四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

万葉歌碑「入間道の 大家が原の・・・」(埼玉県越生町)

2019年07月31日 | 歌碑・句碑


万 葉 歌 :萬葉集 巻十四東歌三三七八 「入間道の 大家が原の ・・・」
揮   毫 :上林猷夫(元日本現代詩人會會長)
建 立 日 :平成8年5月吉日
建 立 者 :越生町教育委員会
所 在 地 :埼玉県入間郡越生町越生 越生町立図書館前

萬葉集 巻十四東歌三三七八に歌われている「大家が原」がどこか不確かですが、入間郡内で「大家」「大谷」
「大谷沢」などの地名がのこる場所を推定地・比定地としているようです。
越生町にあっても、「大谷」という地名があることから、同地を比定地として(ここだと言わんばかりかも)い
るようです。
そんなことから、越生町立図書館前に「入間道の 大家が原の ・・・」の万葉歌碑が建立されていますので訪
ねてみました。




越生町立図書館




越生町立図書館前に建立されている万葉歌碑




【碑文(歌)】

  入間道の 大家が原の いはゐつら 
     引かばぬるぬる 吾にな絶えそね     




碑陰




【碑陰碑文】

  日本最古の歌集である萬葉集 巻十四東歌三三七八
  相聞の部 武蔵国の歌。讀人不詳。
  「伊利麻治能 於保屋我波良能 伊波為都良 
   比可婆奴流ゝゝ 和尓奈多要曾祢」

  「現在の埼玉縣入間郡越生町の大谷ヶ原(大家ヶ原)に
  大龜沼があって、そこに生い茂っている水草の蔓を引け
  ば、ずるずると抜けるように、いつまでも私との仲が切
  れないでいて下さい」、という意。
  梅の名所である越生の里に、人を慕う万葉人のやさしい
  心が今も匂っている。

       平成八年五月吉日  上林猷夫書
             (元日本現代詩人會會長)

                越生町教育委員会建立




越生町大谷地内にある「大谷ヶ原萬葉公園」




「大谷ヶ原萬葉公園」案内板
ここの大亀沼が、萬葉集 巻十四東歌三三七八「入間道の 大家が原の ・・・」に歌われている場所の比定地
として公園化したようです。
図書館前の歌碑の碑陰の碑文を読むと、推定地というよりも、ここ大亀沼が歌に詠まれた場所と半ば断定してい
るような内容ですが・・・




大亀沼




大亀沼  鯉(恋)と一緒に亀が泳いでいました

散策日:令和元年(2019)6月20日(木) ・・ 万葉歌碑
            6月21日(金) ・・ 大谷ヶ原萬葉公園

万葉歌碑「入間道の 大家が原の・・・」(埼玉県日高市)

2019年07月28日 | 歌碑・句碑



万 葉 歌 :萬葉集 巻十四東歌三三七八 「入間道の 大家が原の ・・・」
揮   毫 :犬養 孝(文学博士)
建 立 日 :平成元年11月25日
建 立 者 :日高町教育委員会 (現日高市)
所 在 地 :埼玉県日高市大谷沢 JAいるま野高萩南農産物直売所駐車場 (現在の地名:中沢)

国道407号線沿いにあるJAいるま野高萩南農産物直売所の駐車場に、萬葉集巻14東歌3378「伊利麻治能 於保
屋我波良能 ・・・」の万葉歌碑が建立されているとのことから訪ねてみました。
日高市には「大谷沢」という地名がのこり、この大谷沢の地が「大家が原」ではないかと推定しているようです。




JAいるま野高萩南農産物直売所駐車場と万葉歌碑




国道407号線を背にして建立されている万葉歌碑




【碑文(歌)】

  伊利麻治能  於保屋我波良能 伊波為都良  比可婆奴流奴流  和尓奈多要曽祢   孝書

  《大意》「入間道のおほやが原のいわゐ蔓を 引けばぬるぬるとよってくるように あなたと私の仲を絶やさな
     いでください」




「碑陰」




【碑陰碑文】

    万葉の歌碑

   入間道の おほやが原の 
   いはゐつら 引かばぬるぬる 
   吾にな絶えそね

    万葉集巻十四・三三七八の東歌
  で、大谷沢の地方とのかかわりが語
  り継がれている。
   文学博士犬養孝先生揮亳により
  この歌碑が大谷沢の地に建立でき
  たのは、この地に住む人々の郷土
  愛の賜物である。
   文化の香り高いまちづくりをめ
  ざす人々に、万葉の詩心が永く受け
  継がれるよう祈念してやまない。

    平成元年二月二十五日
      日高町教育委員会

散策日:令和元年(2019)6月20日(木)

万葉遺跡大家が原歌碑(埼玉県坂戸市)

