「嵐山時代まつり」を見学してきました。
正しくは「嵐山まつり」の中のイベントの一つに「時代まつり」があります。見学の主たる目的が
「時代まつり」でしたので、勝手に「嵐山時代まつり」としました。
この写真は、国立女性教育会館の敷地内に設けられため「嵐山まつり」のメイン会場です。
まつりのメイン会場には午前9時に着きましたが。既に会館内の駐車場は満杯で、臨時駐車場にな
っていた近くの学校に駐車。
武者行列の出陣までは時間がありましたが、出陣場所となる「菅谷神社」に行ってみました。
誰もいません。実はこのとき、武将や兵たちは某所で待機していたのでした。
武者行列の出陣場所である菅谷神社です。まだ見物人もいませんが参道両側にはロープが張られて
います。
菅谷神社の境内に集結した武者行列の参加者
拝殿では出陣に先立ち「三献の儀式」 が行われました。昔、出陣の際は必ず行われていたようです。
藤色の鎧をまとったのが総大将。緑の2名が副将だそうです。
出陣(武者行列)の準備が整ったようです
火縄銃鉄砲隊【川越藩火縄銃鉄砲隊保存会】
参道で火縄銃の演武が行われました
火縄銃の演武が終え、メイン会場(国立女性教育会館)に向けて出陣です
鉄砲隊も続きます
武者行列のコースである嵐山町立菅谷中学校脇の道路の両脇にフェンスです
武者行列の絵が描かれています。更に上には 刀と弓矢のフェンスです
(菅谷神社に向かう途中で撮ったもので、一部です)
メイン会場(国立女性教育会館)前まで来ました
国道254号バイパスは歩道橋を渡って反対側に・・・
さてここで偏屈爺のたわごとです。
兵たちの旗印は「三つ鱗」となっています。この「三つ鱗」は「北條家(後北條)」の家紋です。
嵐山町にゆかりの武将は、「畠山重忠」、「木曾義仲」で、まつりスタッフの着ていた祭り半纏の両襟にはこの
二人の名を入れていました。
「畠山重忠」の紋は「五三の桐紋」等、「木曾義仲」は「笹竜胆門」です。なぜこの2武将の紋が使われず「三つ
鱗」なのでしょう?
また、嵐山史跡の博物館(菅谷館跡)入口には普段でも「三つ鱗」の旗が立てられています。と言うとはこの「三
つ鱗」も菅谷館跡(嵐山町)に大きく関係しているのでしょう? 偏屈爺にはその知識が未だありません。
*(後日談)菅谷館は後北条氏も居城として使っていたようですし、今の館跡は後北条氏時代のものとも。
全員無事にメイン会場に着きました
この後会場内を一周して隣の菅谷館跡に向いました
菅谷館「二の郭跡」で再び火縄銃の演武です
火縄銃演武を終え、武者行列参加者全員で記念撮影
この「二の郭跡」では「駒王太鼓」の打奏が行われていました
木曽義仲は、ここ嵐山町で生まれたと伝えられ、幼名を「駒王丸」と名乗りましたが、その駒王丸
からとった駒王太鼓
午後からは「流鏑馬」が行われました。立ち入り禁止入り場所で写真を撮りたいとごねる初老の男。
言う事がいい、「決まった場所だと皆と同じ写真になってしまう。皆と違う写真を撮りたいんだ」。
係員の指示と周囲の非難のまなざしに観念し、指定場所に戻ったものの、今度はロープごと体二つく
らい前に出てしまい、他の人の撮影の邪魔になる。そうでなくても撮りにくい場所なのに、自分さえ
よければの困った男であった。そんなことから折角確保したポジションを放棄して別のところで撮る
ことに。その結果がこれらの写真です。はっきり言って失敗です。
この流鏑馬のことについてあれこれと書くのは控えておきます。楽しけりゃいい(写真は順不同です)
見学日:2009年(平成21年)11月1日(日)