今回特に目立つのは、これまで海外援助や社会問題(ホームレス支援・自死対策)に既に取り組んできた僧侶たちや団体がいち早く震災への対応に乗り出しことだ。【上田紀行】
初めてボランティア活動に参加したのは1980年。この年から、曹洞宗はカンボジアの難民キャンプを支援している。以来30年近く、世界各地でボランティア活動をしている。【三部義道】
阪神・淡路大震災や中越地震とは、災害そのものがまるっきり違う。感情的にも全然違う。地震だけであれば、家が倒壊しても、家そのものはその場所に残る。衣類、貴重品、思い出の品を掘り起こし、手にすることができる。今回は、木造の家そのものがほとんど流された。車も流された。船が流され、漁師は仕事も流された。町全体が流され、家族も流された。遺体すら奪われてしまった。喪失感の大きさは、まったく経験したことがない災害だ。【三部】
震災の4日後、気仙沼に入った。第一の役割は拠点を作ることだった。公共の建物は避難所になっている。ボランティアの宿泊場所が必要だった。そこで、寺を活用できないか、と縁故を頼ったり、飛び込みで寺と交渉した。【三部】
そこらへんが寺のネットワークの強みだ。日本の寺は全国で76,000と、コンビニエンスストアの数の2倍近くある。それが活用されれば、たいへん大きな力になる。【上田】
みなさん、快く提供してくださった。拠点を作った後は、炊き出し支援を行った。従来は炊き出しは1週間あれば事足りた。しかし、自衛隊が10万人入っても、その仕事は遺体捜索、瓦礫撤去、道路整備など広範囲に及ぶ。炊き出しも重要な支援だと、続けた。【三部】
炊き出しは誰でもできる。僧侶は僧侶にだけできる活動をすべきだ、という意見もある。【上田】
寺は炊き出しが得意だ。普段から一度に100人、200人が集まって食事を作る機会がある。大きな鍋、たくさんの食器、ガスボンベがある。修行道場で食事を作る係もいる。その上、全国どこにでもある。寺が初期に有効な支援活動をできるのは間違いない。【三部】
人が生きていく上で、地域社会の横のつながりと同時に、先祖や子孫との縦のつながりも大切になる。ところが、今回、墓も流されてしまった。縦のつながりが切られてしまいかねない状態になっている。【上田】
瓦礫の中から位牌を探している人は、「先祖まで流してしまった」という罪悪感を感じていたようだ。罪悪ではないのだが、申し訳ないという思いがあったようだ。【三部】
そうした中で「希望」をみつけるのは、なかなか難しい。【上田】
ただ、東北地方が昔から培ってきた「地域の横のつながりの力」は随所に見られた。<例>牝鹿半島に外部から支援が入ったのは震災から10日後だった。集落で寺の本堂に40人ほど避難し、家にある冷蔵庫の食材を持ち寄って、分け合って暮らしていた。無住寺でも檀家が中心となって地域の人々を広く受け入れて方を寄せ合っていた。【三部】
そうした絆のあるところでは災害にも強い、ということだ。【上田】
心の問題よりも先に、葬式、なくなった位牌、墓など実務的な相談を多く受けた。心のケアももちろん必要なのだろうが、その前に目前の現実に向きあうことでしか傷を癒せなかったのかもしれない。【三部】
僧侶としての役割を感じたのはどんなところか。【上田】
ある寺で、位牌を綺麗に掃除していた時にお参りに来た人から感謝された、という話を聞いた。慰霊する対象として形があるのとないのとでは全然違う。その形を整えていくのも我々の仕事だ。49日、100箇日のお参りをすることで遺族にも新しいステージに入ってもらえる。【三部】
以上、上田紀行(東京工業大学大学院准教授、文化人類学者、医学博士)/三部義道(ぎどう・シャンティ国際ボランティア会副会長、松林寺住職、曹洞宗特派布教師)「救いの力を取り戻すには」(「週刊金曜日」2011年8月5日・8月12日合併号)に拠る。
*
宮城県石巻市の渡波地区は津波で甚大な被害があったが、同地区の寺「洞源院」(曹洞宗)は高台にあったため津波被害はなく、地震被害も軽微だった。
震災当初、300人弱が避難してきた。1週間ほどすると、避難民は400人以上に膨れあがった。付近に学校、公民館といった避難所があるが、朝晩に炊き出しをしていたのは、同寺だけだったからだ。
行政はなかなか来なかった。小野寺住職がまとめ役を務めた。3日過ぎると、津波被害のない地域へ行き、米を調達し、1週間しのいだ。その後は、自衛隊が給水支援に入ってきた。しかし、石巻市渡波支所は本庁と連絡がとれず、あてにできなかった。
同寺には、ホームページがあり電子掲示板がある。情報交換に使われた。支援の輪が広がった。安否確認、必要な物資の連絡手段になった。