2019年07月25日 | 歌碑・句碑


名 称:万葉遺跡大家が原歌碑
指 定:―
所在地:埼玉県坂戸市四日市場325‐3

東武越生線西大家駅から数百メートルの場所に万葉集の歌碑があるとのことから訪ねてみました。

そこは何と某大学の坂戸キャンパス総合グラウンドの門の脇です。この辺りについては全く知らないわけではあ
りませんでしたが、いつの間にこんな大きなグラウンドが出来ていたとは知りませんでした。
花壇には四季折々の花が植えられているようですが、私が訪れたときはたまたまでしょうが花はなく、綺麗に整
地されているだけでした。
歌碑は元からこの場所にあったようですが、グラウンドができる以前は塚の上にあったようです。グランドとの
景観を考慮して塚は取り払ったようです。




下段の大きな石には 大家が原 と刻まれています




【碑文】
  万葉遺跡
     入間道の大家が原
 伊利麻治能 於保屋我波良能
 伊波為都良 比可婆奴流奴流
 和尓奈多要曽祢

  入間道の 大家が原の
  いはゐつら
  引かばぬるぬる
  吾にな絶えそね
      (万葉集巻十四・三三七八)

  この地には古来武蔵と上野を結ぶ古道「伊利麻治」が通っていた。
  平安期の古書「和名抄」に「武蔵国入間郡大家於保也介」と記され
  るこの地が、万葉集の歌枕に残る「於保屋我波良」ときめ長くその
  名を畄ることにした。
    昭和五十七年三月
         坂戸市教育委員会




解説板

万葉遺跡と謳っているものの、ここに何らかの遺跡があるわけではありません。解説板にもあるよう、歌にある
「大家が原」とはここ大家付近と推定されるだけで、確証もないようです。
余談ですが、伊利麻治の「伊利」を苗字とする方がこの地区にお住まいです。
なお、この「入間道の 大家が原・・・」の歌の歌碑は、同じ入間郡市の越生町立図書館、狭山市役所、日高市
大谷沢地内等にも建立されているようです。
越生町には「大谷(おおや)」という地名が、日高市には「大谷沢(おおやざわ)」という地名があり、漢字こ
そ違え「大家」に通ずるものがあります。

散策日:令和元年(2019)5月30日(木)

向日葵

2019年07月24日 | 花・鳥・風景


雨続きの毎日、久しぶりにお日様が顔をのぞかせてくれました。所用で某町の某所に向かう途中、道路沿いの畑
一面に向日葵が咲いているのを見たものですから、所用を済ませて向日葵の咲く場所に。
出かける際に持ち歩いているコンデジで・・・








撮影日:令和元年(2019)7月24日(水)

国宝 大法寺 三重搭(長野県青木村)

2019年07月23日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:大法寺三重搭(たいほうじさんじゅうのとう)
通 称:見返りの塔
建 立:正慶2年(1333)
構 造:三間三重塔婆、檜皮葺
指 定:国宝(昭和28年(1953)3月31日指定)
所在地:長野県小県郡青木村大字当郷

13基ある国宝の三重塔のひとつ(なお、重要文化財の三重塔は43基  国宝の五重塔は9基 重要文化財の五重塔は13基)
この大法寺三重搭が建立された正慶2年/元弘3年(1333)は、元弘の乱により鎌倉幕府が滅亡した年にあたります。






訪問日:平成22年(2010)5月23日(日)

ヤマユリ再び

2019年07月20日 | 花・鳥・風景


再び菅谷城跡にヤマユリを観に行って来ました。最盛期には少し早かったようですが、三ノ郭や本郭にはだいぶ
咲いていました。
大人数ではありませんが、入れ替わり立ち替わり見物客が訪れていました。中には三脚を担いだ方まで・・・




















散策日:令和元年(2019)7月20日(土)

鎌倉街道(上道)のみちすじ Ⅱ-2

2019年07月19日 | 鎌倉街道


■ 小倉城跡 【ときがわ町(旧玉川村)・小川町・嵐山町】 《国指定史跡》
小倉城跡は、菅谷館跡・松山城跡・杉山城跡と共に比企城館跡群として国指定史跡となっていて、外秩父の山地
帯と関東平野の境界にあり、大きく蛇行を繰り返す槻川と山地の自然地形を巧みに取り込んだ天然の要害にあり
ます。
小倉城跡にかかわる同時代の確実な文書は発見されてませんが、江戸時代の『新編武蔵風土記稿』では、戦国時
代の関東に覇を唱えた後北条氏の重臣遠山氏を城主として伝えています。また、『武蔵志』では遠山氏、或いは
上田氏とも伝えています。




