語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【大岡昇平】社会を見る眼 ~「末期の眼」・批判~

2013年12月23日 | ●大岡昇平
 丸谷才一は、何度か大岡昇平を論じている。その代表は、『文章読本』の第9章「文体とレトリック」だ。第9章の例文は、すべて『野火』から採られている。つまり、文章読本』の第9章は、文体とレトリックの見地からする『野火』論とも言える。
 丸谷の最後の評論集、最後のと思うが、『別れの挨拶』でも小さな大岡昇平論を収録している。題して「末期の眼と歩哨の眼」。日本文学史における大岡昇平の独特な立ち位置を明快に剔抉する。

 まず、丸谷の論旨をたどろう。
 日本文学史には「末期の眼」という概念があって、これがなかなか人気がある。川端康成が小説作法を求められて書いた随筆「末期の眼」に由来する。川端「末期の眼」は、論旨がはなはだとらえにくいが、全体として死と亡びへの関心が渦巻いている。なかでも大事なのは、引用した芥川龍之介の遺書の、
 <君は自然の美しいのを愛ししかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは、僕の末期の眼に映るからである>
というくだりだ。川端はしきりに賞賛しているが、これだけなら大したことはない。しかし、この随筆全体の文脈のなかに置かれると、芥川の遺書の達意平明な言葉遣いが急に曖昧になり、その分だけ有り難みが増し、その結果、戦前の日本文学を支配した。現在もその気配が少し残っているかもしれない。
 川端「末期の眼」の評判がよかったのは、明治末年以後に形成されて主流となった文学理念に合致していたからだ。換言すれば、川端が芥川の言葉を借りて、その文学理念をうまく要約した。それは、普通の人間には文学はわからないし、書けない、という考え方だった。何かむやみにすごい話で、非情とか冷酷とかを褒めるあまり、健康に生活している者の眼ではなく、もうじき死ぬ者の眼でこの世を見ることを理想としたのだ。そういう眼でとらえたのが本当の現実だ、というわけで、当然、読者はこの見方に感動することを要求された。これが日本純文学という制度の定めた美学だった。
 一つには、わが近代文学が正岡子規以来、わけても歌人や俳人に多いのだが、病者の制作だったため、社会的人間という相よりむしろ生理的人間を重んじがちなことが作用していた。そこへ、西欧の新しい文学流派(浪漫主義・世紀末文学)が押し寄せ、その気風に輪をかけた。その結果、病人こそ文学的人間像の典型であるみたいな風土が確立したらしい。
 かくて、体が健全で食欲が旺盛なのは俗悪で、非文学的で、命旦夕に迫っているのが高級なことになり、せめてそのふりをしようと皆が懸命に心がけたのだ。
 社会的人間であることを嫌う点で、この病者への執着は、例の「余計者」(これも重要な文学用語)とよく似ている。これはロシア文学史の概念で、明治末年以来、日本では非常に受けた。しかし、最初に余計者が登場する根拠であった文明批評の精神はどこかに置き忘れられ、社会がきれいに消え失せた。あれはもともと社会を描くための逆手だったはずなのに、その窮余の一策が常套的な型になり、緊張を失ったわけだ。
 正統的な西欧小説の考え方でいけば、妙に厭がらないで社会とつきあっているからこそ、社会を批評できる。最初からふてれくされて背を向けたのでは、向こう三軒両隣にはじまる世間だの国だのが見えなくなる。
 「末期の眼」と「余計者」は、西欧と違って正統的な小説を書くのがむずかしい風土において、無理やり小説を書こうとするときの切ない工夫であった。後進国の場合、西欧と社会構造が違うので、西欧小説(ジェーン・オースティンが典型)をモデルにした小説が書きにくかったり、無内容になったり、現実味が薄れたりする。そこで必死になって工夫しているうちに西欧小説から離れてゆくわけだが、その離れ方のうち、或る種の成功をもたらしたものは、当然、書き方の型ないしコツとして定着する。ロシア渡来の「余計者」も国産の「末期の眼」も、この種の成功例だった。

 丸谷は、以上のように日本文学史の特徴を指摘した上で、大岡昇平は日本文学史の主流から遠くに位置する、と判定する。
 スタンダールに学んで小説を書く大岡には、いつも西欧の型が意識されていた。もっと具体的には、彼は常に社会小説の作家だった。社会的動物としての人間に寄せる関心は、彼の視線の最も重要なものだった。
 そういう作家が、いまここに居るのが不思議だ、という感覚【注】を大事にしているとき、それは「末期の眼」で世界を見ることにならなかったし、なるはずもなかった。『野火』の西欧的なレトリック、聖書的な比喩がきれいに安定しているのは、一つにはこの条件があるからだ。
 フィリピンの自然が豪奢なくらい美しく描かれるのは、「末期の眼」というレンズを通して捉えられるからだ。しかし、一人称で書かれているその『野火』でさえ、単純に作中人物のレンズだけで処理されているのではなく、作者の叙述というフィルターをかけて、二重じかけになっている。それ故、こkじょには「末期の眼」でではなく、もっと健全な、平静な眼で見られた、人間的悲惨の物語があることになった。同じことは、三人称で書かれたほかの作品の場合、もっと明白になっているだろう。
 ところで、大岡には「歩哨の眼について」という短編小説(ただし、丸谷の分類では随筆)がある。この1950年の作品には、例の「末期の眼」に対する批判が底にあるような気がする。
 <視覚はそれほど幸福な感覚ではないと思われる。(中略)。眼が物象を正確に映すのに、距離の理由で、我々がそれを行為の対象とすることが出来ない。それが不幸なのである>
 要するに、厄災を見ても助けにゆけない、ということらしい。というのは、この随筆が『ファウスト』第二部、望楼守の歌、<見るために生まれ/見よと命じられ/塔の番を引き受けていると/世の中がおもしろい。>の引用からはじまり、同じ望楼守の台詞、<小屋の中が燃えあがる。/早く助けてやらねばならぬが、救いの手は見あたらない。/・・・・・・・・/お前たち、目よ、これを見きわめねばならぬのか!/おれはこんなに遠目がきかなくてはならぬのか>で終わっているからだ。
 救うことはできないがよく見える望楼守とは、小説家だろう。あるいは、大岡が属している流派の小説家では、そういう優しい心が大事だったし、大岡はシニックな口調でそれを隠さなければ自分でも困るくらい登場人物に対して思いやりのある小説家だった。人間的現実へのこの嘆き方は、作中人物と作者との関係として丸谷には十分に納得がいく。「末期の眼」を礼讃して深刻ぶるよ9り、人間的にも文学的にもずっと大人びているような気がする。

 【注】「いまここに居るのが不思議だ、という感覚」とは、(1)あの大がかりな戦争でよくぞ死ななかった、という感慨。(2)諸国の核兵器の膨大な保有量にも拘わらず自分が生きて来た、という感慨。(3)その他、原子力発電その他環境破壊の問題もある。これだけ急激な文化的変化に堪えて生きていることも、ふと気がついて見れば驚くに値しよう。そんなこんなの事情をあわせ考えるならば、自分がいまここに居るのはほとんど奇蹟的なことだとわかる。そういう戦後日本人の典型として、大岡昇平は自分を見ていた。その資格に不足はない。

□丸谷才一「末期の眼と歩哨の眼 -大岡昇平-」(『別れの挨拶』、集英社、2031.10.)
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