四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

重殿水源(群馬県太田市)

2019年01月29日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:重殿水源(じゅうどのすいげん)
指 定:国指定史跡(新田荘遺跡 重殿水源 平成12年〔2000〕11月1日指定)
所在地:群馬県太田市新田市野井町(旧新田郡新田町)

国指定史跡 新田田荘遺跡は、「新田荘」に関連する寺社境内・館跡・湧水地など11の遺跡から構成されていますが、そのひ
とつである「重殿水源」を訪ねてみました。


■ 新田荘遺跡(重殿水源)
 太田市の北西部は大間々扇状地に立地していることから、扇端部の標高60mの地点を中心として多くの湧水が見られます。
重殿水源は、現状では、周囲を民家や工場に囲まれ、四方を石垣とコンクリートで護岸された東西10m、南北23mの小さな
池です。北西の角には3基の石のほこらがあり、かつての面影をうかがうことができます。この東側には一級河川、大川の源流
であることを示す標柱が立てられています。
 元亨2年(1322)の「関東裁許状」(正木文書)によると、大館宗氏と岩松政経が「一井郷沼水」から流れ出た「用水堀」を
巡って争論を起こしたことに対して、鎌倉幕府が判決を下したことが分かります。この古文書にある「一井郷沼水」が重殿水源
であると考えられています。
 新田荘は大間々扇状地の扇端部に位置していることから豊富な湧水に恵まれ、荘園を経営するために湧水が利用されたと考え
られています。かつては実際に市野井・金井・赤堀・木崎など多くの地域がこの水を農業用水として利用していました。重殿水
源はこういったことを証明する貴重な史跡です。        
                                《太田市ホームページ 太田市の文化財 より引用》




フェンスに囲まれたところが重殿水源です  




重殿水源から出た水は、道向かいの右側のフェンスの内側にある用水路につながっており、一級河川大川(利根川の支流)の
源流となっているそうです。水位計が設置されているようですが写真は失念。




フェンスに沿って並んでいる石碑と説明板




だいぶ古い石碑のようで「重殿地下水記念碑」と刻まれています。。裏面も覗いてみましたが、昭和10年建立のようです。




「国指定史跡 新田荘遺跡 重殿水源」説明板
説明文の内容は、冒頭に引用した太田市のホームページにあるものと同一で、最初の”太田市の北西部にある”とのの文字がな
いだけです。
この説明板は、合併により新設の太田市(平成17年)になる以前の新田郡新田町のころに設置されたもので、太田市のホーム
ページの文面はこれがベースになっているようです。




北東から見た重殿水源




同上




北西端には、水神の3つの石祠が並んでいる。
地元では「じゅうどの様」と呼ばれているとのことですが、重殿って何のこと? 昔の偉い人 豪族?




沢山の鯉が泳いでいました




南側から

所在地番地の近くまで行ったところ大きな水路に出会いましたので、これが重殿水源かもと写真を撮りながら水源があるであろ
う上流を目指して歩きました。しかし、歩いても歩いても水路が続くだけで何か変です。途中、畑仕事をしているご夫婦がいま
したので、「重殿水源は、これでいいのですか?」とお聞きしたところ、ガーン!! 見事に外れでした。それでまたここでも
親切丁寧に教えていただき、どうにか目的の重殿水源までたどり着いたというお決まりのお粗末ぶりでした。

散策日:平成30年(2018)10月2日(火)

特別講演会「戦国武将と城郭」

2019年01月28日 | 講演会・講座


埼玉県立嵐山史跡の博物館 平成30年度企画展「越山―上杉謙信侵攻と関東の城―」に連携の
 特別講演会「戦国武将と城郭」
  講師:小 和 田 哲 男 氏(静岡大学名誉教授・日本城郭協会理事長)
  日時:平成31年1月27日(日)13:45~15:30
  会場:国立女性教育会館 講堂

を聴講してきました。

例年ですと、この時期は企画展関連のシンポジウムが開催されていました、今回は小和田哲男氏を講師に招いた特別講演会と
なり、聴講希望者が定員をはるかに超えたため抽選となりました。私も、運よく「当選」の返信を頂くことが出来たました。




