四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

幸春院六地蔵塔

2024年09月03日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:幸春院六地蔵塔(こうしゅんいんろくじぞうとう)
種 別;供養塔
造立年:文亀3年(1503)戦国(安土・桃山)時代
指 定:埼玉県指定史跡(名称:幸春院六地蔵塔 昭和9年〔1934〕3月31日指定)
所在地:埼玉県児玉郡神川町関口40-1 幸春院

を見学してきました。
                              

幸春院は、今から700年ほど前に丹党の安保直実によって創建されたと伝えられている。
宗派:曹洞宗  山号:大瀧山  院号:幸春院  寺号:道雲寺


幸春院本堂  六地蔵塔は本堂に向かって左側にあります

       
       幸春院六地蔵塔


龕部(がんぶ)に浮彫りされている6体の地蔵菩薩うちの一部


幸春院六地蔵塔説明版
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     幸春院六地蔵塔
                             昭和9年3月31日 県指定史跡

 幸春院六地蔵塔は、石灯籠の形をした石幢で、六角柱の龕部の各面に地蔵菩薩の浮彫がみられることか
ら六地蔵塔と呼ばれている。
 幢身の中央には、高さが 24 センチメートル、幅が 6 センチメートルほどの穴があり、横から軸棒を差
し込む仕組みになっている。かつてはここに円盤状の車石がはめ込まれていた。この車石を念仏をとなえ
ながら回すことによって、諸願がかなえられると伝えられている。
 下から基礎は青色、幢身は白色、中台は茶色、龕部は黒色、笠は白色、相輪は青色で各部ごとに色の異
なる石が用いられている。高さは約1.85メートルである。
 基礎の各面には種子を配し、東面の薬師如来の梵字の両脇に文亀3年(1503)を含む銘文が刻まれてお
り、戦国時代の作であることがわかる。
 なお、この石幢は、造立当初からこの場所にあったのではなく、もとは近くの辻にあったといわれてい
る。
     
  平成8年3月
                                     神川町教育委員会

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【参考】この幸春院六地蔵塔とほぼ同じ形のものが県内にもう1基あります。それが次の写真の矢
那瀬の石幢です。
      
                                2021.5.28撮影
名 称:矢那瀬の石幢(やなせのせきどう)
別 称:北久保の六地蔵
種 別:供養塔
造立年:明応8年(1499) 室町時代
指 定:埼玉県指定有形文化財(考古資料)(名称:矢那瀬の石どう 昭和30年〔1956〕11月1日指定)
所在地:埼玉県秩父郡長瀞町矢那瀬字北久保 喜田窪地蔵堂

上記のとおり、こちらは史跡指定ではなく、有形文化財(考古資料)指定となっており、名称も六地蔵塔
ではなく石幢「矢那瀬の石どう」としています。
造立年も幸春院幸春院六地蔵塔より若干早いようですが、車石も残っています。  


散策日:令和6年(2024)8月23日(金)

伝・箕輪城主長野業盛の墓

2024年07月01日 | 史跡・遺跡・文化財

戦国時代の上野国箕輪城(高崎市箕郷町)の箕輪長野氏最後の城主となった長野業盛(ながのなりもり)
墓と伝えられる墓所を訪ねてみました。
長野氏累代の墓は、現在の高崎市内にある長年寺、長純寺、来迎寺にあるようですが、伝・長野業盛の墓
とされる場所には、業盛の墓しかありませんし、現地説明板にもあるようにあくまでも伝承で実際のとこ
ろはどうなのかわかりません。
歴代箕輪城主:箕輪長野氏(長野業尚・信業・業政・業盛) ・武田氏 ・北条氏 ・井伊氏



『伝・箕輪城主長野業盛の墓』説明板


上掲の説明板には、どれが長野業盛の墓かは記されていませんが、真ん中の五輪塔もどきのものが業盛の
墓とされるようです。
五輪塔もどきと書いたのは、空・風・火・水・地輪の水輪と地輪の部分が五輪塔のものとは異なり、他の
塔の部材との寄せ集めのように見えるからです。
右脇のものは「無縫塔」、左脇のものは塔身部が欠落している小形の「五輪塔」



