四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

企画展「みさとまちの発掘調査展」

2023年08月31日 | 企画展・見学会


令和5年度 企画展
みさとまちの発掘調査展
  会 期:2023年(令和5年)7月25日(火)~8月31日(木)
  会 場:美里町遺跡の森館 2F特別展示室 (児玉郡美里町大字木部574)
  主 催:美里町教育委員会

を見学してきました。  

展示対象は、美里町内に所在する
 ■ 向山遺跡 (むかいやま)
 ■ 稲荷林遺跡Ⅱ (いなりばやし)
 ■ 村後遺跡C (むらうしろ)
 ■ 普門寺西山遺跡 (ふもんじ) 
 ■ 南和田遺跡 (みなみわだ)
で、これら5遺跡は住宅建設や墓地造成などのために発掘調査がなされたもので、発掘調査時の写真、見取り図、
調査概要などがパネル展示され、出戸品の一部が展示されているものです。
これらの中から発掘時の写真と出土品を数点紹介させていただきます。写真はパネルを撮影して補正したもので、
彩度が落ちといることをご理解ください。


美里町遺跡の森館のロビーの壁のタイル画 何というタイトルでしょうか?


「展示室へはこちらの階段からどうぞ」と言っているパネルの埴輪。
このパネルのモデルとなっているのは、町内の猪俣古墳群から出土した壺を頭にのせた女性人物埴輪ですね。


常設展示室入口の手前にある特別展示室


企画展のポスターと美里町教育委員会教育長のあいさつ文


特別展示室内の模様
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向山遺跡  所在地:美里町大字白石地内
調査機関:美里町遺跡調査会
調査期間:平成2年10月1日~11月9日
調査理由:福祉施設建設


向山遺跡出土品 ①


向山遺跡出土品 ②


向山遺跡出土品 ③

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稲荷林遺跡Ⅱ  所在地:美里町大字駒衣地内
調査機関:美里町教育委員会
調査期間:平成30年5月29日~7月11日
調査理由:個人住宅建設


稲荷林遺跡Ⅱ出土品 ①


稲荷林遺跡Ⅱ出土品 ②

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村後遺跡C  所在地:美里町大字小茂田地内
調査機関:美里町教育委員会
調査期間:平成30年10月11日~11月22日
調査理由:個人住宅建設


村後遺跡C出土品 ①


村後遺跡C出土品 ②

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普門寺西山遺跡  所在地:美里町大字猪俣地内
調査機関:美里町教育委員会
調査期間:昭和57年4月12日~6月12日
調査理由:墓地造成


普門寺西山遺跡出土品 全体


普門寺西山遺跡出土品 ①


普門寺西山遺跡出土品 ②

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南和田遺跡  所在地:美里町大字駒衣地内
調査機関:美里町遺跡調査会
調査期間:昭和60年2月18日~3月8日
調査理由:建売分譲住宅建設


南和田遺跡出土品

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[令和5年度企画展資料] A4 2枚4ページ 
展示対象5遺跡の遺跡名・調査機関・所在地・調査期間・調査原因・調査面積・遺構・遺物・概要が掲載されて
います。
※調査機関では美里町遺跡調査会が3件、美里町教育委員会が2件

見学日:令和5年(2023)8月27日(日)

エジプト文化展—早大隊の調査から辿る—

2023年08月30日 | 企画展・見学会


エジプト文化展—早大隊の調査から辿る—
会 期:2023年7月4日(火)~11月12日(日)
会 場:本庄早稲田の杜ミュージアム 早稲田大学展示室(本庄市西富田1011)
主 催:早稲田大学文化企画課考古学資料館
後 援:一般社団法人日本エジプト考古学研究所、
    東日本国際大学エジプト考古学研究所、株式会社アケト

を見学してきました。

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1966(昭和41)年9月、吉村作治氏を学生隊長とする5人の学部生は、兵庫の相生港からタンカー「東海丸」に
乗ってエジプトに向かいました。その後、合流した川村喜一早稲田大学講師(当時)とともに、ナイル川流域の
遺跡を北から南へくまなくジュネラルサーベイ(踏査)しました。これが早稲田大学の、さらに日本のエジプト
考古学の礎となったのです。そして、念願の調査権をエジプト考古庁から取得した1971(昭和46)年、アジア人
で初となるエジプト発掘が実現しました。その最初の発掘地となったのが、マルカタ南遺跡です。本学(本庄キ
ャンパス)には、ジュネラルサーベイとマルカタ南遺跡の資料が保管されています。1980年代までは「分配制度
」があり、エジプト政府の許可のもと、出土品の一部を研究のために持ち帰ることができました。本展覧会では、
これらの貴重な資料を用いて、古代エジプト文化をさまざまな視点から紹介いたします。

