四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

鎌倉街道 上道跡-川越市・小堤-(埼玉県川越市)

2019年08月29日 | 鎌倉街道


名 称:鎌倉道(かまくらみち)
規 模:全長約90m・幅約3m 堀割状遺構
指 定:―
所在地:埼玉県川越市小堤31ほか 川越市民の森第1号内

川越市の市民の森第1号の中に堀割状の鎌倉街道上道の枝道(堀兼道)の一部が遺っているとのことから訪ねて
みました。
川越市民の森第1号は、東洋大学川越キャンパスの東側の道路を挟んだところにあります。
上の写真は、鎌倉道の南端から北方にかけて撮ったものです。




市民の方による手作りの説明板です。こうした説明板があることにより、ここに鎌倉街道の遺構が遺っているこ
とを知るわけで、何もなければただの森として見過ごしてしまいます。有り難いことです。

  鎌 倉 道
この道は鎌倉から府中・所沢・鳩山・児玉を経て、信濃に抜ける鎌倉時代の主要道鎌倉街道上道の枝道です。
狭山市堀兼を通っていることから堀兼道とも呼ばれています。
この先は下広谷の大堀山館跡の東側を経て、坂戸市青木へ続いています。
この森には掘割状に固められた遺構が形よく残っています。
河越太郎重頼も馬に乗って通ったかも知れません。市民の森の中で兵馬が行き来した時代に思いを馳せてみま
しょう。
平成18年8月
   名細歴史散歩の会
   ボランティア市民の森クラブ




堀割状の道を北方に向って歩いています




更に進むと薄暗い道筋になりました  いかにも古道という感じでよいですね




振り返って南方を見ています




堀割り上遺構から東洋大学川越キャンパス方向を見ています




市民の森を北方から




市民の森第1号 隣接する中学校の生徒さんたちが森の中をランニングしていました

散策日:令和元年(2019)5月30日(木)

鎌倉街道 上道跡-坂戸市・青木-(埼玉県坂戸市)

2019年08月25日 | 鎌倉街道


坂戸市には3本の鎌倉街道上道が通っていると言われます(伝承)。そのうちの1本である道筋は、川越市下広
谷方向(大堀山館跡付近)から市内小沼・青木境を通り、赤尾方向への支道(堀兼道)です。
ここに限らず、当時の道筋がそのまま残っているわけはありませんし、開発等により消滅したり道筋が変ってい
る部分も多く、1本の線で結ぶことは不可能です。
ということで、今回も「線」でなく「点」の散策です。

上の写真は、雷電塚古墳の東方約120mの所を南北に走る鎌倉街道跡と伝えられる道路で、坂戸市青木に当たり
ます。
この道路を北進すると赤尾方向に至ります。




これは逆方向の写真です。
何ゆえにこの辺りを散策地に選んだかを簡単に説明しておきます。
あるHPで坂戸市青木地内の鎌倉街道跡について書かれている記事を拝読したところ、この辺りに掘状の長い窪
みがあって、鎌倉街道跡の標柱と古道と説明板がかつて設置されていたことがあるとのことでした。
標柱・説明板については、期限付き条件で設置されたようで、既に何年も前に撤去されたとのこと。

そこで、この近くの場所でお会いした方に、お話を伺ったところ、「今は舗装された道路になっているが、鎌倉
街道跡だと言われていたところがあります。重機が置いてあるところです」と、教えていただきました。




教えていただいた通り(現在の)鎌倉街道跡の道路を南下して行くと、ほぼ90度のカーブとなりましたが、その
コーナーに車両は通行できない直進する細い道がありました。
これが教えていただいた鎌倉街道跡と言われていたその跡のようです。




