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語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【片山善博】「ベトナム反中国暴動」報道への違和感

2014年06月28日 | ●片山善博
 (1)ベトナム各地で激しい反中国デモが暴動にまで及んだ。現地で働く中国人が襲われ、お数人が死亡し、負傷者は100人を上回る。
 台湾系企業のほか日系企業も襲われた。これは企業名の表示などに漢字を使っていることから中国系企業と間違われたことによる、とマスコミは報じている。
 マスコミのこの報道は正しいか。
 
 (2)日系企業のベトナム進出は1990年代から本格化した。もし、「漢字を使う企業は中国系」という認識が今日のベトナム社会で一般的だとするなら、この四半世紀、日系企業は中国系企業だと誤解され続けてきたことになる。日系企業の知名度はそんなにも低かったのか。名にし負う経済大国でありながら、日本の存在感はかくも薄かったのか。漢字誤解説はにわかには信じがたい。
 このたびのデモは、ベトナムの排他的経済水域における中国の傍若無人な振る舞いに端を発し、日本に向けられたものではない。ただ、年来デモなどの政治活動を禁じられていた国で、どうやら今度ばかりは政府も容認した抗議行動の渦中、その勢いと興奮が中国への当面の怒りを越えて、日ごろのさまざまな不満のはけ口に転化したような面はなかったか。
 労働者の処遇、わけても本国から派遣されている幹部社員と現地従業員との間の余りにも大きい格差に対する複雑な感情はないか。
 
 (3)ベトナムは中国と違って親日的で今後の投資先としてすこぶる有望だ・・・・という日本の通り相場、その牧歌的イメージは最近ではミャンマーなどにも及んでいるが、政治的経済的に多くの困難を抱えているこの国を見る視点としては、あまりにも一面的に過ぎる。
 経済界にしてみれば、このたびの日系企業襲撃事件によって投資先としてのベトナムの良好なイメージが損なわれることは避けたいだろう。幸いベトナム政府が強権でデモを抑え込んでくれたから、もう安心してよい(ほんとは権力がデモを抑え込む国は内部に矛盾を抱え、不安定さが増す)。襲撃事件の背景やベトナム社会のややこしい問題には目をつぶり、早く元の生活と仕事に戻りたい。
 こうした人たちには、「漢字誤解説」は格好の理由づけになる。
 しかし、ベトナムはかつて漢字圏だった。今でも古刹などに漢字が残る。姓名も漢字に由来する。<例>ホーチミンは胡志明だ。「漢字誤解説」は、ますます眉唾だ。

 (4)マスコミ報道では、群衆が台湾系企業や日系企業を襲ったことを厳しく批判していた(当然)。しかし、中国系企業が襲われたことに、怒りや同情はほとんど伝えていない。
 南シナ海における中国の石油採掘施設建設は中国が一方的に悪いとしても、だからといって中国系企業や中国人がベトナムで襲われていい、ということにはならない。彼らは南シナ海の一件とは無関係であって、彼らが中国人であるという理由で彼らに責任を負わせたり、彼らを罰することは許されない。
 先年中国で起きた反日暴動とそれに伴う日系企業への襲撃が正しくなかったのと同じことだ。

 (5)1882年7月、朝鮮の漢城(いまのソウル)で兵士の暴動が発生し、日本の公使館が襲われ、公使館員らが虐殺された(「壬午軍乱」)。その頃日本に滞在していたエドワード・モース(米国人、大森貝塚の発見者)によれば、「国中が朝鮮の高圧手段に憤慨し、その興奮はモースをして「南北戦争が勃発した後の数日間を連想させ」るほどだった。
 その事件からまだひと月もたたぬ頃、モースは神戸から京都へ向かう途中、2人の朝鮮人と同じ汽車に乗り合わせた。彼らが朝鮮人であることは、モースにも日本人にも、ただちに了解できた。
 二人が大阪で下車したので、モースも、京都までの切符を犠牲にしてまで後ろを追った。案の定、駅を出た2人を群衆が取り囲むときもあった。モースは気が気ではなかったが、その心配をよそに、群衆の中には「敵意を含む身振り」も「嘲弄するような言葉」もついぞ発見することはなかった。群衆は単に、2人の身なりが珍しかったから取り巻いただけなのであった。
 モースは述懐する。「日本人は、この二人が、彼らの祖国において行われつつある暴行に、まるで無関係であることを理解せぬほど馬鹿ではなく、彼らは平素のとおりの礼儀正しさを以て扱われた」
 モースはさらに、南北戦争のさなかに北方人が南方で酷い仕打ちをされたことを思い浮かべ、どっちの国民がより高く文明的であるかを自問した。
 明治の日本人の分別と礼節を、先年日系企業を襲った中国人、このたび暴動を起こしたベトナム人、そして昨今中国政府や韓国政府への反発から中国人や韓国人をことさら見下し、口汚く罵る一部の日本人に是非共有していただきたい。
  
□片山善博(慶大教授)「「ベトナム反中国暴動」報道への違和感 ~日本を診る 57~」(「世界」2014年7月号)
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【片山善博】文部科学省の愚と憲法違反 ~竹富町教科書問題~

2014年05月12日 | ●片山善博
 (1)文部科学省は、沖縄県竹富町に対し、中学で使用する公民の教科書を別会社のものに変えるよう、地方自治法に基づき「是正の要求」をした。
 「是正の要求」は、国の自治体に対する関与類型の一つだ。自治体の事務処理が法令の規定に違反しているときなどに限り認められる。ただし、地方自治法上、国の関与は「是正の要求」を含めて「必要な最小限度のもの」であり、かつ、自治体の「自主性及び自立性に配慮しなければならない」。国の謙抑的態度が求めてられているのだ。
 このたびの文科省の「是正の要求」は、竹富町が「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律(教科書無償法)」に定められた方式によらないで教科書を採択したこのが違法である、との認識【注】に基づいている。
 
