四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

生出塚埴輪窯跡(埼玉県鴻巣市)

2021年11月30日 | 古代窯跡


東国最大規模の埴輪窯跡群である『生出塚埴輪窯跡おいねづかはにわかまあと』(生出塚遺跡)
   所在地:埼玉県鴻巣市東・天神
を訪ねてみました。
 この生出塚埴輪窯で焼かれた埴輪は各地の古墳に供給されたことが判明しており、古墳等に関す
る講座においても屡々登場する埴輪窯跡と出土品です。




生出塚埴輪窯跡(遺跡)の一部である「東裏1号公園」の前に説明板が設置されています




生出塚遺跡(生出塚埴輪窯跡)説明板
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生出塚遺跡
 生出塚遺跡は、東日本最大規模の埴輪窯跡群である。元荒川の沖積低地に向かって北東方向になだらかに傾斜
する台地上(鴻巣市役所第二庁舎南側一帯)に遺跡は広がっている。もっとも標高が高い地点は、海抜約一九メ
ートルである。周辺は住宅地となっていて、かつての景観を偲ぶことはできない。
 生出塚遺跡は数度の発掘調査が行われ、古墳時代後期の埴輪窯跡・工房跡・住居跡・古墳跡などが見つかって
いる。なかでも埴輪を焼いた窯は、六世紀初め頃から終わり頃までの約百年間操業されたことが明らかになって
いる。
 この場所で発見された埴輪窯跡は、全長約九メートル、焼成部の長さ約四メートル、幅約二メートルの登り窯
形式で、窯の炊き口と灰原は地表面から約二・五メートル堀り込まれていた。窯は、府かい灰原を中止にして八
ツ手状に広がるように造られていた。これは数基分の窯の灰原を一ヶ所にまとめて賄うという効率化をはかった
ためである。
 窯の操業回数は、一基あたり五回前後と考えられ、一回の操業で口径約三〇センチメートルの中型の円筒埴輪
であれば四五本程を焼いていたようだ。
 この窯跡から出土した埴輪は、円筒形・器財系(武器、武具)・家形・人物形・動物型(馬、鹿、水鳥)など
である。出土の状況や埴輪の種類が豊富なうえに造形的にも優れていることから、平成十七年六月九日に「埼玉
県生出塚埴輪窯跡出土品」として国の重要文化財に指定された。特に一体の武人埴輪と三体の正装男子埴輪は、
造形的に優れているだけでなく大型で、それぞれの高さが約一三〇センチメートルである。このような大型の埴
輪を製作するには高い技術が必要である。このことは、大型の埴輪作りができる技術を持つ専門の工人集団がこ
の生出塚遺跡にいたことを物語っている。
 なお、これらの埴輪は、鴻巣市文化センター(クレアこうのす)にある歴史民俗資料コーナーに収蔵されてお
り、随時見学可能である。
 生出塚遺跡で作られた埴輪は、隣接する生出塚古墳群をはじめとして、行田市埼玉古墳群 や久喜市(旧菖浦町)
東浦古墳 などへ運ばれていたことが判明している。さらに千葉県市原市の古墳(山倉一号墳)からは、この生出
塚窯跡 で作られた可能性が高い埴輪が出土している。
 遠方に運ばれた埴輪は、元荒川をはじめとする水路を利用して船で運ばれていたようである。当時、大量にも
のを運ぶには、船がもっとも効率的だった。この時代には、運搬手段として河川の水運が各地で広く利用されて
いたと考えられる。
 平成二十四年二月 
                                       鴻巣市教育委員会

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生出塚埴輪窯跡(遺跡)の一部である「東裏1号公園」 右側の建物が「鴻巣市役所第二庁舎」
すべて埋め戻されており窯跡の姿を見ることはできませんが、埴輪窯跡群があった場所は確認でき
ました。
生出塚埴輪窯跡の遺跡自体は史跡指定はありませんが、説明文にあるように出土品が国の重要文化
財に指定されています。