■ 大蔵館跡 【嵐山町】 《県指定史跡》
大蔵館跡は、平安時代の末期、帯刀先生源義賢によって築かれたと伝えられています。館跡の四隅にはそれぞれ
土塁が残っています。
久寿2年(1155)8月16日、源義賢はここ大蔵館で甥の悪源太義平に討たれました。この時2歳であった義賢
の子駒王丸は、畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国へ逃れたという。この駒王丸こそがのちの木曽義仲です。




■ 高見城跡 【小川町】 《県指定史跡》 別名:四ツ山城跡
比企丘陵最北部の丘陵部・四津山に築かれた山城で、山頂部全体を城郭化しています。
築城時期は不明。ただし『青木家家譜』に、治承4年(1180)青山城主・青山氏久配下の石井九郎右衛門政綱が
居住したとあります。これが城の始めとみられ。戦国時代に入ると、長享元年(1487)没の増田四郎重富がここ
に居住したと『新編武蔵風土記稿』にあり、増田氏が城主であったようです。その後、山内上杉氏方の属城・鉢
形城の支城となっていたとみられ、長享2年(1488)の扇谷上杉氏・山内上杉氏が戦った高見ヶ原合戦で、この
城は東側の今市台地に陣取った山内上杉方の背後を守る役割を果たしたと考えられているようです。
本郭のあった山頂には現在、四津山神社が鎮座しています。




■ 花園城跡 【寄居町】 《県選定重要遺跡》
平安時代末期、武蔵七党の一つ猪俣党の猪俣政家の子政行は藤田郷に住んで藤田氏を称するようになったが、そ
の居城としていたのが花園城といわれる。その後、戦国時代の天文年間(1532~1554)に、藤田重利(のちの
康邦)が天神山城(長瀞町)を築いて居城を移した後は天神山城の支城として、更に北条氏康に降伏し、養子に
迎えた氏康四男の氏邦が永禄3年(1560)以降、鉢形城を整備して天神山城から居城を移した後は鉢形城の支城
として整備されたと思われます。天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めで鉢形城は開城しましたが、花園
城も同じ運命をたどったと思われる。
花園城跡は数多くの遺構が残る山城ですが、城跡のほとんどは雑木の茂る山林で、整備されていないため攻城に
は難があります。




■ 正竜寺 【寄居町】  ※正しくは正龍寺
中世に栄えた豪族の藤田氏の菩提寺として創立された。
寺院内墓地には北条氏邦夫妻と、氏邦の養父である藤田康邦夫妻の墓が四基並ぶように安置され、埼玉県指定史跡
になっています。
近くには、氏邦の室・大福御前自刃の地があります。




■ 用土城跡 【寄居町】 
用土城は鎌倉街道上道を見下ろす小高いい丘の上に建てられた城で、関東管領上杉氏の重臣であった藤田康邦が
後北条氏に下り、養子に迎えた北条氏康の四男氏邦に家督を譲り、用土に居を構えて用土新佐衛門を名乗ったと
されます。
現在、城跡は開墾されてしまい、城跡には石碑があるのみですが、昭和の初め頃までは堀などが残っていたよう
です。
このように用土新佐衛門は藤田康邦の隠居名とされてきましたが、最近は用土新佐衛門は藤田氏の一族ではある
が、藤田康邦とは別人であるとの説に変ってきています。




■ 畠山館跡 【深谷市(旧川本町)】 《県選定重要遺跡》
武蔵武士の鑑と称さた鎌倉幕府の有力御家人であった畠山重忠が生まれた場所と伝わる館跡です。畠山氏は板東
八平氏の一つ秩父氏の嫡流で、秩父権守重綱の孫重能が畠山荘の開発領主となり、在名の畠山を称しました。
館跡には、畠山重忠と本田次郎親恒ら家臣のものと伝わる墓があります。館跡は、畠山重忠公史跡公園として整
備され、愛馬三日月を背負った重忠の像が建立されています。




■ 本田館跡 【深谷市(旧川本町)】 《県選定重要遺跡》
本田館は鎌倉時代から室町時代にかけて築城されたものと見られています。畠山重忠の重臣本田次郎親恒(近常)
の後裔の方が現在も住まわれており、土塁や空堀が残存しています。




■ お茶々が井戸 【深谷市(旧花園町)】 《市指定史跡》
昔ここに一軒の茶屋があり、「茶々」と呼ばれる美しい娘がいて、お茶の接待をしたので「お茶々が井戸」とい
われるようになったと伝えられています。 しかし古文書によれば、この茶店には「ちょう」という客あしらいの
上手な美しい娘がいて、街道筋で大評判となり繁盛したので、「お茶屋の井戸」と呼ばれたとの記録もあるそう
です。井戸はあまり深くはありませんが、どんな干天でも枯渇したことがなく、この水を汲みほすと雨を招くと
いわれ、干害に苦しむ年には雨乞いのために村人が総出で水を汲み出したとのことです。(現地説明板より)




