語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【映画】「ニーチェの馬」 ~存在そのものを描く~

2012年11月25日 | □映画
(1)作品
 (a)「ニーチェの馬」(ハンガリー・フランス・スイス・ドイツ合作、2011)。
 (b)第61回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (審査員グランプリ)、国際批評家連盟賞(コンペティション部門)受賞。

(2)スタッフ
 (a)監督・・・・タル・ベーラ
 (b)脚本・・・・タル・ベーラ/クラスナホルカイ・ラースロー
 (c)主演・・・・エリカ・ボーク、ヤーノシュ・デルジ

(3)作品
 (a)導入部・・・・(真っ暗な画面におけるモノローグ)1889年1月3日、トリノでのこと。フリードリヒ・ニーチェは、カルロ・アルベルト通りの部屋を出て、散歩か、それとも郵便局へ行ったのか、その途中、間近に、あるいは遠目に、強情な馬に手こずる御者を見た。どう脅しつけても、馬は動かない。ジョゼッペかカルロか、恐らくはそんな名の御者は烈火のごとく怒り、馬を鞭で打ち始めた。ニーチェが駆け寄ると、逆上していた御者はむごい仕打ちの手を止めた。屈強で立派な口ひげをたくわえたニーチェは、泣きながら馬の首を抱きかかえた。ニーチェは家に運ばれ、2日間、無言で寝椅子に横たわった後・・・・お約束の最後の言葉をつぶやいた。「母さん、私は愚かだ」。精神を病んだ最後の10年は、母と看護師に付き添われ、穏やかであった。馬のその後は誰も知らない。
  (b)時期・・・・年代不明、強い寒風がやみ間なく吹きつけ、落葉が一日中舞い上がる季節。
  (c)場所・・・・どこかの国のどこかの荒野、丘陵のふもとの農場、井戸、母屋より大きな厩、石造りの古い家。家の窓から見える一本の木。
  (d)上映時間・・・・2時間34分。
  (e)映画の中を流れる時間・・・・6日間。
  (f)登場人物・・・・右腕が動かない初老の農夫(デルジ・ヤーノシュ)、30代なかば見当のその娘(エリカ・ボーク)、アル中の隣人、ジプシーの一団。
  (g)生業・・・・父娘の唯一の収入源は老馬と荷馬車だ。父の仕事は重労働、単調。家事を担う娘の仕事もそれに劣らない。馬具を片づけ、あるいはとりつけ、父の着替えを手伝い、井戸から水を汲み、洗濯し、裁縫し、食事を作る。
  (h)一家の家計・・・・極貧。二人が食べるのは茹でた大きめの馬鈴薯1個だけ。味つけは塩だけ。
  (i)家族関係・・・・父親は、黙って服の着脱を娘に任せ、娘も黙って介護する。父親は、左手で馬鈴薯の皮を剥き、叩いて砕き割りながら、ガツガツと食らう。娘は無口、二人の間で会話は稀れ。父親による「食え」「寝ろ」といった命令が主。ただし、コミュニケーションの断絶はない。コミュニケーションが断絶するほど、二人の生活は乖離していない。
  (j)転機・・・・老馬が飼料を食べず、鞭をあてても動かなくなる。突然、井戸が干上がる。Welt Schmerz.
  (k)脱出・・・・水がなければ暮らしていけない。二人は荷車に荷を積み、ただし馬には引かせず、徒歩で移住を図る。しかし、わきたつ砂塵が行く手をはばみ、引き返す。油は入れてあるものの、何故かランプは灯らない。種火も消え尽くし、暖をとることもできなくなった。食事の馬鈴薯は生のまま。追い詰められた一家。父親は、無言で窓外を眺めつづける。Ich habe meine Sache auf nichts gestalt.

(4)所見
 神が死んだ此の世。確実なものは何もない。単調だが、日々確実に同じことを繰り返す(24時間の永劫回帰)。父娘とも無駄のない挙措。言葉は重要ではない。荒涼たる自然、迫り来る老い。老いは、まず一家の生活の手立てである馬にやってくる。詩篇121篇の独白者のように父親が丘を仰いでも、救いはどこからもやって来ない。井戸が涸れても、エクソダスは叶わない。
 時代がかったモノクロームが、かえって濃厚な存在感を全篇に横溢させる。新藤兼人・監督映画「裸の島」に通じるモチーフがあると思うのだが、「ニーチェの馬」に比べると「裸の島」は、言葉はなくても人情に満ちた世界だ。

(5)公式サイト
ニーチェの馬

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