四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

熊谷直実と所領を争った久下直光の菩提寺 東竹院(埼玉県熊谷市)

2020年08月30日 | 神社仏閣


山 号:梅籠山
院 号:東竹院(とうちくいん)
寺 号:久松寺
宗 派:曹洞宗
本 尊:釈迦如来
創 建:建久2年(1191)
開 基:久下次郎重光  開山:月擔承水法師
中 興:天文14年(1545)
開 基:深谷城主上杉三郎憲賢  開山:的翁文中和尚
所在地:埼玉県熊谷市久下1834

久下直光(くげ なおみつ・ 生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての武士で、武蔵国
大里郡久下郷(現・熊谷市)を本領とし久下権守を名乗りました。
直光は、熊谷直実の母の姉妹を妻にしていたことから直実にとって伯父にあたり、幼い時に父を亡く
して孤児となった直実を養いました。
事の経緯・詳細は省きますが、直実は直光の家人扱いに耐えられず平知盛に仕えてしまいます。更に、
熊谷郷の所領争いや、熊谷郷と久下郷の境界争いは激しいものであったと言います。
重光の孫三郎直高は、承久三年(1221)の承久の乱の後、軍功により与えられた丹波丹波国栗作郷へ
移住しましたが、その後については定かでないと言います。
直光と子・重光のものとされる墓が在るという東竹院にあるとのことで訪ねてみました(2年程前に
なりますが)




東竹院入口 突き当りは荒川の堤防です この堤防の少し手前右側に東竹院はありあります




所謂山門はありませんが左右に石標が立つここが表入り口
左の石標には院号の『東竹院』 右の石標には山号の『梅籠山』の文字が刻まれています




入ってすぐ右手にある 六地蔵と地蔵尊




参道




東竹院 本堂
大棟 向拝の唐破風鬼飾 唐破風拝飾 には久下氏の家紋『一番』があしらわれています

久下氏の家紋は『一番』の字とされる。『太平記』によれば、これは頼朝が挙兵した際、最初に兵
を率いて馳せ参じたのが久下重光で、勝利できたならば「一番」の恩賞を与えるとした書き付けを
頼朝から与えられたことによるとされるとのこと




扁額『梅籠山』
ガラス戸に入っているのも久下氏の家紋『一番』
浄財箱前の「香炉」にも入っています




大棟 向拝唐破風鬼 唐破風拝飾 の『一番』紋




『達磨石』(左)と『達磨石の由来』が記された石碑(右)
寛文年間(1661-1672)に忍城主が、禅宗の祖達磨大師に似たこの巨石を秩父から城中へ運ぶ途中、
川に落下し、度重なる荒川の洪水も重なり行方が分からなくなった。 それから250年ほど経った
大正14年、この伝説の達磨石が荒川の東竹院のすぐ前で、偶然に発見された。川底から掘り起こ
され、東竹院に安置された。
     《熊谷デジタルミュージアム 中山道と史跡と文化財 6東竹院のだるま石》を引用




久下氏墓所
石標に『久下権守直光公 次郎重光公墓所』とあります
また、別面には『草創開基東竹院久遠願昌大居士』とあります




奥に二基の五輪塔が並んでいますが、どちらが直光でどちらが重光のものかは分りません




荒川の堤防 東竹院はこの堤防の右側を下がった所にあります。
また、久下氏の居館跡は、東竹院から南東へ1.3km位の所に久下氏の館があったらしいと推定さ
れるが、河川敷なので堀もなにも何も残っていないようです。

散策日:平成30年(2018)7月12日(木)

