大岡昇平には少なからぬ紀行文がある。フィリピン、米国、欧州、ソ連、中国といった海外がもっぱらだが、私小説的な「逆杉」や日記ふうの「土佐日記」も紀行文に含めてよい。
原型は一連の俘虜ものの番外編、『敗走紀行』に遡ることができる。通常は戦記の範疇にふくめられるが、大岡昇平が描くところの敗走行には一種の解放感が漂い、それは不思議と旅のもつ自由きままさに通じている。
本書も紀行文だが、他のおおくが孤独な旅人であったのに対し、旅先に家族がいた点で他の紀行文と事情が異なる。家族すなわち長男及びその嫁である。嫁の博子は臨月だった。要するに、本書は、異国の旅をつづる紀行文であると同時に、家族との関わりをつづる私小説でもある。
大岡昇平の長男貞一は、慶応大学社会学科卒。1967年に結婚し、同年夫婦ともども渡米した。1971年にプラット・インスティテュート芸術大学(ブルックリン)を卒業後、同年6月にデイヴィス・ブロディ建築事務所(ニューヨーク)に採用された。このあたりは大岡昇平研究家には必須の知識だ。
大岡昇平が、1972年4月1日から1週間、ヴァンクーバー経由メキシコ行の航路を開設した日本航空のイノギュレーション・フライトに加わり、帰途、ニューヨークに立ち寄った目的の第一は夫婦に会うことだが、長男に帰国をそれとなく勧めるが目的の第二、滞在中に初孫が産まれた場合には祖父の役目をはたすのが第三であった。
結果としては、第二点と第三点は果たせなかった。長男の上司の好意で建築士の資格をとるために夜学に通うことになり、滞在はさらに4年伸びるのが必至となったからである。そして、初孫の萌野は、帰国後の5月3日に誕生した。
しかし、目的の第一点は有意義な結果を残した。2年間ぶりに再会した長男に、これまで著者が思いこんでいた資質とは違ったそれを息子に発見したのである。何事も見とおさなければ気がすまないこの明晰な作家にとっては、嬉しい誤算だっただろう。
親子の仲は微妙である。親にとっては子どもは何時までも子どもで、ことに未熟な頃の印象が脳裡に強くのこる。
大岡昇平の目にうつる息子は、リースマンのいわゆる「他人志向型」、「いくら反対してもむだなんじゃないかね」という哲学の持ち主であった。1960年、17歳のとき、安保改定に賛成で、彼の姉、鞆絵から「怒れる17歳じゃなくて、いかれた17歳ね」と揶揄されたほどだった。
しかるに、「テイイチは野心的ですよ」と息子の上司から太鼓判をおされて、大岡昇平は耳を疑う。そして、いい気分になって、言わずもがなの冗談を口にしたりする。プラット芸大の成績は上位だったが、この事実をこれまで言わなかったのも大岡昇平の気に入った。
子どもと親との生活年齢の絶対的な差は変わらないが、精神年齢は、親の伸びぐあいにくらべて子どもの伸びは急なのだ。その変化を親が知るのは、第三者による積極的な評価を耳にしたときだ。
かくて、大岡昇平は不案内なニューヨークで息子の「保護下にある幸福」を感じるのである。
もっとも子どもの自我の成長は、親に幸福のみをもたらすわけではない。
初孫の命名について、moyaは重い、と大岡昇平がいくぶん否定的評価をくだすと、長男は長男の思いに固執する。夫婦の諍いが解消した時、「靄」がそこにあった。その思い出につながる「靄」に音が通じる「萌野」は、捨てられないのだ。
小さな意見の相違は、貞一はテイイチと読むのかサダイチなのか定かではない、と長男が口ばしるに及んで大岡昇平はカッとする。自分が出征すれば死は免れないだろう、自分の父の一字をとって名づければ、当時1歳の長男を親族はほっとかないだろう。こうした配慮をこめた命名なのだったが、名づけた当人から苦情を申し立てられてはたまらない。
