埼玉県内を通る「鎌倉街道・上道」の道筋数か所に設置されている 『鎌倉街道(上道)のみちすじ』 とある
大きな案内板には、鎌倉街道・上道と、その道筋沿いや周辺のある56カ所の史跡や社寺等の名称が書かれていま
す。
うち、イラストで紹介された18カ所については、
①鳩峰神社(所沢市) ②小手指ケ原古戦場(所沢市) ③七曲井(狭山市) ④河越氏館跡(川越市)
⑤高麗神社(日高市) ⑥苦林野古戦場(毛呂山町) ⑦赤沼瓦窯跡(鳩山町) ⑧笛吹峠(鳩山町・嵐山町)
⑨菅谷館跡(嵐山町) ⑩仙覚律師遺跡(小川町) ⑪川越岩(寄居町) ⑫鉢形城跡(寄居町)
⑬人見館(深谷市) ⑭人見昌福寺(深谷市) ⑮さらし井(美里町) ⑯一里塚と称される大榎(美里町)
⑰玉蓮寺(本庄市) ⑱金鑚神社・御嶽の鏡岩(神川町)
で、既に「鎌倉街道(上道)のみちすじ」として紹介済です。
今回は、名称のみ書かれている史跡等を紹介したいと思います。
因みに名称のみ書かれたものは、次の38カ所です。
地名は付記・案内板は古いものですから市町村合併以前の市町名が書かれていますので現在の市町名で表記します。
根古屋城・金乗院山口観音・
山口城・
将軍塚(所沢市) 高倉寺観音堂・笹井観音堂・
八幡神社・
三ツ木原古戦場
城山砦跡(狭山市)
聖天院・
女影原古戦場(日高市)
田波目城跡・
万葉遺跡浅羽野(坂戸市)
毛呂城跡・
出雲伊波比神社(毛呂山町)
熊井城跡(鳩山町)
岩殿観音正方寺・
青鳥城跡(東松山市)
小倉城跡(ときがわ町他)
大蔵城跡(嵐山町)
高見城跡(小川町)
花園城跡・
正竜寺・
用土城跡(寄居町)
畠山館跡・
本田館跡・
お茶々が井戸・岡部城跡・華蔵寺・
岡部六弥太忠澄館・
榛沢六郎供養塔(深谷市)
猪俣城跡・
水殿瓦窯跡(美里町)
雉ケ岡城跡・
本庄城跡(本庄市)
安保氏館跡・光明寺・
大光普照寺(神川町)
アンダーラインを入れた史跡等は散策しで写真もありますが、他の8カ所については訪問経験なし・訪問した
が写真は撮っていないなどです。
また、根古屋城については水資源の保護地域としてフェンスで囲まれて立ち入り禁止となっています。
折角ですから、写真のある28カ所についても簡単な紹介をしておくことにしました。
なお、名称については案内板に記載されたものを使用しましたので、指定史跡等での指定名称とは異なるもの
もあります。
この『鎌倉街道(上道)のみちすじ』の大きな案内板を見て散策して歩いたわけでありませんが、結果的には
ここにある史跡等の大部分を散策していたことになりました。
■ 山口城跡 【所沢市】 《県指定旧跡》
山口氏は、平高望を祖とする桓武平氏の流れを汲んだ武蔵七党のひとつ村山党の支族。平良文(村岡五郎)の後
裔である平頼任が武蔵国多摩郡村山(現在の東京都武蔵村山市)を領し村山氏(村山頼任)を名乗り村山党の祖
となる。その子・頼家の子息は入間郡各地に分散し、大井・宮寺・金子を称した。そのうちの一人村山家継が武
蔵国入間郡山口(現在の埼玉県所沢市山口)に在して山口氏(山口家継)を名乗ったのが始めで、その居城が山
口城であった。なお、その子・家信が川越市仙波に居館を構えて仙波氏(仙波七郎)を名乗った。
城跡は、県道55号線の交差点に「山口城趾前」の名称がつけられたのみで長年放置されていた。平成12年(2
000)になり商業地として開発されることとなり、当初は遺構を取り壊して完全に整地される計画であったが、
遺構の保存を求める運動が起こされ、商業地として開発される敷地のうち一部が整備されて保存されることにな
った。
現在は城跡であった部分の殆どは整地されて商業施設となっているが、保存運動によって残存した土塁や空堀の
ごく一部分が保存されている。
■ 将軍塚 【所沢市】
元弘3年(1333)5月8日、群馬県新田町の生品神社(新田義貞挙兵伝説地)から鎌倉幕府倒幕のため挙兵した
新田義貞の軍勢は、11日初戦の小手指河原合戦(所沢市)で鎌倉軍を破り、翌12日に南下した新田義貞と鎌倉幕府
軍との第二戦が行われたのが狭山丘陵東端の八国山の麓の久米川宿周辺一帯であるといわれている。
久米川合戦に勝った新田義貞が塚を築き旗をたてたといわれる将軍塚(所沢市)が八国山にある。標高約190m
