語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【佐藤優】『十五の夏』 ~1975年のチェコ(5)~

2019年01月25日 | ●佐藤優
 <車掌に案内されて、僕はコンパートメントに入った。狭い部屋に三段ベッドが並んでいる。床には第二次世界大戦前に製造されたようなスーツケースが4~5個と段ボール箱が2~3個置かれている。文字通り、足の踏み場もない。
 僕のベッドは上段だという。しかし、日本の寝台列車のようなはしごがない。中段、下段のベッドには人が寝ている。ベッドの幅もそれほど広くないので、人を踏まないように注意しながら上段に上がった。ベッドと天井の距離は50センチくらいしかない。棺桶の中に入るような感じだ。通路側に\は人間が1人すっぽり入ることができる穴が開いている。車掌がスーツケースを持ち上げて、その穴の中に入れてくれた。
 列車はプラハ中央駅に30分くらい停まっていた。ベッドで横になると、どっと疲れが出てきたので、すぐにうとうとした。ガチャッという激しい音がして、列車が激しく揺れた。日本の寝台車と違ってベッドに柵がついていない。衝撃でベッドから落ちると、床に置いてある堅そうなスーツケースに頭をぶつけて怪我をするのではないかと心配になった。しかし、ベッドの中にしがみつく棒や綱もない。とにかく体を安定させ、ベッドから落ちることがないように注意するほかに術がない。
 列車は動き出してからもよく揺れる。なかなか寝付けない。車内放送があって、その後、蛍光灯が消え、真っ暗になった。枕元には読書灯があるが、誰もつけないので、車内は真っ暗だ。窓は斜め下なので、上段からは窓越しに夜空を見ることもできない。
 しばらくするうちに僕はぐっすり眠ってしまった。
 どれくらいの時間が経ったであろうか。誰かに肩を突かれて目を覚ました。列車は停止している。制服を着た男がコンパートメントの中に入ってきて立っている。
 「パスポルト」
 と言うので、パスポートを出した。すると男はパスポートを持って、コンパートメントの外に出ていった。30分経っても男は戻ってこない。パスポートを持ち去られてしまったのではないかと心配になった。それから数分して、さっきの制服の男と、別の制服を着た女が入ってきた。
 女が、「チェコスロバキア・マネー?」と尋ねた。
 使い残しのチェコ・コルナがあるかと聞いているのだろう。ソ連や東ヨーロッパの通貨は外国への持ち出しが禁止されている。僕は「ノー」と答えた。
 そうすると制服を着た男がパスポートを無言で僕に返した。入国のときホチキスで留められたカードが取り去られ、ビザのスタンプの上に出国印が押されていた。
 少し経って、列車がゆっくりと動き始めた。5分も走らないうちに停まった。外にホームが見える。カーキ色の制服を着た男が乗り込んできた。ポーランドの国境警備隊だ。>

□佐藤優『十五の夏(上下)』(幻冬舎、2018)の「第二章 社会主義国」の「5」から引用

 【参考】
【佐藤優】『十五の夏』 ~1975年のチェコ(4)~
【佐藤優】『十五の夏』 ~1975年のチェコ(3)~
【佐藤優】『十五の夏』 ~1975年のチェコ(2)~
【佐藤優】『十五の夏』 ~1975年のチェコ(1)~




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