翌日さっそく電話を入れてさりげなく冷却期間を置くことにしたり、長男及びその上司たちとの会食で初孫の名を軽く冗談めかして話題にし、わだかまりを解消する工夫に忙しいが、どうやら息子のほうでは、いつものこと、と悟っている気配だ。このあたり、親子の微妙な関係がうかがわれて、少々可笑しい。
大岡昇平の古風な義理人情、人柄の暖かみを語る人は多いが、彼の気くばりは他人にも子にも発揮されたわけだ。
本書にはかかる挿話がいくつも披露される。いずれも観点はホテルに仮寓する著者だし、相手は自宅で暮らす息子夫婦だから、いくぶん一人相撲めくが、その分大岡昇平の神経のこまやかさと純情がひしひしと伝わってくる。
しかし、本書は家族関係のみを描いているわけではない。この旅人は、あふれるほどの知的好奇心の赴くままに行動する。
「ニューヨーク・タイムズ」の分厚い日曜版に掲載の書評、劇評、広告に目をとおして買うべき本、見るべき演劇などをチェックする。
『ミシュラン』や『世界文化ガイド』ニューヨーク編で美術館、博物館を研究する。ちなみに、美術館の陳列について強い『ギード・ブルー』は手に入らなかった。車で移動する人種には『ミシュラン』で十分なのだ、というのが大岡昇平の所見である。
かくて、当時評判の「オー、カルカッタ」やシェイクスピア・フェスティバル・グループによる黒人劇「ブラック・ヴィジョン」を見物し、「ゴッドファザー」は中途で席を立ち、映画『時計じかけのオレンジ』には堪能しつつも原作の末尾との違いに着目して「(キューブリック)監督はこの世界制覇暴力のイメージ化をさぼることにより、棘を柔げてショーに扇情的統一を与えた」と評する。「バレーとコンサートは時々東京に来るからニューヨークで見る必要はない」のであった。
あるいは、ホテルから徒歩1分のモダン・アート美術館に5度訪れて「ゲルニカ」とモンドリアンを「発見」し、後期印象派の画家たちが「実に幸福な時代に生きていたことを改めて感じる」
作家、文学者としても行動している。日本でたまたま読んでいたブレジンスキイ『ひよわな花』係る書評に目をとめ、書評の紹介と所見を書きつける。
長男夫婦をかわいがっているユダヤ系老婦人シルヴィヤ・バーコヴィッツが勤めるゴーサム・ブック・マート書店で、『金閣寺』の訳者アイヴァン・モリス(『野火』の訳者でもある)とゴア・ヴィダルという作家兼批評家の論争が載った掲載誌『ニューヨーク・レヴュ・オブ・ブックス』をはじめ、ポー関連文献などを買い込む。
ちなみに、ゴーサム・ブック・マート書店では、ベンギン叢書の『野火』が正面中央、目につく位置に並べられていた。1971年、David Madden編 Rediscoveries という小冊子で「忘れられた本」が注解された。コンスタン『アドルフ』、ムジール『特性のない男』、ジュリアン・グラック『アルゴールの城』などと並んで『野火』が入っている。「私は日本で唯一『忘れられた』作家になる名誉を持つことになった」
「忘れられた」ことが名誉なわけはないが、錚々たるたるヨーロッパ作家にまじって陳列されてるのは名誉に違いない。こうしたいくぶん自虐めいた諧謔は、大岡昇平の性癖である。
前々年フィンランドからパリ、コルシカ島を旅したとき、三島由紀夫の自殺についてたびたび意見を求められた。『萌野』において、大岡昇平は所見を書きしるす。
日本の文学者は三島由紀夫の政治的な主張にあまり重きを置いていない。文学者は、文学の上でまだすることがあるならば自殺はしない。1961年に『花影』を刊行したとき、自殺の決意をうまく予告することができず、最後の章で「準備はとっくにできていた」と書いた。極めて技巧的な作家であった三島由紀夫はこのくだりを褒めた。三島由紀夫は自分に即して語ったのではないか。その頃、大岡昇平は三島由紀夫の書くものに危険な徴候を感じ、好きになれなくなっていた。三島が「私的暴力を擁して、1970年の安保条約改定期限になにかを企んでいることを隠さなくなって以来。彼はわれわれの前に公然たる敵として現れた」
