四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

帝松酒蔵まつり2015・武蔵越生高等学校 和太鼓部 「青龍」

2015年02月22日 | まつり・イベント


関東灘の異名を持つ埼玉県小川町。その蔵元のひとつである「帝松」(松岡醸造)において、恒例となっている『酒蔵まつり』が本日(2月22日)行われたので行ってきました。

お酒を飲まない私が行ってもと思われるかもしれませんが、お酒以外にもいろいろありますので。無論、お酒が好きな人には堪らないでしょうが。




どんよりした肌寒い日でした。降雨があるかもしれないとの天気予報でしたので雨具を持参で。

「帝松」(松岡醸造)さんをちょっと遠景で




大きな看板がありますのですぐにわかります




受付脇には薦被りが




会場となっている庭にはすでに沢山の人が。すでに飲んでいる方も多数です。




酒蔵見学もでき、しぼりたて原酒の試飲もるのですが、人数制限がありまして




仕込み水




売店の中もいっぱいです




利き酒大会もやっておりました   無論、私は不参加ですが




ついた餅を分けて(有料)くれていましたが、ここもすごい人気で、並んでいても何人か前で売り切れになってしまったと嘆いていた方も




庭園も解放されていましたが、ここも飲む人食べる人でいっぱい




樽酒にも長い列ができていました。有料とはいえ割安なのでしょうね
樽酒を飲むでもないし利き酒に挑戦するでもない。酒蔵見学は肝心の時間帯の整理券をもらいそこなってしまい断念。一体何しに酒蔵まつりに足を運んだのでしょう。




毎年、この酒蔵まつりには「武蔵越生高等学校 和太鼓部 『青龍』」の皆さんが和太鼓の打奏に来てくれます。
お酒とは縁のない私にとっては、この和太鼓を聴く(見る)のが酒蔵まつりの半ば目的です。
昨日も、越生梅林で聴いて(見て)きたばかりでしたが。




写真は順不同です。みなさん本当に楽しそうに太鼓を敲いています。












































「ア・ン・コ・ー・ル」「ア・ン・コ・ー・ル」の声にも応えてくれました




法被を着ていないと思ったらOBの皆さんでした。予定には入っていなかったようですので突然の参加?
卒業で退部しても太鼓が好きで好きでたまらないといった思いが伝わってきました。そして、楽しいいパフォーマンスも










OBの演奏を楽しそうに見ている現役の部員のみなさん




こちらでも現役の部員が応援しています
『青龍』の演奏会にには、よく多くのOBが応援に駆け付けているようです




「帝松」(松岡醸造)に咲いていた紅梅です


「武蔵越生高等学校 和太鼓部 『青龍』」の皆さんの衣装にも「梅ノ花」がデザインされていることは見ての通りですが、
女性部員がしていた髪留めも「梅の花」です。昨日の「越生梅林梅まつり」の際にしていたのは「白梅」の髪留め。
そして本日は「紅梅」の髪留めでした。

酒蔵まつりに和太鼓の演奏を見に行ったようなものになってしまいましたが、これも結果的にというよりは、これが目的だったといってもよいかもしれません。

このブログに、和太鼓部『青龍』さんの演奏写真をアップすることについては部長さんにお話をし、快諾をいただきました。
そして、部長さんからのひと言「綺麗な子ばかりですから」・・・はい。確かに

散策日:2015年(平成27年)2月22日(日)           

越生梅林

2015年02月21日 | まつり・イベント


関東三大梅林のひとつである埼玉県越生町の「越生梅林」で、本日2月21日(土)から『梅まつり』が始まったので行ってきました。
ところで関東三大梅林とは、どこを指しているのでしょうか。水戸市の「偕楽園」と、この「越生梅林」の二つははっきりしているようなのですが、
ひとつについては、熱海市の「熱海梅園」、小田原市の「曽我梅林」、そして、安中市の「秋間梅林」がそれぞれ三つ目を自称しているようです。
三大何とかというのは二つは確定していても、三つ目については複数が名乗っていることがよくあります。