  【注】小中学校で使用する教科書は、都道府県教育委員会が設定した「教科書採択区」ごとに、地区内の自治体が協議してそれぞれの科目で同一のものを使用しなければならない。竹富町は近隣の石垣市及び与那国町とともに一つの採択地区に属しているが、他の2市町とは異なる教科書を使用している。これはけしからん、というのが文科省の言い分だ。

 (2)文科省の対応は実に奇妙だ。鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いんや。
 しかも、竹富町に割かれる理由などないのだ。にも拘わらず、文科省は大きな包丁を振りかざしてる。
  (a)義務教育などの基本を定めた「地方教育行政の組織及び運営に関する法律(地方教育行政法)」では、公立小中学校で使用する教科書を選定する権限は、市町村の教育委員会にある、とされている。同法によれば、竹富町が単独で教科書を採択したことに何ら問題はない。
  (b)一般に、法律間に齟齬や矛盾があって紛争が生じたい場合には、司法が適用されるべき規定の優先劣後を決める。その際、判断基準としては、例えば同じレベルの法律間であれば、「後法優越の原則」が適用される。
  (c)しかし、①地方教育行政法と②教科書無償法では、決して同一レベルの法律ではない。①は、その第1条にもあるとおり、自治体における「教育行政の組織及び運営の基本を定めることを目的」とする基本法だ。②は、教科書の無償措置の手順などを規定した個別法に過ぎない。②が①の規定を排し、それに替わって別の規定を適用する旨明示しているならともかく、基本法を優先するのが素直な解釈だ。
  (d)加えて、地方自治の大原則を規定する憲法第92条は、自治体の組織や運営に関する事項を定める法律は、「地方自治の本旨」に基づかなければならない、としている。「地方自治の本旨」とは、自治体の主体性と住民の意思を最大限尊重する、という意味だ。つまり、自治体の主体性や住民の意思を蔑ろにするような法律を作ることはまかりならん、と憲法が国会や政府に命じているのだ。この憲法原理からしても、相互に矛盾する内容を含む2つの法律(c)-①と②の規定のうち、自治体の主体性を損なう内容の(c)-②の規定ではなく、自治体の主体性を認めている(c)-①の規定の方が優先されるべきは明白だ。
  (e)報道によれば、竹富町は「教科書採択区」での「協議」を経ないまま教科書を選定したわけではない。協議したものの、それが他の2市町との間で整わず、やむなく独自に採択した、という経緯らしい。(c)-②には、協議が整わなかった場合の解決法は示されていない。協議は、評決や議決とは異なるから、多数決にはなじまない。くじ引きやじゃんけんも論外だ。そんなときは、原点に戻り、協議を閉じてそれぞれの市町村で責任を持って決めるとするのが常識的な解決方法だ。であるならば、仮に(c)-②に従ったとしても、竹富町の行為は避難するに値しない。しかも、竹富町が採択しているのは、文科省お墨付きの検定済み教科書だから、検定制度の是非はここではさて措き、この点でも問題は無い。

 (3)以上のような事情と背景がありながら、相矛盾する2つの法律のうち効力のない方の規定を盾にとり、臆面もなく小さな自治体に「是正の要求」を突きつける文科省は、理性と冷静な判断力を欠いている、というほかはない。

 (4)教科書無償措置の目的は何か。それは、憲法第26条の規定「義務教育は、これを無償とする」を具現化するものだ。それは、決して近隣の市町村と同一の教科書使用を義務づけることではない。
 瑣事に躍起になっている間に、文科省は大切なことが分からなくなっている。竹富町の生徒に教科書無償措置を停止していることで、
  (a)憲法第26条の義務教育無償原則に違反し、
  (b)竹富町の中学生を他の地域の中学生と異なる扱いをする点で憲法第14条の法の下の平等原理にも、国として違反している。
 それは、町の無償措置があっても変わらない。
 竹富町に非があろうとなかろうと、役場いじめのとばっちりを無辜の中学生に負わせていいはずがない。子どもたちを大事にすべき文科省が、その子どもたちを巻き添えにしてはばからない姿は、愚かで浅はかというしかない。

□片山善博(慶大教授)「竹富町教科書問題をめぐる文部科学省の愚 ~日本を診る 56~」(「世界」2014年6月号)
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【片山善博】都知事選に見る政党の無責任 ~候補者の「品質管理」~

2014年03月28日 | ●片山善博
 (1)このたびの都知事選は、最悪のタイミングで行われた。自治体にとって、次年度の予算編成を行う時期で、予算案の作成は首長の専権事項だ。その肝心の知事が予算編成期間中ずっと空席であれば、ちゃんとした予算は作れなかったのではないか。

 (2)選挙に出馬するには準備が必要で、体制を整え、資金調達のめどをつけ、都政なら都政の課題を把握し、自分の考えをまとめておかねばならない。出馬によって周囲に迷惑をかけないためには、自分の仕事や社会的関わりを適当な時期までに整理しておかねばならない。
 そんな人にとって、現職知事の辞職により生じた時ならぬ選挙に、直ちに応じることはできない。わけても組織や団体で
重要な役割を果たしている人ほど。
 比較的立候補しやすいのは、既に引退ないし隠遁している人か、自由業に就いている人だ。
 例外は現職知事の側近で、中途辞任を耳打ちされた人だ。断然有利な立場で選挙戦に臨むことができる。

 (3)都知事は、二代続けてその任期をまともに務めていない。前々任の石原は、自ら4期目に挑んでその座に就きながら、無責任にも選挙後1年余りでその任を放り出してしまった。前任の猪瀬は、自分自身の資金疑惑により就任後1年で辞めざるを得なくなった。
 二度の都知事選を通じて天下に明らかになったのは、政党の不甲斐なさだ。特に大きな政党ほど情けなかった。政党としての主体性も矜持もかなぐり捨てて、「勝ち馬」に乗ろうとする「せこさ」や組織の体をなしていないありさまが印象づけられた。自民党が外添候補を押すことにしたのは、事前の世論調査で彼が最も有力だったからだ、と言われる。
 一方の民主党は、外添候補に相乗りしかけては、脱原発を引っさげ颯爽と登場した細川候補に目移りし、右往左往したあげく、「組織的勝手連」などというわけのわからない対応になった。