だが、4月16日、川端康成の自殺の報に接し、現地はもとより日本からも意見を求められても、大岡昇平は三島由紀夫に対するほど明確な意見を表明していない。元警察総監の立候補応援後、しかも彼が落選した後「少し言動がおかしくなっていた」という噂を長男に伝えるにとどめている。むしろ、川端康成の爽やかな思い出しか書いていない(川端康成自身が選者だった日本文学全集に、2巻を予想した周囲に対して自分の作品は1巻に収録できる、と断言した)。死んでまもない故人への配慮であろう。しかも、三島由紀夫とちがって、大岡昇平にとっては先輩である。ケンカ大岡には、こうした気くばりがある。
時事への関心も旺盛で、たびたび朝日新聞ニューヨーク支局を訪れては、支局長松田幸雄から北爆やニクソン政権に係るレクチャーを受けている。米国にいるからといってよく見えるわけではない、と松田支局長(当時)はいうが、報道する者の自己限定があって、かえってその言辞が信頼できる。
それはともかく、時代へのこうした敏感さは、小説は時代を写す鏡、という小説観だけによるのではあるまい。ことに戦争は現代社会、現代政治を読み解く手がかりとして大岡昇平の関心の的だったに違いないし、そうでなくとも自分の戦争体験からしてほっとけない、という気持ちもあったのではないか。
出立時、「4時29分で61.9度。4月8日に着いた頃には39度前後、12日間の間にニューヨークには春が来たのである」と書く。
空間の把握に敏感なこの元兵士は、時間の推移にも敏感な人であった。
□大岡昇平『萌野』(講談社文庫、1978)
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原型は一連の俘虜ものの番外編、『敗走紀行』に遡ることができる。通常は戦記の範疇にふくめられるが、大岡昇平が描くところの敗走行には一種の解放感が漂い、それは不思議と旅のもつ自由きままさに通じている。
本書も紀行文だが、他のおおくが孤独な旅人であったのに対し、旅先に家族がいた点で他の紀行文と事情が異なる。家族すなわち長男及びその嫁である。嫁の博子は臨月だった。要するに、本書は、異国の旅をつづる紀行文であると同時に、家族との関わりをつづる私小説でもある。
大岡昇平の長男貞一は、慶応大学社会学科卒。1967年に結婚し、同年夫婦ともども渡米した。1971年にプラット・インスティテュート芸術大学(ブルックリン)を卒業後、同年6月にデイヴィス・ブロディ建築事務所(ニューヨーク)に採用された。このあたりは大岡昇平研究家には必須の知識だ。
大岡昇平が、1972年4月1日から1週間、ヴァンクーバー経由メキシコ行の航路を開設した日本航空のイノギュレーション・フライトに加わり、帰途、ニューヨークに立ち寄った目的の第一は夫婦に会うことだが、長男に帰国をそれとなく勧めるが目的の第二、滞在中に初孫が産まれた場合には祖父の役目をはたすのが第三であった。
結果としては、第二点と第三点は果たせなかった。長男の上司の好意で建築士の資格をとるために夜学に通うことになり、滞在はさらに4年伸びるのが必至となったからである。そして、初孫の萌野は、帰国後の5月3日に誕生した。
しかし、目的の第一点は有意義な結果を残した。2年間ぶりに再会した長男に、これまで著者が思いこんでいた資質とは違ったそれを息子に発見したのである。何事も見とおさなければ気がすまないこの明晰な作家にとっては、嬉しい誤算だっただろう。
