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四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

大類の万葉歌碑

2024年11月02日 | 歌碑・句碑

毛呂山町大類地内を走る県道39号川越坂戸毛呂山線沿いに個人の方が建立した万葉句碑があるというこ
とをひょんなことから知りましたので、場所を特定して訪ねてみました。

万 葉 歌 :萬葉集 巻十四東歌三三七八 「入間道の 大家が原の ・・・」
揮   毫 :小澤香秋
建 立 日 :平成5年11月嘉祥日
建 立 者 :新井安雄 (個人)
所 在 地 :入間郡毛呂山町大類


        
【碑文】         萬 葉 の 歌 碑

         入間道のおほやが原のいはゐ蔓 
         引かばぬるぬる吾にな絶えそね 
           伊利麻治能於保屋我波良能伊波為都良  
           比可波奴流奴流和尓奈多要曽祢
           読売歌壇十余首入選を喜びて建立 新 井 安 雄
           還暦を迎えての幸せとして    仝   ふ み
             平成癸酉五年霜月嘉祥日建之
                 狭山市 峯   小澤香秋書
                 石匠  助力  森  進謹刻

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この歌碑にある歌は、萬葉集 巻十四東歌三三七八 にある
  いりまじの   おおやがはらの  いわいづら
 伊利麻治能 於保屋我波良能 伊波為都良
  ひかばぬるぬる   わになたえそね
 比可波奴流奴流 和爾奈多要曾禰
    
《大意》「入間道のおほやが原のいわゐ蔓を 引けばぬるぬるとよってくるように あなたと私の仲を
     絶やさないでください」

歌にある「大家が原」がどこかは不確かながら、入間地方のいくつかの市町が、我が町が「大家が原」発
祥の比定地と名乗っています。
これまでに越生町・日高市・狭山市・坂戸市の4カ所でこの歌の歌碑を確認しておりますが、建立者は当
該市町の教育委員会のものが3基、ロータリークラブが1基であり、これらは比較的知れ渡っているもの
の、ここ大類の歌碑は意外と知られていませんし、現に自身も数日前に知った次第ですし、個人の建立と
いう珍しいものです。

因みに、越生町には「大谷(おおや)」、日高市には「大谷沢(おおやざわ)」、狭山市には「入間(いるま)」、 
坂戸市には「大家(おおや)」という場所(地名)があり、これらを根拠にしているようです。なお、毛呂
山町には「大谷木(おおやぎ)」という地名があります。



【碑陰】
歌碑建立に至る経緯、建立にあたってお世話になった方々への謝辞、家族のことなどが建立者の言葉が書
かれて(刻まれて)いますが、銘文はあえて転記しません。
歌碑の前を走っている道路が「埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線」です。


散策日:令和6年(2024)11月1日(金)

若泉第一公園・若泉第二公園の芭蕉句碑

2024年02月13日 | 歌碑・句碑


 句 : さざれ蟹 足這ひのぼる 清水哉 
     (さざれがに あしはいのぼる しみずかな)

出 典: 『続虚栗』  貞亨4年夏(1687) 芭蕉44歳の時の句
所在地:埼玉県本庄市若泉2丁目地外 若泉第一公園
建立年:昭和63年(1988)8月
建立者:山田石材店 寄贈


若泉第一公園(1)


若泉第一公園(2)
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 句 : 松杉を ほめてや風の かをる音 
     (まつすぎを ほめてやかぜの かおるおと)

出 典: 『杉風真蹟書簡』  元禄7年(1694) 芭蕉51歳の時の句
所在地:埼玉県本庄市若泉2丁目地外 若泉第二公園
建立年:昭和63年(1988)8月
建立者:山田石材店 寄贈


若泉第二公園

2基とも施設名(若泉第一公園、若泉第二公園)の標柱の側面に芭蕉の句を刻んだものです。

散策日:令和6年(2024)2月8日(木)

戸塚神社の芭蕉句碑

2023年05月02日 | 歌碑・句碑


 句 :  春もやゝ けしきとゝのふ 月と梅
     (はるもやや けしきととのう つきとうめ)

出 典: 『薦獅子集』 元禄6年(1693)春 芭蕉50歳の時の句
所在地:群馬県藤岡市上戸塚363 戸塚神社境内
建立日:明治27年(1894)3月15日
建立者:不詳




【碑陰】 かろうじて 明治廿七年三月十五日 建  の建立日が読め
     下に世話人等と思われる名が刻まれている



句碑は鳥居の先の石段を上った右側に建立されています  〇印のところ
戸塚神社境内には藤岡市指定史跡となっている6世紀後半築造の前方後円墳があり、前方部の墳頂に戸塚神社が
祀られ、通称「おくまん様」と呼ばれている。


