四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

鉢形城跡発掘調査現場(埼玉県寄居町)

2021年03月27日 | 日本100名城


日本100名城のひとつ『鉢形城跡』(埼玉県寄居町)の「伝逸見曲輪地区」の発掘調査が進められており
まので、現場を見て来ました。
今回の調査では石積に囲まれた空間と門の跡が確認されたということです。発掘現場には当然入れません
ので、ロープの外から見ただけですが、はっきりと石積を確認できました
なお、3月19日(地元寄居町の人のみ)、20日、21日の3日間にわたり発掘調査現地説明会が行われまし
たが、諸般の事情から申し込みをしませんでしたので残念ながらせ参加はできませんでした。










見学日:令和3年(2021)3月18日(木)

八王子城(東京都八王子市)

2018年07月28日 | 日本100名城
■ 国指定史跡 八王子城跡



八王子市の「八王子城跡」を攻城してきました。
国指定史跡であり、日本100名城にも選定されている八王子城について今更詳細を記す必要もないとは思いますが簡単に。
八王子城は、関東を支配していた小田原北条氏の一族である北条氏照の居城です。氏照は、同じ八王子にあった滝山城を居城
にしていましたが、更に強固な城をと、天正15年(1587)頃、八王子城を築城し移りましたが、天正18年(1590)の豊臣
秀吉の小田原攻めの際に小田原城の支城であるこの八王子城も攻められて僅か1日にして落城してしまいました。 

今回2度目の攻城となりましたが、本丸まで攻める予定はなく、初めての攻城後に架け替えられた曳橋と御主殿跡の再現遺構
を見るだけの予定で、実際、時間もなかったのでそれだけ見て来ただけでしたが。




八王子城跡攻城口 「八王子城跡」の大きな石標 右の建物が管理棟




「史蹟 八王子城跡」石碑(標柱)




管理棟




管理棟前に設置されている陶製の諸々の解説板 




あしだ曲輪への石段  残念ながら「私有地につき出入り禁止」の看板があります
反対側には「この先 八王子城跡がガイドボランティアと一緒でないと見学できません」の札が下がっていましたので、条件
さえ整えば見学は可能のようです。




よく整備された路を歩いて




大手門跡  現在は埋め戻されています




大手門の跡説明板




古道 




古道(大手道)説明板




曳橋が見えてきました




曳橋の全景  二代目です
初代の曳橋は平成2年(1990)に橋脚も含め木造で架けられましたが、川が流れていて湿気が多く、痛みが早かったようで、
平成25年(2013)に通行禁止となりました。平成27年(2015)3月から架け替え工事が始まり、翌28年(2016)2月完
成、3月に開通式が行われたようです。




御主殿への経路説明板  曳橋についての説明が書かれています
”今回整備した橋は、当時の復元ではなく、見学者が御主殿に行くための通路” とありますが・・・

この2代目の曳橋は、鉄骨造りで表面に樹脂と木を原料とした再生木材を貼って木造の雰囲気を出したようです。木造の雰囲
気はあっても鉄骨造りは鉄骨造りでしかありませんから、復元ではなく見学者の通路と表現したのかもしれませんね(これも
勝手な解釈です)
うっかり復元などと言ってしまっては、うるさい輩が多いですから・・・

なお、往時の曳橋はもっと簡素なものであったようです。また、橋の位置を若干間違えて架けてしまったようです(2代目も
初代を引き継いで同じ場所)が、全く逆の場所というならいざ知らず、復元復興、今は通路としての橋ですから何ら問題はな
いと考えます。




ということで初代の曳橋と見比べていただく意味で、古い写真を引っ張りでしてみました。
初代の橋台は石垣になっています。本物の木造橋だけあってあ雰囲気はやはり違います。




橋台石垣と曳橋説明板   初代当時からある説明板です  
”想定復原  史跡の景観に合うよう木造に”・・・初代曳橋はこのような思いから 2代目も気持ちは同じでしょう 




橋の端から  洒落を言ったつもりはありません(笑)