直実

2020年08月26日 | エトセトラ


熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した熊谷郷の武士で
す。特に有名なのは一ノ谷の合戦で、息子と同年代の平敦盛を討ち取った話しでしょう。
ここに直実のことを詳しく書くつもりはありません。なぜなら「直実」という銘柄の日本酒について書こうと思
うからです。
「直実」という銘柄のお酒が近隣の道の駅に並んでいることは以前から目にしていました。
しかし、お酒は飲まない私ですからどうしても欲しいというわけではありませんでしたが、熊谷を拠点にした昔
から知っている武将で名の付いたお酒ということでついに購入して来ました。何枚かの写真を撮ったらまた台所
行きに(調味料)なっていただくだけですから高級なものは要りません。種類によってラベルの色が違ったり図
柄が微妙に違ったりしているようです。
このお酒の醸造販売元は熊谷市で唯一の蔵元「権田酒造」さんですが、直実の愛馬は「権田栗毛」(権太栗毛と
も)です。「権田酒造」と「権田栗毛」。共に”権田”これも何かの縁でしょうか。
また今回も写真で遊んでみました。右上の写真は、熊谷駅前広場に建立されている【熊谷次郎直実公】銅像。そ
の隣は直実の家紋である「寓生(ほや)に鳩紋」

他に埼玉ゆかりの著名な武将と言えば同じ熊谷市の斎藤別当実盛がいます(熊谷市と言っても近年合併によって
熊谷市になったもので旧・妻沼町もっと古くは長井庄)
残念ながら実盛の名が付いたお酒はないようです。うどんならあるようですが時期が時期ですから・・・

嵐山銘菓 史跡最中

2020年08月23日 | エトセトラ


埼玉県比企郡嵐山町にある『菅谷館跡』(続日本100名城)は、平安時代末期から鎌倉時代に活躍し「武蔵武士の
鑑」と称された畠山重忠の居館があったとされます。
そんな嵐山町菅谷390に所在する「岡松屋」さんで【史跡最中】を販売しているとのことから購入してきました。
「畠山重忠のひよどり越え」の図柄の包装紙にくるまれた最中の皮の形が畠山氏の家紋である「五三の桐紋」で、
片面には「武蔵」、もう一方の面には「嵐山」と入っています。
【史跡最中】の史跡とは、『菅谷館跡』を指すとのことです。1個140円也。

左下の写真は「畠山重忠公史跡公園」(埼玉県深谷市畠山)にある「畠山重忠のひよどり越え」の銅像
中央は、最中のモチーフとなっている「五三の桐紋」で、畠山氏の家紋のひとつ
右下の写真は、「岡松屋」で 写真左にある看板には「史跡最中」と入っています。 数ある商品の中
から看板に入れるくらいですから、まさに看板商品なのでしょうね。

実は、この最中の商品名にはある事情がありますが、それをここに書くわけにはいきません。

世阿彌と山崎正和さん

2020年08月22日 | エトセトラ


もう何十年も前になりますが能の大成者『世阿弥』に興味を持って世阿弥に関する書物を何冊か読んだ時期が
あります。
丁度そのころ、世阿彌と山崎正和さんの関係を知りました。しかし、お名前は記憶に刻まれたものの申し訳あ
りませんが氏の著書は読んだことがありませんでした。
この写真はあることに使うため十数年前に撮ったものですが、今、改めて見てみますと『日本の名著 世阿弥』
の責任編集・解説は山崎正和となっていました。氏のご冥福をお祈り致します 合掌

武田狼煙台(山梨県山梨市)

2020年08月18日 | 城館雑記


狼煙(のろし)とは、物を焼くことで煙を上げ、それを離れたところから確認することによって、情報を伝達す
る手段であり、狼煙を上げるために作られた施設が狼煙台です。

写真の狼煙台は山梨県山梨市牧丘町にある甲州名物のほうとうなどを提供してくれる『富士見茶屋いろり』の駐
車場に作られている模擬のつるべ式狼煙台です。

数年前までは、よく山梨県に出かけていました(よくと言っても年に2~3回程度)。ということでこの「武田
狼煙台」を何度も見ていましたし、『富士見茶屋いろり』にも2度ほど食事で寄りました。写真はありませんが、
お店の中には甲冑や多数の美術品が展示されています。

写真は10年前(平成22年・2010)の今日と同じ日8月18日に撮ったものですが、これから先こちら方面に
行くことは無理と思える状況になり、新たに写真を撮ることもないでしょうから、今更ながら・・