■ 岡部六弥太忠澄館 【深谷市(旧岡部町)】 
岡部六弥太忠澄は猪俣党の出身で、平安時代末期・鎌倉時代初期の武蔵武士。忠澄の祖父猪俣野兵衛時範が岡部
の地に館を構えたのを機に岡部氏と称するようなった。
忠澄は、治承・寿永の乱の際には、源氏方につき出兵しています。元暦1年(1184)の一の谷合戦では、平家方
の名将平忠度を討ち取ったと伝えられる。
妻は畠山重忠の妹であり、重忠とは義兄弟になります。普済寺が館跡とされ、 忠澄の墓は、普済寺地区にあり、
五輪塔が6基並んでいます。このうち最も大きいものが忠澄のものとされています。




■ 榛沢六郎供養塔 【深谷市(旧岡部町)】 《県指定旧跡》
榛沢六郎成清は、鎌倉時代の武士で、武蔵七党の一つ丹党に属し、父成房の時榛沢の地に移ったといわれる。
成清の母は、畠山重忠の乳母で重忠と成清は乳兄弟の関係にあたる。鎌倉期の乳兄弟は肉親の兄弟よりもつなが
りが深いといわれており、成清は幼少の頃より、重忠の補佐役として仕えた。
供養塔は旧蔵屋敷の一角にあった成清塚に隣接して、享保8年(1723)に建立されたといいます。




■ 水殿瓦窯跡 【美里町】 《国指定史跡》
水殿瓦窯跡は埼玉県県の北西部、上武(じょうぶ)山地から連続する丘陵に囲まれた本庄台地の西南部に位置する
沼上地区にある鎌倉時代の窯跡で、現在までに4基の瓦窯跡が確認されています。ここから発見された瓦は文治
5年(1189)に源頼朝が建立した鎌倉市二階堂永福寺跡から発見された瓦と似ており、この瓦窯跡で焼かれた屋
根瓦(厚手の瓦で斜め格子の叩き目の中に「大」と読める文字のある平瓦や剣頭門の軒平瓦)が寛元・宝治年間
(1243~1249)に実施した永福寺の大改修の際に使用されたものと考えられています。




■ 雉ケ岡城跡 【本庄市(旧児玉町)】 《県指定史跡》
雉岡城は、関東管領山内上杉氏の居城の居城として築かれたが、手狭であったため上州平井城に移り、この城に
は家臣の夏目豊後守定基が入りました。永禄年間には北条氏邦によって攻略され鉢形城の属城となったようです。
天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際には前田利家により落城しました。徳川時代には松平家清が居
城していましたが慶長6年(1601)に三河吉田城に移ると廃城になったと伝えています。
城跡は西側が削平されていますが空堀や土塁が多く残り、現在は、「城山公園(雉岡城跡公園)」として整備さ
れています。




■ 本庄城跡 【本庄市】 《市指定史跡》
武蔵七党の一つ児玉党の庄氏が館を構えて、頼家の時に本庄氏を名乗ったことに始まる。弘治2年(1556)本庄
実忠によって築かれたとされます。
永禄10年(1567)実忠は鉢形城北条氏邦に攻められ落城、氏邦の配下となるが、天正18年(1590)豊臣秀吉
による小田原討伐軍に攻められ落城した。同年、信濃国松尾から小笠原信嶺が一万石でるが、慶長17年(1612)
下総国古河に転封となる。その後は天領となり、一時関東郡代伊丹播磨守が陣屋を築いたこともあるという。
現在は宅地化が進み遺構はほとんど残っておらず 城下公園となっています。




■ 安保氏館跡 【神川町】 《町指定史跡》
武蔵七党の丹党に属する北武蔵の豪族で、鎌倉幕府の有力な御家人であった安保次郎実光に始まる安保氏の惣領
家の居住地と伝えられ、館跡には嘉永元年(1848)には、「阿保氏遺跡碑」が建てられています。
発掘調査により北面の外堀と内堀の一部、掘立柱建物跡、井戸跡などが見つかっています。




■ 大光普照寺 【神川町】 
金鑚大師、または 元三大師の名で知られる 大光普照寺は、聖徳太子の創建で 舒明天皇の勅願寺 と伝えられてい
ます。平安時代初期に、慈覚大師円仁が入山し、金鑚山一乗院大光普照寺と名付けて開基となり、その後、第18
代天台座主金鑚大師(慈恵大師)良源がこの寺に自作の像を安置し、彼の命日が1月3日で没後元三大師と呼ば
れたことから、その名で知られることとなった。

以上

鎌倉街道(上道)のみちすじ Ⅱ-1

2019年07月18日 | 鎌倉街道


埼玉県内を通る「鎌倉街道・上道」の道筋数か所に設置されている 『鎌倉街道(上道)のみちすじ』 とある
大きな案内板には、鎌倉街道・上道と、その道筋沿いや周辺のある56カ所の史跡や社寺等の名称が書かれていま
す。
うち、イラストで紹介された18カ所については、

