四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

ぼたんまつり 東松山ぼたん園

2012年04月30日 | 花・鳥・風景


梅は零れ 椿は落ち 桜は散ってしまいましたが、牡丹は崩れるどころかこれからが見頃  
ということで本日は、ぼたんまつりを開催中の「東松山ぼたん園(旧称・野田ぼたん園)」に行って来ました  






「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は・・・」を期待して散策しましたが、さて、その結果は触れずにおきましょう 










牡丹も沢山の品種(銘)がありとても憶え切れません。品種や銘等については専門家にお任せし、素人の私には、学問的な知識でなく、
「おお綺麗だ」、「可愛い花だな」などと花を愛でる気持ちだけで十分でしょう・・・これもいつもの言い訳ですが  










東松山市といえば市の花となっているこの「牡丹」。そして、東松山名物の「やきとり」を忘れてはいけません
そこで、「牡丹」と「やきとり」のコラボを実現させました(笑)  






一応、「おまつり」ですからテント店も出ていました

東松山市のマスコットキャラクター「まっくん」、「あゆみん」の登場です
この男の子と女の子は2011年9月5日誕生の双子らしいです
「まっくん」は、ひがしまつやましの「まつ」から、「あゆみん」は、ウォーキングの町であることから「歩み(あゆみ)」をかわいらしく
頭にあるのは市の花ぼたん ぼたんの葉っぱの羽
緑色の頭巾は、市の木松をイメージ   体は、名物であるやきとりのたれのツボ
履いているのは、歩けのまち(東松山市はスリーデーマーチの開催地)のウォーキングシューズということです 
 これもボタンがらみの話ですから・・・   

散策日:2012年(平成24年)4月30日(月)           

長瀞 通り抜けの桜

2012年04月30日 | 花・鳥・風景



 
長瀞町・宝登山ロープウェイの山麓駅前にある不動寺の境内周辺に各種八重桜約500本が植えられた遊歩道があるという
その「長瀞 通り抜けの桜」を散策してみた   






約30種類が植えられており、とても名前は憶え切れません
「芝山(しばやま)」、「駒繋(こまつなぎ)」、「鬱金(うこん)」、「関山(かんざん)」・・・
でも、花と名が一致しません   










ライトアップが始まった頃になると、花見客はその数を増してきました








宝登山ロープウェイから何度も見下ろしたことがある不動寺。今度見下ろす時は、いままでとは違った思いで見ることでしょう  

散策日:2012年(平成24年)4月29日(日)           

秩父・羊山公園 芝桜の丘

2012年04月29日 | 花・鳥・風景




GWだから1日ぐらいは一応行楽の名の下にどこかに出かけたい。しかし、どこへ行くにも渋滞渋滞である。うっかり遠方までイベントを
観に出かけようものなら現地に着いた時はイベントが終わっていたなんてことにもなりかねない。
本日の新聞朝刊の社会面に、秩父・羊山公園のシバザクラが見頃を迎え見物客で賑わっていると、カラー写真まで入れた記事が載っていた。
芝桜は先週、群馬県の「みさと芝桜公園」に行ってきたばかりであったが、新聞記事に触発されて急遽「秩父・羊山公園 芝桜の丘」へ。
途中まではスムーズに進んだものの、そうは問屋がおろさない。後半はのろのろどころかなかなか前に進めない。
近いところにしたにも拘らずこの有様。遠方を避けたのは正解だったようだ 






ほんとに見頃。お天気も良く見物客であふれていました






昨年は行ったのが早すぎたせいか、これほどには咲いていませんでした














いままで行った中で今回が一番かも知れません。無論、私的にはの話ですが  

散策日:2012年(平成24年)4月29日(日)          

掛川城の狭間(静岡県掛川市)