 (4)政党には、もっと積極的な主体性が求められる。わけても、候補者の「品質管理」に責任を持つべきだ。
  (a)ポイントの1、候補者の人となりや信頼性。
  (b)ポイントの2、掲げる政策の妥当性。

 (5)自民党は、いわば「不良品」として切り捨てた商品を、急遽「優良品」として消費者に提示したようなものだ。自民党が野党に転落したとき、外添は後脚足で砂をかけるように自民党を捨て、その外添を自民党は除名し、党から排除していた。外添を支援することは「大義がない」と党内でも批判があったが、的外れではない。「復権」や「再生」があってもよいが、それには党内での十分な議論と党内外に対する説得力が伴わなければならない。今般、それがあったとは思われない。
 候補者の「品質管理」は二の次にして、ただ勝たんがためのご都合主義に走った。
 背景と経緯は異なるものの、やはり勝ち馬に乗るために「品質管理」を怠り、その結果わずか1年で現職知事を辞任に追い込まざるを得なかった前回の失敗をまるで省みてない。猪瀬の説明責任能力と自身の言動に対する誠実さについて多少の「品質管理」をしていれば、当時の選挙の構図も変わっていたはずだ。

 (6)民主党も似たり寄ったりだった。細川候補を全面的に支援する小泉純一郎は、かつての政敵だ。小泉内閣が進めた「構造改革」が格差拡大を招いた、と厳しく批判していたのではなかったか。いくら「勝手連」的支援とはいっても、かかる経緯をうやむやにするのは政党として無責任に過ぎる。仮に細川候補が当選していたら、小泉の新自由主義的政策が都政に持ち込まれることが必至だった。そのことを民主党としてどう考えていたのか。
 政策の「品質管理」にも危惧があった。細川候補の「原発即ゼロ」と党の方針との整合性はどうなのか。民主党は「2030年代に原発ゼロ」をめざしていた。党としていつどんな議論を経て方針を変えたのかを示さなければならない。また、「即ゼロ」に都政としてどんな手段があるというのか。ご都合主義や無定見はいけない。
 大政党が勝ち馬に乗りたい一心で無原則に妥協してしまったのでは「品質管理」はなきに等しい。

 (7)本来、政党とは、理想とする政策を掲げ、それを担える人材を確保し、その人を候補者に仕立てて選挙戦を戦うものだ。これが「品質管理」だ。この政党の機能と役割は、国政選挙でも地方選挙でも変わりない。
 現実には地方政治でも企業団体献金は政党のみに限られ、無所属候補はまとまった政治資金を集める道を閉ざされている。そいうした政党中心の制度ができあがっているにも拘わらず、当の政党は「待ちの姿勢」に終始し、資金面でも組織面でも徒手空拳に等しい個人が蛮勇をふるって手を挙げるのを待って「品定め」し、その中から自分たちに都合のよい候補に声をかけ、恩を売り、ちゃっかり「与党」のポジションを得ようとする。姑息で卑怯だとは思わないか。

□片山善博(慶大教授)「時ならぬ都知事選の弊害と政党の責任 ~日本を診る 54~」(「世界」2014年4月号)
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【片山善博】JR北海道の安全管理と道州制特区

2014年03月05日 | ●片山善博
 (1)1月22日付け各紙が報じるところによれば、JR北海道は、レールを点検した際の数値記録を改竄することなど日常茶飯事で、保線担当44部署のうち33部署で改竄していた。しかも、改竄は現場の管理職の指示や本社社員の関与もあるなど組織的で、担当者間で改竄の手口を引き継ぐことも常態化していた。
 レール点検は、事故が起こらないように危険箇所を把握するのが目的で、それを見つけたら速やかに改修することで事故を未然に防止できる。
 ところが、危険箇所の存在を隠蔽し、その改修を怠ってきたのなら脱線事故が起きてもなんら不思議はない。
 いったい彼らは何のために点検していたのか。点検して危険箇所が見つかっても改修しないで放置するだけなら、そもそも点検などしなくてもよさそうなものだが、関係法により点検を義務づけられているからやらざるを得ない。法律で義務づけられていることはやる、という「形式的遵法精神」だけは持ち合わせていた。

 (2)JR北海道に、国土交通省がこのたび幾つかの命令を下した。
 <例1>経営陣が改竄の悪質性を認識するよう、求めている。・・・・JR北海道は、安全検査の数値改竄がいけないことだ、と認識していなかった、ということか。
 <例2>安全部門トップの鉄道事業本部長を安全総括管理者から解任し、安全対策を助言・監視する第三者委員会を設置せよ、と求めている。・・・・JR北海道の安全管理体制もそのための人事もなってない、と国土交通省は言っているのだ。
 
 (3)鉄道事業者にとって一番大切なことは乗客の安全だ、という本来のミッションを再確認するところから(2)に取り組んでもらいたい。
 国土交通省にも猛省を求めたい。
 国土交通省は今になって居丈高にJR北海道を断罪しているが、これまでいったい何をしてきたのか。
 国土交通省には鉄道事業者を監督する権限と責任があり、相次ぐ事故を起こしたJR北海道の安全管理はどうなっているのか、徹底して検査する責務が国土交通省にはあったはずだ。安全管理規定は現場で励行されているか、帳簿書類は適正に整えられているか、その帳簿に記された数値と現場の数値は一致するかどうか、実際に計測してみる。もし実際に計測していたら、その時点で改竄は見抜けていたはずだ。44のうち33、全体の7割の部署で改竄されていたのだから、どこかで帳簿と実地の食い違いが判明していたはずだ。

