四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

杳子・妻隠

2020年02月28日 | エトセトラ


最近、いや、ここ数十年、小説を読むということはなくなった。夢中で小説を読みあさった時期が
あった。そのころの作家はひとり二人と鬼籍に入っている。最近の作家の名はほとんど知らない。
今朝(2月28日)の新聞記事である。『古井由吉』・・・昔読んだことのある作家の一人であっ
たからすぐにわかった。しかし、内容は覚えていない。




芥川賞作品となった『杳子』、1971年(昭和46年)の作品で、私がこの『杳子・妻隠』の単行本を
手にしてから半世紀近くになる。
たまたま10年以上も前に写真に撮ってあった。今からいくつものダンボール箱の中からこの1冊を探
す気にはなれない。

熊野十二社神社古墳(埼玉県本庄市)

2020年02月27日 | 古墳


名 称:熊野十二社神社古墳(くまのじゅにしゃじんじゃこふん)
別 名:-
墳 形:円墳 
規 模:直径26.5m、高さ5.2m 
築 造:5世紀中葉
出土物:-
指 定:-
所在地:埼玉県本庄市東富田(旧本庄市)

本庄市東富田地域に所在する東富田古墳群のひとつ熊野十二社神社古墳古墳を訪ねてみました。

左から 「熊野十二社神社」 「愛宕神社」(社殿は古墳の墳頂に) 「八坂神社・金鑽神社」




熊野十二社神社説明板
古墳について僅かではあるが記述あり  




墳丘を南側から 墳頂に愛宕神社が祀られている




墳頂から麓を




墳丘を東側から




墳丘北側を富田寺(とんでんじ)境内から




墳丘を西側から




富田寺  この富田寺本堂西側に【富田稲荷山古墳】があります

散策日:令和元年(2019)12月9日(月)

荘小太郎頼家供養塔(埼玉県本庄市)

2020年02月25日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:荘小太郎頼家供養塔(しょうのこたろうよりいえくようとう)
別 名:-
指 定:県指定旧跡(名称:荘小太郎頼家供養塔 昭和38年(1963)8月27日指定)
所在地:埼玉県本庄市栗崎155 宥勝寺 (旧本庄市)

武蔵七党の一つ児玉党の本宗家6代目を継いだ武将・荘小太郎頼家は源平合戦のひとつである一の谷の
合戦で戦死しましたが、その供養塔が宥勝寺にありますので訪ねてみました。

 ※ 荘  庄




宥勝寺 本堂
本堂と庫裏を結ぶ渡り廊下の下(写真右端)をくぐって行くと墓地に通じます。




本堂前に設置されている「宥勝寺」説明板

宥勝寺は真言宗智山派に属し、京都智積院の末寺で、本尊に不動明王を祀る。
寺伝によると、武蔵七党の一党である児玉党の一族の荘小太郎頼家が、源平合戦で有名な一の谷の
合戦において戦死したため、その菩提を弔うために夫人により建仁年間(1201-1204)に建立された
のが開山と伝えられる。境内北側の墓地内に、小太郎頼家の墓と伝えられる古びた五輪塔が現存し、
県の指定旧跡になっている。
天文6年(1537)、北条氏と上杉氏の浅見山合戦の戦火のため堂塔を焼失したが、その後の天文23年
に再建され、当寺宥勝寺は10数ヵ寺の末寺を保有していたと伝えられる。なお、慶安元年(1648)に
三代将軍家光より寺領10石の御朱印を与えられた。
また、当寺の南方には、以前西光寺と呼ばれる大がらんが存在した。これは本庄市では数少ない中世
寺院跡として埼玉県選定重要遺跡の一つとなっており、現在、西光寺の名は宥勝寺の山号である西光
山として、その名ごりを伝えている。





ほんじょうかるた石碑
 し  荘小太郎 静かにねむる 宥勝寺




荘小太郎頼家の供養塔に向かう途中にある説明板
本堂前に設置の説明板同様この説明板でも 小太郎頼家の「墓」となっていますが、現在の旧跡指定
名称は「供養塔」です。
あくまでも推測ですが、昭和38年に埼玉県の旧跡指定を受けたときの名称は「小太郎頼家の墓」であ
ったのかもしれません。その後の平成8年3月27日に名称変更されていますので、その時、「供養塔」
と変更になったのか思われます。

荘小太郎頼家の生年は不詳ですが、治承8年の一の谷の合戦で戦死しました。この時、小太郎、妻とも
若かったようで、嫡子が誕生してなかったことから、児玉党本宗家の血筋は小太郎の死によって途絶
えたました。