                      《エジプト文化展—早大隊の調査から辿る—チラシより》
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本展覧会には31品目282点(パンフレットに掲載の出品目録から点数を計算)が展示されています。このうちの
何点かを紹介させていただきます。
吉村作治氏がエジプトで発掘作業をしている様子がよくテレビで放映されていたのを観ていましたが、大分昔の
こととなりました。当時の肩書は助教授だったような記憶が・・・

              

本庄早稲田の杜ミュージアム入口


早稲田大学展示室


出迎えてくれるのは 「アクエンアテン王の像頭部」(レプリカ)


1000kmの道のりを2往復!! ジオラマ


魚の丘彩色階段(模型)


【調査】 「早大エジプト調査のあゆみ」ほか6点の調査解説パネル・・・パンフレットに掲載あり
放映画像には吉村作治氏の顔が


【生活】のコーナー


【生活】 《ナイル》  穀物と深鉢・皿  石皿


【生活】 《住まい》  建材の「日乾しレンガ」


【技術】のコーナー


【生活】 ランプ解説パネル


【生活】 ランプ


【経済】 おもり


【文字】 ヒエログリフ


【技術】 青色顔料解説パネル


【技術】 青色彩文土器


左:【宗教】  右奥:【埋葬】  右手前:【技術】のコーナー


【宗教】


【宗教】 レリーフ


【宗教】 奉献土器


【埋葬】 「棺」解説パネル


【埋葬】 陶棺の発見


【埋葬】 陶棺 出土地:マルカタ南遺跡魚の丘


カーエムケドの坐像(レプリカ)


頂いてきたパンフレット(資料) 表紙(チラシ・ポスターと同じデザイン)を含め11ページ  
そのうちの4.5ページです


見学日:令和5年(2023)8月27日(日)

里帰り展2023 上里町の遺跡から発見されたむかしの道具

2023年08月28日 | 企画展・見学会


里帰り展2023 上里町の遺跡から発見されたむかしの道具
  会 期:令和5年7月29日(土)~8月27日(日)
  会 場:上里町立郷土資料館 1F 特別展示室 (児玉郡上里町大字七本木67)
  主 催:公益雄財団法人 埼玉県埋蔵文化財調査事業団
  共 催:埼玉県教育委員会・上里町教育委員会
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中堀遺跡
平安時代前半(約1,100年前)の朝廷とのつながりが想定される在地有力者の居宅を中心とした遺跡です。
通常の遺跡では見られない、高級食器などが出土する交易のターミナル遺跡となったと考えられます。

                                    《パンフレットから》
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を観覧してきました。
会期前からこの展示会については把握しておりましたので、行こう行こうと思いながらも何やかやで行けず、や
っと最終日に見学できました。


会場の「上里町立郷土資料館 1F 特別展示室」 右隣が常設展示室


鬼瓦


     文字資料     役人の道具     寺関係の遺物


文字資料の中から
      土師器 坏      灰釉陶器 高台付 埦     灰釉陶器 高台付 埦
             石製紡錘車   石製紡錘車


寺関係の遺物


寺関係の遺物の中から
  須恵器 鉢 (仏鉢形 土器)


須恵器 大甕


高級食器


灰釉陶器


高級食器の中から
  緑釉陶器 輪花埦    白磁 青磁


食事の道具


食事の道具の中から
               土師器 甕     須恵器 羽釜
                  土師器 台付甕


鉄の道具


特別展示室とパンフレット

見学日:令和5年」(2023)8月27日(日)