 (4)国土交通省の鉄道安全管理部門は、これまで十分な働きをしてきたのだろうか。手抜きや遠慮はなかったか。
 かつて原子力発電所の安全をチェックする原子力保安院は、経済産業省資源エネルギー庁に属していた。資源エネルギー庁は原発を推進する役所であって、安全は二の次とまでは言わないにせよ、保安院の地位と士気は低かった。
 それと同じような事情が、国土交通省の鉄道局の中にありはしないか。
 鉄道局の組織図によれば、局の主流は幹線鉄道や都市鉄道の整備を担う課だったり、鉄道運送の振興に当たる課だったりする。鉄道の安全を確保する部門は、一つの課にもなっていない。肩身が狭いだろう。  

 (5)官庁に限らず、組織論では、ミッションが相克する部門を同じ組織内に同居させるべきはない。同居していると、どうしても力の強い側のミッションが、弱い側のミッションを封じ込めることになりがちだ。
 その悪例が、原子力発電を推進するミッションが原子力の安全を確保するミッションを押さえつけていた資源エネルギー庁の失敗だった。
 遅きに失したが、原子力安全部門を資源エネルギー庁から分離したことは間違っていない。
 同様に、鉄道の安全確保部門を鉄道事業推進部門から切り離し、別途の組織編成にするのが、このたびのJR北海道の失敗から得た教訓だ。

 (6)鉄道の安全確保に係る事務と権限は、北海道庁に移してはどうか。
 JR北海道の利用客のほとんどは北海道の住民だ。道庁はその住民の生活を守ることを最大のミッションとしているのだから、この移譲によって、少なくともミッションの相克は解消される。
 しかも、北海道は「道州制特区」になっている。これまでは名ばかりの特区で、実質は何も進んでいない。商工会議所の定款の変更ぐらいだが、こんなものは全国一般の構造改革特区として移譲対象にすれば足りる代物で、道州制とは無縁だ。
 ところが、鉄道の安全管理の権限は、今後道州制を導入するとした場合には、これと深く関係する。というのは、万が一現時点で国から地方への権限移譲を大胆に勧めることになったとしても、鉄道の安全管理の権限はこれになじまない。<例>山陰本線が関係する府県ごとに権限を区切って移譲しても適切に処理できない。
 しかし、北海道の場合、青函トンネルを潜る路線を除けばすべて道内で完結している。この事情を考えると、道州制特区の試みとして、鉄道の安全管理の権限を北海道庁に移譲することは、実に理に適っている。

 (7)住民の安全について国が責任を果たしてくれないのなら、国に代わって自ら責任を持つぐらいの気概を道庁は持ってほしい。さもなければ、望んで道州制特区になった真意を問われるだけでなく、日頃地方分権を唱えている姿勢も疑われる。
 一方、政府も、地方分権のための道州制導入を主張するなら、その前に道州制特区でまず実績を示してもらいたい。鉄道安全管理の権限移譲は、国の姿勢を問う試金石だ。

□片山善博(慶大教授)「JR北海道の安全管理と道州制特区 ~日本を診る 53~」(「世界」2014年3月号)
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【政治】地方議会における口利き政治の弊害 ~民主主義の空洞化(3)~

2014年01月16日 | ●片山善博
 (1)地方議会は、住民から縁遠いだけでなく、厄介者だと思われていたり、時としてひどく嫌悪されていたりもする。
 その最大の理由は、口利き政治の存在にある。
 保育所不足による待機児童問題が解消しない。東京都杉並区など幾つかの自治体で、集団で行政不服審査法に基づく異議申し立てが行われさえしている。自治体の公聴機能や民意吸収機能が見限られたことを関係者は深刻に受け止めるべきだ。
 ところが、不思議なことに、待機児童を多く抱える自治体の議員は、さほど深刻に受け止めていない。むしろ、自分は待機児童問題に一生懸命取り組んでいる、と胸を張りさえする。「今年は5人も役所に頼んで入れてもらった」と、あっけからんと打ち明ける議員さえいる。+
 議員をやっていれば、支持者からさまざまなことを頼まれる。保育所入所の口利きもその一つ。自治体によっては、「有力議員」ならそれぐらいの便宜は役所にはかってもらえるのだそうだ。支持者から感謝されるので、自分も議員としていいことをしたと満足するらしい。
 少し考える力があれば、個別の口利きでは待機児童問題が解決しないことはわかりそうなものだ。入所できる枠が増えない中で、議員が誰かを押し込めば、他の誰かが押し出される。押し込んでもらった人は喜ぶが、わけのわからないまま押し出されて戸惑う人が一人増える。待機児童の数は一向に減らないだけでなく、そこに不公平が紛れ込むから、事態はいっそう悪くなっている。
 議員の口利きで救われる人は市民のうちのほんの一握りにすぎず、他の大多数は同じ悩みを抱えているにもかかわらず放っておかれたままだ。1%だけが救われ、他の99%は放っておかれる。市民全体のためにあるはずの議会は、実は99%にとって無縁だ。
 口利きのネットワークは、保育所の入所問題にとどまらず、公営住宅の入居から公立病院の患者の扱いに至るまで、張り巡らされている気配を99%の市民は感じている。たった1%の人だけを依怙贔屓する議会なら、無縁を通り越して有害でしかない。
 かかる口利き議員は選挙で落とせばよいのだが、大選挙区制下、9人に嫌われても口利きなどで残り1人をしっかりつなぎとめておけば、選挙区全体からそこそこ票を集めて当選してしまう。
 皮肉な観察をすれば、常に待機児童があふれていて、自分を頼ってくる有権者がいれば、その支持をつなぎ、さらに拡大することができる。それが、これほど騒がれている待機児童問題が自治体議会で大騒ぎになることが少なかった理由の一つだし、同時に、それが議会を嫌悪する市民が少なからずいる所以だ。

 (2)口利き議員は、常に「与党会派」に所属することに意を払う。「与党会派」でなければ、口利きする上でいいポジションをキープできないからだ。彼らは議会に提案される議案には、基本的に反対しない。執行部の不興を買うような真似はしないのだ。多少いちゃもんをつけて、勿体をつけて賛成にまわり、「貸し」をつくることはある。今後の口利きが通りやすくなればいいのであって、議案の内容など、実はどうでもいい。
 背景は異なるものの、議案の中身をほとんど吟味しない点において、国会における与党会派と地方議会における多数派とは共通するところがある。ねじれなき国会と同様、地方議会のチェック機能はほとんど麻痺している。

