四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

物見山公園のつつじ

2019年04月30日 | 花・鳥・風景


埼玉県東松山市の岩殿丘陵にある物見山公園のつつじを観に行ってきました。
物見山は、「物見山岩殿観音の勝」の名称で、埼玉県の名勝指定(大正11年(1922)3月29日指定)を受けてい
ます。
見ごろ・好天・休日と三拍子揃いましたので、多くの花見客が訪れていました。
















以前は、ここに展墓台があったのですが、だいぶ前に撤去されたようです。


















ジャガも咲いています




















散策日:平成31年(2019)4月28日(日)

泉井の芝桜

2019年04月29日 | 花・鳥・風景


埼玉・鳩山町の泉井に芝桜が群生するところがあるとのことから初めて訪ねてみました。一個人だか一法人が経
営する太陽光発電のソーラーパネル基地の斜面に咲く(咲かせている)芝桜を一般に開放してくれています。
紫の一色しかありませんが、新緑の緑と青空とで映えてます。












散策日:平成31年(2019)4月28日(日)

文化財めぐり 中世の城館跡を訪ねる1「鎌倉街道沿いの菅谷・大蔵の館跡を訪ねる」

2019年04月27日 | 史跡・文化財めぐり〈団体〉


平成31年4月26日(金)催行された
埼玉県立嵐山史跡の博物館 平成31年度文化財めぐり 中世の城館跡を訪ねる1
「鎌倉街道沿いの菅谷・大蔵の館跡を訪ねる」
に参加してきました。

【コース】
午前:嵐山史跡の博物館ロビー(9:45集合)=== 博物館展示室見学 === 菅谷館跡見学 === 昼食(博物館)
午後:鎌倉街道の石碑(鎌倉街道の推定道筋1)=== 二瀬橋で都幾川を渡河 === 行司免遺跡の井戸跡 === 大蔵神
   社(大蔵館跡)=== 源義賢墓 === 向徳寺 === 学校橋で都幾川を渡河(鎌倉街道の推定道筋3)===(鎌倉
   街道の推定道筋2)=== 武蔵嵐山駅(解散)

雨が降ったり止んだりの中の散策でした。以上のコース・見学場所のすべてではありませんが何枚かの写真を載
せておきます。

※トップの嵐山史跡の博物館入口の写真は以前撮ったものを使用(今回は撮り忘れたため)




博物館ロビーで今回の文化財めぐり担当者・博物館学芸担当者からの説明を受けます




展示室に入ると畠山重忠の音声ロボットが出迎えてくれます。
重忠の顔は歌舞伎役者が演じた重忠(歌舞伎絵)を基にしてとのことです。実際の重忠の顔は分りませんから。
ところで重忠の被っている兜を見て何か気付きませんか? そうです、立物(鍬形)がありません。重忠が活躍
した時代、立物(鍬形)の付いた兜は、総大将クラスの武将が身分を示すために被ったそうです。
重忠も一軍の大将ではありましたが、軍を率いる総大将ではなかったためこうした兜を被っていたようです。
戦国時代のころにはそうした縛りはなくなり、武将は思い思いの前立てを付けるようになりましたが・・・

なお、通常ですと展示室内の撮影は禁止されておりますが、今回は、「ただ今の期間、展示室内の 写真撮影は
可能です」とありましたので、初めて撮りました。




嵐山町・平沢寺境内の長者塚から出土した鋳銅経筒 
銘文にある「当国大主散位平朝臣茲縄」は、畠山重忠の曽祖父・秩父重綱であると考えられている




博物館入口である搦手門跡で説明を受ける




三ノ郭を「正坫門(しょうてんもん)」・「木橋」方向に




木橋(復元)の上で説明を受ける  橋の先の郭は西ノ郭




二ノ郭から本郭に




本郭小口の土塁と空堀




本郭内で土塁・空堀についての説明を受ける
また、畠山重忠の居館があったのはここ本郭にあったのではないかと言われたり書かれたりしているが、その根
拠はなく、どこにあったのかは不明とのことです。
更に、菅谷館は重忠が築いたと言う説が流布しているようですが、重忠が築いたと裏付ける資料はないとのこと
でもあります。
菅谷館跡は館跡と言うよりも城跡(菅谷城跡)と言ってもよいくらいですが、館跡としているにはそれなりの理
由があるようです(間違ってはいけませんので、そのことには触れませんが)