2012年04月28日 | 城館雑記




先日、お城関係のブログを探して見ていたら、或るブログに「掛川城の狭間(さま)は表裏逆が多すぎ」なんて書いてありました。
実際、私も昨年秋に掛川城を攻城し、写真も撮ってきましたし、その後も幾度となく写真を見返していたのですが、
狭間の表裏が逆になっているとは全く気付きませんでした。このブログの記事を目にしてあらためて自身が撮ってきた写真を見てみますと
確かに指摘のとおり、内側が広く外側が狭くなっていなければならない筈の矢狭間、鉄砲狭間が、内が狭く外が広い、正に表裏逆のものが
多数あります。この掛川城は、木造による復興(復元)の天守として注目を浴びているものですが、作事に当たったものが城郭に関しては
素人であったとしても、それなりの知識を有した人が城作りを見守っていた筈ですから普通ならありえないことと思いますが。
まあ、他人のブログを読むまで気付かなかった私も話にはなりませんけれど。
ということで、掛川城の狭間(さま)は、様(さま)にならない (痛いオヤジギャグでした)  

投稿日:2012年(平成24年)4月28日(土)

*この記事をアップしてから暫くして、狭間は、内側が狭く外側が広くなっていると解説されているものを見ました。
どうやら両者が存在するようです。  もう少し詳しく調べてみたいと思います。  (5月22日追記)  

「箕輪城」 再攻城(群馬県高崎市)

2012年04月24日 | 日本100名城
■ 国指定史跡 箕輪城跡





虎韜門(ことうもん)   
              
◎箕輪城の歴史
・箕輪城は西暦1500年ころに高崎市の浜川地域を拠点にしていた長野氏が築城した城です。
・長野氏に関する文書史料が少ないことから、築城年・築城者など不明の点が多くあります。
 後の系図などから、築城者は長野業尚(尚業)で、その後、憲業(信業)、業政、業盛の計4代にわたって、
 長野氏が箕輪城を拠点にしていたと考えられています。
・長野氏は業政の代に全盛期を迎え、西上野の諸将と婚姻関係を結び、勢力を広げました。
 永禄年間に入ると、西上野は甲斐の武田、相模の北条、越後の上杉の三巴の戦いの舞台になります。
 その結果、長野方の要所である国峰城(甘楽町)、安中城(安中市)、松井田城(安中市)、倉賀野城(高崎市)などが武田信玄によって落城してしまいます。
 こうした中、長野業政は関東管領山内上杉家に対して、最後まで尽くしていたことで知られています。
 そして、永禄9(1566)年、難攻不落であったと伝えれる箕輪城もついに落城することになりました。
・落城後は、武田・織田・北条・徳川氏の城として使われます。この間城主になったのは、各戦国大名の重臣で、武田氏時代(1566~1582年)は
 内藤昌秀(昌豊)など、織田氏時代(1582年の1ヶ月弱)は滝川一益、北条氏時代(1582~1590年)は北条氏邦などが城主を務めています。
 そして、最後の徳川氏時代(1590~1598年)は、井伊直政が徳川家康の家臣では最大の領地(12万石)を拝領し城主になっています。
 このように、戦国時代を通じて、西上野で最大の拠点になった城です。


◎箕輪城の遺構

・箕輪城は、井伊直政が1598(慶長3)年、高崎(和田)に移城したことによって、廃城となりました。
・廃城に伴う移築などから当時の建物は全く残っていませんが、大規模な堀や石垣などは良好に残り、往時を偲ばせています。
・箕輪城の最大の特徴は、大規模な堀です。本丸周辺では、最大幅30m、深さ10mの空堀が巡り、他にも中央部に城を南北に分断する役割を果たす
 大堀切が構えられるなど同時代の城としては全国的な規模の堀が城内各所に残っています。なお、大部分の堀は空堀と思われます。
・大手門から本丸へ上がる途中の虎韜門(ことうもん)・鍛冶曲輪・三の丸・二の丸などには石垣が残っています。城の目立つ場所に城主の権威を示すために築かれたのかもしれません。
・箕輪城は長野氏以降、城主が度々代わっています。発掘調査などでは、城主の交代による城の造り替えの状況が明らかになってきています。現在ある堀や
 石垣などは最後の井伊氏時代に使われていたもので、長野氏時代の城とはかなり異なっています。
                                                  (現地備え置きの箕輪城跡案内チラシより)  
  