鉄骨造りの橋という感覚はなく渡れます




橋脇の石垣




御主殿虎口の石段から見る曳橋




御主殿の土塁上から見る曳橋




虎口前




御主殿虎口  コの字形虎口




御主殿虎口説明板




御主殿入口の門  冠木門




櫓門跡説明板




冠木門




御主殿跡




御主殿跡説明板




御主殿跡の整備説明板




分布図




解説文




再現された礎石




塀跡




会所跡と敷石通路




会所跡




庭園遺構説明板




池跡
他にも多くの再現遺構がありますがこの辺にしておきます。説明板にもあったよう実際の遺構の上に盛土をして(いわゆる埋
戻し保存)その上に遺構を再現してあります。




御主殿の滝慰霊碑




御主殿の滝説明板




御主殿の滝




八王子城跡管理棟前の通りに設置の埼玉県寄居町のカラーデザインマンホール蓋
寄居町の町章を真ん中に据え、町の鳥・木・花のキジ・ヤマザクラ・カタクリが囲んでいます。
何故、他所の町のマンホールの蓋が・・・その理由は最後に




更に少し進むと地元八王子市のカラーデザインマンホール蓋
国の選択無形民俗文化財・都の指定無形文化財である八王子車人形のひとつ三番叟がデザインされています。




更に更に進むと神奈川県小田原市のカラーデザインマンホール蓋
歌川広重の浮世絵、東海道五十三次のうち「小田原・酒匂川」をモチーフにしたデザインのマンホール蓋。

小田原市・八王子市・寄居町は、北条氏政・氏照・氏邦の北条三兄弟がそれぞれ小田原城・八王子城・鉢形城を構えてたとい
う縁で、平成6年にそれぞれの観光協会が「北條三兄弟三領共同宣言」を結び、甲冑姿の市民・町民が互いの祭りに参加する
などして交流を深めていますが、平成28年10月1日に、この3市町は、武田信玄・北条氏康・今川義元が結んだ甲相駿三
国同盟ならぬ、「姉妹都市盟約」を締結しました。
そして、さらなる親交を深めようと昨年11月19日に行われた、八王子市いちょうまつりの席上で、全国で初めてという3
市町のマンホール蓋の交換が行われました。単に交換をしたに留まらず、交換したマンホール蓋は越境して盟約市町に設置さ
れました。
それが八王子市にあっては八王子城跡の入り口であるこの場所に。小田原市にああっては小田原かまぼこ通りに。寄居町にあ
っては寄居北條まつり会場へ通ずる道路にそれぞれの地元のマンホール蓋とともに設置されたという次第です。
しかし、ほとんどの方が他の市町のマンホール蓋が設置されていると気づくどころかマンホール蓋には何の関心も持たずに通
り過ぎているのが実情です。
行った時間が遅かったこともあり、予定の曳橋と御主殿跡を見るのに精一杯でした。駐車場の閉門時間の午後5時にはどうに
か間に合いましたが、ガイダンス施設や、北条氏照及び家臣の墓には寄ることができませんでした。
こちらを先に寄っていたら御主殿跡まで行けなかったでしょうね。

再攻城日:平成30年(2018)6月2日(土)

鉢形城 ②(埼玉県寄居町)

2018年05月29日 | 日本100名城
■ 国指定史跡 鉢形城跡



鉢形城外曲輪東小口から本曲輪門跡と推定される場所までのルートを「日常の大手筋」と考えられるということを本年3月に
開催された講演会「謎解き鉢形城」でお聞きしました。また、梅沢多久夫氏著「埼玉の城127城の歴史と縄張」の中の鉢形
城跡の項でも詳しく解説されています。今回そのそのルートを歩いてみました。




説明の補足のため、鉢形城歴史館構内に設置の「鉢形城跡曲輪配置図」(抜粋)に記号・名称を加筆してみました。




木持地区地点Aから外曲輪東小口への道筋を




喰い違い小口で、土塁が喰い違いに置かれている  地点B
向って左側の土塁ははっきりしているが右側の土塁は削平されたのか見当たらなかった配置図にはあるので見落とし?