忍城・川越城の御城印

2023年08月24日 | 御城印

埼玉県行田市にある『忍城』と川越市の『川越城』の新たな御城印が販売された(される)ようです。
記憶に間違いがなければ埼玉県の城郭で一番最初に御城印が販売されたのは「菅谷城」、次が「忍城」でした。
その後、「小倉城」「大築城」、「鉢形城」、「杉山城」、「深谷城」などが続いています。これらは城郭と関
係ある観光協会や城郭跡内にある博物館・資料館などの発行によるもので、城郭とは直接関係のない営利団体や
グループ・個人が販売しているものは除いています(そうした類の御城印には興味がありませんので、扱ってい
る城郭やどの程度販売されているのかは調べていませんが)
「御城印」という呼び方が一般的になっていますが、「登城記念印」、「城郭符」などと別の呼び方をしている
ところもあります。また、御朱印と違って直筆いうものはほぼ皆無で予め印刷されたものがほとんどです。
「御城印」は中央に城館名と城(藩)主の家紋を入れており、右側に「難攻不落」などのキャッチフレーズ?を
入れる場合が多いようです。
忍城の御城印は今回が第3弾となりますが、第1弾は御三階櫓のイラストの上に歴代城(藩)主の家紋4種を重ね
たものでした。
今回の第3弾は、白河藩、忍藩、桑名藩『三方領知替』ということで三藩の城主の家紋を入れたものです。忍藩は
6代続けて老中を出していましたが、この三方領知替以降は老中に就く者はありませんでした。

本来なら新しい御城印を入手(購入)してその写真を載せたいところですが、御城印入手を待っていたらいつに
なるかわかりませんので、100名城・続100名城スタンプを載せておきます。



続日本100名城118 忍城 スタンプ     行田市郷土博物館(御三階櫓〔模擬〕)入館券

城 名:忍城(おしじょう)
所在地:行田市本丸
格 式:親藩・譜代  ※太字が親藩
城 主:5家17人
    深溝松平家 1代 ・東条松平家 1代 ・大河内松平家 1代 ・阿部家 9代 ・奥平松平家 5代
指 定:埼玉県指定旧跡 名称「忍城跡」 昭和38年(1963)8月27日指定
選 定:続日本100名城 118 「忍城」 平成29年(2017)3月 公益財団法人日本城郭協会選定


日本100名城19 川越城 スタンプ     川越城本丸御殿入館券 ※川越城本丸御殿は現存4御殿の一つ

城 名:川越城(かわごえじょう)
所在地:川越市郭町
格 式:親藩・譜代  ※太字が親藩
城 主:8家21人
    酒井(雅楽頭)宗家 1代 ・酒井(雅楽頭)別家 2代 ・堀田家 1代 ・大河内松平家 3代 ・
    柳沢家 1代 ・秋元家 4代 ・前橋松平家 7代 ・松井松平家 2代
指 定:埼玉県指定史跡 名称「川越城跡」 大正14年(1925)3月31日指定
選 定:日本100名城 19 「川越城」 平成18年(2006)4月6日 公益財団法人日本城郭協会選定



川越城の御城印に使われている「丸に三つ葉葵」紋の入った鬼瓦。記事にある出土品でありませんが川越城本丸
御殿のいずれかの場所で使用されていたもの。川越藩主8家のうち「丸に三つ葉葵」紋を家紋にしていたのは歴
代藩主家のうち唯一の親藩で、徳川家康の次男結城秀康を家祖とする前橋松平家(大和守)だけです。


本丸御殿前に立てられた歴代藩主の名が入った幟のうちの松平大和守家7人の幟
この写真では全部の名は読めませんが、奥から歴代順に「松平大和守朝矩」・「松平大和守直恒」・「松平大和
守直温」・「松平大和守斉典」・「松平典則」・「松平大和守直侯」・「松平大和守直克」

歴史講座Ⅰ「中世城郭から近世城郭へー忍城・川越城ー」(1)忍城の400年

2023年08月19日 | 講演会・講座


埼玉県立嵐山史跡の博物館
令和5年度  歴史講座Ⅰ「中世城郭から近世城郭へー忍城・川越城ー」(1)          
 日 時:令和5年8月18日(金)13:50~15:30(実終了は15:50ころでした)
 会 場:国立女性教育会館 講堂(埼玉県比企郡嵐山町菅谷)
 演 題:忍城400年の歴史~築城から廃城まで~
 講 師:鈴 木 紀 三 雄 氏(行田市郷土博物館館長)
 内 容:はじめに
       1 戦国期
      2 徳川の城 
      3 老中の城(天正18年~寛永10年)
      4 老中の城(寛永10年~元禄期)
      5 松平下総守家時代の忍城
      6 忍城の廃城
      おわりに

