語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】わが出雲・わが鎮魂

2010年04月18日 | 詩歌
  やつめさす
  出雲
  よせあつめ 縫い合わされた国
  出雲
  つくられた神がたり
  出雲
  借りものの まがいものの
  出雲よ
  さみしなにあわれ

ではじまる実験的な長詩『わが出雲・わが鎮魂』は、詩の「わが出雲」と自註の「わが鎮魂」の二つで構成される。
 註は、ふつうは本文(詩編)に付属するものだが、この詩集の場合、本文(詩編)と同じ比重で註に力が注がれている。だから、註だけ読む、という読み方も成立する。
 「やつめさす/出雲」を「わが鎮魂」は註していわく、「『出雲』の枕詞としては『八雲立つ』がよく知られているが、ここでは『古事記』にある出雲建についての歌を下敷きにしている。/『やつめさす 出雲建が 佩ける太刀 黒葛多巻き さ身しなにあれ』/『古事記』においては、この初句が『八雲立つ』である他は同じ。(中略)なお、『やつめさす出雲』は『八(弥)芽刺す出藻』から来たものとされている」うんぬん。
 ところで、「わが出雲」は全13章で構成されるが、うちⅡの全編はつぎのとおり。

  すでにして、大蛇の晴のような、出雲の呪いの中にぼくはある。米
  子空港の滑走路は、ほおずきの幻でいっぱいだ。異国の男がずかず
  かと歩いている。あの男も天から来た。緑のひげを生やしたいかめ
  しい男。背広の右の袖口から突き出ている氷の棒。左の袖にかくさ
  れた金属の棒。だが、いまは、そんな男に、かかずらってはおれな
  いのだ。外交問題はこの次にしよう。

  屋代、

  安来、

  舎人(とね)、

  大草(さくさ)、

    出雲郷(あだかい)。

 米子空港は、弓ヶ浜半島の一角にある。弓ケ浜半島は、『風土記』時代には本土から離れた砂州で、「夜見の島」と呼ばれた。夜見は、黄泉に通じる。イザナギノミコト(伊弉諾尊)の妻イザナミノミコト(伊弉冉尊)が火の神を生んだ結果住むことになった黄泉の国は、ここ「夜見の島」にあった(という説がある)。
 「わが出雲」の主人公は、米子空港に降り立った瞬間に地獄くだりをはじめたわけだ。

【参考】入澤康夫『わが出雲・わが鎮魂』(復刻新版 思潮社、2004)
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書評:『旅大陸 オーストラリア』

2010年04月18日 | エッセイ
 著者は、毎年のようにオーストラリアを訪れている。
 たとえばエアーズ・ロックには、過去5回登った。加齢とともに「登岩」する時間が長くなってきた。この変化が、著者がこれまでいかにオーストラリアにのめりこんだかの指標となる。

 かくも著者をとらえて離さないオーストラリアの魅力とは何だろうか。
 広大な、あるいは岩漠ザ・ピナクルスのような奇勝か。
 コアラやジンベイザメのような、日本ではまずお目にかかれない動物か。
 コミック『美味しんぼ』が推奨するアボリジニの野生味あふれる味覚か。

 どれかに限定する必要は、ちっとも、ない。
 オーストラリア大陸のあれやこれやの総体に惹きつけられたのだろう。
 狭い島国日本でせっせと稼ぎ、地球の裏側の大陸へ出かけて稼ぎを費消する。善哉、善哉、それもまた人生。一生続く楽しみが一つあれば、人生、それだけで生きるに価する。

 本文に詳しい注がつく。注には書ききれない主題は、少し長めのコラムに展開させている。写真は鮮明だし、地図やカットも美しい。眺めて楽しいし、旅の気分を味わいつつ知識が得られる。これからオーストラリアに出かける人には役立つし、アームチェアー・トラベラーには楽しめる本だ。

□伊藤伸平『旅大陸 オーストラリア』(凱風社、1998)
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