五輪塔の『荘小太郎頼家供養塔』




『荘小太郎頼家供養塔』説明板  簡単な説明のみです




一族の石塔

参詣日:令和元年(2019)12月6日(金)

万年寺つつじ山古墳(埼玉県本庄市)

2020年02月23日 | 古墳


名 称:万年寺つつじ山古墳(まんねんじつつじやまこふん)
別 名:-
墳 形:方墳
規 模:周堀を含む一辺が33.5m、高さ1.7m
築 造:5世紀前半
出土品:滑石製模造品
指 定:市指定史跡(名称:万年寺つつじ山古墳付出土品 指定日不詳)
所在地:埼玉県本庄市万年寺3丁目(旧本庄市)

万年寺つつじ山古墳は、旭・小島古墳群の1基で、万年寺ふれあい公園の東南隅にあり、八幡山古
墳と接する。墳丘は大きく削られており、一見、古墳とは見えない。




東側



南側

本庄市指定史跡となっているものの、現場には説明板はおろか標柱さえ設置されておらず、写真で
も分るように公園の一画に土盛りをした程度にしか見えません。公園の前に居住する方さえも、こ
こに古墳があるというのを知りませんでした。
また、本庄市のHPには当該古墳の史跡指定日の掲載がなく、他もいろいろ調べてみましたが、指
定日の特定ができずにいます。

散策日:令和元年(2019)12月9日(月)

八幡山古墳(埼玉県本庄市)

2020年02月21日 | 古墳


名 称:八幡山古墳(はちまんやまこふん)
別 名:万年寺八幡山古墳・小島八幡山古墳
墳 形:隅丸方形古墳
規 模:一辺約40m、高さ約4m 
築 造:5世紀前半
出土品:鉄剣二振
指 定:市指定史跡(名称:八幡山古墳 昭和51年(1976)12月27日指定)
所在地:埼玉県本庄市万年寺3丁目(旧本庄市)

本庄市と上里町にまたがる旭・小島古墳群を構成する1基である八幡山古墳を訪ねて来まみました。
八幡山古墳の名称を持つ古墳は各地にあることから、「万年寺八幡山古墳」・「小島八幡山古墳古
墳」とも呼ばれるようです
隅丸方形墳で、いびつな周溝が巡る。かつて墳頂に箱式石棺が露出していたが、現在は埋め戻され
たとのこと。またこれとは別に木棺直葬の存在が確認されているようです。




墳丘の北側に建つ「本庄市指定文化財 八幡山古墳」の標柱




墳丘を北西方向から




西側にある万年寺ふれあい公園から 右側の建物は「万年寺自治会館」




南西方向から




南側から




墳頂

散策日:令和元年(2019)12月5日(木)

諏訪神社古墳(埼玉県本庄市)

2020年02月19日 | 古墳


名 称:諏訪神社古墳(すわじんじゃこふん)
別 名:諏訪大明神古墳 ・小島1号墳
墳 形:円墳 
規 模:直径27m、高さ3.5m
築 造:6世紀代
指 定:―
所在地:埼玉県本庄市小島4丁目(旧本庄市)

本庄市と児玉郡上里町にまたがる旭・小島古墳群の1基である諏訪神社古墳古墳を訪ねてみました。
地名を冠して小島諏訪神社古墳(小島諏訪大明神古墳)とも呼ばれています。
元の直径は30mほどあったようです。




諏訪神社 御由緒
冒頭で旭・小島古墳群について触れています




南西から




墳頂には『諏訪神社』が祀られています




北側から

散策日:令和元年(2019)12月5日(木)

平重衡の首塚(埼玉県本庄市)

2020年02月17日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:平重衡の首塚(たいらのしげひらのくびづか)
別 名:-
指 定:市指定史跡
所在地:埼玉県本庄市児玉町蛭川(旧児玉郡児玉町)

平重衡は、平安時代末期の平家の武将・公卿で、平清盛の五男。平氏の大将の一人として各地で戦い、
治承・寿永の乱においては墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍しましたが、一ノ谷の戦いで捕
虜になり、鎌倉へ護送されました。平氏滅亡後、木津川畔で斬首されました(享年29)。その遺骸と
首は妻が貰い受けて荼毘に付し、その墓は京都市内にあると言います。他にも平重衡の墓と呼ばれる
ものや供養塔があるようです。ここ蛭川郷にある首塚は(伝)かもしれませんが、敵方であった源氏
軍の武将の所縁の地で大事にされています。