を聴講してきました。
博物館等の講座やセミナーなどの聴講をその都度応募しているのですが、このところどれもこれも落選続きで、
埼玉県立嵐山史跡の博物館主催の講座参加は実に1年ぶりとなりました。そんなことから会場の女性教育会館の
講堂の場所を忘れかけていた・・・と言ってもよいくらい自身にとっては久しぶりの講座でした。


会場の国立女性教育会館 講堂
講座中の撮影、録画、録音は禁止されていますので写真はありません。


忍城 御三階櫓(模擬)
左側の家紋は歴代忍城主の家紋(就任順ではありません)
忍城は松平信綱以降6代続けて幕府の老中になっていることから「老中の城」の性格を持つと言います。
次回の講座は「川越城」ですが、忍城6人の老中に対し川越城主は8人が大老・大老格・老中に就いています。こ
れについて言及されるかどうか今から興味があります。


本年7月15日(土)放送NHKテレビ・ブラタモリ「埼玉・行田~埼玉はじまりの地 行田ってどんなところ?~」
の解説者として出演した今回の講師である行田市郷土博物館館長鈴木紀三雄氏(左側)
このブラタモリの話も一言でしたが出ましたね。


講座とは関係ないのですが女性教育会館本館前の庭に百日紅が咲いていましたので撮ってきました。

聴講日:令和5年(2023)8月18日(金)

小前田氏館跡

2023年08月18日 | 100名城以外の城館跡


深谷市小前田(旧・花園町)地内の『小前田氏館跡』を訪ねてきました。
館跡と言っても、昭和40年代の圃場整備で遺構は完全に失われてしまい、館跡の東を流れる用水路の一部がかつ
ての水堀跡とされるだけのようです。
小前田氏は、鎌倉時代に猪俣党の藤田氏の祖とされる五郎政行の孫にあたる信国が小前田の地に居館を構え、小
前田野三郎と称したのが始まりとされるようです。
その後も小前田氏は綿々と続き、藤田氏に属し、後北条氏とは敵対関係にあったようですが、藤田氏が後北条氏
への降服後は鉢形城主北条氏邦に仕えたとしています。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐における鉢形城攻めの際は、小前田越前守は氏邦の奥方と光福丸
を守護し脱出の際の交戦で討死したとされています。小前田氏が小前田氏館を居館としていたのはいつまでのこ
とかはわかりませんし、これ以前に小前田郷に関して、長谷部兵庫助らの10名から11名の「小前田衆」や、大森
越前守などの名が出てきますが、これらの者と小前田氏・小前田氏館との関係もよくわかりません。

城館名:小前田氏館跡(おまえだしやかたあと)
別 名:御前田館・陣屋
築城者:小前田信国
築城年:鎌倉時代
廃城年:天正18年(1590)
現 況:農地、宅地
遺 構:水堀(用水路の一部?)
指 定:-
所在地:埼玉県深谷市小前田 陣屋 (旧・大里郡花園町)

上の写真の中央辺りで用水路が「くの字」に曲がっていますが、そのあたりから先が小前田氏館跡とされます。
下の地図の赤線で囲った左上角からの写真です。



小前田氏館は東西に長い方形の館で四方を土塁が巡っていたといわれます。
地図上に赤線で囲った部分が館の範囲です(概ねですが)
近年まで土塁の一部が残っていたようですが現在は消滅しています。
また、館跡西側を流れる用水路の一部が小前田氏館の水堀跡と言われますが、他の三方も水堀が巡っていたと考
えられるのは当然です。ただし、その痕跡はどこにも見られません。


館跡西側を流れる水堀跡(用水路)  この写真では用水路の右側が館跡です


フェンスの手前が用水路 フェンスの向こうが館跡


現在の館跡の中央に走っている道路から 道路突き当りに水堀跡(用水路)があります


館跡東端から南東方向を 道路の先は館跡の外ですが、写真中央のやや左側に見えるのが「道の駅はなぞの」の
アルエット(花園地域物産館)