鴻巣市文化センター(クレアこうのす)
生井塚埴輪窯跡からの出土品はこの中の「歴史民俗資料コーナー」に収蔵・展示されてます




歴史民俗資料コーナーへの案内表示




歴史民俗資料コーナー ・・・ 全体でありませんが




埴輪のさと鴻巣
 この説明文の中にある鴻巣市内のもう一つの埴輪窯跡
   『馬室埴輪窯跡』 ← 記事にリンク




展示品の一部  右端の「貴人埴輪」(高さ131㎝)の脚部は市松模様




鴻巣市文化センター(クレアこうのす)に隣接する「せせらぎ公園」を少しだけ散策して来ました

散策・見学日:令和3年(2021)11月17日(水)

『比企三姫』と誉れ高き武士 畠山重忠

2021年11月28日 | エトセトラ


2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に、埼玉県比企地域にゆかりのある武将・人物(比企能員、畠山
重忠、源範頼、木曽義仲・比企尼、丹後局)なども描かれる予定で、比企地域9市町村(東松山市、滑川
町、嵐山町、小川町、川島町、鳩山町、吉見町、ときがわ町、東秩父村)では、2020年12月に『大河ドラ
マ「鎌倉殿の13人」比企市町村推進協議会』を立ち上げて、さまざまな取り組みをしているようです。
ということから、これまでにこれに関連した投稿を何度かしてきました。
上の写真の  『比企三姫』と誉れ高き武士 畠山重忠 のリーフレットは 「嵐山町ステーションプラザ嵐
なび」に置かれているとの嵐山町観光協会のHPで知り、先日、頂いてきたものです。
東松山市の大岡市民活動センターで頂いてきた 『比企三姫』と「令和」のおじいちゃん と内容は全く
同じもので、表紙の仙覚律師のイラストが畠山重忠に変っただけのものです。
嵐山町には、重忠の館跡と伝わる「菅谷館」があることに由来する【嵐山町バージョン】のリーフレット
と捉えてよいかもしれません。
重忠は、鎌倉幕府の「十三人の合議制」(鎌倉殿の13人)には入っていませんが、鎌倉幕府の有力な御家
人でした。讒言により謀反を疑われた重忠は二俣川で討ち死にという最期でしたが・・・





背表紙には、「誰かが探した、比企25選」が載っています。この25選の中に、畠山重忠と仙覚
律師は入っていませんが、見た通り別枠で扱われています。
畠山重忠・菅谷館についてはこのブログで色々な形で何度も扱っていますので今更ではありますが、
上掲のプロフィール(それほど大袈裟なものでありませんが)に合わせて撮ってあった写真から・・・




畠山重忠の館跡と伝わる『菅谷館跡』です。しかし、どの場所に館があったかはわかっていません。
また、現在の館跡は、戦国時代に数度にわたる改築を受けて城郭として整備拡大したものと思われ
ます。




菅谷館跡二郭の土塁上に建立されている『畠山重忠像』
鎌倉方向を向いています
リーフレットのイラストとはだいぶ違いますね




畠山重忠公史跡公園”畠山館跡”(深谷市・旧大里郡川本町畠山)に建立されている『重忠節」碑

  『重忠節』   畑和さん(はたやわら・元埼玉県知事)作詞

一 国は武蔵の 畠山
  武者と生まれて 描く虹
  剛勇かおる 重忠に
  いざ鎌倉の ときいたる

二 平家追い討つ 一の谷
  愛馬三日月 背に負えば
  そのやさしさに 馬も泣く
  ひよどり越えの 逆落し

三 雪の吉野の 生き別れ
  恋し義経 いまいづこ
  静の舞の 哀れさに
  なみだで打つや 銅拍子

四 頼み難きは 世の常か
  誠一途が 謀反とは
  うらみも深く 二俣に
  もののふの意地 花と散る

五 仰ぐ秩父に 星移り
  菅谷館は 苔むせど
  坂東武者の かがみとぞ
  おもかげ照らす 峯の月




「重忠節」の二番にも出てくる 『愛馬三日月を背負った畠山重忠公像』  畠山重忠公史跡公園”畠山館跡”
三日月を背負ってヒヨドリ越えの逸話は事実ではなく、これは重忠が力持ちであったことや優しさからの創作と
言われます