小口郭跡と堀切




小口郭脇を深沢川方向に下ります  地点C




深沢川への道も喰い違いになっています




下りてきた道を振り返って見ています




深沢川に架かる橋  地点D




民家が建っている平場が「兵糧蔵跡」(伝承)  橋を渡ると今度は緩い上り坂となります




2番目の小口  地点E




土塁①と腰郭の間の掘り割り状の小口  兵糧蔵跡にある民家への自動車進入路となっていることから小口を削って幅を広げ
た可能性もあります。
小口側面高さ約1mに石積跡が見られます  この石積は鉢形城の他の場所で見られる石積跡と同様なもののようです




石積跡 腰郭側




石積跡 土塁①側




小口内側 左側の腰郭が地点Fの腰郭




小口内側から兵糧蔵跡方向を




更に広範囲に見ています




地点Fの腰郭は広大な内桝形郭となっています




内桝形郭を逆方向から




小口内側全体を




この道を登り切った所が本曲輪門跡と推定されているようです




ここが本曲輪門跡と推定される場所
上の道を左に行くと大手へ 右に行くと本曲輪跡を経て笹曲輪、搦手口方向へ




土塁①に咲いていた野アザミ  そう、カタクリが群生するあの土塁です

以上はあくまでも「考えられる」ということであり、断定しているわけではありません。

散策日:平成30年(2018)5月8日(火)

鉢形城 ①(埼玉県寄居町)

2018年05月27日 | 日本100名城
■ 国指定史跡 鉢形城跡



国指定史跡にして日本100名城のひとつである鉢形城は、その城域が広く曲輪を一通り見て歩くだけでも相当の時間を要し
ます。そんなことから、各曲輪を細かく見て歩くことはほとんどありませんでした。
今回は、特定の場所について少し詳しく見て歩いてみました。その対象としたのは『伝御殿曲輪』跡です。
伝御殿曲輪は、道路で分断された本曲輪の西側部分で、道路東側部分は「伝御殿下曲輪」となっており、現在はシルバー人材
センターとなっていることから城跡探訪として歩くことはありません。
本曲輪は、北条氏邦が入城する前、つまり、長尾景春、或いはその後の上杉顕定のころの曲輪とされています(入城後の氏邦
が手を加えて改修しているかもしれませんが)
伝御殿曲輪は4区画になっており、南から北に向かって順次傾斜しています。梅沢太久夫氏(元埼玉県立歴史資料館長)は同
氏の著書【埼玉の城127城の歴史と縄張】で、これを1区・2区・3区・4区と仮称していますので、この仮称を使わせて
いただきます。




鉢形城歴史館構内に設置の「鉢形城跡曲輪配置図」の一部を抜粋、当該部分に加筆してみました




『伝御殿曲輪』跡 北側から撮影しましたが全体を入れるのは無理でした




『伝御殿曲輪』跡 南端部




伝御殿曲輪1区の南側の土塁上から  西南隅の一番高い部分は櫓台跡 高さは4mほど  
手前の窪地が井戸跡と考えられています




井戸跡と考えられる窪地は径5m程の円形




土塁上から見てみました




下から見るとこんな感じです  右側の高い所が櫓台跡




1区から2区を見ています  1区と2区の段差がよくわかります




写真中央部が低地になっていますが池跡ではと考えられる場所です




丁度、田山花袋碑の裏側に当ります




2区の西半分程が低地になっています  段差の向こうが1区




東方から見ています




伝御殿曲輪で一番広い3区です  石積が帯状に延びて繋がっています
この遺構は最近、浅野晴樹氏(埼玉県立嵐山史跡の博物館学芸員)が気付いた遺構で、同氏はここに園地空間が築かれていた
可能性が高いと指摘しています。
実はこの話については本年2月に開催された同氏の講座「中世遺蹟を地名からみる」でもお話しされていました。また3月に
開催された講演会「謎解き鉢形城」において、梅沢太久夫氏が浅野晴樹氏のこの発見についても話されていますし、著書【埼
玉の城127城の歴史と縄張】にも紹介されています。
そんなことからこれらを含めて伝御殿曲輪を見て歩きたいと考えた次第です。




同じく石積の一部です




同上




鉢形城本丸址標柱の背後から帯状の石積を見ています  切り株に沿って見えるのが帯状の石積




伝御殿曲輪跡は何度か歩いていますが、ただ歩いたというだけで石積にも1区の井戸跡と思われる窪地 2区の池跡ではと考
えられるという低地を気に留めるということはありませんでした。いや気付いてさえもいなかったかもしれません。




3区北端から南方の2区・1区方向を見ています




土塁の上から荒川と玉淀河原を望みます  玉淀河原では「寄居北條まつり」の設営が始まっていました
※寄居北條まつりは、この散策日から5日後の13日(日)に行われました