上野国 箕輪城跡を攻城したのは2年半前のことでした。しかし、初めから計画しての攻城ではなく、某所へ所用で出かけての帰り道、箕輪城跡の看板を目にしたからです。
この城が日本100名城のひとつに選ばれていることは承知しておりましたし、いつかは訪ねてみたいという思いがあったものですから、
これはいい機会だと城跡に回り込んだというわけでした。
が、時間も時間であったし、急なことで下準備もありませんでしたから、見て歩けたのは城跡の半分にも満たないものでした。
そして今回も、行楽に行った先がこの箕輪城跡の近くであったことから折角近くまで来たのだからと寄り道をした次第です。
前回見落としたところを見てこようと、前回とは反対側に回り込んでみました。
生憎の降雨でしたので、合羽を着込み傘を差しての散策でしたが、足元は濡れるしコンデジのレンズには雨粒がという状況で撮った写真をアップしておきます。
個々の説明は省かせていただきます(本当は解説するだけの知識がないためです)。   
  





白川口埋門  




鍛冶曲輪    




鍛冶曲輪の石垣  






丸馬出 






御前曲輪北堀






丸馬出と稲荷曲輪の間の堀 




新曲輪






稲荷曲輪




稲荷曲輪東側の空堀跡?




搦手口




本丸と二の丸の間の空堀




本丸門馬出し




本丸にある城址碑




本丸




本丸と御前曲輪の間の空堀 




御前曲輪




御前曲輪に立つ箕輪城跡標柱   






御前曲輪にある井戸

前述のとおり雨の中の城跡散策であるうえに、車に家人を残しておりましたのでさらっと見ていく程度のものでした。
この他にもまだ見て確認していない遺構がだいぶ残っていますのでまた機会を見て再々攻城を・・・
それと、堀跡の木が伐採されておりましたし、堀跡の掘り起こしも行われているようでしたので、新たな整備を始めたのでしょうか? 

再攻城日:2012年(平成24年)4月22日(日)          

みさと芝桜公園

2012年04月23日 | 花・鳥・風景




「みさとの芝桜って知ってる?」数週間前の家人の台詞。ここにいう「みさと」とは埼玉県三郷市のことらしい。「知らない」と私。
知らないというよりは調べたこともないですが。
昨日、上野国白井宿に向かう途中、高速道の某SAで小休止を摂ったのですが、観光案内コーナーに、「みさと芝桜まつり」のチラシを発見。
「え! みさと。これ群馬じゃない」
というわけで、「みさと」はみさとでも箕郷町(合併により現在は高崎市の一部)のことだったのでした。
さて、上野国白井宿で武者行列を見学し帰宅することにしましたが、昼を過ぎて間がなかったし、雨も未だ落ちてはいませんでした。
それなら某所(高崎市)に行ってみようと向かったのですがこれが大変なことに。まあ、このことには触れずにおきましょう。
そのあと、折角高崎市まで来たのだから寄って行こうと「みさと芝桜公園」に。
このときは既に雨が降っていました。 
前置きが長くなりましたが・・・




















皆さん傘をさして芝桜見学をしていました
写真が暗い・・・雨ですから(いつもの言い訳)

散策日:2012年(平成24年)4月22日(日)           