 ①鳩峰神社(所沢市) ②小手指ケ原古戦場(所沢市) ③七曲井(狭山市) ④河越氏館跡(川越市) 
 ⑤高麗神社(日高市) ⑥苦林野古戦場(毛呂山町) ⑦赤沼瓦窯跡(鳩山町) ⑧笛吹峠(鳩山町・嵐山町)
 ⑨菅谷館跡(嵐山町) ⑩仙覚律師遺跡(小川町) ⑪川越岩(寄居町) ⑫鉢形城跡(寄居町) 
 ⑬人見館(深谷市) ⑭人見昌福寺(深谷市) ⑮さらし井(美里町) ⑯一里塚と称される大榎(美里町)
 ⑰玉蓮寺(本庄市) ⑱金鑚神社・御嶽の鏡岩(神川町)

で、既に「鎌倉街道(上道)のみちすじ」として紹介済です。

今回は、名称のみ書かれている史跡等を紹介したいと思います。
因みに名称のみ書かれたものは、次の38カ所です。
地名は付記・案内板は古いものですから市町村合併以前の市町名が書かれていますので現在の市町名で表記します。

 根古屋城・金乗院山口観音・山口城将軍塚(所沢市) 高倉寺観音堂・笹井観音堂・八幡神社三ツ木原古戦場 
 城山砦跡(狭山市) 聖天院女影原古戦場(日高市) 田波目城跡万葉遺跡浅羽野(坂戸市)
 毛呂城跡出雲伊波比神社(毛呂山町) 熊井城跡(鳩山町) 岩殿観音正方寺青鳥城跡(東松山市) 
 小倉城跡(ときがわ町他) 大蔵城跡(嵐山町) 高見城跡(小川町) 花園城跡正竜寺用土城跡(寄居町)
 畠山館跡本田館跡お茶々が井戸・岡部城跡・華蔵寺・岡部六弥太忠澄館榛沢六郎供養塔(深谷市) 
 猪俣城跡・水殿瓦窯跡(美里町) 雉ケ岡城跡本庄城跡(本庄市) 安保氏館跡・光明寺・大光普照寺(神川町)

アンダーラインを入れた史跡等は散策しで写真もありますが、他の8カ所については訪問経験なし・訪問した
が写真は撮っていないなどです。
また、根古屋城については水資源の保護地域としてフェンスで囲まれて立ち入り禁止となっています。

折角ですから、写真のある28カ所についても簡単な紹介をしておくことにしました。
なお、名称については案内板に記載されたものを使用しましたので、指定史跡等での指定名称とは異なるもの
もあります。
この『鎌倉街道(上道)のみちすじ』の大きな案内板を見て散策して歩いたわけでありませんが、結果的には
ここにある史跡等の大部分を散策していたことになりました。




■ 山口城跡 【所沢市】 《県指定旧跡》
山口氏は、平高望を祖とする桓武平氏の流れを汲んだ武蔵七党のひとつ村山党の支族。平良文(村岡五郎)の後
裔である平頼任が武蔵国多摩郡村山(現在の東京都武蔵村山市)を領し村山氏(村山頼任)を名乗り村山党の祖
となる。その子・頼家の子息は入間郡各地に分散し、大井・宮寺・金子を称した。そのうちの一人村山家継が武
蔵国入間郡山口(現在の埼玉県所沢市山口)に在して山口氏(山口家継)を名乗ったのが始めで、その居城が山
口城であった。なお、その子・家信が川越市仙波に居館を構えて仙波氏(仙波七郎)を名乗った。
城跡は、県道55号線の交差点に「山口城趾前」の名称がつけられたのみで長年放置されていた。平成12年(2
000)になり商業地として開発されることとなり、当初は遺構を取り壊して完全に整地される計画であったが、
遺構の保存を求める運動が起こされ、商業地として開発される敷地のうち一部が整備されて保存されることにな
った。
現在は城跡であった部分の殆どは整地されて商業施設となっているが、保存運動によって残存した土塁や空堀の
ごく一部分が保存されている。




■ 将軍塚 【所沢市】 
元弘3年(1333)5月8日、群馬県新田町の生品神社(新田義貞挙兵伝説地)から鎌倉幕府倒幕のため挙兵した
新田義貞の軍勢は、11日初戦の小手指河原合戦(所沢市)で鎌倉軍を破り、翌12日に南下した新田義貞と鎌倉幕府
軍との第二戦が行われたのが狭山丘陵東端の八国山の麓の久米川宿周辺一帯であるといわれている。
久米川合戦に勝った新田義貞が塚を築き旗をたてたといわれる将軍塚(所沢市)が八国山にある。標高約190m
の八国山は、駿河(富士)、伊豆(天城山)、相模(箱根・大山)、甲斐(多波山)、信濃(浅間)、上野
(吾嬬)、下野(日光)、常陸(筑波)、の八か国の山が眺められるのでこの名がついたといわれている。