今回の講演会の資料と企画展「越山―上杉謙信侵攻と関東の城―」のチラシ




国立女性教育会館の庭の紅梅は既に咲いていました




同上

聴講日:平成31年(2019)1月27日(日)

江田館(群馬県太田市)

2019年01月22日 | 100名城以外の城館跡
■ 国指定史跡 新田荘遺跡 江田館跡 ≪9/11≫



城 名:江田館(えだやかた)
別 名:-
形 態:平城
時 期:鎌倉時代から南北朝時代と推定
築城主:江田頼有
城 主:江田行義・矢内四郎左衛門
遺 構:郭・土塁・堀
指 定:国指定史跡(新田荘遺跡 江田館跡 平成12年〔2000〕11月1日指定)
現 状:館跡
所在地:群馬県太田市新田上江田町(旧新田郡新田町)

新田荘の史跡巡りで、平成22年(2010)4月以来、約8年半ぶりに「江田館跡」を訪ねてみました。
最近は、城館跡巡りをしても遺構のない所ばかりでしたので、はっきりとした遺構がのこる城館跡はやはりワクワクします。




虎口土橋手前に建つ「「国指定史跡 新田荘遺跡 江 田 館 跡」の標柱




「国指定史跡 新田荘遺跡 江 田 館 跡」説明板   写真のままでは読めませんので説明文を転記します。

 江田館跡は、反町館跡とともに太田市の中世平城の代表的な遺構で、地元で「堀の内」と呼ばれる本丸跡は、東西約80m、
南北約100mの土塁と堀を巡らせています。
 虎口(出入口)は南西面と東面にあり、土橋となっています。外郭には、本丸の西と南を「カギ」型に囲んで、「二の丸」が
あります。本丸から北東に向って、「黒沢屋敷」、「毛呂屋敷」、「柿沼屋敷」と呼ばれる屋敷跡があり、土塁と堀が残存して
います。
 江田館は、江田行義の館跡と伝えられています。行義は、新田義重の子・義季の四世の孫で、新田義貞の鎌倉北条氏討伐に参
加し、極楽寺坂口の大将として軍功をたてました。西国を転戦後、備後国(広島県)で農業を営み、以後足利氏の目をしのび、
9代にわたり姓を「守下」に改めていましたが、10代目の大膳が、文禄年間(1593頃)祖先のこの地に移転してきたと言
われています。戦国時代には、反町館跡とともに金山城の出城として改修され、金山城主由良氏の四天王の一人、矢内四郎左衛
門の居城になりました。天正年間には小田原北条氏が金山城攻略に先立ってこの出城を奪い、金山城攻撃の拠点としました。そ
の後、後北条氏滅亡(天正18ー1590年)と共に廃城となりました。
 本丸中央の土塁の中には義貞様と言われる石宮があります。江田子孫が代々義貞、行義を合祀し、氏神としたもので、明治6
年(1873)新田一族末裔達が太田金山山頂にこれを祀り、社殿を造営して新
田神社としました。
 地域住民が、先祖の地として館跡を保存に協力してきたため、中世豪族の館跡として規模、構造ともに原形を良く残していま
す。
  



