四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

お手長山古墳(埼玉県深谷市)

2020年04月21日 | 古墳


名 称:お手長山古墳(おてながやまこふん)
別 名:―
墳 形:帆立貝式墳 
規 模:全長49.5m 後円部径37m、前方部長さ12.5m、高さ約6m 
築 造:6世紀末頃
出土品:周溝から土師器坏、須恵器甕、長頸瓶
指 定:市指定史跡(名称:お手長山古墳 昭和54年(1979)4月1日指定)
所在地:埼玉県深谷市岡2006-1(旧大里郡岡部町)

深谷市(旧岡部町)の標高約54mの櫛挽(くしびき)台地の北西部にある帆立貝形古墳のお手長山古
墳を訪ねてみました。
帆立貝形と言っても土取りされたようで、元の形を留めず、細長くなっていて、前方と後円の区別
が付きませんでした。




東側  後円部登り口




【お手長山古墳説明板】   
深谷市指定文化財 
  お 手 長 山 古 墳
                          指定年月日 昭和54年4月1日
 お手長山古墳は、深谷市岡に所在する。所在地の標高は、約54メートルであり、櫛挽台地北
西部にあたる。古墳の頂部には、天手長男神社が鎮座し、古墳名称の由来ともなっている。現存
する墳丘は、長軸43.5メートル、短軸22.5メートル、高さ3.5メートルを測る。
 後の時代の耕作等により原形は失われているが、昭和50年の本庄高校考古学部による墳丘測
量調査、昭和63年及び平成2年の岡部町教育委員会(当時)による発掘調査等により、古墳築
造当時の姿が判明した。
 調査結果によれば、古墳の規模・墳形は、後円部径37メートル、前方部長12.5メートル、
全長49.5メートルの帆立貝式古墳である。主軸方位はN-116度-Eを示す。周溝からは、
土師器・須恵器等が検出されたが、古墳の時期を示す明確な遺物は少ない。ただし、古墳周辺に
散乱する石室の石材(角閃石安山岩)が6世紀後半以降、頻繁に使用されるものであること、周
溝等の理由から6世紀末を前後する年代が想定される。
 当古墳の北西には四十塚古墳群があり、古墳群中には、横矧板鋲留短甲・五鈴付鏡板などが出
土した四十塚古墳(5世紀末)、当地域最大級の前方後円墳(全長51メートル)である寅稲荷
塚古墳が存在する。 
 お手長山古墳は、これらの古墳と同様に、櫛挽台地北西部を代表する首長墓と言う事ができる。
このような有力古墳の集中地帯に、7世紀後半以後は、中宿・熊野遺跡をはじめとする律令期の
重要遺跡群が分布することから、古代榛沢群衙(群役所)は、古墳時代首長層の伝統的勢力基盤
を継承した形で成立すると考えられる。
                                 深谷市教育委員会




「お手長山古墳復元図」




前方部を東南方向から




墳丘全体を南側から




前方部を西側から




墳丘全体を北側から  左側が後円部  右側が前方部




前方部墳長に古墳名勝称の由来となった「天手長男(あめのたながお)神社」鎮座する




前方部から後円部方向に

散策日:令和元年(2019)12月9日(月)

寅稲荷塚古墳(埼玉県深谷市)

2020年04月15日 | 古墳


名 称:寅稲荷塚古墳(とらいなりづかこふん)
別 名:―
墳 形:前方後円墳 横穴式石室(推定)
規 模:全長51m 後円部径26m、高さ3m・前方部幅34m、高さ3.5m 
築 造:6世紀末頃
出土品:-
指 定:市指定史跡(名称:寅稲荷塚古墳 昭和54年(1979)4月1日指定)
所在地:埼玉県深谷市岡字二ノ丸(旧大里郡岡部町)

旧大里郡岡部町(現・深谷市)では、お手長山古墳に次ぐ2番めの規模を誇るという寅稲荷塚古墳を
訪ねてみました。
古墳の概要については、現地の説明板の内容を下記に転記しました。




東側の寅稲荷神社参道入口の脇に設置されている 寅稲荷古墳説明板




【寅稲荷古墳説明板】
  寅稲荷古墳
 高崎線岡部駅の北北西1.6キロメートルに位置し、櫛引台地北端部近くに存する。古墳付近の
標高は約51メートルで台地北側の低地水田面との比高は、約10メートルである。
 本古墳の周囲は、かつて多数の古墳が群れを成して存在していたといわれているが、その多く
は、昭和初期の開拓により消滅しており、現在存在するものは、2から3基を数えるにすぎない。
 本古墳は、ほぼ東西に51メートルの主軸をもつ前方後円墳で、後円部径26メートル、同高
3メートル、前方部幅34メートル、同高3.5メートルである。前方部の方が若干大きく高く
なっており、終末期の前方後円墳の典型例と言うことができる。埴輪の有無は明確ではなく、埋
葬施設は、角閃石安山岩を石材として使用した横穴式石室と考えられている。建造時期は、主体
部が未調査であるため明らかではないが、墳丘等の形状からして、6世紀末ごろと考えることが
できる。
 また、前方部から後円部にかけては、寅稲荷神社が鎮座している。祭神は倉稲魂命という。当
社には古獅子頭3基が伝えられており、町指定文化財となっている。
 平成3年3月                      埼玉県・岡部町




境内の大きな銀杏の木は寅稲荷神社の御神木でしょう




後円部登り口の石段 石段上部は崩れたのか足場が悪い




寅稲荷神社  くびれ部の上あたりに鎮座しているようです




ちょっと珍しい変った形の拝殿です




墳丘南側法面  手前が後円部 奥が前方部




墳丘北側法面  手前が後円部 奥が前方部




前方部を西側道路か

散策日:令和元年(2019)12月9日(月)