■ 八幡神社 【狭山市】 
八幡神社は、源氏の守り神で新田の八幡宮と呼ばれていた時代もあったようです。足利基氏が入間川御陣を構え
る以前の元弘3年の元弘の乱のとき、新田義貞がここ入間川を陣所にしていたようで、鎌倉幕府軍との小手指ガ
原の戦いで決着がつかず一旦入間川に退陣したといわれています。
史蹟 新田義貞駒繋ぎの松  義貞が八幡神社を参拝の折に駒を繋いだようです。
史蹟とありますが、指定史跡ではなく、歴史上の記念物という意味合いでの広義での史跡ということでしょう。




■ 三ツ木原古戦場 【狭山市】
天文6年(1537)7月11日、北条氏綱は川越城を攻略するため、三ツ木に着陣しました。これに対し扇谷上杉
朝定は15日川越城を出陣し、三ツ木原で両軍は争いましたが、朝定合戦は後北条氏方が勝利し、朝定は松山城
へ敗走し、16日川越城は落城しました。
三ツ木原の古戦場では、数々の戦が行われたところらしく、これ以前の元弘3年(1333)の新田義貞と北条高時
軍の戦い、永享12年(1440)上杉持朝が将軍義教の命で結城満朝を討った時の戦いがあったとされます。
三ツ木原古戦場跡は、川越狭山工業団地の南西隅「三ツ木公園」として残っていますが、本来はもっと広範囲で
あったと思われます。




■ 城山砦跡 【狭山市】 《県選定重要遺跡・狭山市指定史跡》 別名:柏原城
城山砦は、天文年間に山内上杉憲政が、後北条氏に奪われた川越城を奪還すべく包囲した際に陣を敷いたとされ
るようです。
城山砦跡については色々な呼び名があり、「柏原城」もそのひとつで、私的には、城のあった場所は大方の所で
「城山」と呼ばれ、一般名詞に過ぎないことから、地名の付いた「柏原城」と呼ぶ方が城を特定しやすいと考え
ます。城山砦跡は、狭山市内では唯一の中世城郭と言われ、高さ10m程の河岸段丘上に築かれた城(砦)で、
本郭・二の郭・三の郭からなって居ます。
天文6年(1537)7月に、小田原北条氏の手に落ちた「河越城」を奪還するために、天文14年(1545)9月か
ら半年近くにわたり、上杉憲政が陣を敷いたのが、この柏原城です。上杉軍が北条氏康に敗れた後は、北条氏の
手に移り、同氏の城として機能したと考えられます。その一方で、鎌倉時代に畠山重忠に従った柏原太郎の館跡
ではないかと言われるようです。また、南北朝時代に鎌倉公方の足利基氏が入間川に滞陣した際の出城とする説
や、明応5年(1496)に上杉顕定が上杉朝良方の河越城を攻めたとき、顕定と手を結んだ足利成氏の子の政氏が
着陣したところともいわれています。




■ 聖天院 【日高市】 
高麗山聖天院勝楽寺は、(伝)天平勝宝3年(751)に創建された高麗王若光の菩提寺として創建された。寺号は
若光が高句麗より持参した歓喜天を本尊とすることから名付けられたという。1345年に法相宗から真言宗に改宗。
天正18年(1590)に徳川家康が関東に入国すると、翌年(1592)、寺領として高麗郷内に15石を寄進された。




■ 女影原古戦場 【日高市】 《県指定旧跡》
南北朝時代の建武2年(1335)7月、鎌倉幕府の復興を願う鎌倉15代執権北条高時の遺子時行は、信濃で諏訪
頼重らに擁立され挙兵、建武の新政に不満を持つ武士と合流しながら鎌倉街道を南下鎌倉を目指しました。
そして7月22日、それを阻止しようとする足利直義軍と初めて合戦に及んだのが女影原でした。
この戦で時行軍は直義軍に勝ち、その後も小手指原・府中などでも直義軍を破り7月25日に鎌倉を占領しまし
た。この一連の戦乱を「中先代の乱(なかせんだいのらん)」といいますが、僅か20日程度で足利尊氏に攻めら
れ、時行は鎌倉から敗走しました。




■ 田波目城跡 【坂戸市】 《県選定重要遺跡》 別名:多波目城
坂戸市内においては最高位を示す標高133mの丘陵上の平場を利用してに築かれた中世の城跡。城跡の南側は険
しい断崖となって、眼下には高麗川が流ています。
城跡に配水池を作ったことにより城跡の4分の1程が失われています。現在は、南側の崖を除き、土塁と空堀が城
の周囲を囲っていることになっていますが、樹木や草が繁茂しいてよくわかりません。
城の歴史についてはよく分っていません。