江田館復元図




江田館跡図  ※加筆してあります




主郭(本丸)を南側から北方を  左:西側土塁  中央:北側土塁  右:東側土塁




主郭(本丸)を南側から北西方向を  




主郭(本丸)を南側から北東方向を  




主郭(本丸)を南東側から北西方向を  左側が虎口  




土塁の上を時計回りで歩いてみます  西側土塁上の「折り」の手前から堀を




西側土塁の「折り」あたり




西側土塁上を南方から北方に




西側土塁上を北隅から南方に  上の写真の逆方向




土塁北西隅にある石祠




北側土塁上を西方から東方に




北側土塁上の途中から西方を振り返る




北側土塁上から北側堀を見下ろして




北側土塁上の中央にある「義貞様(ぎていさま)」と言われる石宮




再び北側土塁上から北東隅方向に




土塁上北東隅から西方に  木の根元に「義貞様」の石宮が見えます




東側土塁上から南方を  折りの状態がよくわかります




東側土塁上を南隅から北方に  




南側土塁(虎口東側部分)  写真右側が虎口




次に、堀の外側を時計と逆回りに歩いてみます  南側の虎口土塁東側の堀の状況




南東隅の堀と土塁




東側の堀と土塁を南方から北方に




東側の堀と土塁を北方から南方に  「折り」が分ります  上の写真の逆方向




東側堀の外側北寄りにある「黒沢屋敷」の土塁




東側の堀と土塁を北方から南方に




北側の堀と土塁を北東隅から西方に




北側土塁上に見える「義貞様」の石宮




北側の堀と土塁を北西隅から東方に




土塁上北東隅にある石祠




西側の堀と土塁を北方から南方に 正面に「折り」が見えます  右側の高所も郭跡(二の丸)のようです




西側の堀と土塁を南方(折りの手前)から北方に 




西側の折りの部分の堀と土塁




西側の堀と土塁を南方(南西隅の手前)から北方に 




南西隅の堀と土塁

一応、2度目の訪問ではありますが、3回(3日)も行く羽目になってしまいました。1回(1日)では用が足りずに2回、
3回と行ってしまいましたが、あくまでカウントは3回(3日)で1度扱いです。無論3回とも写真は撮ったのですが、ここ
ではそのうちの、自分的に納得いくものを使いました。

散策日:平成30年(2018)10月2日(火)ほか

縁切寺 満徳寺(群馬県太田市)

2019年01月19日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:縁切寺満徳寺遺跡
指 定:県指定史跡(昭和31年〔1956〕6月20日指定)
所在地:群馬県太田市徳川町(旧新田郡尾島町)

■ 縁切寺満徳寺遺跡
 徳川満徳寺(まんとくじ)は、江戸時代に鎌倉東慶寺(とうけいじ)と並んで女性を救済するという縁切りの特権を認めら
れた尼寺です。満徳寺の由緒書等によれば、鎌倉時代、徳川氏の祖新田(世良田・徳川)義季(よしすえ)を開基とし、義季
の娘浄念比丘尼(じょうねんびくに)を開山として創建されたと伝えられます。代々の住職は新田氏一族の子女が住持となり
ました。新田氏の衰退と共に荒廃していきましたが、天正19年(1591)徳川家康より徳川郷内に朱印地(しゅいんち)
100石を拝領し、衰退していた寺を復興させました。大阪夏の陣(1615)の後、2代将軍徳川秀忠の娘千姫が豊臣家と
縁を切るために入寺(実際は待女が入寺)し、離婚後再婚した例にならい、縁切寺法の特権が幕府に容認されたと伝えられま
す。明治5年(1872)廃寺となりました。現在、縁切寺満徳寺遺跡公園として、本堂・門・庭園等を復元し、資料館を開
設して一般公開をしています。
                              《太田市ホームページ 太田市の文化財 より引用》

広い駐車場も整備されていますし、園内には「縁切寺満徳寺資料館」(入館有料)が併設されています。




縁切寺満徳寺東側にある「駆込門」(復元)  ここからは入園できません。
門前に「縣指定史跡 徳川 満福寺」の標柱があります




駆込門の左方の竹垣前に設置されている「縁切寺満徳寺」説明板




遺跡公園南側にある入口を入った所にある「縁切寺満徳寺遺跡公園案内図」  イラストでとても分り易い案内図です




案内図の傍らには「尾島かるた」の立て札  ま 満徳寺 日本で二つの 縁切寺




「縁切寺満徳寺資料館」
資料館を見学すると遺跡公園を見る時間がなくなってしまうので今回はパス




竹垣の向こうが縁切寺満徳寺遺跡公園




縁切寺満徳寺遺跡公園出入り口   閉園になると鎖が掛けられるようです
園内を見学していると職員の方が「あと5分位で締めますから」とわざわざ連絡に来てくれました
陽も落ち始めていましたし、そんなことで途中からは急ぎ足での見学
そんな中、新たな見学者が入って来ましたが見学できたのでしょうか?




