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2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】野口悠紀雄の、高度成長を支えた1940年体制

2010年10月25日 | ●野口悠紀雄


(1)1940年体制の明暗
 日本の経済システムの基本は、第二次世界大戦への準備として導入された戦時経済体制である。
 この1940年体制は、戦後に生き残り、1960年代において高度成長の実現に大きな役割を果たした。
 しかし、1990年代以降に生じた世界経済の大きな構造変化への対応に関しては、本質的な障害となっている。 

(2)金融システム ~間接金融と閉鎖的企業~
 1940年体制は、金融システムに明確に表れている。
 戦後日本の金融システムは、銀行中心のものだった。
 銀行中心の金融システムは、通常は後発工業国の特徴なのだが、日本の場合、1930年代までは直接金融が大きな比重を占めていた。産業資本の大半は、証券形態で調達されていた。これを反映し、企業の配当性向は高かった。また、株主が企業の意思決定に大きな影響を及ぼしていた。アングロサクソン的経済構造にきわめて近かった。
 政府は、1940年前後、戦時経済体制の確立と軍需産業養成のために前述の経済構造に大変革を加えた。直接金融を抑制し(配当制限・株主の権利制限)、大銀行を育成した。間接金融へ急激に大転換した。
 企業の統治構造も影響を受けた。それまでは大企業の経営者で内部昇進者は3分の1にすぎなかったが、内部昇進の経営者が一般的になった。年功序列・終身雇用が支配的になった。労働組合は企業別に組織されるようになった。

(3)戦後に残った戦時体制
 1940年体制は、社会主義的な正確を帯びていた。これは、当時の世界的潮流の一環だった。
 日本の特徴は、この体制が戦後も存続したことだ。その理由は・・・・
 (a)間接占領方式がとられ、戦時中からの官僚システムがほぼそのままの形で存続した(内務省は除く)。
 (b)巨大企業は分割されたが、大銀行中心の金融制度はそのまま残った。
 (c)冷戦進展を背景とする「逆コース」により、占領方針が民主化から経済力強化に転換した。
 戦時体制は、戦後日本に存続しただけではなく、むしろ強化された。株主持ち合いによる企業の閉鎖性の進行やメインバンクの株保有によって、さらに強化された。また、系列関係も強化された。

(4)1940年体制が高度成長に果たした役割
 (a)重化学工業への重点的な資金配分が可能になった。
 銀行が資金配分に重要な役割を果たしたからだ。間接金融は直接金融よりも、より長期の発展を見すえた上での資金配分が可能なのだ。銀行を中心として企業グループが形成される1940年体制の場合、特にそうだ。
 通産省は、1960年代以降の経済成長に実質的な影響を与えたとは言えない。高度成長に重要だったのは、産業政策ではなく、金融制度だった。

 (b)家計から企業に対して、金融制度を通じる巨額の移転が行われた。
 預金や貸出しは、インフレ時には実質価値が低下する。戦後日本経済において、借手(主として企業)の実質債務価値は急速に減少し、貸手(主として家計)が金融資産を増価させることはできなかった。かくて、家計から企業に対して巨額の所得移転が行われた。これが高度成長の背後にあった重要な経済的メカニスムである。
 名目金利が自由に変動する経済においては、この傾向はある程度緩和される。預替えを頻繁に行えるなら、金融資産の実質的価値は一定に保持しうる。しかし、戦後日本経済においては、この条件は満たされなかった。名目的金利は硬直的であり、しかも定期預金は固定金利だったからだ。他方、企業は固定金利の長期借入れを行っていた。家計から企業への所得移転はきわめて巨額であった。
 戦後日本において、企業が賃金を引き上げることによって、経済成長の成果を家計に分配した。高度成長の果実は、一部の富裕資産階級ではなく、労働者階級にもたらされた。戦後日本において、世界でも稀にみる「平等社会」が実現した背後には、間接金融中心の経済メカニスムがあったのだ。
 戦後日本には、資本家階級は存在しなかった。企業を経営したのは、内部昇進者である。経済システム自体が社会主義的性格を強く持っていた。社会主義運動が攻撃するべき対象は存在しなかった。戦後の左翼運動が上滑りで迫力を欠くものになったのは、当然のことだ。