話がそれてしまいましたが、本日が梅まつり初日ということで、午前10時からオープニングセレモニーがありました。
まずは式典で、「長」がつ付く方々の挨拶とテープカットから始まりました。






紅梅は見頃を若干過ぎているようでしたが、白梅は咲始めで、これからといった感じです。














テープカットのあとは、『武蔵越生高等学校 和太鼓部 青龍』の皆さんによる和太鼓の打奏




続いて近隣の市町の ゆるキャラ大集合です
ときも(川越市) つるごん(鶴ヶ島市) くりっかー・くりぴー(日高市)  さかっち(坂戸市) かわべー・かわみん(川島町)  
もろ丸くん(毛呂山町)  ドームくん(ときがわ町) はーとん(鳩山町) うめりん(越生町)




地元越生町の『ゆめりん』




よさこいの町・坂戸市の『さかっち』




毛呂山町の『もろ丸くん』




主目的の観梅です




























散策日:2015年(平成27年)2月21日(土)           

花園城跡(埼玉県寄居町)

2015年02月20日 | 100名城以外の城館跡


花園城跡 (埼玉県選定重要遺跡) 所在:埼玉県大里郡寄居町末野

鉢形城は、標高200m比高90mの山に築かれた山城です。平安時代末期、武蔵七党のひとつ猪俣党の猪俣政家の子政行は藤田郷に住み藤田姓を称し、花園城を築城。
以来代々藤田氏の居城としてきたようです。藤田氏は関東管領山内上杉氏に仕えていましたが、15代藤田重利(康邦)のとき、関東に勢力を伸ばしていた後北条氏の
軍門に下り、北條氏康の3男(実際には4男)氏邦を娘婿に迎え、天神山城とこの花園城を氏邦に譲ったようです。藤田重利が康邦を名乗るようになったのは、
氏康の康と氏邦の邦からとったものであり後北条氏への恭順を表すためであったと思われます。氏邦が鉢形城に移ってからも花園城は鉢形城の支城としての役割を
していたようですが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めで鉢形城とともに落城し、廃城になったとのことです。


攻城記

城跡としてまったく整備されておらず、登山道もない状態で、誰かが歩いたかもしれないと思われる跡を探しながら登っていきましたが、笹藪に落ち葉、更には朽ちかけ
ている倒木があちこちに。とにかく歩けそうなところを探していくのに精いっぱいですから、今どの地点にいるのかすら分らない状態でした。ちょっとした斜面でも、
杖だけでは滑ってしまい、木の枝を掴んだりしながら上(本郭)を目指しました。削平されて石積があるところや竪堀を見つけても、何せ、落ち葉や笹で大半が覆い隠されて
いますので、そこが郭跡なのか腰郭跡なのか、そうだとしたら何郭・何腰郭跡なのかよくわかりません。それ以前に、どのあたりにいるのかわからないわけですから。
どうにか本郭跡にたどり着きました。石碑が立ち、若干ながら整備(?)されていましたから本郭跡と判るわけで、他のところ同様に荒れ放題で石碑もなかったら本郭跡とは
分らなかったでしょう。こんな状態でしたから、すべてを散策してという無謀な考えは捨て下山に入りましたが、登ってきた場所に戻れず藪の中に入り込んでしまいました。
まあ、とにかく下を目指せばいいだろうと下に向かうと先に進めずに若干上に引き返して別の方向にと何度か繰り返し、やっとの思いで麓におりましたが、
そこは登山口とはかなり離れた民家の裏の畑でした。遅い時間帯に攻城し、下山時に陽が落ち始めていたら大変なことになっていたでしょう。
同じ寄居町にあり、やはり後北條氏とかかわりの深い「鉢形城跡」とは、いくら向こうは国指定史跡で100名城に選定されているとはいえ違いがありすぎです。




花園城跡は善導寺の裏手の山に




花園城のあった山はこれ?