 (3)かくて無傷で決まった案件の内容を、市民が知りたいと思っても容易にはわからない。
 「議会だより」なるものでは、通常、議会の決定事項が掲載されているが、条例などの案件名とそれに対する会派ごとの賛成の状況が書かれているだけで、内容はさっぱりわからない。ページ数の多くは議員と首長との質疑に費やされている。議員や会派の広報媒体かと見まがうばかりに。中には有益な情報も含まれているが、住民にとって断然大事なことは、議会でどんなことが決められたかの情報だ。直接市民生活や経済活動に関わるのは、議員の質問ではなく、条例などの決定事項だ。もっと住民の観点に立ち、市民にとって大切な事柄を含む案件ぐらいは、その概要を載せるべきだ。

 (4)以上見たとおり、国会ばかりでなく、本来住民に最も身近であるべき自治体においtも、主人公である住民は遠ざけられている。
 自治体関係者は、民主主義をないがしろにした国会のありさまを他山の石としたらいい。民主主義の観点から、地方議会をどう改革したらいいか、真剣に考える絶好の機会となる。
 主権者たる住民も、もっと地方議会に関心を持ち、どんな議員が望ましいのか、彼や彼女にどんな議会運営を期待するのか、改めて考えてほしい。
 通年議会の導入、定例会方式から定例日開会に、会派中心から委員会中心の活動に、住民の発言の場としての公聴会の活用など改革のよすがはいくらでもある。

□片山善博(慶大教授)「民主主義の空洞化 --国会を他山の石とし地方自治を診る ~日本を診る 52 特別編~」(「世界」2014年2月号)
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 【参考】
【政治】住民の声を聞こうとしない地方議会 ~民主主義の空洞化(2)~
【政治】福島県民を愚弄する国会 ~民主主義の空洞化(1)~

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【政治】住民の声を聞こうとしない地方議会 ~民主主義の空洞化(2)~

2014年01月15日 | ●片山善博
 (1)民主主義の学校(地方自治)も、国と同様、はなはだ覚束ない。
 地方自治の中心は、本来、議会だ。自治体の首長は、議会が決めた条例や予算を執行する立場でしかない。
 しかるに、その議会の評判が悪い。
 地方分権に賛成する人でも、国が持っていた決定権を自治体に移したあと、自治体で決定権を持つのは議会であると知ると、これまで通り国に決めてもらったほうがいい、という人が断然多くなる。総じて、地方議会は信頼されていない。
 理由の一つは、住民から見た議会の縁遠さがある。住民に最も身近な存在であるべき市町村議会でさえ、住民は親しみを覚えることがない。

 (2)例えば公聴会。
 国会は、福島県における公聴会を虚仮(こけ)にしたが、地方議会はその国会より劣る。地方自治法によれば、国会と同じく地方議会も公聴会を開くことが想定されているのに、現実には地方議会が公聴会を開くのはごく例外的で、全国のほとんどの地方議会は公聴会をほとんど開いていない。
 議会の多数派に属する議員にとっては、公聴会など開く意味がないのだろう。手間はかかるし、公の場で住民の意見を聞くのは煩わしいだけだから。彼らは、議会を開く前に議案はすべて可決することを申し合わせているので、その議案に賛成する意見はともかく、それに反対したり代替案を唱えたりする意見は雑音でしかない。これは、国会における与党議員の態度と同じだ。
 国会と地方議会で違いがあるのは、少数会派に属する議員の態度だ。国会では、野党色が鮮明な少数政党ほど公聴会の開催を主張するようだが、地方議会ではそうした傾向は見られない。
 公聴会に後ろ向きな少数会派の議員たちは、自分たちの出番がなくなってしまうのではないか、と恐れているのだろう。役所や多数会派の議員たちが関心を持たない住民、往々にしてそれは社会的立場の弱い人や発言力のない人であることが多いが、そうした人たちの声を議会で代弁するのが自分たちの役割だと思っているのに、その人たちが議会で直接意見を言うようになれば、自分の出番がなくなってしまう。市民派がそう考えているのであれば、市民派ほど肝心の市民を議会から遠ざけていることになる(皮肉な事実)。

 (3)近年、議会報告会を開く地方議会が増えてきた。議員が手分けして域内の集落などに出向き、議会が決めた条例や予算の内容などを住民に説明し、意見交換を行うのだ。「市民に開かれた議会」の試みとして評価できるが、違和感を拭えない。
 決める前に意見を求められるならばとのかく、既に決めたことを事後に説明して意見を聞いてやると言われても、参加する意義は薄い。事実、住民の参加が少ない、と嘆く議会は多い。決めた後にわざわざ住民のもとに出向く労を惜しまないなら、議会はどうして決める前に住民の意見を議場で聞かないのか。
 本来の主権者を敢えて「場外」に追いやる地方議会・・・・それを住民が縁遠いと感じるのは当然だ。

□片山善博(慶大教授)「民主主義の空洞化 --国会を他山の石とし地方自治を診る ~日本を診る 52 特別編~」(「世界」2014年2月号)
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 【参考】
【政治】福島県民を愚弄する国会 ~民主主義の空洞化(1)~
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【政治】福島県民を愚弄する国会 ~民主主義の空洞化(1)~

2014年01月14日 | ●片山善博
 (1)国会は、特定秘密保護法をそそくさと成立させた。多くの国民が不安と懸念を抱き、反対したにもかかわらず。
 政権幹部は、国民がこの法案をよく理解していないからだ、とうそぶいた。
 しかし、わかってないのは、国民ではなく、実は閣僚や与党幹部のほうであった。だから、国会審議中に法案を担当する閣僚の答弁が迷走したり、与党幹部が、国民の不安【注】は的外れではないと懸念を増幅させる妄言を繰り返したのだ。
 自民党は法案の中身を吟味しないという習性がある。ポンチ絵に毛が生えたような資料を根回しすれば、党幹部を含めておおかたの議員は些事にこだわらない鷹揚な(つまり不勉強な)態度を示す。官僚機構をチェックする機能は働かない。
 そもそも、この法案を準備してきたのは、霞ヶ関の官僚だった。これを何とか成立させようと、特定官庁の官僚たちは、年来その機を虎視眈々と狙っていた。安倍政権の誕生は好機であった。一方に政権の意思(外交や防衛の機密は守られるべし)があり、他方に官僚たちの思惑(それ以外の情報をも広く秘密にしたい)があり、両者が同床異夢ながら、うまく噛み合うからだ。

