語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【本】さりげない文面で痛烈な批評 ~『女優で観るか、監督を追うか』~

2016年01月23日 | 批評・思想
 
 (1)「週刊文春」に連載のエッセイをまとめた本の17冊目。ラジオ、テレビ、映画、芝居、俳優に関する話題が多いが、時に話題は時事、時の政治に及ぶ。
 軽い口調の、しなやかで透明な文体で抵抗なく読めるが、さりげなく、押しつけがましくない批評が随所に光り、独特の面白さをかもしだす

 (2)例えば、2014年7月17日付け「明白に危険な時期」は、安倍内閣が7月1日の閣議で、「集団的自衛権」の行使を認める新たな憲法解釈を決定したことから書き起こす。
 戦後69年にして、9条に象徴される平和憲法は初めて危機を迎えた、と。
 <この<改憲>に民意への問いかけがないことは、安倍内閣の強い拒否感を感じさせる。また、公明党幹部の裏切り(自民党への接近)がぎりぎりで生じたことが<決定>の原因であるのは、見る通りだ。自民総務会でも異論が噴出し、野田聖子総務会長が一任を取りつけるという展開となった。
 安倍首相が、なぜここまで強引に閣議決定をしたのかについては、<幼児化説><祖父へのコンプレックス説>ほかいろいろあるが、ぼくはそうした分析に興味がない。
 一夜明ければ、テレビはまるで他の情報しか流していない。このケロリとした雰囲気は、1960年6月19日午前0時に、いわゆる<60年安保>が<自然成立>した日の空気に似ている。ちがうのは、7月15日に岸内閣が総辞職したことである>
 安倍首相は祖父より倫理観が乏しい鉄面皮だ、と小林は評しているのだ。

 (3)小林のさりげない批評をもう一つ。
 2014年4月3日付け「津波てんでんこ」は、3月10日は翌日が11日(東日本大震災)のせいか、東京大空襲の記事が新聞に少なかった、と書き出す。東京大空襲は1945年3月の10日に入ってすぐだが、今の現代史では期日が9日とされている。
 この一夜で死者は10万人とされているが、正確なところは誰もわからない。
 小林信彦・少年は埼玉県の山奥の寺に疎開していて、3月10日は東京に帰る日だった。日付けが10日変わってまもない夜中、東京方面の空は異常な赤さだった。只事ではない、と皆が騒ぎ出したが、それでも小林少年は帰京できると一寝入りしたところで起こされ、教師が、きみたちの父兄と連絡がとれない、と告げた。
 小林少年たちは寺にとどまったが、東北その他、遠隔地に疎開した生徒たちは夜中のうちに列車に乗っていた。上野に予定どおり朝着いたら、一面焼け野原。自宅が焼け、父兄と連絡がつかない子どもたちは、戦災孤児となった。
 小林少年の自宅があった両国を含む日本橋地区東部の避難先とされていたのは、久松国民学校と久松公園だが、ここへ逃げた人たちは、ほぼ全滅に近かった。
 避難者で超満員の明治座には、楽屋口から火が入って全焼、多数の焼死者を出した。
 ここで、小林信彦は批評する。
 <関東大震災を経て、空襲の危機に向かい合ったこの地域の人々は<てんでんこ>を心得ていた。
 明治座のことを知っていたのは、父が消防団のなにかの地位にあっって、地下の扉をあけたときのショックをぼくに語ってきたせたからである。
 まちがっても、明治座の地下に逃げてはいけない、と早くからぼくは聞かされていた。官が決めた<避難先>に押しかけた人々はほぼ焼死したのである>

□小林信彦『女優で観るか、監督を追うか』(文藝春秋社、2015)
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