親子の仲は微妙である。親にとっては子どもは何時までも子どもで、ことに未熟な頃の印象が脳裡に強くのこる。
大岡昇平の目にうつる息子は、リースマンのいわゆる「他人志向型」、「いくら反対してもむだなんじゃないかね」という哲学の持ち主であった。1960年、17歳のとき、安保改定に賛成で、彼の姉、鞆絵から「怒れる17歳じゃなくて、いかれた17歳ね」と揶揄されたほどだった。
しかるに、「テイイチは野心的ですよ」と息子の上司から太鼓判をおされて、大岡昇平は耳を疑う。そして、いい気分になって、言わずもがなの冗談を口にしたりする。プラット芸大の成績は上位だったが、この事実をこれまで言わなかったのも大岡昇平の気に入った。
子どもと親との生活年齢の絶対的な差は変わらないが、精神年齢は、親の伸びぐあいにくらべて子どもの伸びは急なのだ。その変化を親が知るのは、第三者による積極的な評価を耳にしたときだ。
かくて、大岡昇平は不案内なニューヨークで息子の「保護下にある幸福」を感じるのである。
もっとも子どもの自我の成長は、親に幸福のみをもたらすわけではない。
初孫の命名について、moyaは重い、と大岡昇平がいくぶん否定的評価をくだすと、長男は長男の思いに固執する。夫婦の諍いが解消した時、「靄」がそこにあった。その思い出につながる「靄」に音が通じる「萌野」は、捨てられないのだ。
小さな意見の相違は、貞一はテイイチと読むのかサダイチなのか定かではない、と長男が口ばしるに及んで大岡昇平はカッとする。自分が出征すれば死は免れないだろう、自分の父の一字をとって名づければ、当時1歳の長男を親族はほっとかないだろう。こうした配慮をこめた命名なのだったが、名づけた当人から苦情を申し立てられてはたまらない。
翌日さっそく電話を入れてさりげなく冷却期間を置くことにしたり、長男及びその上司たちとの会食で初孫の名を軽く冗談めかして話題にし、わだかまりを解消する工夫に忙しいが、どうやら息子のほうでは、いつものこと、と悟っている気配だ。このあたり、親子の微妙な関係がうかがわれて、少々可笑しい。
大岡昇平の古風な義理人情、人柄の暖かみを語る人は多いが、彼の気くばりは他人にも子にも発揮されたわけだ。
本書にはかかる挿話がいくつも披露される。いずれも観点はホテルに仮寓する著者だし、相手は自宅で暮らす息子夫婦だから、いくぶん一人相撲めくが、その分大岡昇平の神経のこまやかさと純情がひしひしと伝わってくる。
しかし、本書は家族関係のみを描いているわけではない。この旅人は、あふれるほどの知的好奇心の赴くままに行動する。
「ニューヨーク・タイムズ」の分厚い日曜版に掲載の書評、劇評、広告に目をとおして買うべき本、見るべき演劇などをチェックする。
『ミシュラン』や『世界文化ガイド』ニューヨーク編で美術館、博物館を研究する。ちなみに、美術館の陳列について強い『ギード・ブルー』は手に入らなかった。車で移動する人種には『ミシュラン』で十分なのだ、というのが大岡昇平の所見である。
かくて、当時評判の「オー、カルカッタ」やシェイクスピア・フェスティバル・グループによる黒人劇「ブラック・ヴィジョン」を見物し、「ゴッドファザー」は中途で席を立ち、映画『時計じかけのオレンジ』には堪能しつつも原作の末尾との違いに着目して「(キューブリック)監督はこの世界制覇暴力のイメージ化をさぼることにより、棘を柔げてショーに扇情的統一を与えた」と評する。「バレーとコンサートは時々東京に来るからニューヨークで見る必要はない」のであった。
あるいは、ホテルから徒歩1分のモダン・アート美術館に5度訪れて「ゲルニカ」とモンドリアンを「発見」し、後期印象派の画家たちが「実に幸福な時代に生きていたことを改めて感じる」