本郭南側の土塁の所で、南側の土塁のが北側の土塁に比べて低い理由の説明を受けた後、南側土塁の外側を歩い
て南郭方向に




南郭




二ノ郭西側の空堀を忠魂碑の脇から




秋の嵐山まつりの際に行われる流鏑馬の馬場となる二ノ郭の道を歩いて 右側は本郭の空堀




二ノ郭門跡の土塁上に建つ畠山重忠像 鎌倉を向いて建てられています




再び本郭内を歩いてに東側の生門跡へ




本郭東側の空堀
この後、博物館に戻り昼食  予定では屋外の芝生上での昼食でしたが雨天のため館内の研修室をお借りして




午後の最初は鎌倉街道の推定道筋1にある「鎌倉街道の碑」〔昭和33年(1958)建立〕




菅谷館跡周辺の鎌倉街道の道筋については3ルート以上が提唱されているようですが、発掘調査による裏付けが
なされていない現状では、どのルートが本来の本筋であるかわ断定できないようです。
鎌倉街道の説明板の前を鎌倉街道の推定道筋1が通っています。
かつては、菅谷館跡西側・大蔵館跡西側を結ぶこの道筋が支持されていたようですが、現在は、推定道筋のひと
つとして捉えられています。
※推定道筋の後の番号は説明するうえでの便宜上の番号です




推定道筋1の道筋にある二瀬橋の上から槻川と都幾川の合流点(河岸場があったと推定される)を望む




都幾川沿いの道から菅谷館跡南側方向を  上の方で記した南側の土塁が北側の土塁より低い理由については、
この都幾川が天然の要塞として控えていたから特別高くする必要がなかったためと推測します。




行司免遺跡(中世の集落跡)を歩きます  耕地整理されて集落の痕跡はありません




行司免遺跡の遺構として畑の中に唯一残る石組みを持つ井戸跡
農道から見るだけでしたので説明板も裏側しか見えませんでした




大蔵館跡(大蔵神社)に向けて




大蔵神社がある森を西方から




大蔵神社  大蔵神社は大蔵館跡の一画にあるもので大蔵神社が大蔵館跡と勘違いしている方も・・・
説明するまでもありませんが、大蔵館跡は源義賢(木曽義仲の父)の居館跡とされます。
都幾川を挟み北側には午前中散策した平氏を出自とする畠山重忠の居館跡とされる菅谷館跡が、そして、南側に
は、源氏である義賢のこの居館跡があります。
館同士は時間を共有したことがあるか知れませんが、源義賢が甥の悪源太義平に討たれたのが久承2年(1155)、
畠山重忠が誕生したのはそれより9年後の長寛2年(1164)ですので、二人が時間を共有したことはありませんで
した。




え! 鳥居が新しくなっている  赤い鳥居のはずだったのに  今年3月に建て替えられたようです




神額の文字も「大蔵神社」だったのが「日吉山王大権現」に変っています  何故、なぜ?
大蔵神社の境内には「山王大権現」社がありますし、山王様は源氏の氏神様でもありますからね。
続いて館跡周囲を廻ります