避難所は閉鎖されるが、小野寺住職は、避難所生活をしてきた人たちとともに、仲間作りができるコミュニティ「洞源叢林舎」創設を考えている。困ったときに助け合いや相談ができる場所だ。いつかどこかで災害が起きたとき、恩に報いる活動をしたい。
ところで、同寺は約束事8ヶ条を作り、役割を分担して共同生活した。<例>水調達の班は、飲料水確保のため、給水地点まで往復3時間をかけた。
小野崎住職も、水の調達のため、被災していない地区に向かった。その時、不思議な感覚を味わった。地獄絵のようだった被災地区から山を越えると、日常と変わらない風景が広がっていた。「もしかすると、日常の中に極楽があるのかもしれない」・・・・小野寺住職の宗教観を揺るがす一瞬だった。
津波で甚大な被害のあった宮城県南三陸町と栗原市とは、「塩の道」で結ばれる。
栗原市築館薬師の寺「通大寺」(曹洞宗)は、3・11から通信が遮断された。三陸はめちゃくちゃ、という情報は、ようやく18日に入ってきた。栗原市内の火葬場は満杯になった。
市内だけでも、一日7~8体。対応しきれなかった。火葬場では経を読むことしかできなかった。ガソリンもないので何もできなかった。そのため、周りでできることをするしかなかった。正解はない。その都度答を出していくしかない。【金田諦応・通大寺住職】
金田住職は、震災後、遺体の浮いているはずの志津川湾を目にし、星や月が浮かんでいる夜空を「綺麗だ」と思うと同時に、「私とあなたという区別はない」と感じた。
「私=あなた、We are always you.だ。それは本来、人間が持っていないといけない感覚だ。宗教者と一般の人が共に歩むことでもある」【金田住職】
4月28日の「49日」には、金田住職の呼びかけで、栗原市内の住職たちが集まり、南三陸町で「鎮魂の行脚」を行った。
5月15日から、移動喫茶「カフェ・ド・モンク」を開いた。南三陸町や石巻市の牝鹿関東などで、被災者の声に耳を傾けるのだ(傾聴活動)。「モンク」は僧侶のことだが、「文句」を言ってもいい、という意味でもある。
日本の仏教は葬式仏教と揶揄されるが、これまでもグリーフ(悲嘆)ワークをしてきた。意識はせずとも、経験として身についてる。【金田住職】
以上、渋井哲也(ジャーナリスト)「一緒に祈るしかない」(「週刊金曜日」2011年8月5日・8月12日合併号)に拠る。
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初めてボランティア活動に参加したのは1980年。この年から、曹洞宗はカンボジアの難民キャンプを支援している。以来30年近く、世界各地でボランティア活動をしている。【三部義道】
阪神・淡路大震災や中越地震とは、災害そのものがまるっきり違う。感情的にも全然違う。地震だけであれば、家が倒壊しても、家そのものはその場所に残る。衣類、貴重品、思い出の品を掘り起こし、手にすることができる。今回は、木造の家そのものがほとんど流された。車も流された。船が流され、漁師は仕事も流された。町全体が流され、家族も流された。遺体すら奪われてしまった。喪失感の大きさは、まったく経験したことがない災害だ。【三部】
震災の4日後、気仙沼に入った。第一の役割は拠点を作ることだった。公共の建物は避難所になっている。ボランティアの宿泊場所が必要だった。そこで、寺を活用できないか、と縁故を頼ったり、飛び込みで寺と交渉した。【三部】
そこらへんが寺のネットワークの強みだ。日本の寺は全国で76,000と、コンビニエンスストアの数の2倍近くある。それが活用されれば、たいへん大きな力になる。【上田】
みなさん、快く提供してくださった。拠点を作った後は、炊き出し支援を行った。従来は炊き出しは1週間あれば事足りた。しかし、自衛隊が10万人入っても、その仕事は遺体捜索、瓦礫撤去、道路整備など広範囲に及ぶ。炊き出しも重要な支援だと、続けた。【三部】
炊き出しは誰でもできる。僧侶は僧侶にだけできる活動をすべきだ、という意見もある。【上田】
寺は炊き出しが得意だ。普段から一度に100人、200人が集まって食事を作る機会がある。大きな鍋、たくさんの食器、ガスボンベがある。修行道場で食事を作る係もいる。その上、全国どこにでもある。寺が初期に有効な支援活動をできるのは間違いない。【三部】
人が生きていく上で、地域社会の横のつながりと同時に、先祖や子孫との縦のつながりも大切になる。ところが、今回、墓も流されてしまった。縦のつながりが切られてしまいかねない状態になっている。【上田】
瓦礫の中から位牌を探している人は、「先祖まで流してしまった」という罪悪感を感じていたようだ。罪悪ではないのだが、申し訳ないという思いがあったようだ。【三部】
そうした中で「希望」をみつけるのは、なかなか難しい。【上田】