白井宿八重ざくら祭り 武者行列2012

2012年04月22日 | まつり・イベント











本日、上野国白井宿(群馬県渋川市・旧子持村)で、「第11回白井宿八重ざくら祭り」が行われましたので行ってきました。
白井城の城下・白井宿は土蔵造りの家並みなどが宿場町としての面影を残しています。道の中央を白井堰が流れ、その端に八重
ざくらが何十本も植えられています。一昨年も行きましたが、このときは車を遠いところに駐車する羽目になりましたので、
今回は早めの出発、しかも高速道利用でしたので近場の駐車場を確保できました。
早速、白井宿を歩いてみましたが、八重ざくらは開花が遅れておりほとんどが蕾の状態でしたのが若干残念。
祭りの各催しものまでは時間があっため、歩いている人は疎らでしたが、露店の方は準備に忙しそうでした。    








どうにか開花している八重ざくらを見つけて撮ってみました。堰にかかる花は風情があります。




この白井宿には8つの井戸がありますが、そのうちのひとつです。  






この八重ざくら祭りのメインである武者行列の時刻が近づいてきましたので出陣場所となる「道の駅こもち」に。
既に沢山の武者たちが集まっていました。中心となる武将は、白井城主であった長尾景仲公と本多広孝公ですが、このお二方についての説明は省きます。
子ども武者もいれば女の子どもたちによる薙刀隊。手作り甲冑隊の皆さん。そしてここでも自前甲冑の皆さんが。  








白井宿に向かって出陣です。先頭は、見物の方たちが「弁慶だ」、「べんけいだ」と言っていたので弁慶ということにしておきましょう。確かに風体は弁慶ですが?
長尾景仲公は馬に乗って・・・あれ!手綱がない
本多広孝公は徒歩で・・・幟はあれど、どれが本多広孝公か? 広孝が「城主」扱いになっているのにはちょっと疑問がありますが・・・  
  













白井宿を行軍する武者行列。
「大将ばっかりだな」と、見物人の誰かが言ってました。、同じ武将が二人いようが、足軽の数が圧倒的に少なかろうが、時代がばらばらであろうと。
いいんです楽しければ。もともとストーリーのない武者行列ですから(主催者の方ゴメンナサイ) 

  




武者行列が始まった頃には沢山の人が白井宿に繰り出していました




山車も出ています
上之町の山車には「上杉謙信公」の人形




中之町の山車には「長尾景仲公」の人形




そして 下之町の山車には「天宇受売命(あまのうずめのみこと)」の人形が




琴の演奏と抹茶のサービスもありました。私も頂き、作法にのっとり一服



  
八重ざくら満開というわけには行きませんでしたし、午後あたりから雨という天気予報を気にしながらの「白井宿八重ざくら祭り」でしたが、
どうにか午後までもってくれ、それなりに楽しんできました。チラシにも書いてありますが、雨天だと武者行列は中止になるものですから。

お土産は「白井城御殿もなか」です。最中自体には「白井宿」と・・・   

散策日:2012年(平成24年)4月22日(日)            

川中島合戦戦国絵巻2012 見学記 Ⅱ

2012年04月17日 | まつり・イベント




「献塩の儀」
上杉は敵である武田に塩を送った(贈った)という逸話から。細かい話は省略しますが、これが「敵に塩を送る」という言葉で残っています 






米澤藩火縄筒保存会の皆さんによる火縄筒(銃)の演武です。その後も合戦の中で何度も見せてくれました






合戦出陣に先立ち、武田信玄は「三献の儀」を 上杉謙信にあっては「武帝式」を
「三献の儀」は積まれた木材の陰で見えませんでしたが 










信玄軍は「啄木鳥戦法」で謙信軍に挑むため全軍を本隊と別隊に二分し、別隊は謙信軍の裏に回るべく移動を開始した






両軍鉄砲隊による応酬が始まりました
  





上杉軍が武田軍に向かっていきました。これに応戦する武田軍です
上杉軍の「車懸りの陣」に対し、「鶴翼の陣」で応戦する武田軍
何度も合戦が繰り返されましたが、同じような写真ばかりなので・・・  