散策日:令和5年(2023)4月25日(火)

大谷ヶ原萬葉公園の万葉歌碑

2022年11月30日 | 歌碑・句碑


萬葉集 巻十四東歌三三七八 「入間道の 大家が原の ・・・ 」の歌の元となった場所の比定
地とされ、この歌の歌碑が建立されている
  入間郡越生町大谷の『大谷ケ原萬葉公園・大亀沼』
を再訪してきました。

元々、この歌碑は越生町越生の越生町立図書館前に平成8年5月建立されたものですが、歌に相応しいこ
こ大谷ケ原萬葉公園に移設されたようです。前回訪れたのは歌碑が移設される前のことでした。
移設日は分りませんがここ1,2年の間かと思われます。『大谷ケ原萬葉公園説明板』と『野田宇太郎文学
散歩踏査の地の碑』は歌碑移設以前からあり、歌碑はこの両者の間に移設されています。
なお、大谷ケ原萬葉公園説明板の説明文は書き換えられて新しくなっていました。




【碑文(歌)】
  入間道の 大家が原の いはゐつら 
     引かばぬるぬる 吾にな絶えそね
     




                           (2019.06.20越生町立図書館前に建立時撮影)
【碑陰碑文】
  日本最古の歌集である萬葉集 巻十四東歌三三七八
  相聞の部 武蔵国の歌。讀人不詳。
  「伊利麻治能 於保屋我波良能 伊波為都良 
   比可婆奴流ゝゝ 和尓奈多要曾祢」

  「現在の埼玉縣入間郡越生町の大谷ヶ原(大家ヶ原)に
  大龜沼があって、そこに生い茂っている水草の蔓を引け
  ば、ずるずると抜けるように、いつまでも私との仲が切
  れないでいて下さい」、という意。
  梅の名所である越生の里に、人を慕う万葉人のやさしい
  心が今も匂っている。
       平成八年五月吉日  上林猷夫書
             (元日本現代詩人會會長) 
                 越生町教育委員会建立





大谷ケ原萬葉公園 説明板  
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    大谷ケ原萬葉公園
  い り ま ぢ の お ほ や が は ら の い は ゐ つ ら
  伊利麻治能 於保屋我波良能 伊波為都良
  ひ か ば ぬ る ぬ る わ に な た そ え ぬ
  比可波奴流奴流 和爾奈多要曾禰

  (大意)入間路の大家が原のイハヰツラが引けばゆるんで抜けるように、私との
    仲が、きれてしまわないようにして下さい。
                     (『日本文学大系6 萬葉集三』より)

 『萬葉集』巻十四の東歌に収められているこの歌は、大谷ヶ原の地名や大亀沼、高砂沼がある越生町大谷のこ
とを詠んだものといわれている。室町時代の史料に、大谷に水田があったことを示す記述があり、古くから水田
を潤す灌漑用の沼が利用されてきたものと思われる
 文政七年(一八二四)刊行の『武蔵名所考』に、「大亀の沼とて五反ばかりの池あり、(中略)萬葉にイワヰ
ツラをよみたるは此池より生ぜる藺(いぐさ)なるべし」とあり、明治初年に編纂された『武蔵国郡村誌』には、
「於保屋我波良 俗に大谷ケ原と云う…」と記されている。
 「文学散歩」という語を生み出した、詩人で評論家の野田宇太郎は、ここを訪れ、「大家が原と万葉歌」を著
している。(『東京文学散歩 武蔵野編 下』)。
 大亀沼は、昭和六十一年(一九八六)から四年間の工期で堰堤改修工事が行われ、周辺は平成四年から三年を
かけて公園として整備され、現在も、沼水は水田用水として重要な役目を担っている。
 地元でイヷッッラと呼ばれていた「いわいづら(じゅんさい)」jは、今では絶えて見ることができないが、
昭和三十年頃までは自生していた。萬葉の昔を偲ぶ憩いの場として散策していただきたい。   
  令和四年三月吉日                  越生町教育委員会
                            越生町観光協会
                            大谷ケ原萬葉公園整備推進協議会

  ※原文は、平成十六年十月、奥富善二良氏(越生町文化財保護委員・大谷在住)による。
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大亀沼






散策日:令和4年(2022)11月25日(金)