いろいろ調べたら、善導寺から西方200mほどのところにあるこの諏訪神社の裏手から登城する方が多いようでしたので。




諏訪神社社殿右手から裏手に回り




祠の裏を回り込むように登りました この辺りはまだいいのですが・・・この後は道なき道を




石積が見えます




竪堀




削平されています 腰郭跡でしょうか




石積




石積




腰郭跡でしょうか




竪堀




石積




郭跡? 削平され石積が見られます




上の写真と同じ場所です




石積 比較的大きな石です




竪堀?




郭跡でしょうか




二の郭




二の郭西端の石積




本郭と二の郭との間の堀切




本郭に繋がっている土塁




削平地と土塁




本郭跡




鉢形城跡碑




本郭下の竪堀




竪堀




郭跡でしょうか 削平され石積が見られます

登ったルートに戻って降りてこようとしましたが戻れずに藪の中に入ってしまい抜け出すのに必死。
どうにか麓まで下りてきたものの、登城口にした諏訪神社からはかなり離れている民家の裏の畑に


花園城跡攻城(攻城しきれなかったというのが本当のところですが)のあとは、花園城とは切っても切れない藤田氏・北條氏ゆかりのお寺に・・・




藤田善導寺




藤田善導寺の由来が記された説明板




藤田善導寺の本堂




正龍寺




正龍寺の由来が記された説明板




正龍寺山門




山門前横にある石碑 鉢形城主北條氏 花園城主藤田氏とあり




正龍寺本堂




本堂大棟には藤田氏の家紋「上り藤」と北條氏の家紋「三つ鱗」が




藤田康邦・同夫人と北條氏邦同夫人の墓のある建物(覆屋)




説明板




北條氏邦同夫人の墓




藤田康邦同婦人の墓




正龍寺から少し離れた場所に、北條氏邦室大福御前自刃の地があります




建碑由来記

攻城日:2015年(平成27年)2月19日(木)           

菅谷館跡(埼玉県嵐山町)

2015年02月18日 | 続日本100名城


菅谷館跡は、鎌倉時代の有力武士であった畠山重忠が文治3年(1187)以前から居住していた所と伝えられています。菅谷館がいつ誰によって築かれたのか明らかでは
ありませんが、現在までのところ、重忠時代の遺構は確認されていませんが、館跡を含む周辺地域は菅谷と呼ばれ、館跡近くの平沢寺の中世寺院跡からは、重忠の曽祖父の
「平朝臣慈綱」(秩父重綱)銘のある久安4年(1148)の年紀を刻む経筒が出土しており、秩父平氏の流れをひく畠山氏の拠点が古くからこの地にあったと考えられて
います。また、元久2年(1205)6月、畠山重忠が鎌倉に向かって出立したのは、「小衾郡菅屋館」であったことが『吾妻鏡』に記されています。その後、山内上杉氏と
扇谷上杉氏が争った長享年中の大乱(1487~1505)の際には、城郭として使われていたと考えられています。『松陰私語』によれば、松陰という陣僧が、「河越城に
対し、須賀谷旧城を再興して鉢形城の守りを固めるように」と進言したとあります。この「須賀谷旧城」が現在の菅谷館跡にあたると考えられます。なお、現在みられる土塁や
堀などは戦国時代のものです。現在までに5回に及ぶ発掘調査が行われていますが、出土資料の年代は14世紀末から16世紀前半、つまり戦国時代以降の資料が中心です。
昭和48年5月、鎌倉時代の代表的な武蔵武士の館に起源をもつ中世城館の遺跡として国指定に指定され、平成20年3月には比企城館群菅谷館跡と名称が変更されました。          
                               〔埼玉県立嵐山史跡の博物館 編集・発行リーフレット「菅谷館跡」から引用〕




今、菅谷館跡が見頃です!!

