語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【禅】只管打座

2014年10月10日 | 心理
 【入宋当初】若き道元は、夏六月のひるさがり、炎天の下で笠もつけず、全身の汗を拭おうともしないで、ひたすら仏殿のまえで苔を晒している老僧ににたずねる。

 道元、「お幾つになられる」
 典座、「六十八歳」
 道元、「どうして助手をお使いにならぬ」
 典座、「かれは俺でない」
 道元、「あなたは生真面目すぎる。日ざしもこんなにきびしい。何でそんなに働きなさる」
 典座、「いったい、何時を待てばよいのです」

 道元は、返す言葉に窮する。禅は我が身に行ずるのである。他の人に代わることはできない。今を措いて、先におくることもできない。若いときに一度手に入れておけば、終生遊んで暮らせる株券ではない。
 さらに道元はもう一人の老典座と出会う。この人もまた大衆に食を供するために、おのが身を粉にしていた。

 道元、「そのお年で、どうして座禅弁道せず、古人の話頭を研究せず、わざわざ典座となって、労働ばかりなさるのです。どんなよいことがあるのです」
 典座は大笑した。「お人好しの外国の学生さん、君はまだ弁道を知らん、まだ学問を心得ぬわい」

 道元は、ふたたび絶句する。そして、真の弁道と真の文字を学ぶ。弁道とは、おのが身に仏道を行ずることであり、自己を忘れることである。忘れたおのが身に、おのずから古人の話頭も文字も生きかえる。只管打座とは、もっとも偉大な文字であり、知識であった。

□柳田聖山「禅の歴史と語録」(『禅語録』(中央公論社、1974)冒頭解説)から引用。ただし、冒頭の【 】内は引用者が補足。
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