鎌倉悪源太義平を祀る御霊神社(埼玉県東松山市)

2020年08月17日 | 神社仏閣


社 号:御霊神社(ごりょうじんじゃ)
通 称:正代(しょうだい)御霊神社
祭 神:源 義平(みなもと の よしひら)
創 建:不詳なるも鎌倉期と推定
社 格:旧村社
指 定:ー
鎮座地:埼玉県東松山市正代841

都幾川と越辺川に挟まれた低地に半島状に突き出た台地の東端に武蔵七党の児玉党の支流で入西
資行の次子・小代遠弘が小代郷を相続して居住したのが小代氏の始まりとされるようです。
「岡の屋敷」と呼ばれるこの小代氏の居館跡(現・青蓮寺)の地続きに正代『御霊神社』が鎮座
しています。
御霊神社の鎮座するこの地は、元は源義朝の長子で頼朝・義経らの異母兄である源義平が居館を
構えて居住していたと言われます。
久寿2年(1155)8月16日、源義平は軍勢を率いて 突如、武蔵国の大蔵館(比企郡嵐山町)を
襲撃し、父義朝の弟(自身の叔父)である源義賢(木曽義仲の父)と義賢の義父である秩父重隆
を討ちました。
この時、わずか15歳の義平はこの戦いで大いに武名をあげ以降「鎌倉悪源太」と呼ばれるような
りました。【悪】とは、「強い」「猛々しい」といった意味で、「鎌倉の剛勇な源氏の長男」と
いう意味のようです。   太-------太郎-------長男  
時を経て鎌倉悪源太は、京都・六条河原で処刑されました(享年20)が、その後、家臣であった
小代氏が鎌倉悪源太(源義平)を御霊と祀り御霊神社を創建し崇敬してきたました。

なお、この正代御霊神社の主祭神は、旧来鎌倉権五郎景正((政)と言われていたが、「小代行平
置文」に、【略・・・悪源太郎ヲ御霊ト祝ヒ奉マツル・・・略】とあることから、源義平を祀っ
たものと認識されたようです。




台地の端に鎮座する正代『御霊神社』




庚申塔  建立日は読み取れず 台座に『正代村』とあり




鳥居(両部鳥居)と社号標『村社 御霊神社』




神額 『御霊神社』と揮毫




【手水石】と【境内社】




明治42年字弁天の市杵島神社、字東形八坂神社、字田谷稲荷神社の三社を合祀した




左 :弁天の市杵島神社(田んぼの水利を司る神【水神様】)
中央:東形の八坂神社(悪疫退散として牛頭天王を祀る)
右 :田谷の稲荷神社(五穀豊穣を願う神を祀る)




【正代の祭りばやし』説明板 




『東松山市の名木 ケヤキ  幹回り約3m』平成20年3月1日認定 東松山市観光協会




社殿の右隣にある『正代公会堂・御霊神社社務所』




御霊神社境内  拝殿と本殿の覆屋




社殿と狛犬




『狛犬』 昭和13年(1938)建立




『拝殿』




扁額『御霊社』と揮毫




拝殿格子戸の覗き穴から社殿内を覗くと『本殿』が見えました




社殿裏にある  左:境内社(稲荷社)   中:石造物   右:納札所




得体の知れない石造物です




本殿覆屋の裏から拝殿(表)方向に




境内から越辺川方向を望む

『悪源太義平の墓』(太田市)⇐ クリックでブログ記事に

参詣日:令和2年(2020)8月6日(木)

鎌倉権五郎景政を祀る御霊神社(東京都八王子市)

2020年08月16日 | 神社仏閣


社 号:御霊神社
別 称:御霊大明神
祭 神:鎌倉権五郎景政公
創 建:不詳なるも天正時代(1573~1592)と伝わる
社 格:ー
指 定:ー
鎮座地:東京都八王子市館町1,271番地1