まだまだ寒い日もありますが、実は、今、当館が立地する国指定史跡「菅谷館跡」が見頃を迎えています。
草が枯れ、木の葉が落ちて、土塁や空堀、郭の様子が一年の中でも最も観察しやすくなっています。
館跡の中では、コウバイやハクバイの花もちらほらと咲き始めました。
早春の一日、菅谷館跡の散策はいかがでしょうか。

埼玉県立嵐山史跡の博物館のホームページを覗いてみたら、上記の一文が載っていました。
曇り空で肌寒い日ではありましたが、この言葉に誘われ「菅谷館跡」を歩いてきました。




国道254号線バイパスに架かる歩道橋の上から菅谷館跡・嵐山史跡の博物館入口を




入口に立つ「国指定菅谷館跡」の石碑






二重土塁と泥田堀




搦手口(菅谷館跡・嵐山史跡の博物館入口)です






搦手門・土橋跡を内側から






三ノ郭の紅梅 ちょっと見頃を過ぎているようでした




菅谷館跡の案内板




三ノ郭(1)




三ノ郭(2)




蔀土塁(しとみどるい) 

西ノ郭から三ノ郭内部の様子を直接見通せないように設けられた土塁






正坫門と木橋




木橋




西ノ郭(1)




西ノ郭(2)




西ノ郭と二ノ郭館を遮る堀




西ノ郭にある大手門跡  (ここかどうかちょっと自信がありませんが)




建物跡と井戸跡(三ノ郭)




空堀道(二ノ郭)




二ノ郭跡(1)




二ノ郭跡(2)




二ノ郭跡に建っている畠山重忠像




二ノ郭跡(3)




二ノ郭跡(4)




二ノ郭と本郭の間にある空堀(1)




二ノ郭と本郭の間にある空堀(2)




二ノ郭と本郭の間にある空堀(3)




本郭出桝形土塁




本郭と二ノ郭の間にある空堀






二ノ郭跡の白梅




南郭について




南郭(1)




南郭(2) 




菅谷館跡の石碑と案内板  ここの石碑は国指定史跡になる以前の埼玉県指定史跡のころのもの




この案内板に菅谷館跡についての説明があります




本郭への小口?




生門跡(本郭)




本郭(1)




本郭(2)




本郭(3)




本郭(4)  戦国時代・・・後北条氏のことでしょうね




菅谷館跡内にある『埼玉県立嵐山史跡の博物館』




企画展「戦国時代は関東から始まった」の展示品の図録は購入済みでしたが、実際の展示は見ていなかったので館跡を散策後に入館しました。

一応、この「菅谷館跡」の初攻城は2009年5月ですが、折に触れ何度か一部を散策しています。
企画展への入館の際に受付で頂いた「菅谷館跡見て歩きガイド」によると、30~40分の行程とありました。
どうしても細かく見てみたい(写真も撮りたい)ことから2時間近くかかってしまいました。そのくせ、肝心の
場所の写真が撮ってなかったりという結果です。散策前に「菅谷館跡見て歩きガイド」を手にしていれば効率的で、
且つ、見落としや写真の取り損ないもなかったかもしれませんでしたが後の祭りです。今回に限らず地図を
見ながら歩けばよいのでしょうが、いつも考えなしに夢中で歩くだけでなものですから。
次は、地図を見ながらと反省するも、また同じことの繰り返しになりそうです・・・

攻城日:2015年(平成27年)年2月17日(火) 続日本100名城選定前          

安戸城跡(埼玉県東秩父村)

2015年02月16日 | 100名城以外の城館跡


安戸城跡は、埼玉県秩父郡東秩父村安戸に所在し、標高235m・比高105mに築かれた城である。

歴史については定かではないが、松山城主として知られる上田氏一族のゆかりの地である。
大河原郷にあって、上田左衛門太夫が築城し、松山城に移るまで居館としていたといわれる。




腰越城本郭跡から望んだ「安戸城跡」




安戸城跡の存在については以前から知ってはいましたが、本郭跡に標柱がある程度で、
標識はなく整備もされてなく、藪の中を進んで行くしかないということでした。

とにかく行けるところまで行き、先が分らないようになったら勇気を
もって引き返すことにし、城山保育園入口から攻城を始めました。




舗装が切れた先に林道らしきものが見えましたので、ここを行ってみようと。




こんな林道を進んでいきました。途中で何度か右に行くのか左に行く
のか迷うことがありましたが、とにかく上に行く方向を選んで・・・






郭らしき場所にたどり着きました




だいぶ薄くなっていましたが、「村指定記念物 史跡 安戸城跡」・「昭和56年12月20日指定 東秩父村教育委員会」
(*実際には、日付の数字は漢数字)と記された標柱です。この標柱がなければ郭跡と気付かない恐れもあります。