館跡北西隅に遺る土塁




館跡北辺の道を北方に向けて歩きます




館跡東辺の土塁




(伝)源義賢の墓  覆屋で保護されています




(伝)源義賢の墓前で五輪塔の形状から銘文等が判明しなくもある程度の年代が推定できるなどの説明を受ける
 



(伝)源義賢の墓・五輪塔
この五輪塔には空風輪(空輪と風輪を一つの石で作ったもの)がなく、別の五輪塔の火輪が一番上に乗せられて
います。




(伝)源義賢の墓から鎌倉街道の推定道筋2を歩いて向徳寺へ向かいます




向徳寺
時宗のお寺で山号を大福山と号します

今回は特別なご配慮を頂き、旧法では国宝指定であった「国指定重要文化財 銅像阿弥陀如来及び両脇侍立像」
を直接拝観させていただきました。撮影は禁止さていましたので写真はありません。




「嵐山町指定有形文化財 向徳寺板碑群」
こちらも今回特別に覆屋の施錠を解いていただき見学させていただきました




覆屋に納められたすべての板碑を一つの写真にはできませんので半分程を




向徳寺で、銅像阿弥陀如来及び両脇侍立像・向徳寺板碑群を拝観見学のあとは鎌倉街道の推定道筋3にある学校
橋で都幾川を渡河、254バイパスに出て国立女性教育会館前をあるきます。




推定道筋2沿いにある稲荷塚古墳




同上




解散場所の武蔵嵐山駅に着きました

今回の文化財めぐりに当って内容の濃い素晴らしい資料の提供いただきました。また、詳しく分り易い説明もい
ただき大変有意義な文化財めぐりであったことを最後になりましたが書き添えておきます。

散策日:平成31年(2019)4月26日(金)

満福寺・井椋神社(埼玉県深谷市)

2019年04月24日 | 神社仏閣


深谷市畠山(旧大里郡川本町)にある「満福寺(まんぷくじ)」は、白田山観音院と号し、真言宗豊山派の寺院で、平
安時代の開基とされます。
寿永年間に畠山重忠が再興し、菩提寺としたと伝えられます。




観音閣の前にある「満福寺」説明板




山門




満福寺本堂 大棟に「五三の桐紋」




本堂を別角度から  左側の方形屋根の堂宇が観音閣




観音閣




観音閣の屋根は見てのとおり方形で、露盤や鬼瓦には重忠の家紋のひとつである「五三の桐紋」が入っています。




残念ながら重忠の守本尊である千手観音像を拝むことはできません




(左)重忠廟の碑  (中)畠山重忠公八百回忌の五輪塔  (右)彰義隊士水橋右京之丞の墓
重忠の菩提寺ではありますが、重忠の墓はないようです(畠山重忠公史跡公園に墓と伝えられる五輪塔がある)

次に畠山氏の守護神だったと推測される井椋神社を訪ねます



満福寺の東側に井椋神社の一の鳥居があります 社号標には「(旧社格)村社 井椋神社」とあります
この参道を北方に進みます




暫くすると見るからに鎮守の森が見えてきます




二の鳥居です  鳥居の手前に井椋神社の説明板が設けられています




井椋神社説明板
ここに書かれている以外のことを説明する知識はありませんが、畠山氏が畠山に移る前にいた秩父吉田郷での館
(秩父氏館)は、現在の吉田小学校(秩父市下吉田)にありました。小学校の下に椋神社(井椋五所宮)が鎮座
しています。




二の鳥居と拝殿 拝殿左の建物は社務所




井椋神社拝殿




境内社:蚕影山神社




井椋神社之碑  *碑文を読める状態ではありません




境内社:八坂神社、天神社、日吉神社、諏訪神社、八幡大神




境内社:源氏の白旗を祀った白旗八幡社と八幡神社、大雷社が祀られています

参詣日:平成31年(2019)4月5日(金)

畠山重忠公墓・畠山館跡(埼玉県深谷市)