墓標(?)
正面には、「弘稱院殿箕山法輪大居士 霊位」と戒名が刻まれています
左側面には、「箕輪城主長野右京進業盛公之墓」と官名が刻まれています
また、右側面には「大正十年十月・・・」の文字が見えることから、これは墓石ではなく墓標と解してよ
いかと考えます



『伝・箕輪城主長野業盛の墓』を訪ねるに先立って立ち寄った大円寺(高崎市井出町1797)
箕輪城が落城し、22歳で自刃し果てた業盛は大円寺境内に葬られました。その当時の大円寺は今回訪ねた
『伝・箕輪城主長野業盛の墓』のある場所で、大円寺は元禄年間に現在の地に移転してきましたが、業盛
のものと伝えられる墓群はそのまま残されたという伝承のようです。



大円寺本堂の向拝右側に掲げられている長野業盛の絵馬


『伝・箕輪城主長野業盛の墓』は、大円寺のほぼ西方約600mにありますが、その途中にある標識。

散策日:令和6年(2024)6月24日(月)

国指定名勝・天然記念物『長瀞』 指定から100周年

2024年06月02日 | 史跡・遺跡・文化財

国指定名勝並びに国指定天然記念物である『長瀞』(埼玉県秩父郡長瀞町・同皆野町)が、国の指定から
今年100周年を迎えます。
ともに指定年月日は大正13年(1924)12月9日で、指定範囲は旧親鼻橋から旧高砂橋まで、延長約4kmと
なっています。
「名勝」としては、荒川中流に位置する、三波川変成帯に形成された峡谷であり、景勝の地として。
「天然記念物」としては、結晶片岩の岩石段丘である岩畳や、世界で初めて発見された紅廉石を多く含む
紅廉石片岩、褶曲、断層、ポットホールといった様々な地質現象が観察できる地として。
といったように異なる観点から国の名勝・天然記念物にダブル指定されています。
※概要は、埼玉県教育委員会「埼玉県の国・県指定等文化財の一覧」を参考としました。


長瀞町の元の町名は”野上町”でしたが、『長瀞』が「日本地質学発祥の地」として有名になっていたこと
から、昭和47年(1972)11月1日、野上町から長瀞町へと町名変更したもので、一昨年50年を迎えました。




長瀞ライン下りの船着き場がある河原までのお土産店が並ぶ道(岩畳通り)の路地にある「地球の窓」
長瀞の看板と「名勝 天然記念物 長瀞」の石標柱
長瀞町を訪ねたのは初詣に続いて今年2回目です。岩畳のある場所へも同様です。



ライン下りの船着き場  この日ライン下りは休みだったようです


岩畳の上から荒川下流方向を
岩畳の上に上がるのも降りるのも岩場を歩くのも大変で、歩いたのもほんの数十メートル(膝が悪いので)



向こう岸の大きな岩が「白鳥島」のようです


更にアップで・・・


話が逸れますが、これは秋 美子さんの『長瀞旅愁』のレコード (昔買った数少ないレコード盤の中の一枚)
奇しくも野上町から長瀞町に変わった昭和47年(1972)に発売されたもので、長瀞町と同じ年数が経ちま
した。
この歌詞の中に ”泣いて別れた 白鳥島よ” というフレーズがありますが、当時、白鳥島について知り
ませんでしたので流行歌という形の物語を完成させる作詞上での架空の島の名なのかと思っていました。
しかし、最近になって白鳥島は実在し、いつも見ている上の写真が白鳥島と知った次第で、レコードジャ
ケットに写っていたのはまさに白鳥島であったのです。よくよく調べてみますと、この白鳥島の所在地は
長瀞町井戸で、現在は長瀞町の一部となっている元・白鳥村なのです。ということで、思い違いしていた
ことを作詞者にはお詫び申し上げます。
秋 美子さんはこの荒川を下った先にあるK市出身の歌手ですが、今はどうしているか全くわかりません。