作家、文学者としても行動している。日本でたまたま読んでいたブレジンスキイ『ひよわな花』係る書評に目をとめ、書評の紹介と所見を書きつける。
長男夫婦をかわいがっているユダヤ系老婦人シルヴィヤ・バーコヴィッツが勤めるゴーサム・ブック・マート書店で、『金閣寺』の訳者アイヴァン・モリス(『野火』の訳者でもある)とゴア・ヴィダルという作家兼批評家の論争が載った掲載誌『ニューヨーク・レヴュ・オブ・ブックス』をはじめ、ポー関連文献などを買い込む。
ちなみに、ゴーサム・ブック・マート書店では、ベンギン叢書の『野火』が正面中央、目につく位置に並べられていた。1971年、David Madden編 Rediscoveries という小冊子で「忘れられた本」が注解された。コンスタン『アドルフ』、ムジール『特性のない男』、ジュリアン・グラック『アルゴールの城』などと並んで『野火』が入っている。「私は日本で唯一『忘れられた』作家になる名誉を持つことになった」
「忘れられた」ことが名誉なわけはないが、錚々たるたるヨーロッパ作家にまじって陳列されてるのは名誉に違いない。こうしたいくぶん自虐めいた諧謔は、大岡昇平の性癖である。
前々年フィンランドからパリ、コルシカ島を旅したとき、三島由紀夫の自殺についてたびたび意見を求められた。『萌野』において、大岡昇平は所見を書きしるす。
日本の文学者は三島由紀夫の政治的な主張にあまり重きを置いていない。文学者は、文学の上でまだすることがあるならば自殺はしない。1961年に『花影』を刊行したとき、自殺の決意をうまく予告することができず、最後の章で「準備はとっくにできていた」と書いた。極めて技巧的な作家であった三島由紀夫はこのくだりを褒めた。三島由紀夫は自分に即して語ったのではないか。その頃、大岡昇平は三島由紀夫の書くものに危険な徴候を感じ、好きになれなくなっていた。三島が「私的暴力を擁して、1970年の安保条約改定期限になにかを企んでいることを隠さなくなって以来。彼はわれわれの前に公然たる敵として現れた」
だが、4月16日、川端康成の自殺の報に接し、現地はもとより日本からも意見を求められても、大岡昇平は三島由紀夫に対するほど明確な意見を表明していない。元警察総監の立候補応援後、しかも彼が落選した後「少し言動がおかしくなっていた」という噂を長男に伝えるにとどめている。むしろ、川端康成の爽やかな思い出しか書いていない(川端康成自身が選者だった日本文学全集に、2巻を予想した周囲に対して自分の作品は1巻に収録できる、と断言した)。死んでまもない故人への配慮であろう。しかも、三島由紀夫とちがって、大岡昇平にとっては先輩である。ケンカ大岡には、こうした気くばりがある。
時事への関心も旺盛で、たびたび朝日新聞ニューヨーク支局を訪れては、支局長松田幸雄から北爆やニクソン政権に係るレクチャーを受けている。米国にいるからといってよく見えるわけではない、と松田支局長(当時)はいうが、報道する者の自己限定があって、かえってその言辞が信頼できる。
それはともかく、時代へのこうした敏感さは、小説は時代を写す鏡、という小説観だけによるのではあるまい。ことに戦争は現代社会、現代政治を読み解く手がかりとして大岡昇平の関心の的だったに違いないし、そうでなくとも自分の戦争体験からしてほっとけない、という気持ちもあったのではないか。
出立時、「4時29分で61.9度。4月8日に着いた頃には39度前後、12日間の間にニューヨークには春が来たのである」と書く。
空間の把握に敏感なこの元兵士は、時間の推移にも敏感な人であった。
□大岡昇平『萌野』(講談社文庫、1978)
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