2019年04月22日 | 100名城以外の城館跡


名 称:畠山重忠公墓・畠山館跡(畠山重忠公史蹟公園)
形 態:館
築城主:畠山重能
城 主:畠山重能、重忠
時 期:平安末期~鎌倉初期
遺 構:土塁、重忠産湯の井戸
指 定:畠山重忠墓 6基(埼玉県指定史跡 大正13年〔1924〕3月31日指定)
    畠山館跡(埼玉県選定重要遺跡 昭和44年〔1969〕10月1日選定)
    畠山庄司重能の墓(深谷市指定文化財 昭和36年〔1961〕11月3日指定)
    嘉元二年銘の板石塔婆(深谷市指定文化財 昭和39年〔1964〕8月31日指定)
所在地:埼玉県深谷市畠山(旧大里郡川本町)

桓武平氏の流れをくみ、武蔵国において大きな勢力を持った秩父氏の一族で、男衾郡畠山の地に誕生した畠山重
忠は平氏に仕えていましたが、のちに源頼朝に仕え御家人として活躍しました。しかし、頼朝亡き後、平賀朝雅
の讒言により重忠親子が謀反を企てるとの疑いを掛けられ、元久2年(1205)に二俣川で北条義時・時房率いる
大群に襲われ、重忠以下134名討死し、42年の生涯を終えました。この時、次男畠山小次郎重秀や本田次郎近常、
榛沢六郎成清の2将らも討死しています。
この畠山館跡・畠山重忠墓である畠山重忠公史蹟公園には何度も訪ねていますが、今回あらためて訪ねてみまし
た。




畠山重忠の墓はこの覆屋の中にあります




丁度桜が見ごろを迎えていました




「畠山重忠公の墓」説明板




「埼玉県指定史跡 畠山重忠公墓 並 館跡」碑




畠山重忠公ら6基の五輪塔はこの覆屋の中に




五輪塔配置図と説明文




右側の台座が2段になっている五輪塔が (伝)畠山重忠墓  
左側の五輪塔が (伝)本田親常墓




6基の五輪塔 重忠、親常以外の4基については誰のものか不明のようですが、重能、重忠の家臣のものか?




嘉元二年銘の板石塔婆(板碑)




板石塔婆の説明板




「畠山庄司重能の墓」説明板




重能の墓と伝わる自然石




伽羅の木と由来説明板




土塁について




確かに土塁というよりも土塁跡になってしまっています




畠山重忠公産湯の井戸




「畠山重忠公産湯ノ井戸」説明板




井戸




畠山重忠公史蹟保存碑




畠山重忠公没後八百年慰霊碑




「重忠節」碑  
国は武蔵の 畠山 武者と生まれて 描く虹 剛勇かおる 重忠に いざ鎌倉の ときいたる
作詞 埼玉県知事 畑和(当時)




畠山重忠公史跡公園駐車場  大きな看板が目印になります




この形の看板は県内各地の史跡等でよく見かけるです。
老朽化等の関係かは分りませんが、撤去されたものも多数あります。




「畠山重忠公史蹟公園 川本町」碑




「埼玉県指定史跡 畠山重忠墓」説明板  川本町当時の物




一の谷の戦いでの「鵯越えの逆落とし」で、愛馬三日月を背負っって崖を降りる重忠の銅像
実は、重忠はこの戦いにおいて源義経率いる搦手の別動隊にいたので、「鵯越えの逆落とし」の隊にはいなかっ
たとされるが、怪力の持ち主の英雄と語られる重忠奈良での逸話でしょう。




折角の桜でしたので桜花の向こうにと撮ってみたものの顔が陰になっていました




たまには後ろ姿も   何十枚と撮った重忠の像の中から以上の3枚を厳選しました(笑)




「重忠公ゆかりの石」
争い事があったときに重忠が投げた3個の石のうちのひとつとの伝えあり  詳細は略




桜花とかわもと郷土かるた
旧川本町には沢山の「かわもと郷土かるた」がたてられています




史跡公園の一部  左は四阿の一部




折角ですから満開の桜を




同上

ここ畠山重忠公史跡公園については3度目の投稿で内容も同じものですが、桜の季節では初めてということで・・・

散策日:平成31年(2019)4月5日(金)