その細い道に入りました




振り返って見ています (現在の)鎌倉街道跡と直線になっています




先に進みます  道路(舗装)幅は一定しています 堀を埋めて舗装したと十分に推測できます




東西に走る道路が見えてきました




歩いてきた細い道路が終わった所から歩いてきた道を振り返って見ています

写真を撮ることは失念してしまいましたが、東西に走る道路を横断した延長上には細い道はありませんでしたが、
もしかしたら以前は続いていたのかも知れません。




以上の経路を地図上に落としてみました。点線で示した道筋が鎌倉街道上道の支道(堀兼道)跡と考えます。
最初の写真は、B方向からA方向に
2枚目が、A方向からB方向に
3枚目が、B地点
B~C間である4~8枚目が、堀跡を埋めたと推測する細い道路
堀跡を埋めたと推測する細い道路はCで終わっていますが、D方向に延びていたと推測します。そして、その先
は、川越市下広谷・小堤方向に繋がっていたことになります。
この散策の数日後、「坂戸市観光ガイドマップ」を入手しましたので見てみたところ、上図にB印したところに
「∴鎌倉街道跡」と小さく入っていましたので、ここが鎌倉街道上道(支道・堀兼道)の古道跡で間違いないよ
うです。あくまで伝承の域ではありますが・・・

散策日:令和元年(2019)5月30日(木)

鎌倉街道 上道跡-鶴ヶ島市・町屋-(埼玉県鶴ヶ島市)

2019年08月21日 | 鎌倉街道


鶴ヶ島市町屋地内に鎌倉街道(上道)の掘割状の古道跡があるとのことで散策して来ました。
その存在については、かなり以前から知っていましたし、場所については、東武越生線西大家駅の近くであり、
鎌倉街道の案内板があるとのことでした。
そして、例のごとく下調べもせずに出かけたたものですから、すんなり見つかるわけもなく、だいぶ歩き回っ
てどうにか見つけたという次第です。

上の写真の赤線の部分が、その掘割状の古道跡の一部です。西大家駅を起点にして、鶴ヶ島市町屋地内の鎌倉
街道跡の写真を下に載せておきます。




「西大家駅」 西大家駅の住所は坂戸市森戸ですが鶴ヶ島市町屋に接しています。




西大家駅のすぐ右側(東側)にある踏切を渡った左側のブロック塀の脇を水路が流れています。これが鎌倉街道
の古道跡と言われています。
花壇のあるこの場所は坂戸市四日市場です。
四日市場花愛好会と書かれたタンクの前に角材が埋まっていますが、以前、ここに坂戸市教育委員会が設置した
「鎌倉街道跡」という案内板があったようです。




掘割状であった古道がこうした水路に変ったようですが、鶴ヶ島市町屋から繋がって来た古道は、この先、坂戸
市八日市場・毛呂山町・鳩山町・嵐山町・小川町・寄居町方面へと続いて行ったわけです。




花壇の先の駐車場辺りから鶴ヶ島市町屋地内に入るようです。




駐車場の終わった辺りの水路の上に架かる小さな橋の上から南方を見ていますが、ここには堀割状遺構が遺って
います。ここは既に鶴ヶ島市町屋地内に入っています。
このまま進むわけにはいきませんので、斜め脇を走る道から前方に見えた道路方向に向かいます。
その途中に撮ったのが冒頭の写真です。




古道跡掘割状遺構の水路と交差する道路に出てきました
左側のガードレールが先ほどの橋からほんの僅かだけ見えたガードレールです。




そのガードレールの所から駐車場方向を見ています。つまり、2枚上の写真の逆方向ということになります。




右側の幟の立ったフェンスの角に案内板が設置されています。
このガードレールの南側にも水路があります。やはり古道の掘割状遺構です。




鶴ヶ島市教育委員会設置の「鎌倉街道(上道)」案内板
案内板の視認を妨げないようにフェンスの高さを半分にした配慮がされています。




「鎌倉街道(上道)」案内板
鎌倉街道と言えばすぐに思い浮かぶのは畠山重忠ですから




ここから南方向(日高市駒寺野新田方向)に進んでみます




普通に考えると右側の道路が鎌倉街道と思うでしょう
しかし、案内板にも書かれているとおり、本来の鎌倉街道は堀割り状ですから、左側の水路が鎌倉街道掘割跡と
言うことになります。