■ 万葉遺跡 浅羽野 【坂戸市】 《県指定旧跡》
万葉集巻11‐2763「紅の浅葉の野らに刈る草の束の間も吾を忘らすな」の関連遺跡
歌にある「浅葉の野」とは、現在の坂戸市浅羽とされています。他に静岡県浅羽町、長野県本郷村などの候補地
があるようですが、ここ坂戸市の浅羽を指すとの説が定説になってきているようです。
その歌碑が土屋神社の裏にある土屋公園内に建立されています。




■ 毛呂城跡 【毛呂山町】  別名:山根城
毛呂城は戦国時代に毛呂顕季によって築かれた城です。山根城とも呼ばれています。現在、城跡は宅地化と耕地
化が進み遺構は残っておらず。毛呂駅のすぐ北にある踏切の遮断機脇に山根城跡と刻まれた石碑が建つのみです。
また付近にある妙玄寺は、天文3年(1534)頃に毛呂顕季夫人(顕繁の母)によって創建された寺で、毛呂一族
の供養塔が残されています。
なお、1kmほど離れたところにある長栄寺が「毛呂顯季館跡」とされています。




■ 出雲伊波比神社 【毛呂山町】  《国指定重要文化財:本殿(附:棟札2枚)》
創建について、社伝(『臥龍山宮伝記』)では、景行天皇53年に日本武尊が天皇より下賜された鉾を奉納して大
己貴命を祀ったのち、成務天皇の代に武蔵国造がアメノホヒを合祀して出雲伊波比神としたとされる。
源義家が奉納したものが発祥とされる流鏑馬が春秋の2回開催される。春は7歳未満の男児が騎乗して1度だけ矢
を射る儀式(願的)をおこなうものである。本格的な騎射(夕的)が実施されるのは秋の本祭りで、こちらは15
歳程度の少年が騎乗し、3頭の馬(祭礼区ごとに1頭)による3回の騎射がおこなわれる。
この写真は、秋の流鏑馬の時のものです。




■ 熊井城跡 【鳩山町】
新編武蔵風土記稿の熊井村の項に「妙光寺のあたりをいい、城跡というが詳しいことは分からない」と記されて
いるようで、この妙光寺を熊井城の比定地としています。
お堂の前に建てられた石碑にも〔平成10年には、当山は「城添遺跡」として、鳩山町教育委員会によって本格
的な発掘調査が行われました。その結果、熊井城跡と称される館跡(年代は不明)と土塁の一部や、また江戸時
代の領主であった内藤氏が延宝7年(1679)に築いた陣屋跡などが発見されました。〕と記されています。
裏山には土塁らしき遺構が多数ありましたが、当時のものかの特定できませんでした。




■ 岩殿観音正方寺 【東松山市】  ※正しくは正法寺
養老2年(718年)、沙門逸海により開山されました。岩殿山の峰の岩窟に本尊千手観音を安置し、傍らに正法庵
と号した草庵を結んだのが始まりです。その後、延15年(796年)桓武天皇の勅命によって伽藍が造立されまし
た。
鎌倉時代には、源頼朝の妻、北条政子の守り本尊として、源頼朝の庇護のもと比企能員が復興、一山六十余坊を擁
し、坂東三十三観音霊場の第十番札所の命を賜りました。能員が北条時政のために自害をせまられて死去すると、
その嫡子時員は追手を逃れて出家し、この寺を守りました。 【岩殿観音正法寺ホームページ 歴史の項より引用】




■ 青鳥城跡 【東松山市】 《県指定史跡》
比企丘陵と岩殿丘陵に挟まれた東松山台地上にあり、城の南方1kmには都幾川が流れている。城の南端に一辺約
100mの方形の本郭があり、それを取り囲むように北に二の郭・三の郭が広がる。中世城郭としては巨大なもの
である。築城の年代は現在不明であるが、源頼朝や太田道灌が陣を敷いた場所だと伝わる。
戦国時代には武蔵松山城を攻める北条氏康方の城として機能したと思われますが、いったん廃城になりました。
その後、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐において前田利家が廃城となっていた青鳥城跡に陣を置
き、武蔵松山城を攻めました。現在、城跡には土塁や空堀などの遺構はあるものの整備はされておらず、また大
部分が私有地のため自由に見学できる部分はかぎられています。

これ以降は「鎌倉街道(上道)のみちすじ Ⅱ-2」 にします。

お茶々が井戸(埼玉県深谷市)

2019年07月17日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:お茶々が井戸
築 造:鎌倉時代
指 定:深谷市指定史跡(名称:お茶々の井戸  昭和59年7月1日指定)
概 要:荒川の左岸にあたる所で、付近を鎌倉街道が通っていたと伝えられている
所在地:埼玉県深谷市小前田 (旧大里郡花園町)