立て札の先が「土蔵跡」




園内全体に礎石で建物跡を表示しています




本堂の南側にある「庫裡跡」




「寺役場(寺役所)跡」




園内南側の状況




「隠居所跡」




「満徳寺旧本堂」を南西から




南方から




「満徳寺旧本堂」(復元)




「満徳寺旧本堂」説明板




「中門」(復元)を本堂側から




「中門」を駆込門側から




「駆込門」(復元)




園の外から竹垣越しに見た「満徳寺旧本堂」

散策日:平成30年(2018)10月6日(土)

世良田東照宮(群馬県太田市)

2019年01月17日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:東照宮
通 称:世良田東照宮(せらだとうしょうぐう)
祭 神:徳川家康公(東照大権現)
社 格:旧郷社
創 建:寛永21年(1644)
本 殿:一間社流造
指 定:国指定史跡(名称「新田荘遺跡 東照宮境内」 平成12年〔2000〕11月1日指定)
所在地:群馬県太田市世良田町(旧新田郡尾島町)

『東照宮の創祀】
寛永16年(1639)天海大僧正は徳川家康公から御下命されていた長楽寺を臨済宗から天台宗へ改宗復興。三代将軍家光公は
先祖の遺徳と当地方の守護神として、二代将軍秀忠公造営の日光東照宮奥社(神廟=多宝塔 ・唐門・拝殿)を移築。本殿は新
築し、東照宮を勧請された。同21年(1644)10月11日には正遷宮が盛大に斎行され、同年12月には群馬県下の神社で
も高禄の200石の御朱印が寄せられた。以後、大小15回による社殿の修復は幕府の財政により賄われて来、世に 「お江戸見た
けりゃ世良田へござれ・・・」と俗謡を生んだ。   (『世良田東照宮公式サイト』(HP)内 由来から引用)




「御黒門」(縁結び門)に建てられている「国指定史跡 新田荘遺跡 東照宮境内」の石標
東照宮境内は、「新田荘」に関連する寺社境内・館跡・湧水地など11の遺跡から構成される国指定史跡新田荘遺跡のひとつ。




良縁が成就する門だそうです




「東照宮」説明板  




東照宮境内案内図




境内社「日枝社」 放物殿の東側に鎮座




日枝社の由緒




御黒門を入ったすぐ左側にある「上番所」(再建)




上番所の説明板




御黒門から境内を




「手水舎」




「鉄燈籠」(国重文)




元和4年(1618)総社藩主秋元越中守長朝が家康公から受けた恩顧に対する報恩から、児玉の鋳物師・中林仲次に依頼して鋳
造したもので、高さ4.95mの当時とすると 日本一大きい鉄燈籠。明暦4年(1658)長朝の曾孫喬朝が奉納したもの。

秋元長朝といえば、はじめ庁鼻和(深谷)上杉氏に仕え、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐のときは、主君氏憲に
代わり深谷城を守備しました。前田利家らの深谷城攻めに際し、城下を戦禍から守るため、杉田因幡と謀り、城を明け渡して
深谷を兵火から守りました。その後、徳川家康の家臣となり総社藩主にまで出世。家康には可愛がられていたようで、それに
応えたひとつが、この鉄燈籠の奉納なのかもしれません。長朝の子孫は川越城五万石、次いで山形城・館林城六万石に転じ、
老中なども勤めて幕末を迎えています・




「御供水井戸」  御宮へお供えする水を汲み用いた井戸 平成15年に再建
 



石鳥居




拝殿参拝場所




「拝殿」




拝殿背面  今回は時間の都合で、本殿(宝物殿を含む)拝観(有料)をしませんでしたので、以前に拝観した際の写真で




「本殿唐門」と本殿を囲む「透し塀」




再び境内から拝殿を




境内社「稲荷社」




「真言院井戸」




「真言院井戸」説明板




「真言院井戸」




「普光庵跡」




「普光庵跡」説明板




「普光庵跡」




境内にある諸々の説明板な中から境内図を




「尾島かるた」  休憩所の前にありました




「南御門」




「南御門」説明板

世良田の東照宮は今回が2度目の参詣でした。新田荘の史跡巡りの一環として再訪しましたが、前回は「神社仏閣」のカテゴ
リーでの投稿でした。今回は「史跡・文化財」のカテゴリーでの投稿です。同じ場所を同じように見て来ただけなのに何故?  
はい、それは訪問主旨・視点の違いからです(笑)

散策日:平成30年(2018)9月19日(水)