暫くこのまま進んでみます




ここまで歩いてきて変化が起きました。
進行方向の左側を走る鎌倉街道跡の水路が、右側に変ります。
正しくは、鎌倉街道跡である水路は真っ直ぐに続いていて、現在の道路が右側から左側にクロスしているのです。
このことからも、現在の道路が後世のものであり、水路が鎌倉街道跡と考えられるわけです。




このように進行方向に対して、道路が右側になりました。




道路が左から右にクロスした場所を振り返ってみています




案内板のあった場所からここまでの距離は約400mです




このもう少し先で日高市駒寺野新田地内に入りますがここで西大家駅方向に引き返しました。
この先の駒寺野新田までの分と西大家駅近くの分とを併せると、鶴ヶ島市町屋地内を走っていた鎌倉街道上道は
1km前後のようです。

散策日:令和元年(2019)6月4日(火)

油面遺跡見学会(埼玉県嵐山町)

2019年08月17日 | 企画展・見学会


令和元年8月17日(土)
公益財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団主催
令和元年度 第2回 遺跡見学会   嵐山町 油面遺跡

に参加してきました。

上の写真は、見学会で頂いた資料




遺跡見学会入口
午前9時からの受付でしたが、私が受付に着いた午前9時少し前には第1陣が出発するところでした。
猛暑のため早めの見学スタートにしたようです。




第1号住居跡




第1号住居跡について説明をしてくださる係員の方




中央尾根から南尾根方向を

あまりの暑さでデジカメがトラブル続きでした。


見学日:令和元年(2019)8月17日(土)

稲穂山古墳(埼玉県皆野町)

2019年08月12日 | 古墳


名 称:稲穂山古墳(いなほやまこふん)
別 名:―
墳 形:円墳 竪穴石槨
規 模:径35~40m 高さ7m
築 造:5世紀半ばから6世紀
指 定:―
所在地:埼玉県秩父郡皆野町皆野 ムクゲ自然公園内

稲穂山古墳は、1996平成8年(1996)、石槨の上の盛り土は風化して無くなり茸取りの人に発見されたとのこと




墳丘登り口に設置の説明板




墳頂




蓋石




古墳近くから秩父盆地を望む




ムクゲ自然公園入口ゲート (入園は有料です)
ここを上がった中ほどの所に稲穂山古墳はあります

散策日:平成29年(2017)9月8日(金)

万葉歌碑「崩岸の上に 駒をつなぎて ・・・」(埼玉県飯能市)

2019年08月08日 | 歌碑・句碑


万 葉 歌 :萬葉集 巻十四東歌三五三九 「崩岸の上に 駒をつなぎて  ・・・」
揮   毫 :大野篁軒
建 立 日 :平成8年3月吉日
建 立 者 :飯能市万葉の歌碑を建る会
所 在 地 :埼玉県飯能市阿須 阿須運動公園・万葉広場

飯能市の阿須を詠んだとされる万葉和歌が、巻14東歌3539・3541の2首あると言います。
その一つである巻14東歌3539の歌碑が、飯能市の阿須運動公園の万葉広場に建立されているとのことから訪ねて
みました。




万葉広場の一画に、二基の碑と説明板が並んでいます。




二基の碑が並んでいますので、便宜上、右の大きな碑を主碑 左の小さな碑を副碑と呼びます。
主碑の背面には何も刻まれておりませんので、副碑が主碑の碑陰の役目を果たしていると、私は、理解しました。




【主碑 碑文(歌)】

  安受乃宇敝尓  古馬乎都奈伎弖  安夜抱可等  比等豆麻古呂乎  伊吉尓和我須流

    あずの上に 駒を繋ぎて 危ほかど 人妻子ろを 息に吾がする 

  
 《訓読》 崩岸(あず)の上に駒をつなぎて危(あや)ほかと人妻児(ひとづまこ)ろを息(いき)にわがする
 《大意》 崩れた崖の上に馬をつなぐと危ないように、私も人妻のあの子を命がけで思うのだ。




