■ 国指定史跡 箕輪城跡
虎韜門(ことうもん)
◎箕輪城の歴史
・箕輪城は西暦1500年ころに高崎市の浜川地域を拠点にしていた長野氏が築城した城です。
・長野氏に関する文書史料が少ないことから、築城年・築城者など不明の点が多くあります。
後の系図などから、築城者は長野業尚(尚業)で、その後、憲業(信業)、業政、業盛の計4代にわたって、
長野氏が箕輪城を拠点にしていたと考えられています。
・長野氏は業政の代に全盛期を迎え、西上野の諸将と婚姻関係を結び、勢力を広げました。
永禄年間に入ると、西上野は甲斐の武田、相模の北条、越後の上杉の三巴の戦いの舞台になります。
その結果、長野方の要所である国峰城(甘楽町)、安中城(安中市)、松井田城(安中市)、倉賀野城(高崎市)などが武田信玄によって落城してしまいます。
こうした中、長野業政は関東管領山内上杉家に対して、最後まで尽くしていたことで知られています。
そして、永禄9(1566)年、難攻不落であったと伝えれる箕輪城もついに落城することになりました。
・落城後は、武田・織田・北条・徳川氏の城として使われます。この間城主になったのは、各戦国大名の重臣で、武田氏時代(1566~1582年)は
内藤昌秀(昌豊)など、織田氏時代(1582年の1ヶ月弱)は滝川一益、北条氏時代(1582~1590年)は北条氏邦などが城主を務めています。
そして、最後の徳川氏時代(1590~1598年)は、井伊直政が徳川家康の家臣では最大の領地(12万石)を拝領し城主になっています。
このように、戦国時代を通じて、西上野で最大の拠点になった城です。
◎箕輪城の遺構
・箕輪城は、井伊直政が1598(慶長3)年、高崎(和田)に移城したことによって、廃城となりました。
・廃城に伴う移築などから当時の建物は全く残っていませんが、大規模な堀や石垣などは良好に残り、往時を偲ばせています。
・箕輪城の最大の特徴は、大規模な堀です。本丸周辺では、最大幅30m、深さ10mの空堀が巡り、他にも中央部に城を南北に分断する役割を果たす
大堀切が構えられるなど同時代の城としては全国的な規模の堀が城内各所に残っています。なお、大部分の堀は空堀と思われます。
・大手門から本丸へ上がる途中の虎韜門(ことうもん)・鍛冶曲輪・三の丸・二の丸などには石垣が残っています。城の目立つ場所に城主の権威を示すために築かれたのかもしれません。
・箕輪城は長野氏以降、城主が度々代わっています。発掘調査などでは、城主の交代による城の造り替えの状況が明らかになってきています。現在ある堀や
石垣などは最後の井伊氏時代に使われていたもので、長野氏時代の城とはかなり異なっています。
(現地備え置きの箕輪城跡案内チラシより)
上野国 箕輪城跡を攻城したのは2年半前のことでした。しかし、初めから計画しての攻城ではなく、某所へ所用で出かけての帰り道、箕輪城跡の看板を目にしたからです。
この城が日本100名城のひとつに選ばれていることは承知しておりましたし、いつかは訪ねてみたいという思いがあったものですから、
これはいい機会だと城跡に回り込んだというわけでした。
が、時間も時間であったし、急なことで下準備もありませんでしたから、見て歩けたのは城跡の半分にも満たないものでした。
そして今回も、行楽に行った先がこの箕輪城跡の近くであったことから折角近くまで来たのだからと寄り道をした次第です。
前回見落としたところを見てこようと、前回とは反対側に回り込んでみました。
生憎の降雨でしたので、合羽を着込み傘を差しての散策でしたが、足元は濡れるしコンデジのレンズには雨粒がという状況で撮った写真をアップしておきます。
個々の説明は省かせていただきます(本当は解説するだけの知識がないためです)。
白川口埋門
鍛冶曲輪
鍛冶曲輪の石垣
丸馬出
御前曲輪北堀
丸馬出と稲荷曲輪の間の堀
新曲輪
稲荷曲輪
稲荷曲輪東側の空堀跡?
搦手口
本丸と二の丸の間の空堀
本丸門馬出し
本丸にある城址碑
本丸
本丸と御前曲輪の間の空堀
御前曲輪
御前曲輪に立つ箕輪城跡標柱
御前曲輪にある井戸
前述のとおり雨の中の城跡散策であるうえに、車に家人を残しておりましたのでさらっと見ていく程度のものでした。
この他にもまだ見て確認していない遺構がだいぶ残っていますのでまた機会を見て再々攻城を・・・
それと、堀跡の木が伐採されておりましたし、堀跡の掘り起こしも行われているようでしたので、新たな整備を始めたのでしょうか?
再攻城日:2012年(平成24年)4月22日(日)