主郭としては狭いです




狼煙台の跡でしょうか。郭中央に石組があります。




「城山大権現」と刻まれた石碑があります。昔はきちんと祀られていたのでしょうが。




二ノ郭や帯郭、堀切などもあるようでしたので、主郭周囲を歩いてみましたがよくわかりませんでした。
もしかしたら「二ノ郭跡」かと撮ってみた写真です。

初めから期待はしていませんでしたが、それにしてもがっかりな城跡でした。
整備すればといっても、それに見合うだけの遺構はないようですし。

攻城日:2015年(平成27年)2月16日(月)            

足利基氏の塁跡(埼玉県東松山市)

2015年02月15日 | 100名城以外の城館跡


足利基氏の塁跡」(所在地:埼玉県東松山市岩殿)は、足利幕府初代将軍足利尊氏の次男で初代鎌倉公方足利
基氏が正平18年/貞治2)年(1363)、上野守護:宇都宮氏綱。上野守護代:芳賀禅可に対して武蔵国の苦林野の
「岩殿山の合戦」の際に本陣を置いたとされる跡です。






東武東上線「高坂駅」西口からまっすぐ大東文化大学・こども動物自然公園方向に進むと、道路右端に「足利基氏の館➡」と
いう標識が立っていますので、ここを右折して進むと暫くして、「足利基氏の塁跡」の標柱が立っています。ここが目的地です。




標識は「館跡(やかたあと)」、ここの標柱は「塁跡(とりであと)」と表記の違いが
ありますが、このブログでは、現地の表示に従って「足利基氏の塁跡」としました。
他にも、「陣跡」や「城跡」などと表記される場合があるようですが・・・

車の場合は、この前に駐車できる場所はありませんので、少し先を行った弁天池前の広場に駐車。




道路からみた塁跡の全景です(実際には一部に過ぎないのでしょうが)
中央に見えるちょっと高いところが「物見台跡」でしょうか




同じく全景ですが、棚田のように見えるところは空堀跡のようです。




奥のほうに、「足利基氏の塁跡」の説明板が立てられています。

更に奥に進み藪を抜けるとゴルフ場に出ますが、ロープに、「この先危険につき進入禁止」の札が下がっていましたので危険を冒すことは避けました。




この説明板での説明を見ていただけれ大筋は解るとと思い、冒頭での説明を手抜きした次第です。




実測図を見ますと、この場所以外にも堀跡や土塁が残っているようです。




奥から道路方向に




弁天沼方向に少し行ったところの民家の脇に土塁がありました




弁天池(鳴かずの池)

攻城日:2015年(平成27年)2月12日(木)           

高坂館跡(埼玉県東松山市)

2015年02月14日 | 100名城以外の城館跡


高坂館跡   (所在地:埼玉県東松山市高坂)

高坂館跡は、北部と東部は都幾川の沖積低地に面し、水田面からの比高差は約10mの岸縁にあります。
高済寺境内の周辺、東西170m×南北230mの規模を有するものと思われます。土塁は、高済寺境内の西側に残り、
長さ約100m、高さ約2~6m、幅約4mを測ります。空堀は幅約8m、深さ約3mで巡り、館の西側及び南側にも
堀が連続しています。 
応永23年(1416)上杉禅秀の乱で武州北一揆等高坂に陣との記録もありますが、永禄年間(1558~1570)
にあった後北条氏松山城攻のとき、北条氏康高坂に陣とある(正法寺文書)ので、このときの陣跡であったと考えられます。
その後、北条家臣高坂刑部がここに入り、現在の城郭規模に改修したと思われます。高済寺境内の西側土塁の北端上には、
当寺を菩提寺にしていた旗本加賀爪氏累代の墓が所在しています。
(埼玉県立嵐山史跡の博物館発行「改訂歩いて廻る『比企の中世・再発見』より引用)