考古学セミナー「スポーツと考古学」

2019年01月14日 | 講演会・講座


平成30年度 ほるたま考古学セミナー
 「スポーツと考古学」
日時:平成31年1月12日(土) 10:30~15:30
会場:熊谷市立文化センター 文化会館ホール
主催:公益財団法人 埼玉県埋蔵文化財調査事業団
共催:埼玉県教育委員会

セミナー内容:
はじめに 「観客と競技の場」  田中広明氏(埼玉県埋蔵文化財調査事業団)
講 座 1  「弓で矢を射る」   劔持和夫氏(同 上)
講 座 2  「人馬一体」     堀内紀明氏(同 上)
講 座 3  「縄文人、海へ山へ」 黒坂禎二氏(同 上)
特別講演 「相撲人の誕生」   塚田良道氏(大正大学文学部教授)

を聴講してきました。

古墳や遺跡等の発掘調査での出土品や壁画等から、スポーツの起源を探るといった内容のこれまでとは一味違った切り口での
考古学講座で、大変勉強になりました。

なお、「ほるたま」とは「埼玉を掘る」の意味とのこと・・・想像どおり




会場の熊谷市立文化センター と 本セミナーのチラシ




開城少し前の文化会館ホール入口の模様
講演中の写真はありません(会場内の撮影、録音は禁止)




セミナー資料と蓮田市新井堀の内遺跡の埋蔵銭が印刷されたクリアホルダー

聴講日:平成31年(2019)1月12日(土)

長楽寺 ②(群馬県太田市)

2019年01月13日 | 史跡・遺跡・文化財


長楽寺本堂の山門

前記事の長楽寺①の冒頭で、長楽寺は、臨済宗の祖栄西の高弟栄朝(えいちょう)を開山として、承久3年(1221)に創建さ
れた「東関最初禅窟(とうかんさいしょぜんくつ)」であるとの太田市のホームページにある解説文を引用させていただきま
した。また、下の写真「長楽寺」の説明板にも同様の記載がなされています。
栄朝は、この長楽寺開山以前の建久8年(1197)に、後鳥羽天皇からの勅命により、現在の埼玉県比企郡ときがわ町西平にあ
る慈光寺の塔頭(当時)として「拈華山 霊山院(ねんげさんりょうぜんいん)」を開山しています。この栄朝が勅命を受けた
際には後鳥羽天皇から「東関最初禅窟」(東日本最初の禅寺)の勅額を賜っています。その後、霊山院を離れて長楽寺を開山
しているわけで、東日本最初の禅寺は霊山院と考えられますが、長楽寺にあっても東日本最初の禅寺と称しています。これは、
後鳥羽天皇から「東関最初禅窟」の勅額を下賜された栄朝が開山であったことから長楽寺もそのように称しているのかも知れ
ません(あくまで根拠のない推論ですが)。また、長楽寺に勅使門があるように霊山院にも勅使門があります。霊山院を兄に
例えるならば長楽寺は弟のような関係にあります。しかし、現在での知名度では長楽寺の方が勝っています。 
またまた横道に逸れてしまいました。
なお、日本で最初の禅寺は、建久6年(1195)臨済宗の祖栄西の開山による扶桑最初禪窟・聖福寺(しょうふくじ)のようで
す。




「長楽寺」説明板




「鐘楼」




「長楽寺 本堂」




本堂に架かる扁額はそのものずばり「本堂」
浄財箱には、新田氏の家紋「大中黒」と、徳川氏の家紋「三つ葉葵」 
徳川家康も徳川(新田)義季の末裔を自称するなら「大中黒」を使えばよかったのに・・・




本堂を横から




「徳川義季公累代墓」の石標  徳川氏の墓所  文殊山と呼ばれる小高い丘の上にあります




沢山の墓石があるようですが、欠損だらけです。




「宝塔」




「宝塔」説明板




「新田公並に一族徒臣供養塔」




「新田公並一族徒臣忠霊供養塔」説明板




「開山堂」  左にちょっとだけ写っているのが「逆竹」




お堂全体を  使われていないとそれなりに老朽化していくようで・・・





扁額「開山堂」




「新田家累代墓(新田岩松氏)」石標  




墓所は石の玉垣で囲繞されていて立ち入り禁止となっています。玉垣の上から撮りましたが誰の墓なのか全く分りません。
この墓石の形からすると江戸期初頭あたりのものでしょうか(自信なし)