ただ、東北地方が昔から培ってきた「地域の横のつながりの力」は随所に見られた。<例>牝鹿半島に外部から支援が入ったのは震災から10日後だった。集落で寺の本堂に40人ほど避難し、家にある冷蔵庫の食材を持ち寄って、分け合って暮らしていた。無住寺でも檀家が中心となって地域の人々を広く受け入れて方を寄せ合っていた。【三部】
そうした絆のあるところでは災害にも強い、ということだ。【上田】
心の問題よりも先に、葬式、なくなった位牌、墓など実務的な相談を多く受けた。心のケアももちろん必要なのだろうが、その前に目前の現実に向きあうことでしか傷を癒せなかったのかもしれない。【三部】
僧侶としての役割を感じたのはどんなところか。【上田】
ある寺で、位牌を綺麗に掃除していた時にお参りに来た人から感謝された、という話を聞いた。慰霊する対象として形があるのとないのとでは全然違う。その形を整えていくのも我々の仕事だ。49日、100箇日のお参りをすることで遺族にも新しいステージに入ってもらえる。【三部】
以上、上田紀行(東京工業大学大学院准教授、文化人類学者、医学博士)/三部義道(ぎどう・シャンティ国際ボランティア会副会長、松林寺住職、曹洞宗特派布教師)「救いの力を取り戻すには」(「週刊金曜日」2011年8月5日・8月12日合併号)に拠る。
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宮城県石巻市の渡波地区は津波で甚大な被害があったが、同地区の寺「洞源院」(曹洞宗)は高台にあったため津波被害はなく、地震被害も軽微だった。
震災当初、300人弱が避難してきた。1週間ほどすると、避難民は400人以上に膨れあがった。付近に学校、公民館といった避難所があるが、朝晩に炊き出しをしていたのは、同寺だけだったからだ。
行政はなかなか来なかった。小野寺住職がまとめ役を務めた。3日過ぎると、津波被害のない地域へ行き、米を調達し、1週間しのいだ。その後は、自衛隊が給水支援に入ってきた。しかし、石巻市渡波支所は本庁と連絡がとれず、あてにできなかった。
同寺には、ホームページがあり電子掲示板がある。情報交換に使われた。支援の輪が広がった。安否確認、必要な物資の連絡手段になった。
避難所は閉鎖されるが、小野寺住職は、避難所生活をしてきた人たちとともに、仲間作りができるコミュニティ「洞源叢林舎」創設を考えている。困ったときに助け合いや相談ができる場所だ。いつかどこかで災害が起きたとき、恩に報いる活動をしたい。
ところで、同寺は約束事8ヶ条を作り、役割を分担して共同生活した。<例>水調達の班は、飲料水確保のため、給水地点まで往復3時間をかけた。
小野崎住職も、水の調達のため、被災していない地区に向かった。その時、不思議な感覚を味わった。地獄絵のようだった被災地区から山を越えると、日常と変わらない風景が広がっていた。「もしかすると、日常の中に極楽があるのかもしれない」・・・・小野寺住職の宗教観を揺るがす一瞬だった。
津波で甚大な被害のあった宮城県南三陸町と栗原市とは、「塩の道」で結ばれる。
栗原市築館薬師の寺「通大寺」(曹洞宗)は、3・11から通信が遮断された。三陸はめちゃくちゃ、という情報は、ようやく18日に入ってきた。栗原市内の火葬場は満杯になった。
市内だけでも、一日7~8体。対応しきれなかった。火葬場では経を読むことしかできなかった。ガソリンもないので何もできなかった。そのため、周りでできることをするしかなかった。正解はない。その都度答を出していくしかない。【金田諦応・通大寺住職】
金田住職は、震災後、遺体の浮いているはずの志津川湾を目にし、星や月が浮かんでいる夜空を「綺麗だ」と思うと同時に、「私とあなたという区別はない」と感じた。
「私=あなた、We are always you.だ。それは本来、人間が持っていないといけない感覚だ。宗教者と一般の人が共に歩むことでもある」【金田住職】
4月28日の「49日」には、金田住職の呼びかけで、栗原市内の住職たちが集まり、南三陸町で「鎮魂の行脚」を行った。
5月15日から、移動喫茶「カフェ・ド・モンク」を開いた。南三陸町や石巻市の牝鹿関東などで、被災者の声に耳を傾けるのだ(傾聴活動)。「モンク」は僧侶のことだが、「文句」を言ってもいい、という意味でもある。
日本の仏教は葬式仏教と揶揄されるが、これまでもグリーフ(悲嘆)ワークをしてきた。意識はせずとも、経験として身についてる。【金田住職】
以上、渋井哲也(ジャーナリスト)「一緒に祈るしかない」(「週刊金曜日」2011年8月5日・8月12日合併号)に拠る。
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