橋の上では迫真の切り合いの演技が繰り返されています
向こう岸の合戦場所と違い見物席から一番近い場所である橋の上ですからよく見えます。上手い演技だと皆さん感心
それもそのはず、一般公募で参加した方ではなく、それなりの方々ですから。でも、見物人のほとんどの方は、一般参加の方たちと思っていたようです






馬に乗った謙信が武田本陣に突入して信玄に切りつけ、信玄はこれを軍配団扇で防ぐという、信玄・謙信一騎打ちの場面も再現されました
信玄さん、切りつけられる前に軍配を出して構えていましたが・・・ 






信玄を切りつけた謙信を山本勘助が追いましたが・・・
そうそう、勘助はこの合戦で討たれてしまったんですよね  








武田・上杉両軍の騎馬軍団による合戦の模様が・・・   










合戦はまだまだ続いて・・・ 






戦い済んで
武田軍が勝ち名乗りを挙げれば、上杉軍も同じく勝ち名乗りを。結局、はっきりした勝負はつかなかったようです  






合戦を終えて皆さん引き上げです。
楽しかったみたいですね。この「川中島合戦戦国絵巻」は、見物するより参加する方が面白いというのを色々なところで見ます。まあ、若ければネ
ところで今回は川に入っての合戦が見られませんでした。いつ川の中へと思いながら見物していたのですが、それがないうちに終えてしまいました
事故防止等の観点から川へ入ることは禁止されたのかもしれませんが。
合戦参加の皆さんが引き上げだすと見物客も引き上げだしました。最後の武者が引き上げた頃は、見物客は僅かだったでしょうね  




4月1日から始まった「笛吹市桃の花まつり IN 石和温泉」も、この川中島合戦戦国絵巻の終わりをもって終りました
今回もお土産は「信玄餅」。前回は青い袋のものを買いましたので、今回は「武田の赤備え」にあわせて赤で(中味は同じですが)  
あれ!写真が消えてる~
以上で~す
簡潔にまとめるつもりだったのですが、ついついあれもこれもと長くなってしまいました  

見学日: 2012年(平成24年)4月15日(日)         

川中島合戦戦国絵巻2012 見学記Ⅰ

2012年04月16日 | まつり・イベント




笛吹市役所前の笛吹川の河川敷には武田軍の本陣(左の写真)と上杉軍の本陣が既に設けられています。
合戦が行われた川中島は信濃国(長野県)にあるのに、なぜ甲斐国(山梨県)笛吹市でと思ってしまいますが、笛吹市(旧石和町)にも「川中島」
という地名があることから、これにちなみ笛吹川を川中島に見立ててこの「川中島合戦戦国絵巻」が繰り広げられるようになったようです。
武田信玄VS上杉謙信との戦いではありますが、ここは甲斐国ですから一応主役は武田軍です。  






後世に語り継がれる(信玄・謙信4度目の戦い)川中島合戦を観ようと早くも大勢の見物人が。合戦が始まった頃にはこれ以上の人出で移動もままなりませんでした。
前回私は、橋を中にして右側(武田軍側)で見学しましたので、今回は左側(上杉軍)側に陣を取ってみましたが、これは失敗でした。その理由は写真を見ていただければわかると思います。 






いよいよ合戦の刻が近づきました。出陣太鼓が打ち鳴らされ、狼煙があがりました。










市中を行軍してきた両軍が橋を渡って本陣前に集結します。
先ずは青備えの上杉軍です。
「大将は、旗持ちを従えて直ちに本陣に入れ」とナレーションが流れ、各大将名が紹介されていきます。
女武者が多いですね。足軽は無論のこと女大将まで。中には全員女性という軍団も。  