更に他の文献によれば、後北条北条氏滅亡後、廃されたこの城館跡に徳川家康の家臣・加賀爪氏が陣屋を構え、
最終的には1万3000石の大名になったが、元和元年(1616)加賀爪直清のとき、旗本成瀬正章との領地境の
争いで不備があり、所領没収となって改易されたとある。




右の高坂館跡略図のほぼ中央を横に走っている道路の下方(南側)は、住宅地・造成地となっています。




高坂館跡=高済寺




高済寺正門




門前にある「県指定旧跡 加賀爪氏累代墓」の標柱  なお、高坂館跡としては「埼玉県選定重要遺跡」




高済寺本堂と境内(一部)




西側土塁のすぐ下にある「城山稲荷」 以前は土塁の上にあったようです。




西側土塁の北隅にある加賀爪氏累代墓へ




土塁上に設けられている加賀爪氏累代墓の石碑と説明版




加賀爪氏累代墓の説明板








加賀爪氏累代の墓石が並んでいます




土塁上北側から南方を撮影




土塁上から土塁西側の空堀を南方に撮影




土塁下の状況




土塁上南から北方に撮影




西側土塁を南西方向から




同じく南西方向から こんもりした所が墓所




道路から土塁の南端を かつてはもっと続いていたのでしょうが、道路を通すために寸断されたのか?

ここにで言うところの高坂館はこの近くの別の場所にあったのではないかとか、後北条氏家臣に高坂という者は
いなかったので土豪の者であったのではないかなどと色々とはっきりしないことがあるようです。
                                                 
攻城日: 2015年(平成27年)2月12日(水)            

中城跡(埼玉県小川町)

2015年02月13日 | 100名城以外の城館跡


中城跡 

中城跡は、小川盆地内の東西にのびる八幡台と呼ばれる台地の東端部に立地します。今に残る城跡の構造は、単郭で横堀を廻らせ、
二重土塁、屏風折り、食い違い虎口という特色を持っています。伝承では鎌倉時代に猿尾太郎種直が、建武年間には斎藤六郎左衛門尉
重範が居住したと伝えますが、城跡の構造や春日会館建設に伴う発掘調査の出土遺物から15世紀後半の築城と考えられます。
文明6年(1474)「太田道灌状」にある「上田上野介在郷の地小河」に関連する城跡と考えられます。
なお、中城跡の南側約200mの八幡台遺跡の2地点の調査で同時期の遺物を出土する
上幅.8mから4.5mの堀跡が検出されており、中城跡に関連する堀と考えられます。
                      (埼玉県立嵐山史跡の博物館発行  改訂歩いて廻る『比企の中世・再発見』から引用)




主郭とある四角の部分はテニスコートになっている。主郭と腰郭の間に春日会館が建てられている。
テニスコートは半世紀以上も前からあり、この中城跡を地元の方は「陣屋」と呼んでいる。




中城跡への登城口は何か所かありますが、ホームページ等でよく紹介されているのは
宮崎病院(今はない・)のところからで、現在ですとこの「ももとせ」のところです。




ここから登城開始です




あっという間に主郭小口に着きました






主郭跡はテニスコートになっています




主郭跡と腰郭跡の間に春日会館が建てられています




主郭西側にあるこの高い土塁は櫓台跡でしょうか。「半僧坊」と呼ばれているお堂が建っています。




半僧坊の土塁上から見た主郭跡




櫓台跡(半僧坊)土塁と西側の空堀



]




西側の「小口」です








空堀






土塁と空堀






仙覚律師顕彰碑と説明版

仙覚はこの地で万葉集の解読をしたと伝えられている




中城跡を北側から

攻城日:2015(平成27)年2月11日(水)            

下里・青山板碑製作遺跡(埼玉県小川町)