万葉歌碑「 高麗錦 紐解き放へて 寝るが上に・・・」

2022年07月18日 | 歌碑・句碑


万葉歌 :萬葉集 巻十四東歌三四六五「高麗錦 紐解き放へて 寝るが上に 何と為ろとかも あやに愛しき」
作 者 :未詳 相聞歌
揮 毫 :中西 進(万葉研究者・文学博士)
建立日 :平成2年(1990)11月10日
建立者 :日高町教育委員会 (現日高市)
所在地 :埼玉県日高市高麗本郷 巾着田

500万本の曼珠沙華群生地として知られる日高市の巾着田。巾着田とは高麗川が蛇行したその形が
「きんちゃく」の形に似ていることから呼ばれるようになりました。
その巾着田には何度も行っており、万葉歌碑が建立されていることは知っていましたが、中々歌碑
の写真を撮る機会がありませんでしたので、今回はこれを目的に行ってきました。
歌碑は日和田山を背にして建立されています。
話が逸れますが、日高市という地名は高麗川村と高麗村が合併した際に付けられた地名(合併時は
日高町)です。日高の「高」は、高麗川村、高麗村の「高」からで、「日」はこの日和田山からと
言われています。




【 碑文(歌)】 萬葉集 巻十四東歌三四六五
    巨麻尓思吉
    比毛登伎佐
    氣弖奴流我
    倍尓安杼世
    呂登可母安 
    夜尓可奈之
    伎 
 
進書
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【訓読】 高麗錦紐解き放けて寝るが上にあどせろとかもあやに愛しき
【仮名】 こまにしき ひもときさけて ぬるがへに あどせろとかも あやにかなしき
【大意】 高麗(こま)の錦の紐を解き 共寝したのにこれ以上
     あの娘(こ)はどうしてほしいのか たまらないほどいとおしい
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【碑陰】
    万葉の歌碑
  高麗錦 紐解き放けて 寝るが上に
   何と為るとかも あやに愛しき
     (万葉集巻十四. 三四六五)

  この歌は、東歌の一首で高麗郷との
  かかわりを述べる学説がある。
  文化の香り高いまちづくりをめざす
  人々に万葉の詩心が永く受け継がれ
  るよう祈念し、文学博士中西進先生
  揮毫 によるこの歌碑を高麗郷巾着田
  の地に建立したものである。

   平成二年十一月十日
    日高市教育委員会

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※ 現在の元号である『令和』の考案者は、この中西進先生だと言われています
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【歌碑の傍らに設置されている解説版】

   万葉歌碑
      巻十四⁻三四六五
       未勘国相聞往来歌百十二首の一首です。

    
    <碑文と同じにつき省略>

  「高麗錦の紐を解いて共寝をしているのに、この上、一体どう
 しろというのか、無性に可愛くてしかたがない」と歌っています。
  高麗錦とは朝鮮半島北部の高句麗で、様々な色糸を用いて織ら
 れた高級な絹織物の総称です。古代では高句麗の事を高麗と表現
 していました。
  この歌は東歌を集めた巻十四の未勘国に収められています。
 注 未勘国 国名がわからない。
   相聞往来歌 恋の歌
                平成二十九年九月
                     日高市教育委員会


散策日:令和4年(2022)7月8日(金) 

光福寺の芭蕉句碑(埼玉県本庄市)

2022年04月15日 | 歌碑・句碑


 句 : 雲雀より 空にやすらふ 峠哉
     (ひばりより そらにやすろう とうげかな)     

出 典: 『笈の小文』 貞亨5年(1688) 芭蕉45歳の時の句
所在地:埼玉県本庄市児玉町太駄(旧・児玉郡児玉町) 光福寺
建立年:-
建立者:-




光福寺は山号を地持山と号し、真言宗豊山派の寺院で、児玉三十三霊場の三十二番霊場です




山門と本堂




芭蕉句碑は境内の六地蔵の脇に建立されています
建立年・建立者は不明ですが、児玉三十三霊場のうちの数か所に近年建立されたと思われる句碑が
建立されています。

散策日:令和4年(2022)4月1日(金)

高橋家の芭蕉句碑(埼玉県行田市)

2022年01月02日 | 歌碑・句碑


句 : 名月の 花かと見えて 綿ばたけ
    (めいげつの はなかとみえて わたばたけ)     

出 典: 『続猿蓑』 元禄7年(1694) 芭蕉51歳の時の句
所在地:埼玉県行田市野 高橋家 
建立年:明治9年(1876)10月
建立者:正覚寺住職と檀家有志
指 定:行田市指定文化財(名称:高橋家の芭蕉句碑 平成5年〔1993〕3月31日指定)