上杉軍本陣前に集結した大将たちと兵(足軽)たち






上杉軍各軍団の集結が終わったところで、安養院殿と総大将上杉謙信が入陣です。
前回の上杉謙信役は一般公募でしたが、今回はどこぞかのお偉い方にお願いしたようです。でも、この謙信はなんと眼鏡を掛けていました。
数多い足軽の中の一人やふたりなら気にもしませんが、信玄公と並ぶ主役ですから何か策はなかったのでしょうか? いくらお祭りとは言えいただけませんね。
私の目の前で見学していた方もこれはないだろうと言っていましたが。 






今回も米沢から米沢上杉藩の鉄砲隊が上杉軍の応援にはせ参じました。
上杉氏が米沢に移封されたのは、この合戦よりもあとの事ですが、この場合はあくまでも越後上杉の鉄砲隊として










続いて赤備えの武田軍が入ってきました。
風の軍団1番隊「飯富兵部少輔虎昌」隊から林、火、山の軍団と続きますが、こちらも女武将、足軽が沢山います。
何せこの合戦参加者の4割は女性とのことですから。   






さて、武田24将のしんがりは、信玄の知恵袋・山の軍団6番山本勘助ですが、
これで終わったわけでなく、この後を武田四郎勝頼と武田太郎義信の軍団が続きました。  






武田軍も軍団の集結が整ったようです






湖衣姫。そして主役の武田信玄が入陣してきました。
湖衣姫は、先の信玄公祭りでの湖衣姫がこちらにも参加です。信玄公役もやはりお偉ら方のようです。
う~ん。後姿しか見られず残念。 






式舞台に武田信玄、湖衣姫、上杉謙信、安養院が並びましたが、実際にこうして4人が並ぶことはなかったでしょう。
誰も座っていない床机が見えるが、ここには誰が?
おや! 見覚えのある旗印が・・・  










今年は、川中島合戦から450年という記念すべき年。そこで、川中島合戦とは直接関係はないのですが、超ビッグな武将4人を特別ゲストということで・・・

木瓜の旗印は、織田信長さんではありませんか                
瓢箪の馬印は、豊臣秀吉さんですね、今日は千成瓢箪ではないですね  
金の開扇の馬印は、徳川家康さんですね                    
竹に雀の紋の旗印は、伊達男の語源となった伊達政宗さんですね    
 
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑の活躍した時期と、伊達政宗の活躍した時期にはずれがありますが、昨年の大震災の被災地を代表しての武将ということで伊達政宗もゲストに。
このように、被災地からやって来たということで伊達政宗が紹介されたところ見物客から一斉に拍手が。誰もが仙台からやってきたと思ったのでしょうね。
ところが、他県の方が伊達政宗に扮しているだけのこととわかった瞬間、いまの拍手は何だったのといった空気が流れましたが。 








ということで、式舞台の上は現代のお偉方等を含めて埋め尽くされました。
このあと湖衣姫は見物客との交流を深めるため(一緒の写真撮影に応じるため)に、軍団本陣ではなく祭り本陣に・・・

あまり長くなると読んでもらえないので、この続きは Ⅱ にしましょう。
え、短かろうが長かろうが初めから読む気はないって!! 

見学日:2012年(平成24年)4月15日(日)             

川中島合戦戦国絵巻2012

2012年04月15日 | まつり・イベント


今をさかのぼること400年余り、時は戦国時代、甲斐国の名将・武田信玄と越後国の勇将・上杉謙信は、北信濃の領有権を
めぐり、12年の長きにわたって幾度もの戦いを繰り広げた。主な対戦だけでも5度におよび、なかでも第4回の戦いは、
合流地点から広がる三角地を中心に最大の激戦になったという。これが、世に知られる川中島の合戦である。

先週の土曜日(7日)、甲斐府中で行われた信玄公祭り「甲州軍団出陣」のあとをうけて、本日、やはり甲斐の笛吹市において
「第33回川中島合戦戦国絵巻」が繰り広げられましたので、これまた見学に行って来ました。

見学記は後日投稿します。  

見学日:2012年(平成24年)4月15日(日)