シンポジウム「山王塚古墳ー上円下方墳の謎に迫るー」

2019年04月20日 | 講演会・講座


川越市立博物館主催による

第46回企画展 シンポジウム「山王塚古墳―上円下方墳の謎に迫る―」
日 時:平成31年4月20日(土) 午前10時~午後4時30分
会 場:川越市やまぶき会館ホール(川越市郭町1-18-1)

内 容
  記念講演: 「上円下方墳とその時代」 広瀬 和雄 氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)
  基調報告1:「山王塚古墳の調査」   藤田 健一 氏(川越市教育委員会)
  基調報告2:「北武蔵の終末期古墳」  太田 博之 氏(本庄市教育委員会)
  基調報告3:「古代史から見た北武蔵」 宮瀧 交二 氏(大東文化大学教授)
  全体討論:  コーディネーター    黒済 和彦 氏(日本考古学協会)
         パネラー 広瀬和雄氏・太田 博之 氏・宮瀧 交二 氏・藤田 健一 氏
              平野 寛之 氏(川越市立博物館・企画展担当者)

を聴講してきました。

本シンポジウムは、現在、川越市立博物館で開催中の企画展「山王塚古墳ー上円下方墳の謎に迫るー」の展示関
連企画によるもので、山王塚古墳に限らず、これに関連する色々なお話を聞かせていただきました。




企画展「山王塚古墳―上円下方墳の謎に迫る―」のチラシと企画展図録(¥1000 シンポジウム会場受付で衝動買い)




本シンポジウム資料(35ページにわたるもの)




山王塚古墳 埼玉県川越市大塚1丁目・豊田町3丁目に所在します
シンポジウムを聴講するにあたり実際に見ておいた方が話がよくわかるかと考えあらかじめ見学しておきました




遠方から全景を撮りたかったのですが、住宅や倉庫等に囲まれていてこれが精一杯

山王塚古墳見学の際に撮ってきた写真は後日アップする予定です

聴講日:平成31年(2019)4月20日(土)

喜多院(埼玉県川越市)

2019年04月17日 | 神社仏閣


山 号:星野山 (せいやさん)
院 号:喜多院 (きたいん)
寺 号:無量寿寺 (むりょうじゅじ)
宗 派:天台宗
開 創:天長7年(830)円仁
    永仁年間(1293~1299)尊海が中興・慶長年間(1596~1615)天海が家康の保護を受けて復興
本 尊:阿弥陀如来
所在地:埼玉県川越市小仙波町1-20-1

川越大師として知られる喜多院を久しぶりに参詣してきました。花見の季節が終えたことと平日であったことか
ら人混み状態は避けられましたが、普段からそれなりの参拝者がいますので・・・




天海大僧正像




白山権現社




山門と番所(右側)




山門を正面から




喜多院案内図




多宝塔  
寛永16年(1639)に山門と日枝神社の間にあった古墳の上に建立
明治45年(1912)道路新設のため、本堂わきに移築
昭和47年(1972)解体され現在地に復元




川越大師 喜多院 の大きな看板を入れて本堂の慈恵堂(大師堂)




本堂である慈恵堂(大師堂) 潮音殿(ちょうおんでん)とも呼ばれるそうです  扁額は「潮音殿」




慈恵堂前から多宝塔を




この先に江戸城から移築した「家光誕生の間・春日局の間」がありますが、今回は見学せず




小江戸川越七福神 大黒天




川越城主松平大和守家廟所
震災や永年の風雪雨により傷みが激しく修繕工事のため立ち入り禁止となっていました




「松平大和守家廟所」説明板




玉垣の外から廟内を覗きましたが各城主の墓は見えません。ここに並んでいるのは家臣が奉献した石灯篭




ここは古墳です(元の形はありませんが)  この上に慈眼堂が建立されています




「慈眼堂」説明板




慈眼堂




突然ですが!  川越名物?のひとつ B級グルメの「太麺焼きそば」
これまでに蓮聲寺境内の出店、川越城本丸御殿前のお店のものは食べたことがありましたが、ここ喜多院境内の
出店のものを初めて食べてみました。