桝形小口を挟んで北側にある4区




桝形小口




桝形小口脇の切岸  

この記事を書くために3月以降3度伝御殿曲輪跡を訪ねました。しかし、時間帯が遅く写真がよく撮れなかったり、肝心の箇
所を撮ってなかったとかで3度目にしてどうにか使える写真を撮れましたので・・・

散策日:平成30年(2018)5月8日(火)

箕輪城 ② (群馬県高崎市)

2018年02月20日 | 日本100名城
■ 国指定史跡 箕輪城跡



引き続き箕輪城跡の曲輪等を紹介します。




御前曲輪 現在整備工事中の本丸のほぼ北側に位置し、実質的には本丸の一部であったようです。




国指定史跡箕輪城跡の標柱




御前曲輪の説明板




同じく御前曲輪の説明板




御前曲輪の井戸




御前曲輪井戸の説明文




御前曲輪西虎口門跡




御前曲輪西虎口門跡の説明板




箕輪城将士慰霊碑




空堀(本丸堀) 左側が蔵屋敷跡 右側が本丸跡




この上にある曲輪が蔵屋敷で、備蓄穀物を保管する建物があった場所と考えられるとのこと。




三の丸跡




三の丸門跡と石垣




三の丸門跡と石垣の説明板




三の丸石垣




三の丸石垣の説明板




鍛冶曲輪




鍛冶曲輪の石垣




虎韜門跡




虎韜(ことう)とは虎の巻の事と説明があります。




白川口埋門跡の標柱と説明板




白川口埋門跡




大堀切  二の丸と郭馬出の間にある大堀切の延長です




虎韜門跡方向を振り向いて




御前曲輪北堀




御前曲輪北堀の説明板




稲荷曲輪と御前曲輪の間の堀




稲荷曲輪 南方から北方に




稲荷曲輪 北方から南方に




稲荷曲輪 標柱と説明板




稲荷曲輪東側の堀跡




新曲輪




丸馬出 標柱と説明板




丸馬出

この箕輪城 ②で紹介させていただいた曲輪等は、大堀切と木が伐採された本丸堀を除けばほとんど以前のままの状態です。
これからも順次整備されていくことを願っています。

攻城日:平成30年(2018)2月17日(土)

箕輪城(群馬県高崎市)

2018年02月19日 | 日本100名城
■ 国指定史跡 箕輪城跡



城 名:箕輪城(みのわじょう)
別 名:―
形 態:山城 → 平山城
築城年:永正7年(1510)ころ、永禄9年(1566)、天正15年(1587)、天正18年(1590)
築城者:長野業尚、武田信玄、北条氏邦、井伊直政
城 主:長野氏、武田氏、織田氏、後北条氏、井伊氏
遺 構:郭・土塁・堀切 ・石垣
指 定:国指定史跡  日本100名城(16)
所在地:群馬県高崎市箕郷町西明屋(旧・箕郷町)

箕輪城を久しぶりに訪ねてみました。今回で3度目の攻城になりました。つい2、3年前に訪ねたように思っていましたが、
前回は平成24年(2012)4月のことですので約6年を経過していたわけです。
この間に郭馬出西虎口門が復元されたり、杉林の伐採や、城跡路の整備、駐車場の整備等がなされていましたので、新たな気
持ちで攻城してきました。




新たに整備された「史跡箕輪城跡駐車場」




駐車場には水洗トイレも併設されています
この駐車場に我が愛車を駐車していざ攻城を始めようとしたところ、風も強くなり白いものが舞い始めました。
しかし、このまま帰るわけにはいきませんので様子を見ながら攻城しようと・・・




以前は写真の左下にある道を通って二の丸前にある駐車場まで行ったものですが。




搦手口
風が強く幟がまくれ上がっています。




郭馬出西虎口門方向への道は新しく整備されたようです
右側の坂道が従来からの登城口で二の丸前に通じていますが、今回は郭馬出西虎口門方向への道を進んでみました。




見るからに新しい道です。先のほうに郭馬出西虎口門の屋根が少し見えています。




木俣郭ですが、他所(城)には「木俣郭」というのは存在せずこの箕輪城のみにあるようで、謂れは諸説あるようですが、
井伊氏の重臣であった木俣守勝の屋敷があったことからとの説が有力のようです。