ということで何もな~い小前田氏館跡を散策してきましたので、散策の証として撮ってきた写真から何枚かを掲載してみ
ました。この10日前には「黒田古墳群」を。更にその11日前はすぐ近くにある「橋屋遺跡」を訪ねています。近くにある
この三カ所なら同じ日に回れるだろうになぜ三回に分けてと思われるかもしれませんが、そうはいかなかった理由があり
まして・・・縄文時代、古墳時代そして中世と異なる時代を一度には無理な話です(これは冗談)


散策日:令和5年(2023)8月17日(木)

橋屋遺跡

2023年08月15日 | 史跡・遺跡・文化財


全国1都1道2府43県に店舗を展開するファッションセンターしまむら。その一店舗である「しまむら花園店」に
行ってきました。この花園店は店舗名が示す通り、「しまむら」発祥の地・比企郡小川町の隣の隣にある旧大里
郡花園町、現在の深谷市に所在します。勿論、お店に寄らせていただきましたが、本来の目的は『橋屋遺跡』の
場所確認にありました。実はファッションセンターしまむら花園店はこの『橋屋遺跡』の上に建っているのです。

名 称:橋屋遺跡(はしやいせき)
概 要:荒川中流域左岸の河岸段丘上にある。県北を代表する縄文時代晩期の遺跡。
種 類:集落跡
時 代:縄文時代
出土品:縄文土器、石器、土製品、石製品
選 定:埼玉県選定重要遺跡 名称:橋屋遺跡 昭和51年(1976)10月1日選定
所在地:埼玉県深谷市小前田字橋屋408-1ほか (旧・花園町)



橋屋遺跡の範囲は概ねではありますが赤線で囲った範囲となっています。
橋屋遺跡の第1次発掘調査は平成 5年(1993)に花園町教育委員会(当時)によって行われています。(無論、
遺跡範囲全体 ということではなく一部分ですが)
更に、平成17年(2005)にこの遺跡上にしまむらの店舗建設の計画が明らかになり株式会社しまむらと花園町教
育委員会(当時)との協議の結果第2次発掘調査が行われました。調査経費は事業主体の株式会社しまむらが負担
しています。
これらの経緯と調査結果は、【埼玉県深谷市埋蔵文化財報告書第97集 橋屋遺跡(第2次) 2008.3 深谷市教
育委員会】に詳細があります。
なお発掘当時の平成17年(2005)は大里郡花園町でしたが、平成18年(2006)1月1日に旧・深谷市などとの合併
により新・深谷市となったことから報告書は深谷市教育委員会となっているわけです。



橋屋遺跡とされる場所です。
これを見ただけではただの更地で縄文時代の集落跡とは考えにも及びません。
実際、自身においても知らない場所ではありませんでしたが、過日、埼玉県選定重要遺跡について調べている際
に初めて遺跡(橋屋遺跡)と知った次第です。
一応、説明板とか標柱といった類のものが設置されているか探してみましたがありませんでした。



畑や更地の写真を載せて何になるのと思われるでしょうね。
しかし、遺跡とはこんなところに眠っているのだという参考になればと思いまして。
何気なく歩いている場所が、文化財指定・選定の有無は別として、遺跡だったりするかもしれませんね。


写真下側が荒川に通ずる緩い坂(段丘)です。

散策日:令和5年(2023)8月6日(日)

黒田古墳群

2023年08月10日 | 古墳


名 称:黒田古墳群(くろだこふんぐん)
概 要:荒川左岸の河岸段丘上に築造された後期古墳群。かつては30基を超える古墳があったが現存は4基。
    黒田2号墳(帆立貝型前方後円墳)と黒田10号墳(円墳)の2基が市指定史跡となっている。
築 造:古墳時代後期(6世紀後半)
出土品:副葬品は大刀、鉄鏃等の武器、轡、壺鐙金具等の馬具、高坏、堤瓶等の須恵器、装身具としての空玉、
    管玉、丸玉等多くの玉類が出土。
指 定:深谷市指定史跡   名称:黒田古墳群 昭和52年(1977) 4月1日指定
選 定:埼玉県選定重要遺跡 名称:黒田古墳群 昭和51年(1976)10月1日選定
所在地:埼玉県深谷市大字黒田 (旧・花園町)