上記の通り岩畳の上は数十メートル歩いただけですから多くの写真は撮れませんでしたが、あと3枚ほどを






岩畳まで行く前に昼食を摂ったお店 長瀞駅前通りにある 豚みそ丼専門店 有隣  です。
豚みそ丼(並) を食しましたが、肉が大変柔らかくおいしかったです。
秩父鉄道が経営する店で、名称の『有隣』は、論語の「徳不孤必有隣」(徳は孤ならず必ず隣有り)にち
なんで命名されたとのことです。


散策日:令和6年(2024)5月30日(木)

ミュージアムデー 本庄市 民族芸能上演会

2024年05月20日 | 史跡・遺跡・文化財

5月18日は「国際博物館の日」。この日、本庄早稲田の杜ミュージアムではミュージアムデーが開催され
ました。その催事のひとつに『本庄市 民族芸能上演会』がありましたので観覧してきました。
会場:本庄早稲田の杜ミュージアム特設会場
出演:金鑚神楽宮崎組(15:00~)
   吉田林の獅子舞(15:30~)

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本庄市指定民族文化財
金鑚神楽宮崎組(かなさなかぐらみやざきぐみ)
出 演:金鑚神楽宮崎組保存会
 座 :「種蒔(たねまき)」    ※神楽では演目のことを「座」と呼ぶ













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本庄市指定民族文化財
吉田林の獅子舞(きたばやしのししまい)
出 演:吉田林獅子舞保存会
 庭 :「街道かがり」    ※獅子舞では演目のことを「庭」と呼ぶ













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本庄早稲田リサーチパーク・コミュニケーションセンター2階情報資料室で民俗芸能上演会まで展示され
ていた「地域の宝民俗芸能の用具展」の中の吉田林の獅子舞の獅子頭


観覧日:令和6年(2024)5月18日(土)

葵御前を祀った葵八幡と板碑

2024年05月11日 | 史跡・遺跡・文化財

藤岡市本郷地内に葵御前を祀った葵八幡があるとのことで訪ねてきました。

葵御前とは、平安時代末期の源氏の武将木曽(源)義仲の愛妾の一人とされる人物のようです。木曽義仲の愛妾
には他に巴御前、山吹御前がいたようですが、正直、実在した人物かもはっきりしておらず、仮に実在したとし
てもこの当時女性は名を持たない(表に出さない)時代でしたから、これらの葵、巴、山吹は後世に名付けられ
たのではないでしょうか。
この中で知名度が一番高いのは、一昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場した巴御前ではないでしょう
か。
山吹御前については、義仲の子・義高の母親ではないかという説もあるようですが、これも定かではありません。
葵御前という名については最近まで知りませんでしたが、常に義仲のそばにいて共に戦った女武者とされ、義仲
軍が平家軍と戦った寿永2年(1183)の倶利伽羅峠の戦いに参戦し、この戦いで討ち死にした言われます。その
墓(葵塚)が現在の小矢部市にあるとのことです。
葵御前とは無縁と思われるこの藤岡市本郷に同所を祀ったとされる葵八幡ですが、その由緒はわかりません。た
だひとつん何らかの理由付けをするならば、木曽義仲の父・源義賢が武蔵國大蔵(現在の埼玉県嵐山町)に移る
前は、上野国多胡庄(現在の群馬県高崎市吉井町)に館を構えていましたが、この藤岡市と旧吉井町は隣同士で
あり、ここに何らかの接点があったのかと考えられわけですが、いずれにしろ伝説・伝承の範囲かもしれません。



東側の道路から畑の中にある「葵八幡」を見る


奥に見える小さな社が「葵八幡」  右側の石碑は所有者の先祖の石碑のようですがスルーします


中にある小さな祠が所謂本殿ですね
「葵八幡」自体は文化財指定されているわけではありませんが、社の左右にある二基の板碑が藤岡市の指
定重要文化財になっています。



「市指定重要文化財 葵八幡の板碑(二基)」説明版
この説明板では指定日が記載されていませんが  平成2年(1990)4月1日指定  です



社に向かって右側の板碑
阿弥陀三尊種子板碑 《市指定文化財》
鎌倉時代後期 応長元年( 1311)緑泥片岩、高さ 166㎝ 幅 41㎝ 厚さ 4.5㎝
下方の中央に「應長元年、辛亥、六月十八日」と刻まれている