足立遠元館跡(埼玉県桶川市)

2021年11月26日 | 100名城以外の城館跡


2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には埼玉県ゆかりの人物が多く登場する予定のようです。
足立遠元もその一人で、武蔵国足立郡を本拠とした地方豪族で源頼朝挙兵直後から頼朝に従い側近となり
ました。文武に優れ、武士ながら公文所寄人となり、「十三人の合議制」(鎌倉殿の13人)の一人でもあ
りました。
足立遠元の館跡と伝わる場所は、さいたま市に1か所、桶川市に3か所あるようですが、これらのうちどの
場所が真実の足立遠元の館跡なのかを決定する資料は得られておらず特定はされていません。そのうちの
一つである桶川市総合福祉センターを訪ねてみました。遺構はなく『伝足立右馬允遠元館跡』の石碑が建
つのみでありますが、地元では昔から一本杉のところが足立右馬允遠元の館跡と言い伝えられています。
かつてはこの一本杉の根元に板石塔婆6基と、足立右馬允の家紋と共に「神明宮建久三歳城主足立右馬允建
之 文化六巳歳再建 府川甚右衛門尉義重」と刻まれた石祠があったことから、ここを足立遠元館跡と推定し
ているようです。


名 称:足立遠元館跡あだちとおもとやかたあと
別 名:伝足立右馬允遠元館跡、足立氏館、足立遠元屋敷、足立館
形 態:館
時 期:平安末期
築城主:足立遠元
遺 構:-
指 定:桶川市指定旧跡(名称:伝足立右馬允遠元館跡 指定日不明)
現 状:桶川市総合福祉センター
所在地:埼玉県桶川市末広2-8-29



桶川市総合福祉センターの一角に建つ『伝足立右馬允遠元館跡』碑
揮毫は当時の桶川市長によるもののようです
「一本杉」と呼ばれた古木は、この石碑の奥の白い建物のあたりであったということです




『碑陰』 碑文は下記の通り
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遠元は源氏の家人で平治の乱に武勇と友情の誉れを挙げ 源頼朝の公文所設立には寄人に登用され
 やがて勲功十人の一人として左衛門尉に任じられた 鎌倉幕府の宿老である この碑は古くから
この地が遠元館跡と伝えられて来たが、近時人口急増し この伝えを知る人の少ないのを嘆き 当
市下日出谷出身の岸義弘氏が 当市へ贈られたものである
  昭和五十三年二月吉日
                                  桶川市教育委員会 
                                    文 田中利治
                                    書 坂巻 紀
                                    石工 本木石材店
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石碑と生垣の間が狭いため斜めから撮るのがやっと・・・

余談になりますが、石工は本木石材店とあります。同じ桶川市内に「加納城」跡がありますが、加納城は、岩槻太田氏の
支配下にあった「鴻巣七騎」と呼ばれた土豪の一人である本木氏によって築かれたと推定されるようです。同じ本木です
のでもしかしたら。更に、俳優として活躍する元シブがき隊のモッくんこと本木雅弘さんも桶川市出身ですので、やはり
もしかしたら。





桶川市総合福祉センターと石碑  日影になっていたため石碑がはっきりとは映りませんでした

散策日:令和3年(2021)11月13日(土)

企画展「~くまがや発掘60周年~熊谷を彩る発掘出土品展」

2021年11月24日 | 企画展・見学会


令和3年度企画展
 ~くまがや発掘60周年~ 熊谷を彩る発掘出土品展

 会期:令和3年10月23日(土曜日)から11月28日(日曜日)
 場所:熊谷市立熊谷図書館 3階 美術展示室
 主催:熊谷市立熊谷図書館 共催:熊谷市立江南文化財センター

