼玉りそな銀行のこの支店だけだったようですし、渋沢栄一ゆかりの深谷市ですから、報道関係
者も当然のごとく集まってきますね。



渋沢栄一公の新一万円札の裏面は東京駅の図柄。東京駅までは行けませんので、東京駅を模した深谷駅で。
東京駅の駅舎のレンガと渋沢栄一公はとは深い繋がりがあります。
なんで表を写して裏の東京駅を写さなかったのか・・・これでは深谷駅まで行った意味がなくなってしま
った(泣)



号外まで出ちゃいました!!


一応、新一万円札(渋沢栄一)以外の新五千円札(津田梅子)、新千円札(北里柴三郎)も交換できまし
たので



この日(7日)午後5時30分から午後9時まで、深谷市役所駐車場において、
ビアフェス~万歳とSAKE Beer Tonight(サケ ビ タイ)~
(栄一公が創設に関わった大手ビール会社が集まり、一夜限りの夢の共演)
が開催されましたが、そのためにやってきた渋沢ふっかちゃん(しげただくんもいたのですが、写真は撮
れませんでした)

フェスが始まる前に帰路につきましたが・・・


新紙幣交換日:令和6年(2024)7月3日(水)

伝・箕輪城主長野業盛の墓

2024年07月01日 | 史跡・遺跡・文化財

戦国時代の上野国箕輪城(高崎市箕郷町)の箕輪長野氏最後の城主となった長野業盛(ながのなりもり)
墓と伝えられる墓所を訪ねてみました。
長野氏累代の墓は、現在の高崎市内にある長年寺、長純寺、来迎寺にあるようですが、伝・長野業盛の墓
とされる場所には、業盛の墓しかありませんし、現地説明板にもあるようにあくまでも伝承で実際のとこ
ろはどうなのかわかりません。
歴代箕輪城主:箕輪長野氏(長野業尚・信業・業政・業盛) ・武田氏 ・北条氏 ・井伊氏



『伝・箕輪城主長野業盛の墓』説明板


上掲の説明板には、どれが長野業盛の墓かは記されていませんが、真ん中の五輪塔もどきのものが業盛の
墓とされるようです。
五輪塔もどきと書いたのは、空・風・火・水・地輪の水輪と地輪の部分が五輪塔のものとは異なり、他の
塔の部材との寄せ集めのように見えるからです。
右脇のものは「無縫塔」、左脇のものは塔身部が欠落している小形の「五輪塔」



墓標(?)
正面には、「弘稱院殿箕山法輪大居士 霊位」と戒名が刻まれています
左側面には、「箕輪城主長野右京進業盛公之墓」と官名が刻まれています
また、右側面には「大正十年十月・・・」の文字が見えることから、これは墓石ではなく墓標と解してよ
いかと考えます



『伝・箕輪城主長野業盛の墓』を訪ねるに先立って立ち寄った大円寺(高崎市井出町1797)
箕輪城が落城し、22歳で自刃し果てた業盛は大円寺境内に葬られました。その当時の大円寺は今回訪ねた
『伝・箕輪城主長野業盛の墓』のある場所で、大円寺は元禄年間に現在の地に移転してきましたが、業盛
のものと伝えられる墓群はそのまま残されたという伝承のようです。



大円寺本堂の向拝右側に掲げられている長野業盛の絵馬


『伝・箕輪城主長野業盛の墓』は、大円寺のほぼ西方約600mにありますが、その途中にある標識。

散策日:令和6年(2024)6月24日(月)