木俣の発掘調査の説明板




木俣と大堀切を挟んだ北西方向に郭馬出西虎口門が見えます。




郭馬出西虎口門




郭馬出西虎口門説明板全体




郭馬出西虎口門の説明部分




郭馬出西虎口門  正面から
平成26年(2014)から復元工事  平成28年(2016)年11月完成




郭馬出西虎口門  正面から




郭馬出西虎口門 屋根部




門から郭馬出を見る




郭馬出内から西虎口門を見る




同上




郭馬出西虎口門内側




郭馬出




郭馬出 標柱と説明板




奥から 郭馬出 大堀切と土橋 二の丸




大堀切 標柱と説明板




大堀切  左側が二の丸  中央が土橋と石垣  右側が郭馬出




大堀切土橋説明板




大堀切の堀底から見た郭馬出西虎口門




二の丸




二の丸に設置されている箕輪城跡見取り図
御前曲輪へお越しの・・・の文言と矢印は現在本丸を整備中のために迂回路を表示したもので、一時的な表示。




二の丸前の広場
史跡箕輪城跡駐車場が整備される前は、ここが駐車場になっていました。




広場からの眺望




かつてはこの中に100名城スタンプが置かれていたようですが盗難にあってからはスタンプを押した紙と箕輪城跡の説明書が
置かれています。




本丸門馬出し




二の丸と本丸の間の空堀(本丸堀)




城郭整備工事中の本丸跡
立ち入り禁止ですので工事内容は分りません。果たしてどのような整備がなされているのか・・・

今回の箕輪城攻城は復元された郭馬出西虎口門を見ることが第一の目的でしたが、冒頭でも触れたよう整備が進んで以前訪れた
時とは全く雰囲気が変ってしまっていました。

これ以外の曲輪等は「箕輪城②」として追って投稿します。

攻城日:平成30年(2018)2月17日(土)

江戸城跡を歩いて(東京都千代田区)

2016年11月22日 | 日本100名城
■ 国指定特別史跡 江戸城跡



内部が公開になった富士見多聞を見に行ってきましたが、富士見多聞だけではなく皇居東御苑や皇居前広場付近を歩いて来ました。
ありきたりのしかも拙い写真ばかりですが、散策のメモリアルとして投稿しておきます。まあ、自己満足でしかありませんが・・・




大手門から東御苑に向かいました




同心番所




百人番所




大番所




千両の実  黄色の実は初めて見ました




ツワブキ




小鳥がわかりますか   大砲と言われるレンズは持っていませんので




「ショウガツザクラ」のようです




サザンカ




道いっぱいに落ち葉が  秋も終わりに近づいてきたのでしょうか




天守台  天守を復興させようと運動している方たちもいるようですが




天守から本丸広場を


i

二重橋  でもほんとは違うのですがすっかり二重橋として親しまれていますから否定はよしましょう  (正門石橋)




この橋が皇居の顔ですから




正 門  (西の丸大手門)




これが二重橋  (皇居正門鉄橋)
今ではこの鉄橋と石橋を合わせて二重橋と呼ぶようですが




巽櫓(桜田二重櫓)




桜田門  おっと違いましたね 警視庁本部ですが 桜田門の前にあることから警視庁のことを隠語で桜田門と呼んでいます




こちらがほんとの桜田門




元の名は 外桜田門 現在の桔梗門が内桜田門




桜田門(高麗門)  門を入ると




更に門が 桜田門(渡櫓門)  桝形になっています




桜田門(渡櫓門)




桜田門(渡櫓門)




皇居前広場とビル群




皇居前広場・松林とビル群




濠を泳ぐ白鳥




楠木正成公の銅像  こちら側は裏側ですが顔はこちらを向いています 皇居に背を向けるわけには行かないと・・・




和田倉噴水公園  巽櫓がよく見えます




同じく和田倉噴水公園




行幸通りの銀杏が綺麗です




正面には東京駅が見えます




あまりにも銀杏が綺麗なもので何枚も・・・




同 上




沢山の人が銀杏を楽しんでいるようです




同 上




同 上




他にも江戸城跡の門や橋が沢山あるのですが今回は(今回も)その半分も回れませんでした

散策日:2016(平成28)年11月20日(日)

皇居(旧江戸城) 富士見多聞・富士見櫓(東京都千代田区)

2016年11月21日 | 日本100名城
■ 国指定特別史跡 江戸城跡



今月15日から皇居(旧江戸城)の富士見多聞の内部が一般公開されるとともに、富士見櫓が以前より近くから見られるようになりましたので、
早速、(6日も経っているので早速でもないか)昨20日行ってきました。