荒川左岸の川べりを歩いて探したところ、国道沿いの某家電店のすぐ下の方でした。初めから分っていればこん
なに歩く必要もなかったのに、これも結果論ですから仕方ありません。




現在は、コンクリートの枠で保護されており味気がありませんが、上から覗くと石で組まれていて、水も湧いて
いました。




   お茶々が井戸
                             所在地 花園町大字小前田
 この井戸は通称「於茶々が井戸」という。
 ここ鎌倉街道端に位置し、鎌倉時代旅の人々が休息する茶店が一軒あって、「お茶々」という美人の娘がいて
お茶の接待をしたので「於茶々が井戸」といったと言い伝えられている。しかし古文書によれば、この茶店には
「ちょう」という客あしらいの上手な美しい娘がいて、街道筋で大評判となり繁盛したので、「お茶屋の井戸」
と呼ばれたとの記録もある。(町田家蔵書)
 井戸はあまり深くはないが、どんな干天でも枯渇したことがないといわれ、この水を汲みほすと雨を招くとい
うことで、干害に苦しむ年には雨乞いのために村人が総出で水を汲み出したものであったという。
 昭和五十九年七月町の文化財に指定した。
      昭和六十年三月                花園町教育委員会




対岸は大里郡寄居町で「埼玉県立川の博物館(かわはく)」の改修工事を終えたばかりの大水車が見えます。

このお茶々が井戸は鎌倉街道端に位置しとあります。この道筋は、大里郡寄居町赤浜地内から川越岩辺りで荒川
を渡河して左岸に渡り、左岸沿いを北上し、ここお茶が井戸に至り、ここより旧花園町小前田地内の市街地へと
続くものと推測します。しかし、現在ある荒川左岸の道が当時の鎌倉街道である可能性は低いと考えます。


散策日:令和元年(2019)6月23日(日)

行人塚塚群(埼玉県小川町)

2019年07月16日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:行人塚塚群
時 期:江戸時代前半(推定)
指 定:小川町指定史跡(名称:行人塚塚群  平成14年(2002)3月13日指定)
    埼玉県選定重要遺跡(名称:行人塚古墳群  昭和44年(1969)10月1日選定)
所在地:埼玉県比企郡小川町上横田

かつては古墳群として認識されていた10数基からなる行人塚塚群を散策して来ました。




主塚を南側から




        行人塚塚群  大字上横田          [平成14年3月13日 町指定史跡]

 行人塚塚群は、一辺20mの方形を呈し高さ3.2mを測る主塚を中心に、周囲に15基の小円形もしくは方形の塚が
密集している。長らく古墳群としてとらえられていたが、平成5年に発掘調査を行ったところ、近世の塚であるこ
とが判明した。
 主塚の頂部から比較的浅い部分に浅間A軽石(天明3年=1783年の浅間山大噴火の時に堆積したもの)が確誌さ
れ、土師器皿(カワラケ)や常滑焼の甕、宝篋印塔の隅飾突起部分の破片が出土し、その形態から江戸時代のもの
と推定される。また、隣にある第9号塚の調査では、塚の基底部分に炭化材を含む層がみられ、ここから寛永通宝
が出土した。出土した寛永通宝は全て古寛永であり、その鋳造年代は1636年~1659年と考えられていることなど
から、これ以降のさほどかけ離れない時期に築造されたものと推定される。
 この塚群は埋納施設がないため、古墳や経塚とは考えられない。修法壇・十三塚・富士塚などの奉祭機能をもっ
た塚がこの地域にも所在していることが知られており、時期は中世でも比較的新しい段階から近世になってからの
ものが多いことから、行人塚塚群も江戸時代前半に造営された奉祭機能をもった塚の可能性が高いと判断される。

                         小川町教育委員会




塚配置図




塚の頂に建立されている石碑  「埼玉県指定史跡 方墳 行人塚」と刻まれています
埼玉県指定史跡の中にここに該当する方墳 行人塚は見当たりませんでした。過去に史跡指定されていたことがあ
るのかは不明ですが、「行人塚古墳群」の名称で埼玉県選定重要遺跡に選定されていることから、広義での史跡指
定としたのか?
古墳でないことが判明したので、重要遺跡選定名称が「行人塚塚群」に変更される可能性もありますね。




主塚を北側から見ていますが、方形であることがよくわかります。




露出している石は何でしょうか? 2連板石塔婆のように見えなくもありませんが違うようですね。




主塚の西側です。塚の配置図ではこの辺りにも小さな塚があることになっていますがよくわかりません。
他の周囲も同様で、近代の墓所がいくつか見られます。

行人塚とは何たるものかを勉強しなくてはなりませんね。

散策日:令和元年(2019)6月9日(日)