御霊神社という名の神社は、日本各地に存在するようです。 その祭神・性格は様々ですが、ここ
八王子市館町に鎮座する御霊神社は、鎌倉権五郎景政を祀ったものです。詳細については現地の
説明板(『新築記念碑』・『碑史』)にありますので下に転記しておきます。
地名の「館町」(たてまち)については、鎌倉権五郎景政や近藤出羽守助実の館(やかた)があ
ったことからこの名が付いたと伝えられるそうです。
また、鎌倉権五郎景政公を祭神とする御霊神社は、鎌倉付近に多くあり、八王子市にも複数ある
とのこと。




都道173号線(北野街道)とほぼ並んで流れる湯殿川の対岸に御霊神社は鎮座します。
湯殿川に架かる『明神橋』を渡り、浄泉寺方向に向かい、坂道の少し手前の住宅街の細い道を右に
入って行くと鳥居の目に出ますが、車は通れない道です。




御霊神社の鳥居です  神額には『御霊神社』とあります




鳥居を潜ってすぐの参道右手に鎮座する境内社  社名の確認は失念




境内に入りました  正面の社殿が「御霊神社』




社殿前から境内を 正面に『神楽殿』




『神楽殿』




『社務所』




『御神木舎』
大きな切り株が安置されているのは御神木舎  「樹齢200年余である。社務所西部に当る場所に
生育していたために伐採、記念として祀る。(2002年8月)」との説明がありました。




『新築記念碑』
  新 築 記 念 碑

鎮座地 東京都八王子市館町1,271番地1
祭 神 鎌倉権五郎景政
   祭神の景政は、後醍醐天皇の子孫で貴族武士である。
  前九年の役、康平5年(1062)に陸奥守であった源頼義とその子義家に従い16才で出陣し、
  奥州の阿部貞任を討伐。その後、義家の命令により景政はこの附近に館(やかた)を構える。
   後三年の役、応徳3年(1086)に再び義家に従い出羽の清原家衡を討伐の途中の途中、景
  政はこの館に立ち寄るが、晩秋のひととき、くつわ虫の鳴きに聞き入る一瞬に流れ矢が右眼
  に当 たる。剛勇の景政はそれにひるまず敵を寺田山に斬り散らして倒れる。その時寛治元年
  (1087)享年42才の時と伝えられる。
由 緒
   創建は、天正時代である。もと御霊谷戸に祭られ「御霊大明神」といわれた社を、八王子城
  主北条氏照の家臣近藤出羽守助実により移される。
  慶安2年(1649)に神像を彩色、元禄8年(1695)8月23日社殿を再建。昭和42年(19
  67) に拝殿を新築する。
   祭りは、景政が奥州凱旋の時が11月15日の寒い頃だったので、村人は篝火を盛んに焚い
  て歓迎したと言う。この館の祭典は、昔は霜月15日に行われ、篝火を焚く神事があったと伝
  えられている。今は無く8月に夏祭りが行われている。
社殿・社務所等の新築及び境内整備
   御霊神社境内地の一部、1847.62平方米が湯殿川改修工事のため、平成11年(1999)7月
  23日、東京都に買収され、これを基金に、社殿82.24平方米 社務所125.87平方米と手水舎、
  御神木舎及び鳥居を新築、境内全域にわたり整備改修を行った。
  玉垣は、当神社を崇敬する氏子の方々の寄付により再建された。
                                平成13年12月吉日



『手水舎』




戦没者慰霊碑の類いのようです




『力石』
「力石 昔の人がこの石を持あげて、力を競ったものです。
大210Kg 中130Kg 小70Kg」




『神輿殿』




『御霊神社社殿』




向拝の「唐破風鬼」「唐破風拝飾」には『丸に並び矢』・・・御霊神社の神紋(社紋)
ここ館町の「御霊神社」の神紋が『丸に並び矢』であって、他の御霊神社にはそれぞれの神紋があ
ります。
鎌倉市坂の下の御霊神社・通称(鎌倉)権五郎神社の神紋は、丸のないただの『並び矢』です。
この『並び矢』が鎌倉景政の家紋のようですが、なぜ、この館町御霊神社の神紋には『丸に並び矢』
が使われたのかは調べてみましたが分りませんでした。
鎌倉氏族である梶原氏や大庭氏の家紋の中には『丸に並び矢』がみられます。
また、鎌倉景政の家紋が『並び矢』であることについては、景政の逸話となっている「流れ矢が右
眼に当 たる。剛勇の景政はそれにひるまず敵を寺田山に斬り散らして倒れる」から、【景政イコー
ル矢】ということで後付で作られたことも考えられるようですが、正直なところは分りません。