を観覧してきました

 ~旧石器時代~
 ~縄文時代~
 ~弥生時代~
 ~古墳時代~
 ~くまがやの古墳~
 ~奈良・平安時代~
 ~中世~
それぞれの時代を追っての遺跡。出土品の紹介がなされており、11年ぶりに東京国立博物館から里
帰りした国指定重要文化財「埴輪 短甲の武人」「埴輪 馬」をはじめとして、これまでに熊谷市
内の発掘調査で発見された埼玉県、熊谷市指定文化財を含む約600点の様々出土品が展示されて
おりました。
これだけ数が多いとひとつひとつ丁寧に見てることはできず、さっと流した程度の見学になってし
まいました。
紹介されている熊谷市内の遺跡(写真)を見ながら「ここは行ったな」、「ここは知らなかった」
などと過去の散策を思い出しながら発掘時の写真等を眺めてきました。
なお、展示室・展示物の撮影は禁止されていますので写真はありません。




各時代の遺跡分布図、遺跡写真、出土品が説明を交えて掲載された24ページにわたる内容の濃い立
派なものです。

見学日:令和3年(2021)11月21日(日)

11月23日は 深谷ねぎらいの日

2021年11月23日 | まつり・イベント


11月23日は『勤労感謝の日』です。『深谷ねぎ』の産地として有名な深谷市では、『勤労感謝の日』の
この日を大切な人へ労い(“ねぎ”らい)の気持ちを込めて『深谷ねぎ』を贈る取り組みを平成30年(20
18)から始め『深谷ねぎらいの日』としました。『ねぎらいの日』は、令和3年(2020)から一般社団法
人日本記念日協会に記念日登録され、日本全国のねぎ産地でもそれぞれのスタイルで『ねぎらいの日』を
展開しているようです。
そんな『ねぎらいの日』のイベント「葱来市(ねぎらいいち)」が行われた【道の駅おかべ】(深谷市岡
・旧大里郡岡部町)へ行ってきました。




『深谷ねぎ』を扱っているブース




ラッピングされた『深谷ねぎ』を購入




ねぎを真っ黒に焼いています・・・カルソッツです
もともとスペインのカタルーニャ地方で、冬から春にかけて食べられる季節限定料理のこと。
“カルソッツ(Calçots)”というねぎを直火で真っ黒に焼い て、.ロメスコソースをつけて食べるのが一般的.とのこと。





このとおり真っ黒に焼けています




黒く焼けた部分を剥がして齧ります・・・甘~い




道の駅おかべの農産物直売センターで購入した深谷ねぎとイベントのブースで購入した深谷ねぎ




ラッピングが綺麗なのでアップで・・・

そうそう。「道の駅おかべ」に行くと真っ先に食べる「ねぎフライ」今回も真っ先に食べました。
あと「深谷ねぎ団子」も・・・

訪問日:令和3年(2021)11月23日(火・祝)

紅葉の平林寺 Ⅱ(埼玉県新座市)

2021年11月22日 | 花・鳥・風景


金鳳山平林寺 『総門』




『山門』




『仏殿』




『中門』




『載渓堂』




『半僧坊感応殿』




『放生池』




山門横の紅葉




山門横の紅葉




『見性院宝篋印塔』(けんしょういん ほうきょういんとう
見性院・・・武田信玄娘・武田の武将、穴山梅雪の妻




川越城主 松平信綱公一族の墓所 「現在、大河内家墓所」
※史跡指定を受けているのは松平信綱夫妻の墓2基です




大河内松平家廟所は、信綱の祖父大河内秀綱、父久綱に連なる直系一族と、傍系の大多喜家、左京
太夫の墓所。約3000坪の墓域に170基もの墓石が残存




『松平伊豆守信綱公墓誌』




『松平伊豆守信綱の墓』
五輪塔で火輪(笠)に大河内松平家の家紋「臥蝶に十六菊」が入っています
平林寺の寺紋も「臥蝶に十六菊」です  当然と言えば当然ですが




『松平伊豆守信綱夫妻の墓』  左:松平信綱墓  右:信綱妻(名前不明・井上正就娘)の墓
何れも高さ2mの五輪塔

名 称:松平伊豆守信綱夫妻の墓 2基
指 定:埼玉県指定史跡 昭31年(1956)11月1日指定
所在地:新座市野火止3-1079




廟所前には沢山の石灯籠が並んでいます




『野火止塚』
野火止塚(九十九塚)
この野火止塚は、和妙抄に見る火田狩猟による野火を見張ったものか、焼畑耕法による野火を見張ったものか、定かでな
いが、野火の見張台であったとする説が有力である。それは、この様な塚が古くからこの平野の名所にあって、その名残
りを留めていた事でも判る。       《立て札の説明文》