黒田古墳群の存在は前々から知っていましたが、いつでも行けるという思いがあったのか、中々訪れる気になら
ずにいました。別の件で何回か古墳群のある辺りは行っていましたし、近くにある道の駅やホームセンターなど
には年中行っているのですが。
ついにその気になって猛暑の中を行ってきました。手書きで描いていった地図が全く役に立たず、逆に混乱を招
く結果となり何度も同じところを行ったり来たりし、何とか4基の古墳に。古墳の規模等については省きますので
写真で想像して下さい。これを世間では手抜きと言うそうな・・・



現存する4基の古墳の位置を示しました。


黒田古墳群の主墳である「黒田2号墳」を西方から 手前が前方部


現地の黒田古墳群説明板
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    黒田古墳群
                           所在地 花園町大字黒田
黒田古墳群は、この付近一帯にあった三十基に余る古墳の総称である。
長い年月の間に荒廃していたが、荒川中部第一次ほ場整備事業実施に当り、昭和四十九年に十三基が調査された。
また関越自動車道花園インターチェンジ設置に伴い、昭和五十二年に三基が発掘調査された。
古墳の内部主体は河原の自然石を乱石積みにした横穴式石室で、大部分が袖無型の狭長な長方形プランである。
副葬品は大刀、鉄鏃等の武器、轡、壺鐙金具等の馬具、高坏、堤瓶等の須恵器、装身具としての空玉、管玉、丸
玉等多くの玉類が出土した。
構造や出土品等を総合的に考察すると、築造年代は六世紀後半から七世紀初期と考えられる。
昭和五十二年四月、主墳である前方後円墳一基と、東方約百六十メートルの円墳一基を町の文化財に指定した。 
   昭和六十年三月
                                       深谷市教育委員会

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既に判読が難しい状態になっていたため、他の方のブログにあった写真を参考にして記載しました。


「黒田2号墳」を南方から 左側が前方部


「黒田2号墳」を南西から 


「黒田2号墳」を北北東から 


「黒田2号墳」墳丘北側裾部の葺き石


「黒田2号墳」墳丘北北東の大量の葺き石
河原石が使われていますが、すぐ近くを荒川が流れていることから調達が容易であったと考えられます。



「黒田2号墳」墳頂  盗掘?の跡が数カ所みられました。 


「黒田2号墳」墳頂から「黒田10号墳」方向を


「黒田10号墳」北側から  右の建物は養鶏所跡の建物
「黒田古墳群第10号墳」と書かれていた標柱が立っている筈ですが見落としたか。



「黒田10号墳」東側から  


「黒田10号墳」南側から  


「黒田10号墳」墳頂 この10号墳も多くの葺き石があります。 


「黒田2号墳」墳頂から「黒田16号墳」方向を


「黒田16号墳」を北方から


第一石産運輸花園工場へ出入り口となっており、墳丘東側が大分削られています。


「黒田19号墳」墳頂に神社社殿が建立されている


「黒田19号墳」 神社にしたため元の墳形を壊しているようです。


「黒田19号墳」を社殿裏側から


「黒田19号墳」の南西約80mのところにある古墳? 消滅、半壊扱いになっている「黒田18号墳」

散策日:令和5年(2023)8月7日(月)

黄色の鶏頭

2023年08月09日 | 花・鳥・風景


数日前、民家の庭の道路際に黄色の鶏頭があるのを目にしました。鶏頭は赤だけと勝手に思い込んでいましたか
ら「え! 黄色もあるんだ」と。
道路際ですから写真を撮ろうと思えば簡単に撮れますが、やはり許可を得たうえで撮りたかったので見るだけに
していました。
一昨日、早朝散歩で再び通りかかったところ奥さんが庭にある色々な花に水をやっている所に遭遇しましたので、
声をかけさせていただき撮影許可をいただきました。黄色だけでなくオレンジ色(橙色)もありますよとのこと。
ということで3色の鶏頭を撮ることができました。以前も違う花を撮らせていただいています


















散策日:令和5年(2023)8月7日(月)