五百羅漢  




鐘楼門




「鐘楼門」説明板




鐘楼門を表から




塀の軒瓦に「三つ葉葵」が入っていますが、喜多院の寺紋は「二つ引き両」なのです。
天海大僧正が二つ持っていた家紋のひとつがこの「二つ引き両」のようです。足利氏の家紋である「二つ引き両
紋」をなぜ天海は家紋にしていたか、その天海の家紋がなぜ喜多院の寺紋に使われているか等のことは後々勉強
するとして、天海が喜多院に大きくかかわっていることも要因の一つかもしれません。また、「三つ葉葵」も喜
多院と縁が深い紋ですから、軒瓦に使われていたとしても納得できます。江戸城から移築された「家光誕生の間」
や、「東照宮」はまさに三つ葉葵ですから。

参詣日:平成31年(2019)4月16日(火)

畠山重忠の墓(埼玉県小川町)

2019年04月15日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:伝 畠山重忠の墓
指 定:―
所在地:埼玉県比企郡小川町上古寺 士峰山山頂

「武蔵武士の鑑」と称される畠山重忠について今更詳細を述べる必要もないでしょう。桓武平氏(秩父平氏)の
流れを汲む重忠は、長寛2年(1164)に、現在の埼玉県深谷市畠山(旧川本町)の地に誕生し、元久2年(1205)
に二俣川で討ち死にし、42年の生涯を閉じました。
重忠の墓とされるものは数か所あるようで、重忠の生地とされる畠山館跡(畠山重忠公史跡公園)にあるものが
有名ですが、小川町上古寺地内の標高289.8mの士峰山の山頂に築かれた低い塚にある祠の中に五輪塔あり、これ
も重忠の墓(供養塔)と伝えられています。
この塚がいつ頃のものかは分りませんが、重忠の三男・重慶が重忠の遺髪を埋葬して五輪塔を建立して菩提を弔っ
た塚だと伝えられるようです。
重慶は、所々を放浪後、上古寺の高山重遠(のちの小久保氏)の養子として匿われ、その後、出家して武蔵国・都
幾山慈光寺の第29世別当にまでなった人物とされています。

そんな重慶が父・重忠を祀ったとされる五輪塔のある塚を訪ねてみることにしました。
目標は、「士鋒山高福寺」。高福寺は小久保家の裏手にあり、ここから士鋒山山頂を目指すこととしました。




最初は、高福寺への行き道が分りませんでしたが、畑の脇道を歩いて行ったら何とか着きました。
六地蔵尊ですが、覆屋には「幸福地蔵尊」とあります。高福寺の高福にかけているのでしょうか?
地蔵尊の上に見えるのが高福寺本堂




高福寺
往古は慈光寺の経堂で、小久保氏開基によるもののようですが、現在の本堂は平成7年に新築されたもの。
慈光寺僧厳耀は、畠山重忠の大伯父と言われる人物・元久2年(1205)没。
このように畠山氏と慈光寺とは関係が深い。




本堂裏手から士鋒山山頂を目指しましたが、とにかくきつい坂道です。幸い人の歩いた跡が残っていましたので
迷うことはありませんでしたが、普通の方の数倍は遅い歩みです。




どうにか山頂に辿り着きました




石碑 「秩父六郎荘司畠山重忠之墓」 と刻まれています
裏面には建立の経緯と思われる記載があります。私には読めませんが、明治四十五年春 小久保氏建立とあります。




祠の中の五輪塔   凝灰岩製の高さ約76cm




祠の背後にある木に巻き付けられたテープには、「士鋒山 畠山重忠墓 289.8m」と書かれています。

最近は諸々の事由から山城歩きから遠ざかっているのにも関わらず、以前からその存在を知っていた畠山重忠
の墓と伝えられる五輪塔見たさに山城歩き並みの挑戦をしてみました。