の八国山は、駿河(富士)、伊豆(天城山)、相模(箱根・大山)、甲斐(多波山)、信濃(浅間)、上野
(吾嬬)、下野(日光)、常陸(筑波)、の八か国の山が眺められるのでこの名がついたといわれている。
■ 八幡神社 【狭山市】
八幡神社は、源氏の守り神で新田の八幡宮と呼ばれていた時代もあったようです。足利基氏が入間川御陣を構え
る以前の元弘3年の元弘の乱のとき、新田義貞がここ入間川を陣所にしていたようで、鎌倉幕府軍との小手指ガ
原の戦いで決着がつかず一旦入間川に退陣したといわれています。
史蹟 新田義貞駒繋ぎの松 義貞が八幡神社を参拝の折に駒を繋いだようです。
史蹟とありますが、指定史跡ではなく、歴史上の記念物という意味合いでの広義での史跡ということでしょう。
■ 三ツ木原古戦場 【狭山市】
天文6年(1537)7月11日、北条氏綱は川越城を攻略するため、三ツ木に着陣しました。これに対し扇谷上杉
朝定は15日川越城を出陣し、三ツ木原で両軍は争いましたが、朝定合戦は後北条氏方が勝利し、朝定は松山城
へ敗走し、16日川越城は落城しました。
三ツ木原の古戦場では、数々の戦が行われたところらしく、これ以前の元弘3年(1333)の新田義貞と北条高時
軍の戦い、永享12年(1440)上杉持朝が将軍義教の命で結城満朝を討った時の戦いがあったとされます。
三ツ木原古戦場跡は、川越狭山工業団地の南西隅「三ツ木公園」として残っていますが、本来はもっと広範囲で
あったと思われます。
■ 城山砦跡 【狭山市】 《県選定重要遺跡・狭山市指定史跡》 別名:柏原城
城山砦は、天文年間に山内上杉憲政が、後北条氏に奪われた川越城を奪還すべく包囲した際に陣を敷いたとされ
るようです。
城山砦跡については色々な呼び名があり、「柏原城」もそのひとつで、私的には、城のあった場所は大方の所で
「城山」と呼ばれ、一般名詞に過ぎないことから、地名の付いた「柏原城」と呼ぶ方が城を特定しやすいと考え
ます。城山砦跡は、狭山市内では唯一の中世城郭と言われ、高さ10m程の河岸段丘上に築かれた城(砦)で、
本郭・二の郭・三の郭からなって居ます。
天文6年(1537)7月に、小田原北条氏の手に落ちた「河越城」を奪還するために、天文14年(1545)9月か
ら半年近くにわたり、上杉憲政が陣を敷いたのが、この柏原城です。上杉軍が北条氏康に敗れた後は、北条氏の
手に移り、同氏の城として機能したと考えられます。その一方で、鎌倉時代に畠山重忠に従った柏原太郎の館跡
ではないかと言われるようです。また、南北朝時代に鎌倉公方の足利基氏が入間川に滞陣した際の出城とする説
や、明応5年(1496)に上杉顕定が上杉朝良方の河越城を攻めたとき、顕定と手を結んだ足利成氏の子の政氏が
着陣したところともいわれています。
■ 聖天院 【日高市】
高麗山聖天院勝楽寺は、(伝)天平勝宝3年(751)に創建された高麗王若光の菩提寺として創建された。寺号は
若光が高句麗より持参した歓喜天を本尊とすることから名付けられたという。1345年に法相宗から真言宗に改宗。
天正18年(1590)に徳川家康が関東に入国すると、翌年(1592)、寺領として高麗郷内に15石を寄進された。
■ 女影原古戦場 【日高市】 《県指定旧跡》
南北朝時代の建武2年(1335)7月、鎌倉幕府の復興を願う鎌倉15代執権北条高時の遺子時行は、信濃で諏訪
頼重らに擁立され挙兵、建武の新政に不満を持つ武士と合流しながら鎌倉街道を南下鎌倉を目指しました。
そして7月22日、それを阻止しようとする足利直義軍と初めて合戦に及んだのが女影原でした。
この戦で時行軍は直義軍に勝ち、その後も小手指原・府中などでも直義軍を破り7月25日に鎌倉を占領しまし
た。この一連の戦乱を「中先代の乱(なかせんだいのらん)」といいますが、僅か20日程度で足利尊氏に攻めら
れ、時行は鎌倉から敗走しました。
■ 田波目城跡 【坂戸市】 《県選定重要遺跡》 別名:多波目城
坂戸市内においては最高位を示す標高133mの丘陵上の平場を利用してに築かれた中世の城跡。城跡の南側は険
しい断崖となって、眼下には高麗川が流ています。
城跡に配水池を作ったことにより城跡の4分の1程が失われています。現在は、南側の崖を除き、土塁と空堀が城