扁額(神額)『御霊神社』




社殿を斜めから




社殿を本殿側から



境内北側のフェンス際に設置されている『碑 史』

 碑 史
八王子市館町1271番地(境内約1620坪)に鎮座する當御霊神社は祭神に鎌倉権五郎景政
を祀る
創立年月は不詳と雖も天正時代1573年の建立と伝えられ慶安2年(1649年)御神像を彩
色し元禄8年(1695年8月23日)に社殿を再建した
祭神景政は醍醐天皇の子孫に當る貴族武士で前九年の役(康平5年1062年)に源義家(八幡
太郎)に従い16才で出陣し奥州阿部貞任を討伐後三年の役(応徳3年1086年)に再び義家
と共に出羽首長清原家衡を討伐に出陣せしが遠征我に利なく心ならずも退く敵は本陣鎌倉をねら
い関東平野は激戦の巷と化すが逢阪より駆付けた義家の弟義満の援軍と共に奮戦し敵を追拂いつ
ゝ館村に立寄る
時恰も晩秋我が世と鳴きさけぶ轡虫の声懐しくしばし聞き入るその一瞬流れ矢が右目に當り剛勇
景政更に屈せずそのまま敵を寺田山に追い上げ斬り散らし遂に倒れた
諸行は無情にて名将景政42才にて人生を閉す時に寛治元年(1087年9月29日節句)であ
る伝説に館の住人は右目が小さいとか館には9月の節句無しとか誠に故なることかここにその昔
を今に伝える御霊神社を鎮守と仰ぎ我々氏子は武将景政の御遺徳を偲び永遠に崇敬するものであ
ります。
 昭和61年丙寅8月吉日
                                   御霊神社氏子

鎌倉権五郎景政に関する記述は新築記念碑の内容と同じですが、こちらの方が若干詳しいかもしれ
ません。




御霊神社の西側には「西明神橋」が架かっています。




ここから御霊神社の裏側に入れます。こちらには数台ですが駐車場が設けられています。




御霊神社と湯殿川の間は遊歩道になっていて、季節柄丁度アジサイが咲いていました。
遊歩道から直接御霊神社の境内に入ることはできません。

参詣日:平成30年(2018)6月14日(木)
※2018.8.20投稿の「浄泉寺城」において、浄泉寺城と関わりあることからこの御霊神社の写真を数枚載せましたが、
同投稿から分離し写真の枚数を増やしての「御霊神社」として新たに投稿にしました。

経塚古墳(埼玉県川島町)

2020年08月13日 | 古墳


名 称:経塚古墳(きょうづかこふん)
別 名:―
墳 形:円墳
規 模:高さ約2.5m
築 造:不明
出土品:―
指 定:―
所在地:埼玉県比企郡川島町長楽

越辺川左岸の自然堤防上に存在する2基からなる長楽古墳群のうちの1基で、もう1基の仙元塚
とはかなり距離が離れています。墳頂には稲荷社が祀られています。
これが古墳であるのかは素人にはよくわかりませんが、資料では古墳扱いになっているといいま
す。
当主の許可を得て写真撮影をさせていただきましたが、当主自身、古墳という認識はないような
感じでした。
「経塚」とは経典を埋めた塚のことですから、もしかしたら・・・かもしれません。
なお、すぐ脇を長楽用水路が通っていて、すぐ近くに「京塚樋管」があります。また、このあた
りの字名は「京塚」ですが、この京塚は経塚に由来するものかもしれません。




墳丘




墳頂に鎮座するは稲荷社?