社に向かって左側の板碑
阿弥陀図像板碑 《市指定文化財》
鎌倉時代後期 推定:応長元年(1311)、緑泥片岩、高さ 150㎝ 幅 40㎝ 厚さ6.5㎝



社の前にある大きな石(約190㎝✕151㎝✕30㎝)
この大きな一枚石を見たとき、何れかの古墳の石室に使われていた石かなと思いました。なぜなら、ここ
は本郷小林古墳群の一角にあるからです。
古墳の石室に使われていた石かはともかくとして、この石も葵御前伝説のひとつのようです。
細かくは触れられませんが、源義賢(木曽義仲の父)に従い東国まで来た葵御前が、ある理由により橋の
下に身を潜めた。その橋は葵八幡入口の堀に架かっていたと言い、今はその堀はなくなっているが、境内
にあるこの石がその橋の石だと


葵八幡がいつ誰によって祀られたのか不明ですし、橋の石の話もその真偽はわかりません。また、葵御前
が戦死したとされる頃から120余年後に建立された2基の板碑との関係もわかりません、いずれも伝承・伝
説であることの可能性が大ですが、それを承知で中世に想いを馳せ訪ねた次第です。


散策日:令和6年(2024)5月9日(木)

反町遺跡とその周辺の遺跡・古墳

2024年04月24日 | 史跡・遺跡・文化財

この施設は、平成22年(2010)3月19日に開業した埼玉県東松山市高坂(現在の地名は「あずま町」)に
所在する大型のショッピングモール『ピオニウォーク東松山』です。
開業以来何度も利用しているところでありますが、実は、ここは「反町遺跡」があった場所なのです。
反町遺跡は、高坂台地の東側に広がる低地に位置し、 標高は18mほどで、都幾川のほとりに広がってい
ます。
この遺跡は、現在の地表面から1mほど掘り下げて発見されたもので、古墳時代前期(約1,700年前)に
大規模な集落が 造られました。その後、古墳時代中・後期(約1,500~1,400年前)には墓域として利用
され、数多くの古墳が造られた跡です。
この写真は、開業の翌日である平成22年3月20日に訪問して撮ったものですが、現在も外観は変わってい
ません。



この『ピオニウォーク東松山』がある場所がかつての「反町遺跡」と知る人は、遺跡や古墳などに興味あ
る人以外は少ないと思います。
こうしたことに興味のない人や来客者に向けて、ここが反町遺跡であったことを知ってもらう目的のため
でしょうか、ごくごく小さな展示コーナーが設けられています。
場所は、1Fの東側通路です。たい焼き屋さんの左角を曲がったところのあります。
このミニミニ展示を知ったのは5年前でそのとき1回見に行っただけでしたので、その後、展示に変更があ
ったかどうか確かめる意味も含めて2日前に再度行ってみましたが、何ら変更はありませんでした。



反町遺跡説明文


出土品の土器


出土品の埴輪 人物(男)埴輪と動物(馬)埴輪
※ここの展示は触り程度ですが、東松山市埋蔵文化財センター(東松山市下野本528-1 土・日・祝日・年末年始休館)
ではたくさんの出土品が展示されていますので興味ある方はどうぞ



反町遺跡の空撮写真
反町遺跡とあるところに現在のピオニウォーク東松山(アピタ東松山)がありますが、その周囲はホームセンター、書店、
衣料品店、家電量販店などが囲み、更にその外周は住宅街として整備されています。
このエリア一体の地名も「大字高坂」から「あずま町〇丁目」に変わりました。



「反町遺跡と周辺の主な遺跡」  これも大変参考になる情報です。
この写真の図の赤丸黄丸が遺跡、古墳マークが古墳の場所と名称を表していますが、遺跡・古墳名を判読
できませんので下に列記しました。
古墳については一部畑等に転用され全容がわからなくなっているものもあるようですし、遺跡については
そのほとんどが道路や商業施設、住宅地などになっており現在は遺跡の姿を見ることはできません。
所在地及び指定・選定については図には表示されておりませんが付け足しておきました。ここに紹介され
ているエリア内だけでも、これ以外の古墳等がまだまだ存在しています。