『平林寺境内林』
名 称:平林寺境内林(へいりんじけいだいりん
指 定:国指定天然記念物 昭和43年(1968)5月28日指定
所在地:新座市野火止三丁目1番1号ほか




境内林散策路

散策日:令和3年(2021)11月20日(土)

紅葉の平林寺(埼玉県新座市)

2021年11月21日 | 花・鳥・風景


紅葉の平林寺(新座市野火止)を訪ねて来ました。
晴天の土曜日ということもあって密にならない程度の大勢の方が紅葉を愛でに訪れていました。
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平林寺縁起
  金鳳山平林寺の創建は南北朝時代。
  明治期に禅修行の専門道場を開設し
  臨済禅の法灯をいまに伝えます。
  本山は京都花園の妙心寺です。


 平林寺は永和元年(1375)武蔵国(武州)、現さいたま市岩槻区に創建されました。開山は当時の鎌倉
建長寺住寺であった石室善玖禅師、開基は岩槻城主春桂薀沢居士(太田備中守)です。
 戦国時代の戦禍を受けた平林寺は、徳川家康の厚情により天正20年(1592)駿河国臨済寺住寺鉄山宗純
禅師を迎え中興します。やがて川越藩主、幕府老中も勤めた松平伊豆守信綱一族の菩提寺となり、寛文3年
(1663)信綱の遺命によって現在の野火止に移転されました。
 明治37年(1904)妙心寺派では初となる関東の専門道場として、平林僧堂が開単。広大な境内林の静謐
に守られた、歴史と文化の息づく武蔵野の禅刹です。

                         【平林寺パンフレットから引用】
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散策日:令和3年(3021)11月20日(土)

安達盛長館跡(埼玉県鴻巣市)

2021年11月19日 | 100名城以外の城館跡


鎌倉幕府における「十三人合議制」の一人である安達盛長の館跡と伝わる鴻巣市糠田地内の放光寺
を再訪してきました。
安達盛長は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で鎌倉幕府の御家人で、源頼朝の流人時代から
の側近。当然、鎌倉に屋敷を構えていましたが、しかし、大蔵御所からは遠い甘縄という場所であ
りました。源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍(丹後の局)を室としました。娘・亀御前
は頼朝の弟範頼と結婚しています。他の有力御家人はそれなりの官位を受けていましたが、盛長は
無官であったとのことでもあります。

名 称:安達盛長館跡あだちもりながやかたあと
別 名:-
形 態:館
時 期:不詳
築城主:安達盛長
遺 構:-
指 定:-
所在地:埼玉県鴻巣市糠田1435 放光寺

安達盛長は、源頼朝に仕える前に糠田の地に館を構えていたと伝えられ、その場所が放光寺の辺り
ということで、放光寺のあるところとは特定はされていないようです。
ただ、「鴻巣市史」では、糠田の地は在地領主だった奴加田氏の本領としているようです。





門の左側に設置されている「木造安達藤九郎盛長坐像・糠田出土渥美壺」説明板
木造安達藤九郎盛長坐像についてのみ下に転記
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埼玉県指定有形文化財(彫刻) 平成元年3月17日指定
木造安達藤九郎盛長坐像
 ここ糠田山毘盧遮那院放光寺の開基は、源頼朝の御旗奉行を務めた安達藤九郎盛長とされ、本堂には
この盛長の坐像が安置されている。
 像の高さは77.4センチメートル。寄木造りで水晶の玉眼が入れられている。蓮西と名乗った出家後の
姿であるが、作者は不明。製作年代は南北朝時代と思われる。
 安達藤九郎盛長は治承4年(1180)源頼朝の挙兵に応じて相模の国で功を挙げ、同国を安堵(主君が
臣下に対して土地の権利や職位を保証すること)された。
 その後、盛長の所領は相模・下総・武蔵にまで及んだ。さらに建久5年(1194)には頼朝の信任をう
けて鶴岡八幡宮の奉行人となった。
 正治元年(1199)1月の頼朝の死後出家したが、その後も北条時政や大江広元等とともに、重要訴訟
の調査・裁決などに係わるなど幕府の要職にあり、三河の守護にも就いた。正治2年(1200)死去した。
                            埼玉県教育委員会  鴻巣市教育委員会
  