【副碑 碑文】

  万葉集の東歌二首に歌われている安受(阿須)は後方の崖である。
  前方に入間川、また遠く山並みを望む景勝の地である。
  万葉の詩心が永く受け継がれることを願い、ここに歌碑を建立した。

万葉集には、阿須にちなんだ歌が主碑(歌碑)に書かれた歌のほかにもあり、阿須のことを詠んだものは2首あ
るということのようです。




【副碑 碑陰碑文】

  この歌碑は、阿須共有地権者五十三名の協力により、古典の会、歌人会と共に「万葉歌碑を建てる会」を
  設け、多くの方のご賛同を得て、飯能市地域づくり事業の一環として建てたものである。
   平成八年三月吉日
    飯能市万葉の歌碑を建る会




【説明板】 『萬葉集「安受」の二首』
副碑に書かれている2首について、それぞれの白文と書き下し文および説明が書かれているようですが、褪色し
ており読めません。




歌碑越しに入間川方向を見ています




歌碑は「アズ」=「もろく崩れそうな崖」に向って建てられています。
丁度、木が邪魔していて全体が見えませんが、写真左側の地肌が見える部分がその一部です。




ちょっと位置を変えて見ていますが、崩れた崖がよく見えます。


なお、巻14東歌3541の歌は

 安受倍可良 古麻乃由胡能須 安也波刀文 比等豆麻古呂乎 麻由可西良布母

 《訓読》 崩岸(あず)辺(へ)から駒の行(ゆ)ごのす危(あや)はとも人妻(ひとつま)子ろを目(ま)ゆかせらふも
 《大意》 崩れた崖の上を駒が行くような危ない。そのように恋することは当てにならないと云っても自分の
      思うようにならない娘子の、その娘がまばゆく感じられる。

のようです。

散策日:令和元年(2019)6月20日(木)

万葉歌碑「水久君野に・・・」(埼玉県皆野町)

2019年08月04日 | 歌碑・句碑


万 葉 歌 :萬葉集 巻十四東歌三五二五 「水久君野に ・・・」
揮   毫 :―
建 立 日 :昭和57年11月
建 立 者 :水潜寺?
所 在 地 :埼玉県秩父郡皆野町日野沢 水潜寺境内

水潜寺は、秩父観音霊場第34番、関東百観音の結願寺と云われます。元々は、西国、坂東、秩父各33ヵ所99観音
であったものを、丁度100ケ所にということで水潜寺が秩父34番となったと伝わるようです。
そんな水潜寺を昨年4月に訪ねて沢山の写真を撮ってきました。しかし、思うところあって投稿することはしま
せんでした。
新元号令和の影響もあってか、ここ幾つかの万葉歌碑を訪ね歩いていますが、水潜寺にも万葉歌碑が建立されて
いることを知り、撮ってきた写真を見返してみたところ、単体ではありませんが、万葉歌碑が写っている写真が
ありましたので歌碑部分のみをトリミングしてアップしたいと考えます。なお、たまたま歌碑が写っていただけ
ですから碑陰の写真はありません。




【歌碑・碑文(歌)】

   [萬葉集東歌]

 水久君野尓 可母能波抱能須 児呂我宇倍尓 許等乎呂波敝而 伊麻太宿奈布母

 《訓読》 水(み)くく野に 鴨(かも)の匍(は)ほのす 児(こ)ろが上(うへ)に 言緒(ことを)ろ延(は)へて 
      いまだ寝(ね)なふも
 《大意》 水くく野に鴨が匍うように、あの子にいろいろと声を掛けているのだが未だ寝ていないのだよなあ。


水潜寺とこの歌とにどんなつながりがあるのでしょうか?
ミククとは水くぐり(水込り 水潜り)の意のようで、当寺の奥の院に水くぐり千手観音をまつったのが水潜寺
の始まりとされており、水くく野とは、水潜寺の辺りを指すとの推定・解釈のようです。