深谷市教育委員会編集・発行のパンフレット「武蔵武士の鑑 畠山重忠」から【畠山重忠関係系図】を引用
この系図では、重忠の子には[重保]しか載せてありませんでしたので、附け加えました。実際には他にも子女
がおりますが省略しました。
重秀は、父重忠と共に、元久2年(1205)二俣川で討ち死にしています。

散策日:平成31年(2019)4月3日(水)

チューリップ

2019年04月13日 | 花・鳥・風景


深谷市のグリーンパークのチューリップが色鮮やかに咲き誇っているとの情報から行ってきました。
桜もまだ散らずにありましたのでチューリップと桜の両方を楽しむことが出来ました。
明日14日(日)は、【パティオまつり】が開催されるようですので、今日以上の人出があるでしょう。
説明なしで写真だけを何枚か・・・




































散策日:平成31年(2019)4月13日(土)

江戸太郎の墓(埼玉県秩父市)

2019年04月12日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:江戸太郎の墓
指 定:―
所在地:埼玉県秩父市山田990 秩父聖地公園

江戸氏は、武蔵国を発祥とする武家。鎌倉幕府の御家人にして武蔵の国人領主。本姓は桓武平氏。家系は鎮守府
将軍・平良文の孫・将恒を祖とする秩父氏の庶流。
平武綱の子・秩父重綱の四男・江戸重継は平安時代の末に武蔵江戸郷を領して「江戸四郎」を称し、江戸氏を興
した。江戸氏は後の江戸城の本丸、二の丸周辺の台地上に居館を構えていたと推定されていますが正確な位置は
不明のようです。
その後、勢力の衰えた江戸氏は、太田道灌に江戸館(城)を奪われ、拠点を木田見(喜多見)に移した。のちに
姓も喜多見と改姓。

重継の長男・重長(通称太郎)の墓が埼玉県秩父市の市営秩父聖地公園にあるとのことから訪ねてみました。
看板に「江戸太郎の墓」とあるものの、江戸重長の墓ではなく、江戸氏累代の霊を分かつため近代に建立された
供養塔のようです。なお、この投稿では、看板のまま「江戸太郎の墓」としておきます。
江戸(喜多見)氏累代の墓所は、東京都世田谷区喜多見にある慶元寺にあり、重長の墓(五輪塔)や重長の銅像
もあるといいます。

源頼朝が大軍を引き連れて房総から鎌倉に向かう途中の治承4年(1180)10月4日、江戸重長は、畠山重忠、河
越重頼らと共に長井の渡し(現東京都荒川区)で頼朝に参会して帰順し、鎌倉幕府成立に貢献しました。
更に、畠山重忠が謀反の疑いをかけられ、二俣川で討ち死にした戦いで、江戸重長は重忠追討軍に加わっていま
した。何と皮肉なことでしょうか。




石碑 五輪塔 説明板 が並んでいます




説明板「秩父と江戸氏」
江戸重長(江戸太郎)についての記述はありますが、五輪塔が重長の墓とはどこにも書かれていません。




石碑と五輪塔
石碑には「墓誌」とあり、全部は読めませんでしたが、秩父氏一族、江戸氏について書かれ、末尾に「秩父氏と
江戸氏との血族的類縁は今尚絆をたもつと言うべし ここに江戸氏累代の霊を分ち墓碑を建立 永く後世に傳へ
んとす  昭和四十三年十一月吉日 秩父市長・・」とあります。また、五輪塔も近年の物のようです。
砕けた言い方をすれば、江戸氏を忘れないで下さい。江戸氏は秩父氏(且つ秩父市)から出たのです。と言うこ
とでしょうか。




参考までに秩父氏一族の系図を載せておきます。赤の矢印の所が江戸氏になります。

訪問日:平成31年(2019)3月24日(日)