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上掲説明板から「木造安達藤九郎盛長坐像」の写真を




本堂




「盛長公之墓所」
昭和58年、伊豆・修善寺の安達盛長の墓から、台座などが寄贈されて、新しく設けられた墓所(供養塔)

散策日:令和3年(2021)11月17日(水)

『比企三姫』と「令和」のおじいちゃん

2021年11月17日 | エトセトラ


このパンフレットは、先日、東松山市の「大岡市民活動センター」にお邪魔した折に頂いてきたも
のです。
2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に、埼玉県比企地域にゆかりのある武将・人物(比企能員、
畠山重忠、源範頼、木曽義仲・比企尼、丹後局)なども描かれる予定で、比企地域9市町村(東松
山市、滑川町、嵐山町、小川町、川島町、鳩山町、吉見町、ときがわ町、東秩父村)では、2020年
12月に『大河ドラマ「鎌倉殿の13人」比企市町村推進協議会』を立ち上げて、さまざまな取り組み
をしているようですが、その一環として作成されたようです。
(比企氏中心ですし、裏面の【誰かが探した、比企25選】の内容からも協議会の取り組みとは別の比企氏ゆかりの地を
自認する東松山市独自のものかも知れませんが)




A3判2つ折りのもので開くとこんな感じです

『丹後の局』 比企尼の長女・比企能員の義妹 安達盛長(合議制13人の一人)の室 
       頼朝の子(薩摩藩初代藩主島津忠久)を産む
『姫の前』  比企尼の孫・比企能員の姪 源頼朝の義弟、北条政子の弟・北条義時(「鎌倉殿
       の13人」の主人公)の室 
『若狭の局』 比企尼の孫・比企能員の娘 二代将軍源頼家の室

三姫のほかにも
『河越尼』  比企尼の次女 河越重頼の室 頼家乳母 娘(郷御前)が源義経に嫁ぐ
 比企尼三女  伊東祐清室、のち平賀義信室 頼家乳母 子に平賀朝雅

がおり、まさに華麗なる一族です




【裏表紙】
誰かが探した、比企25選  (写真では読み辛いので転記しておきます)

① 比企能員 比企氏の棟梁 北条氏最大のライバル
② 比企遠宗 滑川町和泉に比企氏の三門館跡
③ 木曽義仲 嵐山町大蔵生まれの旭将軍
④ 源範頼 吉見町御所に館を建てた頼朝の弟
⑤ 金剛寺 川島町中山にある比企氏墓所
⑥ 慈光寺 ときがわ町 国宝有 関東最古の山岳寺院
⑦ 細川紙 ユネスコ無形文化遺産 小川町/東秩父村
⑧ JAXA 鳩山町 宇宙航空研究開発機構 地球観測センター
⑨ 梶田隆章先生 東松山市名誉市民、ノーベル物理学賞 日本学術会議会長
⑩ 丸木美術館 東松山市 原子爆弾の惨状を描いた「原爆の図」
⑪ 日本スリーデーマーチ 比企を歩く日本一(世界第二位)のウォーキングの祭典
⑫ 国営武蔵丘陵森林公園 滑川町 東京ドームの65倍
⒀ 箭弓神社 東松山市 「やきゅう」にあやかり西武ライオンズ選手もお参り
⑭ 山口六郎次さん 第一回箱根駅伝区間賞 ⒀内に胸像と記念碑
⑮ 大関正代 先祖は、比企郡旧高坂村正代出身の鎌倉武士
⑯ 宇津木妙子監督 川島町ふるさとPR大使 ソフトボール五輪監督 シドニー銀・アテネ銅
⑰ 鬼鎮神社 嵐山町 「鬼」を祀る 福は内、「鬼」は内
⑱ 吉見百穴 吉見町 国指定 古墳時代の横穴
⑲ 旧国立堂平天文台 ときがわ町 日本有数の星空と夜景
⑳ スーパーヤオコー ファッションセンターしまむら 小川町を創業の地とする2大小売チェーン
㉑ 林家たい平さん 東秩父村観光大使 秩父市出身の落語家
㉒ 若槻千夏さん 吉見町 タレント
㉓ 大東文化大学東松山キャンパス 駅伝男子は史上初の「三冠校」 女子は4年連続全国準優勝
㉔ 東京電機大学鳩山キャンパス 工学の専門教育と実学の大学 国際野外の表現展
㉕ コアラに会える 東松山市 子ども動物自然公園
番外やきとんー 豚肉を使ったミソだれやきとり