埼玉県選定重要遺跡 5⃣

2023年08月08日 | 史跡・遺跡・文化財


埼玉県選定重要遺跡 5⃣
この5⃣で一応訪ねたことのある埼玉県選定重要遺跡のうち何カ所かを除いた大方の紹介を終えることになります。
説明板の写真と現地の写真1枚程度で遺跡の状況なんて分からないとお叱りを受けるかもしれませんね。しかし、
今回の一連の投稿は、「埼玉県選定重要遺跡」とは何? 「埼玉県選定重要遺跡」にはこうした遺跡が選定され
ているということで、自身が訪ねたことのあるものを目録的に紹介したものです。
個々の遺跡の状況については、過去記事を見ていただければ幸いです。たいした内容ではありませんが、遺跡の
状況をお分かりいただけるかと思います。
各選定重要遺跡の[概要]は、『埼玉県文化財目録』(埼玉県教育委員会)に記載されたものを引用させていた
だきました。※は管理人の補足コメントです。


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◇ 埼玉県選定重要遺跡 西別府祭祀遺跡 


名称・形態:西別府祭祀遺跡  【祭祀遺跡】
所 在 地:熊谷市西別府 1575 ほか
選定年月日:昭和51年(1976)10月1日  
概   要:湯殿神社に隣接する湧水地から多数の石製模造品が出土。古墳から平安時代。(一部国指定史跡)
     ※西別府祭祀遺跡は深谷市・熊谷市に所在する国指定史跡幡羅官衙遺跡群を構成する遺跡のひとつ。
市町村指定:-


この湯殿神社の裏に、水辺の祭祀(湧泉祭祀)の跡であります。

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◇ 埼玉県選定重要遺跡 宮塚古墳群 


名称・形態:宮塚古墳群  【古墳群】
所 在 地:熊谷市広瀬字山王
選定年月日:昭和51年(1976)10月1日  
概   要:国指定史跡宮塚古墳(上円下方墳)を中心とする古墳群。現存9基。
     ※宮塚古墳群で検索しても該当するものがありませんが、古墳群を構成する古墳が広瀬古墳群と一
       致します。宮塚古墳群の名称は重要遺跡に選定当時の名称で、現在は広瀬古墳群に変更されたも
       のと考えられます。但し、その後、遺跡の名称変更があっても埼玉県選定重要遺跡での名称は選
       定当時の名称ままで変更はしないようです。

市町村指定:-


古墳群全部の古墳を一緒に撮るのは不可能でこれが精一杯。と言ってもほかの古墳の写真は撮って
いませんが。
宮塚古墳は単体で国の史跡に指定されたもので、説明するまでもなく宮塚古墳群(広瀬古墳群)が
国指定史跡ということではありません。


広瀬4号墳

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◇ 埼玉県選定重要遺跡 権現坂埴輪窯跡 


名称・形態:権現坂埴輪窯跡  【生産遺跡】
所 在 地:熊谷市千代字富士山下 731 ほか(旧・江南町)
選定年月日:昭和44年(1969)10月1日  
概   要:現存9基。江南台地上、谷を挟み東西支群がある。西支群発掘調査。(市指定史跡)
     ※昭和37年(1962)に、埼玉県教育委員会の発掘調査で5基の埴輪窯跡を確認したが、この部分が
      「権現坂埴輪窯跡跡」の名称で埼玉県選定重要遺跡に選定されたものと思います。その後の江南町
       の発掘調査によって確認された開析谷西側の約10基の埴輪窯跡の部分を江南町(当時)が「権現
       坂埴輪窯跡跡群(西群)」の名称で江南町指定史跡としたようです

市町村指定:熊谷市指定史跡 名称:権現坂埴輪窯跡群(西群) 平成10年〔1998〕2月10日指定


窯跡を示す表示がないので(私有地ですから無理か)窯跡の位置が分かりませんでしたが、この
辺りかと思い撮ったものです。

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◇ 埼玉県選定重要遺跡 野原古墳群 


名称・形態:野原古墳群  【古墳群】
所 在 地:熊谷市野原字境田、宮脇ほか(旧・江南町)
選定年月日:昭和51年(1976)10月1日  
概   要:和田川左岸の江南台地上に分布する終末期古墳群。現存 26 基。
     ※「踊る埴輪」(東京国立博物館蔵)が出土した古墳群として知られています。
市町村指定:-