国道462号線際に建つ『本庄市指定文化財 平重衡の首塚』標柱
側面に、
 
この地は、一の谷合戦の後、捕らえられた平重衡の首を児玉党の蛭河庄四郎高家がこの地へ持ち
帰り供養した首塚であると伝えられている。

と、あります。

供養塔の先に見える堂宇が『釈迦堂』




五輪塔の供養塔
 
「供養塔」の陰刻の下に 「為本三位中将 平重衡卿」と陰刻されています。
重衡の官位が【左近衛権中将、蔵人頭、正三位】であったことから【三位中将】と称されていた。

この供養塔は昭和60年(1985)に、児玉町史蹟研究会・釈迦堂墓地総代一同・児玉町蛭川地区有志
によって建立されたもの。




供養塔の背後に石祠がありますが。首塚と関係あるものなのでしょうか?




首塚のある釈迦堂墓地の西隣りに鎮座する『駒形神社』




『駒形神社 御由緒』
□ 御縁起(歴史)
当地は、児玉党蛭川氏の本貫地とされ「児玉党系図」では摂津一ノ谷合戦で戦功のあった庄四郎高家
の子・定重が蛭河太郎を称している。当地の中央やや北東寄りの小名東廓で、蛭川氏の館の周囲を巡
っていたと伝わる堀跡が確認されている。応永25年(1418)の「足利持氏御判御教書」には「児玉郡
蛭河郷」と見える。

上記は、駒形神社御由緒の冒頭部分ですが、『平家物語』では、一ノ谷合戦で平家は源氏軍に大敗を
喫し、重衡は馬を射られて捕らえられた。重衡を捕らえたのは梶原景季と庄高家あるいは梶原景時と
庄家長とあるようですから、平重衡の首を持ち帰り供養したという伝説が生まれたのかもしれません。

散策日:令和元年(2019)12月5日(木)

講座「板碑の出現と宝篋印塔・五輪塔」

2020年02月15日 | 講演会・講座


青石の里
「下里・青山板碑製作遺跡」の普及・啓発講座
演題 「板碑の出現と宝篋印塔・五輪搭」
講師 下里割谷板碑石材採石遺跡調査指導委員会副委員長 
    諸 岡 勝 氏
日時 2月15日(土) 午後1時30分~3時30分
場所 小川町立図書館 視聴覚ホール
主催 小川町教育委員会

を聴講してきました。

国指定史跡「下里・青山板碑製作遺跡」の普及・啓発事業の一環として、板碑製作遺跡や板碑に関
連した講座で、今回は、板碑から宝篋印塔・五輪搭へと変遷していった時期における石塔について、
多数の写真を交えて説明をしていただきました。




今回の講座のチラシと講座資料

聴講日:令和2年(2020)2月15日(土)

令和元年度歴史講座2「兵(つわもの)の時代のうつわ」

2020年02月14日 | 講演会・講座


埼玉県立嵐山史跡の博物館主催
令和元年度歴史講座2「うつわから見た中世のくらし大転換」
第1回 「兵(つわもの)の時代のうつわ」-煮炊具から見る中世前史-
講 師: 末 木 啓 介 氏(埼玉県教育局文化資源課)
日 時: 令和2年(2020)2月14日(金)13:45~15:30
会 場: 国立女性教育会館研修棟 講堂 (埼玉県比企郡嵐山町菅谷)

を聴講してきました。

古代末から中世の調理具・食器の変化の意義
-主として羽釜と小皿の視点から-




今回の講座資料



国立女性教育会館の敷地内に咲く紅梅

聴講日:令和2年(2020)2月14日(金)

蚕影山古墳(埼玉県本庄市)

2020年02月12日 | 古墳


名 称:蚕影山古墳(こかげやまこふん)
別 名:小島蚕影山古墳・小島4号墳
墳 形:円墳 
規 模:直径19m、高さ3.3m
築 造:6世紀末頃
指 定:市指定史跡(名称:山の神古墳 昭和51年(1976)12月27日指定)
所在地:埼玉県本庄市小島2丁目(旧本庄市)

本庄市と児玉郡上里町にまたがる旭・小島古墳群の1基である蚕影山古墳を訪ねてみました。同墳の
すぐ南側には山の神古墳があります。




南側から墳丘を




北側から




墳頂に鎮座する石祠




北側の道路から畑越しに  写真左にあるのが神の山古墳  右が蚕影山




西側道路から

散策日:令和元年(2019)12月5日(木)