 【注】本法が官僚の手によって独り歩きし、いずれ国民の知る権利や表現の自由が制約されることになるであろう。国民の代表たる政治家たちに、官僚の独り歩きを防ぐだけの力量はない。民主主義は空洞化する。政治主導は眉ツバである。

 (2)法律の内容もさりながら、これが成立するまでの過程にも大きな問題があった。
 熟議の欠如も、その一つ。
 国民の間にこれだけ議論を沸かせた法律だ。もっと真面目に審議しなければならない。
 自民党、公明党の両党とも、衆院選(2012年)でも参院選(2013年)でも、公約にこの法案のことをまともに取り上げていない。前記2選挙でいくら与党が大勝したからといって、有権者は白紙委任したわけではない。

 (3)議会制民主主義は、頭をかち割る代わりに頭数を数える仕組みだ。
 それは、多数決を原則とする。
 その結果多数派の意向に嫌でも従わされる少数派への配慮は、当然必要だ。よって、できるだけ少数派の意見も取り入れることで合意を見出そうとする。これが少数意見の尊重だ(小学校でも教える多数決の原理を支える)。
 少数意見の尊重とは、多数派が少数派に譲歩することを意味し、多数派が少数派に譲歩を押しつけることではない。

 (4)特定秘密保護法案審議にあたり、与党は少数派に譲歩し、法案を修正した、と言っている。
 しかし、それは熟議の結果ではなさそうだ。少数党の代表が、与党のトップと食事をし、その席上で法案に賛成すると結論を出し、与党にすり寄る少数党の体面を守ったふりができる程度の装いが施された。
 それは、決して国会における真摯な議論や、それに基づく譲歩・修正ではない。この経緯は、その後のその党の分裂に際して、国会における議論だけでなく党内における議論さえ避けていた実態が明らかにされている。

 (5)衆議院が福島で開いた公聴会に至っては、唖然とするばかり。
 与党が推薦した公述人を含む全員がこの法案に反対した。にもかかわらず、そんなことはおかまいなしに、あらかじめ決めたスケジュールに従って、翌日にはさっさと可決してしまった。
 与党の議員たちは、公聴会の意義や役割をとんと理解していない。
 重要なことを決めるときには、有識者や国民の声に耳を傾け、なるほどと思う意見は取り入れ、国民に誤解があればそれを解消すべくさらに慎重に審議する。そのためにこそ、公聴会は開かれる。
 ところが、国会法に定めがあるから開くだけで、公聴会で出た意見など、はなから聞く気がない。求められて出席し、意見を述べた福島県民を愚弄するにもほどがある。
 かかる国会議員たちは、民主主義そのものを理解する資質に欠けている。

□片山善博(慶大教授)「民主主義の空洞化 --国会を他山の石とし地方自治を診る ~日本を診る 52 特別編~」(「世界」2014年2月号)
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【社会】教育委員会は壊すより立て直す方が賢明

2013年05月29日 | ●片山善博
 (1)安部内閣は、教育改革を最重要課題の一つとして掲げる。
 政府の教育再生実行会議が、過日、教育委員会制度の抜本改革に関する提言を阿部総理に提出した。
 現行制度上、自治体の教育行政は教育委員会が所管する。教育委員会は、首長が議会の同意を得て任命する5ないし6人の教育委員によって構成される合議制官庁だ。
 提言では、(a)地方教育行政の責任を教育委員会ではなく、首長が任命する教育長に持たせることとした。また、(b)教育委員会は教育長の単なる諮問機関に格下げすることとしている。
 ちなみに、現行制度上は、教育委員会は地方教育行政の責任者として位置づけられている。また、教育長は教育委員の一人ではあるが、教育委員会の代表者ではない。代表は教育委員長であり、教育長は教育委員兼教育委員会事務局長的立場だ。

 (2)この改革プランが実現しても、さしたる変化は見られないだろう。改革プランは、地方教育行政の現状をほとんど追認したものでしかないからだ。
  (a)提言は、教育委員会を諮問機関に格下げしているが、現行制度でも事実上、教育委員会は諮問機関の役割しか果たしていない。月に1日か2日会議を開き、事務局の報告を聞き、事務局から上がってきた議案をそのまま承認しているだけだ。いじめ問題に端を発し、その非力な実態が明らかになった大津市教育委員会はその典型だ。
  (b)提言は、教育長を教育行政のトップに位置づけ、これを首長が直接任命する、としている。現行制度では、教育長は教育委員たちの互選によって任命される。したがって、首長は教育委員の選任には与れるものの、意中の人を教育長に任命することはできない・・・・という建前だが、実際は教育委員を任命する際に、既に教育長候補は決まっている。そのことを他の教育委員にも因果を含めているので、互選を通じて首長の意中の人以外の人が教育長に選ばれることは、まず無い。今でも事実上、教育長は首長が直接任命している。くだんの大津市の当時の教育長も、こうしたプロセスを経て市長主導で任命されていたはずだ。