「誰かが」の誰かはどこの方でしょうか? 圧倒的に東松山市関係が多いので 東松山市の方かな!!

「令和」のおじいちゃん =仙覚律師
仙覚律師は、比企能員の内室の子とする伝承があるほど比企一族とは深い関わりのある人物のようです。
小川町の中城跡に【仙覚律師遺跡碑】が建立されています。

判官塚(埼玉県東松山市)

2021年11月15日 | 史跡・遺跡・文化財


令和4年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」
この十三人の合議制の中の一人に『比企能員』(ひきよしかず)がおりますが、比企氏は東松山市・
比企郡ゆかりの武将とされます。
そんな比企判官(能員)の菩提を弔らったと言われる「判官塚」が、岩殿観音の付近にあるとのこ
とで訪ねてみました。
現在の判官塚は、大東文化大学のキャンパス開発造成工事に伴い元あった場所から移されたもので
とのことです。
岩殿観音の南東に比企判官旧地があったとの伝えがあるようで、その場所は物見山から大東文化大
学のあるあたりと推定されますので、この判官塚は旧地に建立されたもののようです。

名 称:判官塚はんがんづか
別 称:比企太神・はんがんさま
形 態:供養塚
造 立:建保6年(1218)頃
造立者:比企員茂(能員の孫)
遷 座:昭和58年(1983)10月
指 定:ー
所在地:埼玉県東松山市岩殿

【判官】とは、律令制における司法警察の役を担った官職のひとつ(三等官)の唐名です。
ですから判官と呼ばれた者は比企能員に限ったわけではありません。能員の官位は右衛門尉




九十九川に架かるここ「惣門橋」から始まる岩殿観音の参道は緩い坂道になっていて、参道両側に
は約50戸の宿坊や、宿屋、商店等が並び門前町を形成していたと言います。
今は、往時の面影はないものの各戸では当時の屋号を書いた木札を吊るしています。また、参道は
石畳で、味気のないアスファルト舗装とは違った趣があります。
判官塚への登り口は参道左側にありますので見落とさないように歩を進めます。




丘の上は大東文化大学のキャンパスで、茶色の建物の手前辺りに判官塚はあるようです。




ここを入って行きます。階段を登り更に急坂を登ります。




判官塚です。鳥居・祠の背後の斜面下に参道がります。




「巖殿」の幟の傍らにあるのが『判官塚由来』碑




神額には『比企太神』とあります




『判官塚由来』碑
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  判官塚由来
判官塚は比企能員の追福のため築きしものと言い伝う その由来は詳ならずと新編武蔵風土記稿に誌るされている 
比企判官能員は鎌倉時代源頼朝の御家人で 比企入間高麗三郡の守護職にて母比企禅尼は頼朝の乳母 娘若狭局は
二代将軍頼家の夫人であるので北條時政と並ぶ鎌倉幕府の権力者であった 頼朝の死後建仁三年九月二日(一二〇
三年)時政の謀略により鎌倉の時政邸内で暗殺された 後健保六年(一二一八年)頃岩殿山に居た能員の孫員茂は
観音堂の東南の地南新井に塚を築き能員の菩提を弔らったと言う 何時の時代か比企太神として祭り崇め参拝する
ようになり今日に至ったもの このたび大東文化大学キャンパス開発造成工事に伴い構内となるため氏子一同相計
り現在地に遷し祭る

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碑陰




『判官塚』祠

散策日:令和3年(2021)11月7日(日)