新田荘歴史資料館の駐車場端複数の案内板




各所で見かける「新田荘遺跡案内図」  陽当たりがよいためか大分褪色しています




案内板の間の道を進んだ所にある「大光庵」




おなじみ「尾島かるた」 ろ 炉の湯で お点前 大光庵




「新田荘歴史資料館」敷地入口




入ってすぐの所に「歴史公園案内図」




「新田荘歴史資料館」




「新田義貞公之像」
鎌倉の稲村ヶ崎にて義貞公が戦勝を祈願して海に太刀を投じる姿の像です




ちょっと横から




下からお顔を




台座の「新田義貞公伝」 生まれてから福井の藤島において38歳で没するまでの活躍が記されています




最後に後ろ姿で・・・

散策日:平成30年(2018)9月19日(水)

長楽寺 ①(群馬県太田市)

2019年01月11日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:世良田山 真言院 長楽寺
宗 派:天台宗
創 建:承久3年(1221)
開 基:徳川義季
御本尊:釈迦三尊
指 定:国指定史跡(名称「新田荘遺跡 長楽寺境内」平成12年〔2000〕11月1日指定)
所在地:群馬県太田市世良田(旧新田郡尾島町)

■ 新田荘遺跡(長楽寺境内)
 世良田山真言院長楽寺(せらださんしんごんいんちょうらくじ)は、新田氏の祖新田義重(にったよししげ)の子、徳川
(新田)義季(よしすえ)を開基とし、日本臨済宗の祖栄西の高弟栄朝(えいちょう)を開山として、承久3年(1221)に
創建された「東関最初禅窟(とうかんさいしょぜんくつ)」です。
 鎌倉時代は、約6万坪の境内に塔頭寺院(たっちゅうじいん)が軒を並べ、多くの学僧が兼学修行に励んだといわれます。
室町時代の初期に日本五山十刹(ござんじっせつ)の制度が成立すると、長楽寺は十刹の第7位になりました。しかし、新
田氏の衰退とともに長楽寺も荒廃してしまいました。
 徳川家康は、天正18年(1590)小田原北条氏攻めの功により、関東の地を与えられました。そこで、祖先開基の寺とす
る長楽寺を、天海(てんかい)大僧正を住職として復興に当たらせ、寺領100石を与えました。天海は臨済宗から天台宗に改
宗し、境内を整備し、伽藍(がらん)を修復し、幕府庇護のもと末寺700寺有余の大寺院に成長させました。
 現在、境内には文殊山(もんじゅやま)の中世石塔群や蓮池、江戸時代の建物である勅使門(県重文/ちょくしもん)、三
仏堂(県重文)、太鼓門(県重文/たいこもん)、開山堂などがあります。
                              《太田市ホームページ 太田市の文化財 より引用》




「国指定史跡 新田荘遺跡 長楽寺境内」の石標
長楽寺境内は、「新田荘」に関連する寺社境内・館跡・湧水地など11の遺跡から構成される国指定史跡新田荘遺跡のひとつ。




「長楽寺の勅使門」説明板
勅使門ですからその名の通り、天皇や天皇(幕府)の勅使のための門ですから一般人はこの門は利用できません。




勅使門の右側にある「総門」 山号「世良田山」と揮毫された扁額が架かっています。
実は、勅使門、総門の前の道路を穴を掘っての工事中で、撮る位置もままならないうえ、重機や作業員が入ってしまったりと
写真を撮るのもやっとの思いでした。
総門を入っていけば長楽寺本堂の山門前に至るのですがご覧のとおりですから。




「境内名勝原図」  現況とは違いますし、色褪せていて見るのも大変です




勅使門内側(裏側)  表同様に囲いが設けられています 開けることも通ることもない門ですし、保護も必要ですから。
他の寺院にある勅使門も似たような措置が採られています




「渡月橋」(半分しか写っていませんが)と「蓮池」
蓮池は干しあがって雑草だらけになっています。地下水の枯渇が原因のようですが、手を打つにしても国指定の史跡の一部だ
けに色々と面倒な問題があるようです。