 (c)「会社がすべて」という価値観が形成された。
 戦時期に形成された雇用環境(年功序列・終身雇用)は、会社への一体感を強める。さらに、経営者が内部昇進者であること、労働組合が企業別に組織されていたため、会社は家族的関係で強固に結ばれた運命共同体と観念されるようになった。
 自立した個人よりも組織の一員、競争が悪で協調が善、自由経済取引よりも集団主義・・・・「一つの目的のために組織の全員が力を合わせる」、「集団のため個を殺す」という戦時体制特有の価値観が、「会社人間」の価値観として確実に戦後社会に引き継がれた。

(5)オイルショックという「戦争」に有効だった1940年体制
 1940年体制は、高度成長が一段落した1970年代の初めに自然分解してもよかった。より自由主義的、市場志向的、分権的な制度への緩やかな移行が生じてもおかしくなかった。
 ところが、1970年代の初めにオイルショックが生じた。オイルショックは、ある種の「戦争」だった。「戦争」において、1940年体制という「戦時体制」がきわめて適切に機能したのである。
 労使は、一体となって対処した。労働組合は、欧米諸国の労働組合のような高率の賃金上昇を要求しなかった。この結果、日本は欧米のようなスタグフレーションに陥らなかった。「日本型システム」の優位性を欧米人も認めた。

(6)依然として残る1940年体制 
 1990年代に入って、日本経済は大きな困難に直面した。
 表面的には、日本の金融システムはかなり変わった。「護送船団」方式は解体された。間接金融の優位性は低下した。金融機関や大企業さえ破綻することが現実に証明された。
 かかる変化を背景に、1940年体制は、雇用面でもかなり変わった。終身雇用・年功序列を中心とする雇用体制は、過去のものとなった。
 しかし、これらは表面的な変化であり、1940年体制の基本的構造は残った。銀行中心の金融システムが大きく揺らいでいるにもかかわらず、間接金融が支配的であることには変わりがなかった。企業の資金調達における銀行借入れは減少したが、銀行が企業に大きな影響を持つことに変わりはなかった。
 日本の家計の金融資産の過半は、依然として預金だ(米国の家計で金融資産の過半は株式、債券などだ)。
 直接金融は、銀行貸出しを代替できるまで育っていない。
 経営者が内部昇進者で独占される企業構造も、ほとんど変わっていない。経営悪化による経営陣入替えも、めったにない。

(7)1940年体制の金融・企業システムの問題点
 (a)新しい経済条件への適応への大きな障害になる。
 間接金融は、その性質上リスクマネーを供給できない。リスクの大きな投資に向かない。新産業創出の障害になる。退出するべき産業の退出を促さない、という意味でも問題だ。

 (b)企業が雇用維持を第一義的な目的とする組織になってしまっている。
 企業の存続が最重要課題とされ、会社の破綻はできる限り回避するべきものと観念された。社会が新しい可能性に挑むにはリスク挑戦が必要であるにもかかわらず、リスク回避が優先されるため、社会は沈滞し、停滞した。企業は、1970年代までの古い体質を温存し、事業の整理・縮小や、新しいビジネスモデルの創出を行わない合併統合しか行わなかった。といりわけ銀行は、「大きすぎてつぶせない」状況の実現を追求した。

 日本経済変革のためには、何より金融構造の基本を改革する必要がある。直接金融の比重を高めるべきだ。
 しかし、現実に行われたのは、銀行中心のシステムの温存だった。1940年体制の温存だった。りそなグループへの公的資金注入は、その典型である。

   *

 以上、『日本経済改造論』第2章(1940年体制とバブル)の1(高度成長を支えた戦時経済体制)による。

【参考】野口悠紀雄『日本経済改造論 -いかにして未來を切り開くか-』(東洋経済新聞社、2005)

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