2015年02月13日 | 史跡・遺跡・文化財


下里・青山板碑製作遺跡
                                                         [2015年1月9日]
鎌倉時代から戦国時代の板碑製作遺跡です。13世紀頃から関東では仏教信仰の高まりを受け、寺院建立に加え緑泥石片岩製の石塔である「板碑」の造立が
盛んになりました。小川町は板碑石材の有力な産出地と考えられており、平成13年に下里地内で加工石材が採集されたことを契機に、小川町教育委員会が
調査を開始したところ、採掘の可能性がある地点が、割谷(わりや)地区、西坂下前A地区、内寒沢(うちかんざわ)地区など19箇所確認されました。
割谷地区では、緑泥石片岩の露頭や、大小のズリによって形成された幅50m、奥行き45m程の平場がみられます。発掘調査では、矢穴痕が残る岩塊や板碑形の
ケガキ線や溝状の彫り込みの残る石材、平ノミによる削り痕がある石材等が確認され、採掘から板碑形へ加工するまでの工程が明らかになりました。
また、出土した未成品の大きさや加工技術を町内外にある板碑と比較検討した結果、割谷地区における採掘の最盛期が関東で最も多く板碑が造られたとされる
14世紀中頃~15世紀後半であることが判明しました。遺跡の規模や採掘の可能性がある地区が多数確認されることから、小川町内で生産された板碑の量は膨大で、
武蔵国における板碑の中心的な生産地であったと考えられます。板碑の生産と流通だけでなく、板碑に象徴される中世の精神文化を知る上でも重要な遺跡です。
                                                      (小川町ホームページから抜粋)                                                     
この「下里・青山板碑製作遺跡」について

国の文化審議会(会長:宮田亮平)は、平成26年6月20日(金曜日)に開催される同審議会文化財分科会の審議・議決を経て、
小川町に所在する下里(しもざと)・青山板碑(いたび)製作遺跡を国指定史跡に指定するよう文部科学大臣に答申しました。
この結果、官報告示の後に、国指定史跡に指定される予定です。

とのことでしたが、平成26年10月6日に正式指定され、埼玉県における国指定史跡は19件、小川町に主体的に所在する国指定史跡は初めてとなりました。

(1) 員数     1                              
 (2) 所在の場所  比企郡小川町大字下里字林殿谷(りんでんやつ) 他
             比企郡小川町大字下里字西坂下前
             比企郡小川町大字下里字内寒沢(うちかんざわ)
(3) 指定面積    55,222.85平方メートル     



国指定から4ヶ月ほど経ってしまいましたが、後学のために、この「下里・青山板碑製作遺跡」を見に行ってきました。行った先はこのうちの割谷遺跡(割谷地区)です。
順路は上記地図の通り、国道254号線から下里地区に入りました。




矢印の入った「下里・青山板碑製作遺跡 割谷地点」の標識が立てられていますので矢印に従って進行




少し進むと橋の手前両端に臨時駐車場が有ります。何を勘違いしたのかこの先には駐車場がないと思い込み駐車して徒歩にて




橋を渡ります




途中、道端に墓地がありましたが、緑泥石片岩の墓石が立ち並んでいました。板碑と同じ石材を使用していても、墓石は墓石であり板碑とは言わないようです。




実は、製作遺跡直近に駐車場が有ったのです。この駐車場と臨時駐車場を勘違いしてしまったわけでして(こんな間違いをするのは他にはいないでしょうね)
この先工事中については車両対象で、遺跡散策には影響ありません。



ロープの中は遺跡保護のため入れません。



ズリ平場




大量のズリです




割谷地区第1号トレンチ(試掘坑)の状況




ちょとアップで撮ってみました。

板碑とは何か

板碑は板石塔婆、青石塔婆とも呼ばれ、中世(鎌倉時代から戦国時代)にかけて造立された石製の供養塔婆の一種です。亡くなった人の供養や、造立者自身が
死後の冥福、現世利益を願うために造立されました。正面に本尊となる仏菩薩を梵字や図像で刻み、その下に紀年銘や造立目的などが刻まれています。
北海道から九州までの全国各地で造立され、その地域の石材が利用されました。関東地域では主に緑泥石片岩(地元では下里石・青石などと呼ぶ)が利用され、
武蔵型板碑と呼ばれています。       (平成26年11月11日~24日開催 「下里・青山板碑製作遺跡 国指定史跡記念関連提示」の資料から抜粋)

散策日:2015(平成27)年2月12日(木)