語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『妖怪天国』

2010年04月10日 | エッセイ
 水木しげるの故郷、鳥取県境港市の水木しげるロードには、134体の妖怪ブロンズ像が設置されている。このたび、また一体がくわわった。水木しげる夫妻のブロンズ像である。
 2010年3月8日、ちょうど88歳の誕生日を迎えた水木しげるは、除幕式に細君とともに出席した。天下晴れて、夫妻ともども妖怪の仲間に加わったのである。

 仲間入り? いや、妖怪は、もともと水木しげるの仲間だったのだ。
 むしろ、水木しげる自身の分身である、といったほうが妥当だろう。

 たとえば、ねずみ男。
 水木しげるは、本書で、「ヒル寝は自然の掟である」と断じ、「睡眠は百薬の長」と宣言する。グータラなねずみ男が水木しげるの分身であることは明かだ。

 もっとも、昼寝は水木しげる独りの特徴ではない。南国の民は、公然と、かつ、さかんに昼寝する。スペイン語圏では、シエスタと呼ばれる午睡の習慣がある。
 地球の裏側まで行かずとも、本書によれば、ニューギニアをはじめとする「南方」の人は、自然の知恵に身を任せて暑ければ眠り、餓えない程度に働けばよいらしい。すくなくとも、戦時下に訪れた水木しげるにはそう見えた。
 本書には書かれていないが、マレーシアには「山には果実があり、海には魚がいる。何をあくせくすることがあろうか」ということわざがある。

 とはいえ、鬼太郎をはじめ、かずかずの妖怪を量産(または発見)した水木しげるが、昼寝ばかりして1世紀ちかくを過ごしてきたはずはない。
 じじつ、本書には、締切に追われるその先には「人生の締切」が待ちかまえている、という考察もある(「締切病」)。
 してみれば、妖怪は、水木しげるにとってあり得たかもしれないもう一人の自分であり、こうありたかった別の自分である、とも言える。これはこれで、また、水木しげるの分身である。

 さればこそ、水木しげる描くところの妖怪は、タマネギの皮をむくように実人生の垢を剥いでいって、なお残る精気のようなものなのだ。飄々として、稚気さえある。番町皿屋敷のお化け、「一枚、二枚・・・・」の怨念はない。
 じじつ、本書には、「素直に一枚づつ皮をはぐように生きながら死んでゆき、最後にぼけるというのは最高の死に方だろう」などとも書かれている。ハイデガーのいわゆる「死に向かう存在」のようには堅固ではなく、構えていない。死も冥界も日常生活の延長にあり、生活の一部だ。
 水木漫画の妖怪が、老いたるにも若きにも幼きにも愛される所以だろう。

 本書は、1970年代から随所に書かれたエッセイを収録する。おはこの妖怪談義のほか、少年期や従軍期の回想、人生論などテーマは雑多だ。
 なお、各エッセイの初出の時期が明記されていないのは、時空を超越する妖怪的な演出・・・・ではなくて、ねずみ男的編集者の単なる怠慢だ、と思う。

□水木しげる『妖怪天国』(筑摩書房、1992)
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【言葉】書物の教訓

2010年04月10日 | 詩歌
  なぜなら書物という書物は
  こうして明日また同じように生きてゆくもののためにだけあったからだ。

【出典】堀川正美「書物の教訓」(『堀川正美詩集』思潮社 現代詩文庫、1970、所収)

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