中之門跡の石垣前に置かれた標識 
江戸城跡には何度か行っていますので富士見多聞、富士見櫓の場所は一応知っていますが、初めての方も多いようです。




普段は見ることが出来ない皇居・乾通りから見た富士見多聞  (2014年12月3日乾通り公開の際に撮影)
石垣の下は「蓮池濠」となっています

富士見多聞は1606年(慶長11年)に造られたが、1657年(明暦3年)の大火により焼失 1659年(万治2年)に再建




これが普段でも東御苑から見ることのできる富士見多聞の姿




日曜日ということで心配していた入場制限にはかかりませんでしたが、次から次と見学が訪れて列をなしていました。




外国人観光客の増加を目指し政府が進める国の施設の一般公開の一環ですが、目論見通り?外国の方の姿が多く見られます。




富士見多聞内の様子 パネル展示もあったようですが、格子窓から外を観ようという気持ちが先立ちパネル展示はスルー(気付かなかった)




幾つかある格子窓のうち、窓際まで行けるのは2ヵ所だけ
次々とくる見学者がいるため長居はできずに流れるように出口方向に




多聞内のほんの一部ですが・・・




格子の隙間は15センチくらいでしょうか? メートル法に依らない時代のことですので、4寸もしくは5寸くらいと言った方がよいのかも知れません。




どうにか窓際に近づいてもこの程度




更に近づき格子の間から  瓦屋根の建物は「門長屋」で、その昔は江戸城の施設の修理整備をする人たちが詰めていたとも、家臣の居所であったとも




ずーと下に向けて蓮池濠を




富士見櫓は、富士見多聞同様に明暦の大火(1657年)により天守も焼失したが、天守は再建されなかったことから天守の代わりとして使われた。
現在の富士見櫓は1659年(万治2年)に再建にされたもの




普段は見ることが出来ない皇居・乾通りから見た富士見櫓  (2004年(平成16年)1月2日 一般参賀の際に撮影)




以前はここまでしか近付けませんでした  2014年(平成26年)12月3日撮影
このころは、ここまでくる方は少なかったようで、何度か行きましたが人とかち会うことはなかった記憶があります




フェンスの位置が25メートル後退し、12メートルのところまで近づけます。また、フェンス前も整備されて広場もできていますので、複数の方が訪れても余裕です。




だいぶアップで写真が撮れるようになりました




ここにも大勢の方が。外国の方も沢山いました。かつてこんな光景はありませんでした




小さな扱いですが11月9日の新聞記事です

散策日:2016年(平成28年)11月20日(日)

鉢形城(埼玉県寄居町)

2014年11月21日 | 日本100名城
■ 国指定史跡 鉢形城跡



国指定史跡 鉢形城跡
指定 昭和7年4月19日       
所在 寄居町大字鉢形地内

鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となりました。指定面積は約24万㎡です。
城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。
鉢形城は、文明8年(1476)関東管領(かんとうかんれい)であった山内(やまのうち)上杉氏の家臣長尾景春(ながおかげはる)が築城したと伝えられています。
後に、この地域の豪族藤田泰邦(ふじたやすくに)に入婿した、小田原の北条氏康(ほうじょううじやす)の四男氏邦(うじくに)が整備拡充し、現在の大きさとなりました。
関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐(かい)・信濃(しなの)からの侵攻への備えとして重要な役割を担いました。
また、鉢形城跡の周辺には、殿原小路や鍛冶小路などの小路名が伝わっており、小規模ながら初期的な城下町が形成されていたことが窺えます。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開しました。
1ヶ月余りにおよぶ籠城(ろうじょう)の後に、北条氏邦は6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しました。
開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一(なるせまさかず)・日下部定(くさかべさだよし)が代官となり、この地を統治しました。【現地の案内板「史跡鉢形城跡」から引用】




一応、案内板にある「鉢形城跡曲輪配置図」を頭の中に入れて城攻め開始です。しかし、予定通りにいかないのはいつものことで、場所の特定ができなかったり見落としだらけでした。
攻めた順ではありませんが何枚かの写真を・・・青空の下の城跡を撮りたかったのですが、残念ながら曇天でしたので・・・