 反町遺跡     (東松山市あずま町)
 山の根古墳    (吉見町久保田)    埼玉県選定重要遺跡
 三ノ耕地遺跡   (吉見町久米田)
 五領遺跡     (東松山市若松町・柏崎)東松山市指定史跡・埼玉県選定重要遺跡
 野本将軍塚古墳  (東松山市下野本)   埼玉県指定史跡
 天神山古墳    (東松山市柏崎)
 下道添2号墳   (東松山市古凍)
 根岸稲荷神社古墳 (東松山市古凍)
 諏訪山29号墳   (東松山市西本宿)   埼玉県選定重要遺跡
 諏訪山古墳    (東松山市西本宿)   東松山市指定史跡・埼玉県選定重要遺跡
 銭塚遺跡     (東松山市高坂)
 城敷遺跡     (東松山市高坂)
 高坂三番町遺跡  (東松山市高坂三番町)
 代正寺遺跡    (東松山市宮鼻)
 大西遺跡     (東松山市高坂)
 正直遺跡     (川島町正直)
 平沼一丁田遺跡  (川島町平沼)
 白井沼遺跡    (川島町白井沼)
 富田後遺跡    (川島町三保谷宿)
 元宿遺跡     (川島町三保谷宿)
 堂地遺跡     (川島町上井草)
 前原遺跡     (桶川市川田谷)
 熊野神社古墳   (桶川市川田谷)    埼玉県指定史跡


見学日:令和6年(2024)4月22日(月)

古代の官牧 阿久原牧跡

2024年03月04日 | 史跡・遺跡・文化財


合併により、現在は児玉郡神川町となっている旧・神泉村の阿久原地区に古代の官牧である『阿久原牧』
(あくばらのまき)
がありました。
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阿久原牧は都に献上する馬の牧で、承平3年(933)に、それまでの朱雀院秩父牧であった秩父郡石田牧と
児玉郡阿久原牧を勅使牧としたことが知られています。牧推定地の北にあたる駒形稲荷には「阿久原牧」、
西にあたる駒形神社には「阿久原牧阯」の石碑が建てられています。

                         《神川町HP 県指定の文化財阿久原牧 から引用》
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阿久原は三方を山に囲まれ、北に向かってなだらかな地で牧草も育ち、神流川の河原に出れば馬に水をや
れる等、馬を育てるにはよい環境だったようです。
古代武蔵国には阿久原牧を初めとして官牧が多かったようですが、現在地点が明らかなのは推定地とは言
え阿久原牧だけのようです。
この牧を管理していたのが 武蔵七党の一つ児玉党の武士団でした



神川町下阿久原地内を走る県道13号前橋長瀞線 右側の橋は埼玉県と群馬県の境を流れる「神流川」に架
かる「上武橋」で、この橋を渡ると群馬県藤岡市(旧鬼石町)に入ります。写真左側の木立の中に石碑が
ありました。



木立の中の石碑
この石碑が阿久原牧推定地の北にあたる駒形稲荷の「阿久原牧」の石碑のようです。



「埼玉県指定史跡 阿久原牧」とあります。
碑陰には「昭和三十四年十月三十日建設 埼玉県教育委員會」と刻まれています。
『阿久原牧跡』は昭和12年(1937)8月31日に埼玉県の史跡に指定されましたが、昭和36年(1961)9月
1日に埼玉県指定旧跡に指定変更されています。



駒形稲荷は、「阿久原牧」石碑のある木立のすぐ南側の小山(高台)にあるようです。


登り口の左側にある石標
「指定文化財 駒形稲荷神社 光圀の歌碑」とあります。



左側の石祠が「駒形稲荷」神川町指定文化財(昭和44年〔1969〕11月1日指定) 神川町下阿久原356
右側の石碑が「光圀歌碑」です
児玉党の祖有道維行(ありみち これゆき)の創建と伝えらる
想像していたよりも小さな稲荷様 徳川光圀が「阿久原の牧の稲荷に鈴かけていななく駒にいさむ武士」
と詠んだという稲荷社といわれています。境内には歌碑が建てられています。