「長楽寺の蓮池と渡月橋」説明板




渡月橋の向こうに見えるのが勅使門 そして背後には「三仏堂」が控えています




「長楽寺三仏堂」 釈迦、阿弥陀、弥勒の過去・現在・未来の三世仏が安置




「顕密禅」と揮毫された扁額  よくはわかりませんが、天台宗の教えの言葉からきているようです。




「長楽寺三仏堂及び太鼓門」説明板




三仏堂の西側の道路を隔てたところにある「太鼓門」  楼上に太鼓がかけられ行事の合図にしていたとされる

この長楽寺界隈の散策は、平成20年(2010)4月以来2度目でしたが、長楽寺で見てきたのは最後の太鼓門だけでしたから、
実質、長楽寺に関しては初めての散策と言ってもよいでしょう。 長楽寺本堂は、その②で・・・

散策日:平成30年(2018)9月19日(水)

冠稲荷神社(群馬県太田市)

2019年01月09日 | 神社仏閣


名 称:冠稲荷神社(かんむりいなりじんじゃ)
主祭神:稲荷大神(宇迦之御魂大神ほか4柱の総称)など
創 建:天治2年(1125)
創建主:源義国
所在地:群馬県太田市細谷町(旧太田市)

■ 御由緒
古墳時代六世紀より千五百年の間、義経公 冠奉安を始め、数々の歴史を見つめ、祭祀祭礼が行われてきた宮の森。
冠稲荷神社は、平安時代の天治二年(1125)、新田氏の始祖 新田義重公の父、源義国公創建と伝えられ、伏見、豊川、信田、
王子、妻恋、田沼と合わせ、日本七社のひとつといわれてる。
承安四年(1174)源義経公は奥州下向の折、当社が源氏ゆかりの社であることを知り、冠の中に勧請(かんじょう)してきた
京都伏見稲荷大社の御分霊を奉斎。
また、時を経て、新田義貞公は元弘三年(1333)鎌倉幕府討伐の兵を挙げるにあたり、当社神前にて兜の中に神霊の来臨を請
い戦勝を祈願されたと伝えられてる。
この故事にちなみ、いつしか冠稲荷大明神と人々から呼ばれるようになったという。
                             (リーフレット「日本七社 冠稲荷神社」より)

この冠稲荷神社も、新田義貞など源氏、新田氏の関係する神社だと知り参詣してきました。無論、城館跡ではありませんから
遺構はありませんが、思っていた以上に大きな神社で驚きました。
個々について説明を入れればよいのでしょうが、あまりにも対象が多いために写真も原則1枚づつで名称のみのコメントです。




甲大鳥居(きのえおおとりい)」




冠稲荷神社の祭神・祭日が記された看板




「御由緒」




冠稲荷神社の太田市指定文化財を紹介した説明板




「甲大鳥居」説明板    他にもいろいろな看板・説明板が建てられています




冠稲荷神社境内の様子の案内板




上記案内板から境内図をアップで




「猿田毘古社」




「東鳥居」  ティアラグリーンパレス(結婚式場)に至る鳥居




「辰巳参道」  右側に駐車場があります




「辰巳鳥居」




「辰巳鳥居」に架かる神額




「手水舎」




「月夜見宮(つきよみのみや)」




[縁結びの桜]  縁結びの御神木とされているようです




「戌亥鳥居(いぬいとりい)」




「戌亥参道」  沢山の鳥居や石祠が並んでいます




「庚申塔」  横にに見えるは「神馬塔」で神馬ティアラ 神霊璽標




「南鳥居」と「南参道」  冠稲荷神社社殿に正対しているのはこの鳥居と参道ですので、表参道と言ってもよいでしょう。




タモリさんが「ブラタモリ」の番組の中で塗ったようですね。でも、塗った場所はここではないようです。
神額の裏には、塗装協力者として「森田一義」と入っているそうです。
これに限らず有名な方が訪れたり、関係したものがあると、それが売りのひとつになりますね。タモリさんは同番組で長瀞に
も行っていますが、その時の写真のポスターが長瀞駅前の観光案内所や商店等に貼られていました。