 (3)提言では何も変わらない・・・・かというと、必ずしもそうではない。今までより教育に対する首長の発言権が強まる。
 それをどう評価するか。首長しだいで良くもなるし悪くもなる。より悪くなる可能性が危惧される。
 首長が、これまで以上にリーダーシップを発揮できるようになる。やりたい改革がスピード・アップされる。
 しかし、迅速に改革を進められる仕組みの下では、改悪も迅速に進めることができる。教育を軽んじる首長が登場した場合、それまでのせっかくの手厚い教育環境がたちどころに剥がされてしまう事態も想定される。
 また、教育行政の性格からして、たとえ良い改革でも急激な変化は避けるべきだ。子どもたちと向き合う教師一人一人がその改革をポジティブに捉え、それを主体的に実践するためのモチヴェーションを持つに至るには、それなりの時間と手順を必要とするからだ。それらを欠いた改革は、教師たちとの間でいたずらに摩擦と軋轢を生む。摩擦と軋轢に改革者が強権をもって臨めば、学校現場は一層混乱する。子どもたちにとって迷惑至極だ。
 激変緩和の緩衝材としての機能が教育委員会に期待されている。良い改革も少し時間をかけながら現場に浸透させていく。逆に、悪い改革には防波堤の役割を果たす。

 (4)教育委員会が現状のままではいけないのは確かだ。ほとんどの自治体の教育委員会は、ちゃんと機能していないからだ。
 ただし、これは制度の問題ではなく、むしろ運用のまずさに起因している。教育委員の「品質管理」がいい加減なのだ。
 首長が教育委員候補を選定する際の手抜き。
 その候補を吟味し、「品質管理」の責任を負うのが選任につき拒否権を持つ議会だが、実際にはほとんどの議会は適切にその役割を果たしていない。教育委員候補の「品定め」をすべきだが、一向にやっていない。ほとんどの自治体では、議会の最終日の、しかも閉会の直前に、教育委員などの選任議案が首長から提出される。それを受けた議会は、通常の議案なら所管の常任委員会に付託すべきところを省略し、直ちに採決に入る。本人の聴聞はおろか、提出した首長にも一切質問することはない。
 かくして、教育行政の責任を担う自覚や見識があるのか、教育行政に割く時間的余裕があるのか、など大事なことは何も確認されないまま委員たちは任命される。「品質管理」は、ちっとも無い。
 地方議会は、国主導の的はずれな改革を待つのではなく、自らの責任で教育委員会の再生のためにぜひ奮起してほしい。

 (5)教育を本当に首長に委ねてよいか。
 懸念される<例>・・・・最近の教員の非正規化の進行だ。沖縄県、兵庫県、大阪府、埼玉県などでは、児童数などを基準にして決められた公立小中学校教員定数の1割を超えて正規教員から非正規教員に代替されている。
 正規教員を基準どおり配置するのに必要な財源は、国が毎年度これら府県にも措置している。ところが、府県の判断で、正規教員を非正規教員に置き換えると、一人当たり400万円近くの財源を浮かせることができる。教育財源のネコババだ。これを主導しているのは、財政権を持つ首長だ。
 かかる事実を踏まえると、首長の権能をこれ以上強化するのではなく、むしろ教育委員会の機能を強化するほうがよほど大切だ。
 首長は民意によって選ばれ、その民意は教育に重きを置いているから、首長は教育を蔑ろにするはずはない・・・・とは、理屈の上では正しいのだが、財政難の現実の中では必ずしも妥当しない。
 教育委員の選任を首長自身もいい加減に処理していた事実も重ね合わせると、教育を首長に委ねれば万事うまくいく、というのは幻想だ。

□片山善博(慶大教授)「教育委員会は壊すより立て直す方が賢明 ~日本を診る 44~」(「世界」2013年6月号)
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【社会】「教員駆け込み退職」と地方自治の不具合

2013年03月12日 | ●片山善博
 (1)埼玉県では、3月に定年退職を迎える教職員のうち、1月中に退職した者が100人を超えた。
 上田清司・埼玉県知事は、記者会見で、早期退職を申し出た教職員たちに不満を述べた。
 下村博文・文部科学大臣も憤った、と伝えられる。
 埼玉県だけではない。他の多くの府県や大都市でも似たようなことが起こった【注】。

 (2)埼玉県の2012年12月県議会で「職員の退職手当に関する条例」が改正された。これが、埼玉県における事の発端だ。改正の結果、<例>勤続35年以上の職員が3月末に退職した場合、改正前の水準より退職手当が約150万円減額されることになった。ただし、1月末までに早期退職すれば、減額されない(満額支給される)。
 これは、企業における人員整理と同じ手法だ。Xデ一までに辞めてくれ、というメッセージをこめて、「Xデ一までに早期退職すれば退職金を割り増す」or「Xデ一までに退職しなければ退職金を減額する」。
 埼玉県の条例も同じメッセージを発している。Xデ一よりも後(2月以降)も在籍するなら減額というペナルティが科せられるからだ。
 よって、埼玉県知事の教職員批判は、支離滅裂と言うしかない。企業の整理解雇の募集に応じて早期退職した社員に対し、当該企業が「無責任だ」と非難するようなものだから。

 (3①)国家公務員退職手当等の一部改正と、②埼玉県のくだんの条例改正と、制度はほとんど同じだ。しかし、ハッキリ違う点がある。
  (a)施行時期の違い。①は本年1月から、②は本年2月から、と1ヵ月のズレがある。その結果、(2)の<例>によって試算すれば、
    ①の場合、1~3月分の給与および3月のボーナスを貰うから、早期退職のメリットはない。
    ②の場合、2ヵ月分の給与とボーナスで、その合計額は150万円を下回る。・・・・まさしく3月まで働いた者がペナルティを課されるわけだ。これが理不尽なことは、子どもでもわかる。要するに、埼玉県知事の知的能力は低かった。

  (b)国は自治体と違って現場部門は多くない。特に義務教育の分野における教職員の数はわずかだ(<例>国立大学附属小中学校)。
 他方、地方公務員の中で最も数が多いのは小中学校の教員だ。
 自治体が国の制度に倣うのであれば、こうした彼我の違いに十分注意する必要がある。埼玉県知事は、その注意を怠った。