高橋家の庭の一画に建立されている芭蕉句碑
※公開されていますが個人所有・敷地内のため許可をとっての見学です




『高橋家芭蕉句碑』説明板  左側の説明文を転記しておきます
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 この芭蕉句碑は、明治9年(1876)に当時の清瀧山福正院正覚寺の住職が檀家有志と共に句会を催した際に、
かつて同寺の住職であった孝協大徳の徳を称えて建立したものである。当初はここから約450m程西側にある正覚
寺の境内に建てられていましたが、後に檀家の大檀那であった高橋家が譲り受け、二度の移転を経て、現在はこの
高橋家の庭の一角に建てられています。
 高さ128cm、幅107cm、厚さ10cmの根府川石の句碑の表面には、右に「名月の花かと見えて綿ばたけ はせ
を」と芭蕉の句が刻まれ、このあたりに綿花が咲き乱れていた風情が伺えます。中央には孝協大徳を称える碑文が
記され、台石には隷書で「名月碑」と碑名が浮き彫りされています。
 刻まれている句は、芭蕉が晩年に伊賀上野で詠んだ句ですが、句碑建立当時はこのあたりにも綿畑が広がってい
たようで、それにちなんでこの句を選び句碑を建立したものと思われます。

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なお、この芭蕉句碑は行田市の指定文化財に指定されている他に、平成29年(2017)に認定された行田市の日本遺
産ストーリー「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」の構成資産にも選定されています。


この「名月の花かと・・・」の句碑は、県内に4か所ほどあるようです。私がここ高橋家以外で見た
ものは東松山市の関根家のものだけです。

見学日:令和3年(2021)12月18日(土)

星溪園の芭蕉句碑(埼玉県熊谷市)

2021年12月16日 | 歌碑・句碑


 句 :  春もやや 気色ととのふ 月と梅
     (はるもやや けしきととのう つきとうめ)

出 典:『続猿蓑』 元禄6年(1693)春 芭蕉50歳の時の句
所在地:埼玉県熊谷市鎌倉町32(星溪園)
建立日:寛政8年(1796)
建立者:不明

風化が進み読みづらくなっています
碑の裏面には「太蕪」「秋瓜」の句と、天明から寛政にかけて熊谷を拠点として活躍した俳人「官
鮎」「笑牛」「雪叩」の名が刻まれているようです




星溪園東側入口(裏口) ここの道を進んだ左側に芭蕉句碑は建立されています




園内には数基の歌句碑が建立されていますが、芭蕉句碑は鹿児島寿蔵の歌碑と並んで建立されて
います        左:鹿児島寿蔵の歌碑  右:芭蕉句碑

散策日:令和3年(2021)12月2日(木)

安養院小倉家墓地の芭蕉句碑(埼玉県本庄市)

2021年10月27日 | 歌碑・句碑


 句 :  もの言は 唇さむし 秋の風
    (ものいえば くちびるさむし あきのかぜ)

出 典: 『芭蕉庵小文庫』 貞亨元年から元禄年間ではあるが作句年詳細が不明
所在地:埼玉県本庄市中央3丁目 安養院小倉家墓地
建立日:不詳
建立者:小倉紅於(本庄宿の旅籠「小倉屋」の主人)

※ 句碑には「もの言は・・・」の もの(物)の文字が見当たりません 
「言は」は上部に刻まれていることから「もの」は初めから刻まれなかったのかも知れません? 




句碑下部の「芭蕉坐像線刻」
小倉家墓地には、この芭蕉句碑を含め江戸時代の有名な文人墨客達の遺墨を刻んだ墓石が多く
所在し、「安養院小倉家の墓碑群」の名称で、本庄市の有形文化財(記念物)に指定されてい
ます。




安養寺の総門 奥に山門 その先に本堂
これらは「安養院本堂・山門及び総門」の名称で、本庄市の有形文化財(建築物)に指定され
ています。

散策日:令和3年(2021)10月16日(土)

産泰神社の芭蕉句碑(埼玉県本庄市)

2021年10月24日 | 歌碑・句碑


 句 : しぐるるや 田の新株の 黒むほど 
     (しぐるるや たのあらかぶの くろむほど)

出 典: 『記念題』  元禄3年(1690) 芭蕉47歳の時の句
所在地:埼玉県本庄市四方田288-1 産泰神社
建立年:慶応元年(1865)8月4日
建立者:連中 




【碑陰】
 ※應元乙 丑年八月四日   
   慶應元年が乙丑(きのと)に当りますので、※應元年は慶應元年と分ります
 下部に俳人と思われる名が4名程刻まれています




句碑は鳥居の左側の少し後ろ(社殿寄り)に建立されています

散策日:令和3年(2021)10月16日(土)