の周囲を囲っていることになっていますが、樹木や草が繁茂しいてよくわかりません。
城の歴史についてはよく分っていません。
■ 万葉遺跡 浅羽野 【坂戸市】 《県指定旧跡》
万葉集巻11‐2763「紅の浅葉の野らに刈る草の束の間も吾を忘らすな」の関連遺跡
歌にある「浅葉の野」とは、現在の坂戸市浅羽とされています。他に静岡県浅羽町、長野県本郷村などの候補地
があるようですが、ここ坂戸市の浅羽を指すとの説が定説になってきているようです。
その歌碑が土屋神社の裏にある土屋公園内に建立されています。
■ 毛呂城跡 【毛呂山町】 別名:山根城
毛呂城は戦国時代に毛呂顕季によって築かれた城です。山根城とも呼ばれています。現在、城跡は宅地化と耕地
化が進み遺構は残っておらず。毛呂駅のすぐ北にある踏切の遮断機脇に山根城跡と刻まれた石碑が建つのみです。
また付近にある妙玄寺は、天文3年(1534)頃に毛呂顕季夫人(顕繁の母)によって創建された寺で、毛呂一族
の供養塔が残されています。
なお、1kmほど離れたところにある長栄寺が「毛呂顯季館跡」とされています。
■ 出雲伊波比神社 【毛呂山町】 《国指定重要文化財:本殿(附:棟札2枚)》
創建について、社伝(『臥龍山宮伝記』)では、景行天皇53年に日本武尊が天皇より下賜された鉾を奉納して大
己貴命を祀ったのち、成務天皇の代に武蔵国造がアメノホヒを合祀して出雲伊波比神としたとされる。
源義家が奉納したものが発祥とされる流鏑馬が春秋の2回開催される。春は7歳未満の男児が騎乗して1度だけ矢
を射る儀式(願的)をおこなうものである。本格的な騎射(夕的)が実施されるのは秋の本祭りで、こちらは15
歳程度の少年が騎乗し、3頭の馬(祭礼区ごとに1頭)による3回の騎射がおこなわれる。
この写真は、秋の流鏑馬の時のものです。
■ 熊井城跡 【鳩山町】
新編武蔵風土記稿の熊井村の項に「妙光寺のあたりをいい、城跡というが詳しいことは分からない」と記されて
いるようで、この妙光寺を熊井城の比定地としています。
お堂の前に建てられた石碑にも〔平成10年には、当山は「城添遺跡」として、鳩山町教育委員会によって本格
的な発掘調査が行われました。その結果、熊井城跡と称される館跡(年代は不明)と土塁の一部や、また江戸時
代の領主であった内藤氏が延宝7年(1679)に築いた陣屋跡などが発見されました。〕と記されています。
裏山には土塁らしき遺構が多数ありましたが、当時のものかの特定できませんでした。
■ 岩殿観音正方寺 【東松山市】 ※正しくは正法寺
養老2年(718年)、沙門逸海により開山されました。岩殿山の峰の岩窟に本尊千手観音を安置し、傍らに正法庵
と号した草庵を結んだのが始まりです。その後、延15年(796年)桓武天皇の勅命によって伽藍が造立されまし
た。
鎌倉時代には、源頼朝の妻、北条政子の守り本尊として、源頼朝の庇護のもと比企能員が復興、一山六十余坊を擁
し、坂東三十三観音霊場の第十番札所の命を賜りました。能員が北条時政のために自害をせまられて死去すると、
その嫡子時員は追手を逃れて出家し、この寺を守りました。 【岩殿観音正法寺ホームページ 歴史の項より引用】
■ 青鳥城跡 【東松山市】 《県指定史跡》
比企丘陵と岩殿丘陵に挟まれた東松山台地上にあり、城の南方1kmには都幾川が流れている。城の南端に一辺約
100mの方形の本郭があり、それを取り囲むように北に二の郭・三の郭が広がる。中世城郭としては巨大なもの
である。築城の年代は現在不明であるが、源頼朝や太田道灌が陣を敷いた場所だと伝わる。
戦国時代には武蔵松山城を攻める北条氏康方の城として機能したと思われますが、いったん廃城になりました。
その後、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐において前田利家が廃城となっていた青鳥城跡に陣を置
き、武蔵松山城を攻めました。現在、城跡には土塁や空堀などの遺構はあるものの整備はされておらず、また大
部分が私有地のため自由に見学できる部分はかぎられています。
これ以降は「鎌倉街道(上道)のみちすじ Ⅱ-2」 にします。