用水路沿いの道路から

散策日:令和2年(2020)7月19日(日)

仙元塚古墳(埼玉県川島町)

2020年08月12日 | 古墳


名 称:仙元塚古墳(せんげんづかこふん)
別 名:ちょっぽり浅間
墳 形:円墳
規 模:径不明、高さ約2.5m
築 造:不明
出土品:―
指 定:―
所在地:埼玉県比企郡川島町戸守

越辺川左岸の自然堤防上に存在する2基からなる長楽古墳群のうちの1基ですが、もう1基の経塚
とはかなり距離が離れています。墳頂には浅間神社が祀られています。
富士塚として後世に大幅に加工したようです。
「ちょっぽり」とは円錐形に尖ったものをあらわす方言とのこと。




南西側は道路建設のために大分切り取られてしまっています




西方から見た墳丘

散策日:令和2年(2020)7月19日(日)

長楽用水路 ②(埼玉県川島町)

2020年08月09日 | まち歩き


『長楽用水路』散策記その②です




前回同様地図に番号を入れて紹介します




地蔵尊から東方へ少し行ったところに架かっている橋の左岸に板碑が見えます (地図⑦)
道路が嵩上げされているので板碑は下3分の1くらいが隠れた状態です  ※左側が上流




『阿弥陀一尊図板碑』のようです




背面を見ると近世に供養塔として再利用されたようで

 天長 享保十一丙午 長楽村 横田茂太夫
梵字 奉納大乗經本朝回國一千部供養所
 地久 三月日  法名権大僧都常楽印勝寛

とあります




京塚樋管  長楽用水路右岸に設置                   (地図⑧)




左岸から京塚樋管の正面を
当然ながら樋管の裏側が堤の向こう側にあるのですが写真は失念




音羽橋  左が上流                          (地図⑨)
右岸の橋のたもと上流・下流両側に庚申塔が建立されている
左岸側・・・川島町大字正直  右岸側・・・大字戸守




上流側の庚申塔(青面金剛)
左側面に 【顧主 戸守村 七人  正直村 三人】とあり 
右側面には建立日があると思われるが判読に難あり




下流側の庚申塔(青面金剛)
右側面に 【安永十辛丑 二月十七日】(1781年)とあり 
左側面 判読に難あり




六地蔵橋と石仏   長楽用水路左岸から                 (地図⑩)
左岸側・・・川島町大字正直  右岸側・・・大字戸守




上流側側面に 【六地蔵橋】 と刻まれている




下流側側面に 【大正十三年十一月竣工】(1924年) と刻まれている




右岸の石仏群  下流から




庚申塔(青面金剛) 【寛政五 癸丑 三月吉日】(1793年) と刻まれている




石橋供養塔 【大乗妙典六十六郡日本廻國橋供養】  宝暦6年(1756年)建立




石幢六地蔵  【正徳四年 甲午講中 ・・・北戸守村】(1714年) と刻まれている




川店(かわだな) 川棚とも                       (地図⑪)                
馬や農具、野菜を洗うために、水路の脇に設けられた場所  
洗濯所に使われることもあったようです




サイクリング道路下の長楽用水路    左側が上流            (地図⑫)
埼玉県道158号・川島こども動物自然公園自転車道線の北側を流れる長楽用水路 
水路の北側は日枝神社の社叢




ここにも分岐点が  左側が上流                  (地図⑫)の付近                  




山王樋管                                (地図⑬)
山王樋管のある場所と日枝神社方向とを行き来できるよう木製の橋が架けられています




黄色の枠の所に『山王樋管』と刻まれた石製の銘板がはめ込まれていますが、この時はゲートの扉
が上がっていて銘板を隠してしまっていました。
堤防の反対側に山王樋管の吐口がありますが、写真は失念




長楽用水路は更に東方に向けて流れ国道254号線の下を通り進んでいきます 上流から




山王樋管のすぐ南側に日枝神社の鳥居があります




日枝神社の鳥居の斜め前にある庚申塔群
右端の庚申塔は 右側面に「文化十二年 乙亥」(1815) 左側面に「三月吉日」と刻まれている

散策日:令和2年(2020)7月16日(木)・19日(日)