荒川に架かる正喜橋のたもとに建てられた「史跡 鉢形城祉」碑




搦手にある「笹曲輪跡」




「石垣」






「本曲輪(伝御殿曲輪)跡の土塁」
道路を挟んだ反対側に「本曲輪(伝御殿下曲輪)跡」があるが、現在は、人材シルバーセンターとなっています。






「伝御殿曲輪跡」(本曲輪跡)




「鉢形城本丸祉」碑
本丸碑の後方は土塁となっており、土塁の先は断崖絶壁




本丸土塁から寄居市街を望む。すぐ下は荒川の玉淀河原。ここで寄居北條まつりの合戦が行われます。








「二の曲輪跡」
1枚目は手前が、2枚目は右側が、3枚目は柵の向こう側が二の曲輪跡です




「二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀」1
左側が二の曲輪 右側が三の曲輪




「二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀」2手前が二の曲輪 




「二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀」3
左側が二の曲輪 右側が三の曲輪




「二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀」4
左側が二の曲輪(伝秩父曲輪) 堀底に「畝」が見えます






「木橋と堀」








「三の曲輪跡」と「四脚門」(復元)




三の曲輪の「井戸跡」






伝秩父曲輪の庭園(復元)  池は枯れていました




「石組排水溝跡」






「石積土塁」  ちょっときれいに復元しすぎの声もかすかに・・・






「虎口」 諏訪曲輪(諏訪神社)に通ずる
石積土塁の後ろの部分には「櫓」が建てられていた可能性があるとのこと




「伝諏訪曲輪跡」(諏訪神社)




「大手」  諏訪神社の鳥居を出たあたりが大手であったと推測されている






「伝逸見曲跡」と「堀」




「馬出」 この後方を深沢川が流れています




「深沢川」






「外曲輪」と「土塁」




このあたりが外曲輪と搦手の間にある「馬出」と思うのですが、全く自信ありません。この場所(右側)には「鉢形城三鱗会」の建物があります。




「鉢形城歴史館」






何せ広大な城跡ですから、全部攻め歩くことはできませんでしたし、見落としや写真の撮りはぐれも多々ありましたが、一応は攻め終わりました。

外曲輪内に設けられている「鉢形城歴史館」において、「越相同盟と北条氏邦 関東三国志」なる特別展が開催されておりましたので、城攻めの疲れどりを兼ねて入館してみました。
常設展示、特別展示とも撮影禁止ですので、写真はありません。

攻城日 2014年(平成26年)11月20日(木)            

山中城(静岡県三島市)

2014年11月15日 | 日本100名城
■ 国指定史跡 山中城跡



山中城は、戦国時代末期の永禄年間(1560年代)に、小田原に本城をおいた後北条氏が築城しました。
その後天正17年豊臣秀吉と不仲となった北条氏政は、秀吉の小田原攻めに備え、急遽、堀や岱崎出丸等の整備、増築を行いました。
しかし翌天正18年(1590年)3月29日、増築が未完成のまま、4万の豊臣軍の総攻撃を受けました。北条軍は4千で、必死の
防戦もかいなく鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。このときの城主松田康長、副将間宮康俊、豊臣方の
一柳直末等武将の墓が三ノ丸にある宗閑寺境内にあります。400年前の遺構がそのまま復元されている山城は全国的にも非常に珍しい
ものです。堀や土塁が良く残っており、尾根を区切る曲輪の造成法。架橋や土橋の配置など箱根山の自然をとり入れた山城の作り方など、
目を見張るものがあります。昭和9年(1934年)国の史跡として指定されています。 【 三島市観光協会のパンフレット「山中城跡」から引用 】




日本100名城にも選定されている静岡県三島市の「山中城跡」を攻めてみることにしました。正直、体力的に山城を攻めるのは非常に
きつい状況にありましたが、後北条の縄張りは素晴らしいし、障子堀、畝堀は是非とも見ておきたかったものですから。三島大社がある
ことからでしょうか、社の形をしたJR三島駅前からバスに乗って約30分、バス停「山中城跡」で下車。




車中、雪をかぶった富士山が見え隠れしていましたが、初めての道ゆえ、どこで見えるかわからず、見えたときに慌ててカメラを向けるわけ
ですから、すでに遅しです。どうにか1、2枚撮れましたが、何せ走行中のバス、しかも窓ガラス越しですから綺麗にとはいきませんでした。