『駒形稲荷』 児玉党の祖有道維行(ありみち これゆき)の創建と伝えられる。
想像していたよりも小さな神社(祠)でした。



『光圀歌碑』
「阿久原に遠峰惟行のあとを訪ねて 源 光圀  阿久原の牧の稲荷に鈴かけて いななく駒に いさむ武士」
と刻まれています。
これは元禄8年(1695)3月18日に、徳川(水戸)光圀が総勢7人で児玉党の旧跡を訪ね、歌を詠みました。
このときに詠んだ歌がこの歌で、ここに言う阿久原の牧の稲荷というのがこの駒形稲荷だということのよ
うです。但し、歌碑の建立がいつかは不明です。

この後、阿久原牧推定地の西にあたる駒形神社にある「阿久原牧阯」碑を訪ねてみようと探したものの、突
然の思い付きでしたし予備知識もないままに適当に探してみたので行き着かず、次の予定もあったことから、
後日改めてと途中で諦めました。そして、駒形神社の「阿久原牧阯」碑を訪ねた後に、今回の駒形稲荷と合
わせて今回の投稿をしたかったのですが、予定が狂ってしまったことから、取りあえず駒形稲荷・阿久原牧
の石碑だけの投稿とさせていただきました。


散策日:令和6年(2024)2月24日(土)

「箭弓稲荷神社本殿・幣殿・拝殿」が国指定重要文化財に

2024年02月04日 | 史跡・遺跡・文化財

箭弓(やきゅう)と付くことから野球関係者が多く参拝することで有名な東松山市の箭弓稲荷神社が、この度、
国の重要文化財に指定されましたので参詣してきました。
 社 名:箭弓稲荷神社
 創 建:和銅5年(712年)
 主祭神:保食神(宇迦之御魂神・豊受比賣神)
 社格等:旧県社・別表神社
 様 式:権現造
 鎮座地:埼玉県東松山市箭弓町2-5-14

国の文化審議会文化財分科会が東松山市の「箭弓稲荷神社本殿・幣殿・拝殿」を国指定重要文化財へ指定
するよう文部科学大臣に答申したのが、昨年である令和5年11月24日でした。そして、本年令和6年1月19日
(金)文部科学大臣から国の重要文化財に指定する告示がなされ、晴れて国指定重要文化財となりました。
これで埼玉県のおける国指定重要有形文化財は81件(5件は国宝)、うち建造物は29件(1件は国宝)となり、
「箭弓稲荷神社本殿・幣殿・拝殿」は建造物のうちの1件となります。



令和6年1月19日付の官報  赤枠で囲ったところが「箭弓稲荷神社本殿・幣殿・拝殿」で、
附として、元宮本殿 1棟、棟札 3枚、文書 1冊



一の鳥居と社号標  旧社格が県社であったことから「懸社箭弓稲荷神社」のままになっています
二の鳥居は三の鳥居の少し手前にあります



三の鳥居  両部鳥居ですね


拝殿正面  丁度節分の日で豆撒き用の舞台が組まれていました
この後続々と人が舞台前に集まってきました



拝殿向拝の彫刻


向拝脇にある大きな絵馬  当神社の近くにある県立松山女子高等学校美術部の方たちが毎年製作してい
ます



左:本殿  右:拝殿


左:本殿  右:拝殿


本殿  背後から
本殿屋根の両端にある千木と鰹木  鰹木は5本  千木は外削ぎ(そとそぎ)の形
千木は本来V字型に上に出ていますが ここのは何故か両端とも片方(1本)だけしか写っていませんが、
撮った角度の関係でしょうか?



