語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【政治】アーレント「悪の陳腐さ」(1) ~普通人による恐るべき差別~

2014年12月15日 | 批評・思想
 「アイヒマン裁判」に係るハンナ・アーレントのレポート【注】は、単なる裁判傍聴者の印象記ではない。百数十回続いた公判記録の膨大な資料を、帰国後丹念に精査・考量した上での論説だ。にも拘わらず、その筆致には、ある「拡大されたエモーショナリティ」が溢れている。何か、機嫌悪そうに書いている。
 このテキストは、客観的な事実の報告でも、冷静な観察批判でもなく、裁判への大きな期待と激しい失望の告白であり、「卑小なもの」への侮蔑と忿懣に彩られている。そしてその背後には、「根源悪」という問題性と、「全体主義状況の変容」という、現代の「人間の条件」への批判と問いかけが、ある方向を示している。

  【注】ハンナ・アーレント(大久保和郎訳)『イエルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』(みすず書房、1969、新装版1994)

 アーレント・レポートに対する米国ないしイスラエルのユダヤ人から巻き起こった非難とバッシングは、シオニズムへの敵視といった政治路線の違いは別として、道徳的意味では次の二つに要約される。
 (1)レポートの副題にされた「悪の陳腐さ」に注目して、アーレントが「ホロコースト(ショア)の極悪を陳腐なものとして相対化し、アイヒマンを弁護しようとしたのではないか」というもの。
 (2)ユダヤ人団体代表者、協会理事などの役員が、ゲットーでの収容所への移送、選別に協力したことの強調について、殉教した死者を鞭打つようなこういう仕打ちは、「ユダヤの娘でありながらユダヤへの愛を知らない」彼女のハートの冷たさの現れではないか、というもの。

 だが、(1)、(2)とも誤解だ。いずれの非難も、アーレントが重心を置く方向を正しく捉えていない。
 ふつう「悪の陳腐さ」と訳されている Banality という言葉は、語源的には、封建時代に平民にも等しく課せられた賦役(common to all)の、さらに転じて、平凡・凡庸・陳腐といった軽蔑的意味を帯びるようになったもの。だが、アーレントが副題に「悪の陳腐さ」を選んだとき、それは、ナチスがやったショアという行為の「測りがたい、比類ない悪」の度合いを、過小評価したり、弁護したりしようとするものではない。①行為と、②行為者(行為の主体)を区別した上で、極悪を犯す主体が、意外にも凡庸な普通人(命令を果たそうと努める善き家庭人)であったことに、アーレントは深い失望を味わった。彼女はこの裁判に大きな期待を寄せていたから。

 戦争直後、まだショアの全貌が明らかになっていなかった時点でのニュルンベルグ軍事法廷では、平和に対する罪(開戦責任)や人道(humanity)への罪(残虐行為)が問われても、「ユダヤ人問題の最終解決」に係る「人間存在(human being)」への罪は、十分に問われることはなかった。その罪を問われるべきナチス幹部のほとんどが自殺したり処刑された後、逃亡したナチスのユダヤ人問題担当部長アイヒマンは、最大の大物として注目を集めていた。しかもイスラエルでの裁判は、ドイツの国家犯罪を裁くものではなく、それに関わった個人の責任を問うものだった。
 ヒットラーの責任をアデナウアーに負わせるつもりはない、というベン=グリオン首相の言明は、国際法というより、冷戦状況のただ中にあった当時の国際政治上の了解事項だったはずだ。当然、期待されるのは、巨悪の権化たる「モンスター」だ。

 しかし、百十数回にわたる公判を通じて、検事の論告、弁護側の弁論、そして何よりも被告の自己陳述によって露わになったのは、モンスターどころか、ごく普通の、与えられた命令を何とか忠実に実行しようとして苦心する、そしてある程度有能な、小役人の姿だった。
 ドイツもしくはヨーロッパからの「ユダヤ人一掃(Judenrein)」計画も、スムーズに実行されたわけではない。①党と、②政府と、③軍とで異なる複雑な命令系統と占領地域によって異なる法体系の中で、とにかく一応合法的にプロジェクトを実施しようとする中間管理職。
 「最終解決」という名の絶滅計画を決めた「ヴァンゼー会議」(1942年冬)にも、書記という形で陪席していたものの、自分は絶滅収容所の所在地への輸送を担当しただけで、そこで何が行われていたかは関知しない、という弁明。
 ここには、「われわれは、非人間的な所行において超人間的でなければならない」とうそぶくヒムラーのような悪役はいない。悪役のいない芝居は、見世物として退屈だ。

 悪役が全くいなかったわけではない。ドイツ・ユダヤ人協議会の理事たちだ。
 アイヒマンは、ユダヤ人たちにある程度自治組織も認め、その代表者との「話合い」路線によって、移送プロジェクトを効率的に行おうとした。ナチスの追放計画とシオニズムの国外移住計画が一致していた時点では、少なくとも「話合い」による「取り引き」が成り立ち得た。
 しかし、戦争の激化で海外への脱出ができなくなった時点で、なおかつユダヤ人組織の幹部たちが、労働キャンプと絶滅収容所への移送者仕分けにまでタッチさせられるとなると、当然彼らは悪役となり、被害者でありながら加害者に加担するという悲劇の主人公になる。
 だが、事は単なる見世物ではない。

 アーレントの真意は、「ごく普通の人でも、特定の条件下では、極悪の所行に、とくに罪の意識なしに、あるいは命令を履行することを義務と心得る道徳意識に基づいて、荷担する傾向を持つ。そこでは、被害者も加害者の企画に巻き込まれ、協力を余儀なくされる状況に追い込まれる」という実例を伝えることだ。アーレントはそこに、カントの言葉を、拡大修正した形で、借りて「根源悪(das Radikalboese)の現出を認め、その現代における変容と普遍化に警告を発しているのだ。裁判に現れた限りでは、悪はヤスパースが言うように「深くも根源的でもないように見える」が、実はそこにこそ「単なる理性の限界内」に止まらない、形而上学的領域に根ざした現代の暗闇がひそんでいる。

□徳永恂「アーレント「悪の陳腐さ」をめぐって」(「図書」2014年12月月号)
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