南鳥居の「神額」  タモリさんが塗ったのはどのあたり  まさか印を付けておくなんてできませんよね




「南参道」  右側に保育園舎があります




南参道の二の鳥居




「手水舎」   源義経ゆかりのご神水だそうです




「実咲社(みさきしゃ)」




「冠稲荷神社拝殿」と拝殿前にある「ご神水」




「源義経公ゆかりのご神水」説明板   




「拝殿」




拝殿の「扁額」




「新田義貞公お手植えの金木犀」
写真とタイトルが違うとお思いでしょう。実は、義貞公が鎌倉幕府討伐の戦勝祈願にこの社を訪れ、吉祥の木とされる金木犀
を手植えしたと伝わるようです。その推定樹齢600年の金木犀の大樹の写真を撮るのを失念してしまいました。どこかに写り
込んだ写真はないかと見たところ、この拝殿を斜めから撮った写真に半分だけ写っていました(売店の後ろ)。まあ、不本意
ではありますが、敢えてこの写真を「新田義貞公お手植えの金木犀」ということに・・・




「本殿」




本殿の東西に「拝観台」が設けられていますので、上から本殿の彫刻を観たり撮影できたりします。
また、透かし塀の3面にはそれぞれの面の彫刻の写真パネルが取り付けてあります。
この写真は、拝観台から撮った西拝観台から撮った本殿右側面の彫刻。




こちらは東拝観台から撮った左側面と背面の彫刻




これも御神木でしょうか?




「社務所」  左の建物は売店




「彦九郎の松」  寛政の三傑の一人高山彦九郎がこよなく愛し、彼の亡き後、生家とともに移植されたとのこと
新田義貞には松に関係した言い伝えが多いことから、この松も新田義貞ゆかりのものかと思ったら違いました




「聖天宮」の鳥居




「聖天宮」




「聖天宮」宮殿内




稲荷神社の神紋「抱き稲紋」の中央に「冠」と入った神紋




「七福神殿」




「諏訪社・神楽殿・八坂社」




「厳島社」




「厳島社」社殿内




「菅原社」




「白狐社」




「琴平社」




県の天然記念物に指定されている樹齢四百年の「冠稲荷のボケ」

桜や、ボケ、ツツジの策春先に訪れればさぞかしきれいな光景を目にすることができるのでしょうが、今回は冠稲荷神社を訪ね
た主旨が違いましたので、機会あればそうした季節に・・・

散策日:平成30年(2018)10月6日(土)

堀口 賀茂神社(群馬県太田市)

2019年01月07日 | 神社仏閣


社 名:賀茂神社(堀口賀茂神社)
御祭神:賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)
鎮座地:群馬県太田市堀口町(旧新田郡尾島町)

堀口氏館を訪ねるにあたり目標地にしたのがこの賀茂神社でした。正直、社殿が特別に立派とかと、文化財指定を受けている
などいったことではなく、興味を抱く神社だったものですから少しだけ寄ってきました。

境内の道路沿いには、「庚申塔」、「御嶽山・八海山・三笠山」、「二十二夜塔」等が並んでいます。




鳥居は2基あります




拝殿  ガラスサッシ戸ですから失礼ながらとても立派とは言えませんが・・・




拝殿の扁額「賀茂神社」




横から見るとこんな感じです   木の脇の立て札に注目!




「堀口の獅子舞」についての説明板ですが、冒頭部分に
”新田義重が久安年中(1150頃)京都の賀茂大神を勧請したものと伝えられる”
とあります。
新田義重(源義重)は八幡太郎義家の孫にして、新田氏本宗家の初代。義重の7代後があの新田義貞です。
ここ新田荘は、どこに行っても新田氏関連のところだらけですが、ここも新田氏というわけでしたので否が応でも興味を。




本殿
質素な拝殿(失礼)に比べて立派な造りです(素人目でですが)




右側面の彫刻  




背面の彫刻   左側面は板で覆われていて見えません




玉垣の隙間から本殿正面を




本殿の背後に並んでいる祠群




左手の方には末社の祠が並んでいます




拝殿の鬼瓦には「二つ葵」が・・・葵は賀茂神社の神紋ですからね

ということで、本来は目標物であった堀口の賀茂神社も散策(参詣)対象になりました。

散策日:平成30年(2018)10月6日(土)