左:拝殿  右:本殿  拝殿と本殿の間に幣殿がありますが透塀で見えません


本殿火頭窓彫刻『二龍』


本殿縁の下持送り彫刻『龍』  本殿の四隅のある内のひとつ
この他にもたくさんの彫刻が施されていますが、取りあえずこの2点で



元宮本殿  本殿の後方に鎮座  
『附・元宮本殿 1棟】 として 本殿・幣殿・拝殿などとともに重要文化財に指定



神楽殿


箭弓(やきゅう) →  野球  ということから 野球のバットの絵馬


ベースの形をした絵馬


ギネス世界記録に認定された巨大御朱印のスタンプ (平成28年5月21日認定)
印面 130×130cm
高さ 142cm
重さ 420kg
材種 欅 埼玉県の木(樹齢約500年)
和紙 細川紙(ユネスコ無形文化遺産)


ほかにも紹介すべき関連建物や彫刻などがありますが、折を見て・・・

参詣日:令和6年(2024)1月3日(土)

遠山の甌穴

2024年02月01日 | 史跡・遺跡・文化財

『遠山の甌穴』を3年ぶりに訪ねてみました。
甌穴とは河底や河岸の岩石面上にできる円形の穴で、ポットホール(pot hole)、または甕穴(かめあな)
も言われます。 河床の岩盤で小さな石が水流により一か所でクルクル回るうちに、少しずつその表面を削
り、長い年月をかけて開いた丸い穴とのことです。この遠山の甌穴は、比企郡嵐山町遠山地内を流れる槻
川の岩畳に大小7基あるようです。
【遠山の甌穴群】の名称で、平成28年(2016)1月28日に嵐山町指定の天然記念物となっています。
前回から3年後に訪ねたからと言って、数十万年から数百万年かけてできると推測される甌穴が僅か3年
で何か変化があるわけではありません。
しかし、3年前に訪ねた後に、看板が設置されたようでしたので、その看板を確認してみたいというのが
主目的でした。



甌穴見学者用のこの駐車場は以前からあるもので、この日先客が1台(1人)ありました


道路から大きな甌穴を


岩畳の上に降りて大きな甌穴を撮ってきましたが、看板の右側にある甌穴は無理でした


まるでドミノを倒したような形の岩畳ですから非常に歩きづらく、今回は大きな甌穴を1基撮っただけで終
えました


散策日:令和6年(2024)1月31日(水)

牟礼の双体道祖神

2024年01月31日 | 史跡・遺跡・文化財

埼玉県大里郡寄居町大字牟礼(むれい)地内の県道赤浜小川線の端に石造の『双体道祖神』が祀られている
ことをひょんなことから知りました。
道の端といってもちょっとした高台です。このすぐ下では道路工事が行われておりますので。邪魔になら
ない時間を見計らって訪ねてきました。
あるコラムによれば寄居町には9基の道祖神が確認されているそうで、そのうち7基は「道祖神」等と文字
が刻まれたもので像刻塔は2基しかないとのことです。
そのうちの1基が、ここ牟礼にあるもので、寄居町の指定文化財になっています。



「道祖神とは」についてはこの説明版に解説がありますので省略します。


双体(男女)の形には色々あるようですが、これは手をつないだ形でしょうか?

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牟礼の双体道祖神を訪ねたついでに、近隣にある双体道祖神を調べたところ幾つかありましたので、そう
遠くない範囲で行ける場所を探して・・・


普門山千手院 比企郡嵐山町千手堂759 参道を上がってすぐのところ


男女が肩を抱き手を繋いだもの


裏には地蔵菩薩が刻まれています  年代は不詳


同じく千手院の本堂近くの参道端に祀られた双体道祖神  電柱の背後に見えるのが本堂


座ってお互いの肩を抱き手を繋げている姿です
金婚を迎えたご夫婦が寄進したもので2008年4月21日の日付とお名前が裏面に刻まれています


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石青山 威徳院 大聖寺 (通称:下里観音) 比企郡小川町下里1857  参道端の双体道祖神
近年のもののようですが年代は不明



双体道祖神の隣には大聖寺のご詠歌の石碑


鐘楼門
この大聖寺には国の重要文化財『石造法華経供養塔』(その形から「六面幢」あるいは「六角塔婆」とも
呼ばれる:旧国宝)と、『板碑』が保存されています。


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金鑚神社(かなさなじんじゃ) 児玉郡神川町大字二ノ宮751 
平成28年(2016)12月、鏡岩へ向かう山道の最初の場所にある数多くの句碑に混じってあったものをたま
たま撮っていたもので、一応、参考までに。このころは道祖神には関心がありませんでした。


散策日:令和6年(2024)1月31日(水)