八幡神社の社殿裏にある古墳群。この写真よりも広い範囲が古墳群ですが、素人には古墳と盛土の
区別が難しいです。


八幡神社境内(説明板の脇)に最近(2022年4月)建立された2体の踊る埴輪のモニュメント。

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◇ 埼玉県選定重要遺跡 庁鼻和城跡 


名称・形態:庁鼻和城跡  【城館跡】
所 在 地:深谷市国済寺
選定年月日:昭和44年(1969)10月1日  
概   要:室町時代。庁鼻和上杉4代(憲英・憲光・憲長・憲信)の居城。(市指定史跡)
     ※庁鼻和城は上杉氏が深谷城に移る前の居城です。
市町村指定:深谷市指定史跡 名称:庁鼻和城跡  昭和34年(1959)11月3日指定


国済寺三門(深谷市指定文化財・昭和46年(1971)11月3日指定)


館跡北側の土塁 

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◇ 埼玉県選定重要遺跡 寅稲荷塚古墳 


名称・形態:寅稲荷塚古墳  【前方後円墳】
所 在 地:深谷市岡字二の丸 1685 (旧・岡部町)
選定年月日:昭和44年(1969)10月1日  
概   要:全長 51m、高さ 3.5m の前方後円墳。一部発掘調査。(市指定史跡)
     ※旧大里郡岡部町(現・深谷市)では、お手長山古墳に次ぐ2番めの規模を誇る古墳
市町村指定:深谷市指定史跡 名称:寅稲荷塚古墳  昭和54年(1979)4月1日指定


古墳くびれ部に寅稲荷神社が祀られています。

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◇ 埼玉県選定重要遺跡 畠山館跡 


名称・形態:畠山館跡  【城館跡】
所 在 地:深谷市畠山字八幡 520 ほか(旧・川本町)
選定年月日:昭和44年(1969)10月1日  
概   要:館跡内に県指定史跡畠山重忠墓がある。館跡北辺の堀発掘調査。
     ※畠山重忠の父・秩父(畠山)重能が男衾郡畠山郷(現深谷市畠山)に所領を得て、畠山を名乗っ
       た時の居館跡と伝わります。重忠はここで生まれたとされ、菅谷館に移るまでの拠点。

市町村指定:ー


右奥の覆屋の中に伝畠山重忠と家臣の墓(五輪塔)があります。県指定史跡

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◇ 埼玉県選定重要遺跡 本田城跡 


名称・形態:本田城跡  【城館跡】
所 在 地:深谷市本田字西上本田 5032 ほか(旧・川本町)
選定年月日:昭和44年(1969)10月1日  
概   要:荒川右岸の江南台地の南緩斜面に築かれた居館跡。土塁、空堀残存。
     ※畠山重忠の重臣本田近常の居城(館)跡。現在も後裔の方が居住。
市町村指定:ー


本田家家人の承諾を得て遺構を見学させていただきました。堀跡? 土塁?

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◇ 埼玉県選定重要遺跡 花園城跡 


名称・形態:花園城跡  【城館跡】
所 在 地:大里郡寄居町末野字城山、清見寺、浦山
選定年月日:昭和44年(1969)10月1日  
概   要:戦国時代の山城で、武蔵七党猪俣党藤田氏十五代の居城。複雑な堀割と曲輪の配置や
      石積みが良好に残る。
     ※規模の大きい城跡ですが整備が全くされていませんので上るのも下るのも大変でした。城域が広い
       だけに迷い込む恐れ多大(自身の経験からの独り言)

市町村指定:寄居町指定旧跡  指定年月日等は調べたが不明
      町指定史跡に準ずるものとして指定旧跡制度を設けたようですが、市町村で指定旧跡
      を設けるのは稀です。


本郭と二の郭との間の堀切

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◇ 埼玉県選定重要遺跡 旧盛徳寺跡 


名称・形態:旧盛徳寺跡  【寺院跡】
所 在 地:行田市埼玉字下埼玉 1118 ほか
選定年月日:昭和44年(1969)10月1日  
概   要:埼玉古墳群の東方 1.5km に造営された奈良時代の寺院跡。礎石が残る。
     ※盛徳寺は、埼玉山若王院盛徳寺と称し、県内でも最古の寺といわれる。

市町村指定:ー

本堂前に残っている旧盛徳寺の礎石の一部。
礎石は、旧盛徳寺礎石の名称で、行田市指定文化財になっています。昭和30年〔1955〕8月8日指定