ここから城攻めを開始するわけですが、駐車場に駐車車両あれど城攻めの方ではありませんでした。山中城跡案内所・売店は月曜日で休業の日。
100名城スタンプについては、予め三島市の観光協会さんに問い合わせをし、営業時間外でも押印できるように外に設置してあるとの回答をいただいておりました。
城攻めで疲れてしまい忘れてはいけないので、城攻め開始前に押印(スタンプが劣化していましたが)。売店裏の登城口から城攻めに入りました。




登城を始めてすぐに山中城跡の案内板がありました。更に進むとまた案内板が。この間、さほどの距離はありませんでした。
帰宅後撮った写真を見比べたら、設置日が異なっており、文面に若干の違いがありました。

まだたいして歩いていないし急激な坂ではなかったものの既に息はゼイゼイ。先が思いやられます。








「 出丸御馬場曲輪 」

ここ出丸御馬場曲輪を始め、各曲輪、堀等にはそれぞれ説明板が設置されていました。それら説明版の写真も
載せればわかりやすいのですが、それだけでも相当の枚数になってしまいますので省略させていただきます。






「 出丸御馬場堀 」








「 岱崎出丸 」








岱崎出丸「 一の堀 」
堀が畝になっています




岱崎出丸あたりから富士山が良く見えました






「 すり鉢曲輪 」
写真ではよくわかりませんが、中央をくぼませて上に向かって緩やかな斜面となっています。




「 武者溜り 」




「 構築途中の曲輪跡 」
どこがどうなのかよくわかりませんでしたが

見落としもありますが、一通り曲輪跡等を見終えましたので、曲輪跡を周回するようにして案内所方向に戻ることにしました。
この間、誰にも会うことはありませんでした。




山中城跡はまだ半分以下しか攻めきっておりません。今度は、本丸等のある縄張りを攻めなくてはなりません。

案内所の道向かいにある広場の方から入って攻める方法もあったようですが、目の前の国道1号線を箱根峠方向に歩くことにしました。




三ノ丸にある「 宗閑寺 」






宗閑寺境内にある山中城主松田康長、副将間宮康俊などの武将の墓(上)
隣には、豊臣方の武将一柳直末の墓碑もうらみを忘れたように並んでいます。






宗閑寺裏手にある「 箱井戸跡 」(上)と「 田尻の池 」(下)




実はここで大変なことを知るに至りました。つい1週間ほど前の11月4日から、城跡の整備・工事が始まっており通行止めで、
二ノ丸や西ノ丸・西櫓等の高いところにある曲輪には資材等が置かれているようでした。これでは肝心の障子堀・畝堀を見学できなくなってしまいました。
この箱井戸跡周囲にも工事関係者が来ており作業中でした。




箱井戸跡・田尻の池から再び国道1号線に戻り再び箱根峠方向に歩きますと、駒形諏訪神社の鳥居があり、ここから本丸方向に行けるようでした。

事情があり鳥居は潜らずに脇を抜けて参道に。そして、神社には行かずに脇の坂道を登り(自身にはかなりきつい坂道でゼーゼー)






「 北ノ丸 」に辿り着きました




「 北ノ丸 」と「 本丸 」を結ぶ「 本丸北橋 」






「 天守櫓跡 」






「 本丸跡 」




「 矢立の杉 」 呼称の由来は、出陣の際に杉に矢を射立て勝敗を占ったためと。






「 本丸西橋 」と「 櫓台 」






「 本丸堀 」 本丸と二ノ丸の間にある堀で畝堀になっています




工事中で二ノ丸虎口から先(上)には行けません。城跡にいるのは工事関係者のみでここでも、城跡をめぐっている人の姿はありませんでした。




先に進めませんので、高台から西ノ丸方向眺めるしかありませんでした。








さすがに障子堀は見えませんでしたが、畝堀はよく見えました。






「 兵糧庫跡 」・「 弾薬庫跡 」ここで取りあえずは城攻めを終了し、駒形諏訪神社前を通り国道1号線に出て、バス停「山中」から
三島駅まで戻り、再び新幹線に乗り帰路へ。往路のバスの車中からよく見えた富士山も、帰りは雲にすっかり覆われていました。

息をゼーゼーさせながらの山城攻めは厳しいものでした。工事中のため見られなかった箇所もありましたがそれでも素晴らしい山城攻めができたと思っています。

個々の説明を入れれればよかったのでしょうが、文才がないために名称のみになってしまいました。

攻城日:2014年(平成26年)11月10日(月)