社 号:御霊神社
別 称:御霊大明神
祭 神:鎌倉権五郎景政公
創 建:不詳なるも天正時代(1573~1592)と伝わる
社 格:ー
指 定:ー
鎮座地:東京都八王子市館町1,271番地1
御霊神社という名の神社は、日本各地に存在するようです。 その祭神・性格は様々ですが、ここ
八王子市館町に鎮座する御霊神社は、鎌倉権五郎景政を祀ったものです。詳細については現地の
説明板(『新築記念碑』・『碑史』)にありますので下に転記しておきます。
地名の「館町」(たてまち)については、鎌倉権五郎景政や近藤出羽守助実の館(やかた)があ
ったことからこの名が付いたと伝えられるそうです。
また、鎌倉権五郎景政公を祭神とする御霊神社は、鎌倉付近に多くあり、八王子市にも複数ある
とのこと。
都道173号線(北野街道)とほぼ並んで流れる湯殿川の対岸に御霊神社は鎮座します。
湯殿川に架かる『明神橋』を渡り、浄泉寺方向に向かい、坂道の少し手前の住宅街の細い道を右に
入って行くと鳥居の目に出ますが、車は通れない道です。
御霊神社の鳥居です 神額には『御霊神社』とあります
鳥居を潜ってすぐの参道右手に鎮座する境内社 社名の確認は失念
境内に入りました 正面の社殿が「御霊神社』
社殿前から境内を 正面に『神楽殿』
『神楽殿』
『社務所』
『御神木舎』
大きな切り株が安置されているのは御神木舎 「樹齢200年余である。社務所西部に当る場所に
生育していたために伐採、記念として祀る。(2002年8月)」との説明がありました。
『新築記念碑』
新 築 記 念 碑
鎮座地 東京都八王子市館町1,271番地1
祭 神 鎌倉権五郎景政
祭神の景政は、後醍醐天皇の子孫で貴族武士である。
前九年の役、康平5年(1062)に陸奥守であった源頼義とその子義家に従い16才で出陣し、
奥州の阿部貞任を討伐。その後、義家の命令により景政はこの附近に館(やかた)を構える。
後三年の役、応徳3年(1086)に再び義家に従い出羽の清原家衡を討伐の途中の途中、景
政はこの館に立ち寄るが、晩秋のひととき、くつわ虫の鳴きに聞き入る一瞬に流れ矢が右眼
に当 たる。剛勇の景政はそれにひるまず敵を寺田山に斬り散らして倒れる。その時寛治元年
(1087)享年42才の時と伝えられる。
由 緒
創建は、天正時代である。もと御霊谷戸に祭られ「御霊大明神」といわれた社を、八王子城
主北条氏照の家臣近藤出羽守助実により移される。
慶安2年(1649)に神像を彩色、元禄8年(1695)8月23日社殿を再建。昭和42年(19
67) に拝殿を新築する。
祭りは、景政が奥州凱旋の時が11月15日の寒い頃だったので、村人は篝火を盛んに焚い
て歓迎したと言う。この館の祭典は、昔は霜月15日に行われ、篝火を焚く神事があったと伝
えられている。今は無く8月に夏祭りが行われている。
社殿・社務所等の新築及び境内整備
御霊神社境内地の一部、1847.62平方米が湯殿川改修工事のため、平成11年(1999)7月
23日、東京都に買収され、これを基金に、社殿82.24平方米 社務所125.87平方米と手水舎、
御神木舎及び鳥居を新築、境内全域にわたり整備改修を行った。
玉垣は、当神社を崇敬する氏子の方々の寄付により再建された。
平成13年12月吉日 |
『手水舎』
戦没者慰霊碑の類いのようです
『力石』
「力石 昔の人がこの石を持あげて、力を競ったものです。
大210Kg 中130Kg 小70Kg」
『神輿殿』
『御霊神社社殿』
向拝の「唐破風鬼」「唐破風拝飾」には『丸に並び矢』・・・御霊神社の神紋(社紋)
ここ館町の「御霊神社」の神紋が『丸に並び矢』であって、他の御霊神社にはそれぞれの神紋があ
ります。
鎌倉市坂の下の御霊神社・通称(鎌倉)権五郎神社の神紋は、丸のないただの『並び矢』です。
この『並び矢』が鎌倉景政の家紋のようですが、なぜ、この館町御霊神社の神紋には『丸に並び矢』
が使われたのかは調べてみましたが分りませんでした。
鎌倉氏族である梶原氏や大庭氏の家紋の中には『丸に並び矢』がみられます。
また、鎌倉景政の家紋が『並び矢』であることについては、景政の逸話となっている「流れ矢が右
眼に当 たる。剛勇の景政はそれにひるまず敵を寺田山に斬り散らして倒れる」から、【景政イコー
ル矢】ということで後付で作られたことも考えられるようですが、正直なところは分りません。
扁額(神額)『御霊神社』
社殿を斜めから
社殿を本殿側から
境内北側のフェンス際に設置されている『碑 史』
碑 史
八王子市館町1271番地(境内約1620坪)に鎮座する當御霊神社は祭神に鎌倉権五郎景政
を祀る
創立年月は不詳と雖も天正時代1573年の建立と伝えられ慶安2年(1649年)御神像を彩
色し元禄8年(1695年8月23日)に社殿を再建した
祭神景政は醍醐天皇の子孫に當る貴族武士で前九年の役(康平5年1062年)に源義家(八幡
太郎)に従い16才で出陣し奥州阿部貞任を討伐後三年の役(応徳3年1086年)に再び義家
と共に出羽首長清原家衡を討伐に出陣せしが遠征我に利なく心ならずも退く敵は本陣鎌倉をねら
い関東平野は激戦の巷と化すが逢阪より駆付けた義家の弟義満の援軍と共に奮戦し敵を追拂いつ
ゝ館村に立寄る
時恰も晩秋我が世と鳴きさけぶ轡虫の声懐しくしばし聞き入るその一瞬流れ矢が右目に當り剛勇
景政更に屈せずそのまま敵を寺田山に追い上げ斬り散らし遂に倒れた
諸行は無情にて名将景政42才にて人生を閉す時に寛治元年(1087年9月29日節句)であ
る伝説に館の住人は右目が小さいとか館には9月の節句無しとか誠に故なることかここにその昔
を今に伝える御霊神社を鎮守と仰ぎ我々氏子は武将景政の御遺徳を偲び永遠に崇敬するものであ
ります。
昭和61年丙寅8月吉日
御霊神社氏子 |
鎌倉権五郎景政に関する記述は新築記念碑の内容と同じですが、こちらの方が若干詳しいかもしれ
ません。
御霊神社の西側には「西明神橋」が架かっています。
ここから御霊神社の裏側に入れます。こちらには数台ですが駐車場が設けられています。
御霊神社と湯殿川の間は遊歩道になっていて、季節柄丁度アジサイが咲いていました。
遊歩道から直接御霊神社の境内に入ることはできません。
参詣日:平成30年(2018)6月14日(木)
※2018.8.20投稿の「浄泉寺城」において、浄泉寺城と関わりあることからこの御霊神社の写真を数枚載せましたが、
同投稿から分離し写真の枚数を増やしての「御霊神社」として新たに投稿にしました。