四季・めぐりめぐりて

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榛沢六郎成清館・供養塔(埼玉県深谷市)

2019年05月06日 | 100名城以外の城館跡


名 称:榛沢六郎成清館・榛沢六郎供養塔(はんざわろくろうなりきよかん)
指 定:埼玉県指定旧跡(名称:榛沢六郎供養塔 大正14年〔1925〕3月31日指定・昭和38年〔1963」8月27日指定替)
現 況:榛沢六郎成清公神社
所在地:埼玉県深谷市後榛沢(旧大里郡岡部町)

武蔵武士の鑑と言われた畠山重忠の重臣であり、且つ、乳兄弟である榛沢六郎成清の居館跡と伝わる場所を訪ね
てみました。
榛沢六郎成清については現地の説明板にも詳しく紹介されていますので省きますが、居館跡と伝わる場所は現在、
「榛澤六郎成清遺蹟」として、榛沢六郎成清公神社があり、榛沢六郎供養塔が祀られています。




石標「榛澤六郎成清遺蹟」




写真では判読しづらいようなので内容を書き起こしておきます。

   榛沢六郎成清供養塔
 榛沢六郎成清は、鎌倉時代の武士で、武蔵七党の一つ丹党に属し、父成房の時榛沢の地に移ったといわれる。
 成清の母は、畠山重忠の乳母で重忠と成清は乳兄弟の関係にあたる。鎌倉期の乳兄弟は肉親の兄弟よりもつなが
りが深いといわれており、成清は幼少の頃より、重忠の補佐役として仕えた。
 はじめ重忠は、平氏に味方し、頼朝を討つため三浦氏と戦い、頼朝再起の後には頼朝に従う。以後、重忠は頼朝
の先陣をつとめたが、成清は、いつも重忠に従い、木曽義仲との戦い、源平の戦い、陸奥の役でおおいに活躍した。
頼朝の信頼も厚く、成清に対し"汝をもって亜父となす"といったという。畠山重忠も深く信頼し、たびたび榛沢の
館を訪れた。
 帰途、荒川の洪水のため、川が渡れない時、うぐいすの鳴き声で渡ったと伝えられており、荒川の岸辺には、う
ぐいすの瀬の碑が建っている。
 また成清は神仏に対しての信仰が深く、当時、疫病に苦しむ人々を救うために、大寄八幡大神社、後榛沢の八幡
大神社、東光寺を開いたと伝えられている。元久二(1205)年、重忠は、北条氏の策略により、二俣川において三
万騎の大軍にとりかこまれた。その時、重忠の手勢は、わずか一三〇騎で、その中に成清も加わっており、おおい
に奮戦したが、力つき重忠と共に討死した。成清は重忠に菅谷館にもどって陣をたて直すことを進言したという話
が残っている。
 この供養塔は旧蔵屋敷の一角にあった成清塚に隣接して、享保八年(1723)に建立されたという。
                                埼玉県  岡部町

この説明板においては、供養塔は享保8年(1723)に建立されたとなっていますが、埼玉県指定旧跡の概要では、
享保7年建立とされています(歴史に影響を及ぼすような違いでありませんが)




榛沢六郎成清公神社




扁額には 榛沢六郎 成清大明神 と揮毫されています




覆屋のようでもありますが、一応、社のようです。この中に供養塔があります。




榛沢六郎供養塔
銘は「奉建立石塔為成清菩提也」とあるようですが、かろうじて 成清 の文字が読めます。




社の右側にある小塚に建立されている「成清公七百七十年蔡記念 榛澤六郎成清公慰霊碑」




慰霊碑の横に建立されている「慰霊文碑」




社の左側に建立されている五輪塔
中央の五輪塔は、成清公七百七十年蔡(昭和50年)の折に建立された供養塔のようです。
両脇の古い五輪塔についての詳細は分りませんが、これを旧跡指定の榛沢六郎供養塔としている方が多い
ようですが果たしてどちらが榛沢六郎供養塔なのか?

参詣日:平成31年2019)4月5日(金)