宥勝寺裏埴輪窯跡(埼玉県本庄市)

2020年04月09日 | 古代窯跡


名 称:宥勝寺裏埴輪窯跡(ゆうしょうじうらはにわかまあと)
形 態:埴輪窯跡
時 期:6世紀後半
指 定:県指定史跡(名称:宥勝寺裏埴輪窯跡 付 靫形埴輪4点 平成21年(2009)3月17日指定)
所在地:埼玉県本庄市早稲田の杜1丁目(旧本庄市)

宥勝寺裏埴輪窯跡は、古墳に立て並べるための埴輪を焼いた窯の跡で、大久保山丘陵の北側に伸び
る尾根の東側斜面に所在しています。平成13年の調査で5基の埴輪窯跡が、良好な状態で残されて
いることが判明しました。現在は埋め戻され、上の写真のように元の丘陵斜面に戻っています。




『埼玉県指定史跡 宥勝寺裏埴輪窯』説明板




埴輪窯跡イラストと現在位置図




上記説明板の中から 埴輪窯跡イラスト と 靫形埴輪




宥勝寺裏埴輪窯跡のある丘陵は「マリーゴールドの丘公園」として整備されており、本庄早稲田駅
に隣接しています。




四季折々の花が楽しめ、この時期は公園名の花マリーゴールドが咲いていました。

散策日:令和元年(2019)12月6日(金)

長浜氏館(埼玉県上里町)

2020年04月03日 | 100名城以外の城館跡


名 称:長浜氏館(ながはましやかた)
別 名:浮浜城
形 態:館
時 期:平安末期
築城主:長浜三郎信光
城 主:長浜氏・笠原掃部
遺 構:土塁・空堀
指 定:-
現 状:住宅地
所在地:埼玉県児玉郡上里町長浜字城

上里町にある長浜氏館(別称:浮浜城)跡を訪ねてみました。概要については、現地に建立されて
いる長浜氏館跡碑の碑陰碑文を載せておきましたので省略します。
暫らく前までは、土塁・空堀が良好な形で遺っていたようですが、現在は、宅地造成等の影響で僅
かに遺るのみです。




長浜氏館跡の集落入口に建立されている『長浜氏館跡』碑
折角の立派な石碑なのですが、陰刻部分が白く塗られていないので、文字が読めず、石碑と気付か
ずに素通りしてしまいました。
碑の横にコンクリートで固定して置かれたポストは何か違和感を感じますが、かつては史蹟ガイド
が入っていたそうです。私がのぞいた時は埃だけ。




【長浜氏館跡碑】 碑陰碑文
  長 浜 氏 居 館 之 由 来
この地、大字長浜字城は、鎌倉時代より武威を振るった丹党の名族、長浜氏が居住した館跡と伝え
られ、浮浜城とも呼ばれています。長浜氏は新里恒房の子三郎信光を祖とし、長浜の地名をもって
家号としました。太平記によれば一族の長浜六郎左衛門光経(顕寛)は、南朝の忠臣新田義貞に仕
え、最高軍事指揮官である侍所としての重責を担い鎌倉攻略をはじめ全国各地を転戦し、建武4年
(1337)新田義顕と共に越前金ヶ崎城で討死しました。
  平成10年12月




興国寺から石碑のあるあたりまでが館跡のようで集落となっていますが、その周囲は田畑です。
まさにこの一角が浮き上がっており、浮浜城を偲ばせます。




集落の裏手に回ってみました。往時の姿は留めてはいないようですが、土塁と堀跡が遺っています。



大分低くはなっているようですが、折の部分にも土塁と堀跡が。




周囲と比べても集落のある所は一段高くなっています。左に見える赤い屋根の堂宇が興国寺。

散策日:令和元年(2019)12月6日(金)

浅間山古墳(埼玉県上里町)

2020年04月01日 | 古墳


名 称:浅間山古墳(せんげんやまこふん)
別 名:―
墳 形:円墳 横穴式石室
規 模:直径約38m、高さ約6m 
築 造:古墳時代終末期・7世紀後半
出土品:直刀、鉄鏃、銅椀、耳環など
指 定:町指定史跡(名称:浅間山古墳 昭和37年(1962)2月22日指定)
所在地:埼玉県児玉郡上里町神保原町

利根川右岸の台地上、上里町と本庄市にまたがって存在するする旭・小島古墳群に属する浅間山古
墳を訪ねてみました。旧中山道の南側にある円墳です。




道路(旧中山道)の方を向いて建てられている鳥居と説明板




現地の航空写真まで入った親切かつ丁寧な説明板です




浅間山古墳の説明文と測量図を抜粋してみました。
石室については、主体部は安山岩を用いた両袖式横穴式石室で、
全長9.48m、玄室長6.48m、奥壁幅2.2m、高さ2.5m、羨道長約3m、羨道部幅1.2m、高さ1.8m




標柱【上里町指定文化財 浅間山古墳】




墳丘中腹部が削平されて 祠(浅間神社?)が祀られています




石室内部を覗く穴  いわゆる開口部ではなく、石室内を見られるように設けたもの




玄室の壁  右側が羨道部ですが、現在は閉口しており埋戻されています




玄室天井  全体の写真は撮れませんでしたが、1枚の大きな平石が使われていると思われます。




墳丘の北東面を道路から




墳丘南面

散策日:令和元年(2019)12月6日(金)