 (4)この条例を最終的に決めたのは、埼玉県議会だ。その議事録を見ると、反対意見にさえ、早期駆け込み退職を助長し、教育現場を混乱させかねない危惧や懸念には触れられていない。肝心のことに思いが至っていない。
 議会は原案のまま条例を成立させた。議会のチェック機能はまるで果たされていない。
 議会がチェック機能を果たさないのは、この件に限らない。その原因の一つは、地方議会が総じて執行部の説明しか聞かないからだ。この議案は問題だらけだ、などと執行部の職員が説明するはずはない。問題があるか否かは、議員自らが検証しなければならない。
 その検証を行うには、当事者(本件の場合は定年退職者・学校長・保護者など)が住民の意見を聞いてみればよい。.そのために、地方自治制度には公聴会や参考人質疑の仕組みが用意されている。この仕組みを実施していれば、この条例の問題点が明らかになったはずだ。
 全国の地方議会では、公聴会や参考人質疑はほんど活用されていない。当事者や住民の意見を聞く・・・・これこそ、昨今あれこれ議論されている議会改革の第一歩だ。

 【注】「【社会】「かけこみ退職」に走る教育現場の実情 ~退職金減額に対する自衛策~

□片山善博(慶大教授)「「教員駆け込み退職」と地方自治の不具合 ~日本を診る 42~」(「世界」2013年4月号)
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【政治】何事も学ばず、何事も忘れない自民党 ~公共事業~

2013年02月10日 | ●片山善博
 (1)安部新政権は景気対策の名のもとに公共事業を大判振る舞いする方針だ、と報じられている。先の首相所信表明演説でも、「機動的な財政政策」の必要性を強調し、補正予算の速やかな成立を促している。
 かつて自民党政権は、公共事業に大金を投じ、さしたる成果をもたらすことなく借金の山だけを残した。従来型の公共事業が似たような結果しかもたらさないことは、容易に想像がつく。

 (2)経済の疲弊と雇用情勢の厳しさは、大都市圏より地方圏で顕著だ。
 公共事業は、地方経済を蘇生させる原動力になりうるか。残念ながら、従来型の公共事業が地方経済を停滞から救うことは、まず、ない。土木建設事業者が一息つけること、必ずしも魅力的でない雇用が多少増えること、くらいの効果でしかない。
 <例>道路事業
  (a)予算の何割かは土地代に回る。通常、土地を売った地主が起業したり、人を雇ったりすることはない。売却代金は金融機関に預けられ、その資金の多くは国債購入に充てられている現状では、土地代が地方経済に及ぼす影響はほとんどない。
  (b)鉄、セメント、アスファルトなどの資材の大量調達も、地方経済に効果をもたらさない。例えば取県の場合、製鉄工場はないし鉄の鉱山もない。経済効果のほとんどは国内他地域あるいは海外に流出し、域内に留まることはない。
  (c)建設作業員の給与費は、確実に増える。しかし、公共事業費に占める人件費の割合は、事業にもよるが、さほど大きくはない。しかも、トンネルや橋梁などの大規模工事のほとんどは大手ゼネコンが受注し、地元業者は下請けか孫請けに甘んじる。そこに雇われる従業員の待遇は、決して恵まれたものではない。その乏しい雇用すらも、いずれ公共事業が縮小すればそこで途絶えてしまう。

 (3)景気対策としての公共事業に求められるのは即効性だ。その結果、地方では何が起こるか。
 <例>道路事業
  (a)地域住民にとって優先度が高いのは生活道路であることが多い。2012年4月、京都府亀岡市で登校中の児童がはねられ、3人死亡した。無免許居眠り運転に原因があるのは明らかだが、あの道路に段差のある歩道とガードレールが設置されていたら、事故は未然に防げた可能性がある。その後の調査によれば、全国の通学路にある危険箇所は7万か所にのぼる。
  (b)生活道路に歩道をつけるには時間がかかり、即効性は期待できない。   
  (c)安部総理所信表明演説において、補正予算の重点分野として「暮らしの安心・地域活性化」を強調した。しかし、生活道路などを安全にするための工事は、即効性が求められる景気対策の中では取り上げられ難い。こうした実情を総理はどれほど認識しているか。
  (d)国の各省の縦割りの弊害もある。県内で急がれる高速道路の建設には①国交省の予算が不足し、他方、県内ではこれ以上必要のない農道に係る②農水省の補助金に余裕がある場合で、②から①へ回す措置をとることが国にはできない。

 (4)片山教授は、総務大臣時代、国庫補助金改革を担当した。(3)-(d)のような弊害を除去する改革を行った。補助金をまとめて都道府県に配分し、その使途を都道府県に委ねる仕組みを取り入れた(「一括交付金」)。ムダは、都道府県で自主的に解消できることになった。
 さらに、これまでにない新しいタイプの一括交付金を構想していた。原発のない沖縄県など、道路などの従来型の公共事業より自然エネルギー開発の優先度が高い。エネルギー自給率を高めることができれば、富の域外流出を減らすことができる。地域経済の将来にもたらす効果は、すこぶる大きいはずだ。
 
 (5)ところが、安部政権はせっかくの一括交付金制度をはなから廃止し、十全の縦割り・ひも付き方式に戻す方針のようだ。国会議員が官僚に口を利き、地元に補助金を持ち帰る。こうした政治家と官僚の古い「ビジネスモデル」をまたぞろ復活させたいわけだ。先祖がえりというほかはない。
 いま各都道府県に対して政府は、補正予算が国会に提出されてもいないのに、既に予算の配分予定額を示し、事業予定箇所をリストアップするよう言っている。自然エネルギー開発などの新型事業は想定していないし、即効性の観点から今年度内に着手し来年度中に完成する事業に絞れ、と指示している。
 仕組みもやり方も以前と何も変わっていない。これでは疲弊した地域経済を救わず、生活道路は手つかずのまま残される。それでいて、各省縦割りの弊害と政治家の口利き利権だけは元気に甦ろうとしている。

 (6)何事も学ばず、何事も忘れず。革命とナポレオン帝政が終わった後に戻ってきたフランス貴族たちと同様、王政復古ならぬ政権復帰した自民党も、こと公共事業に関しては何も学んでいないし、何も忘れていない。

□片山善博(慶應義塾大学教授)「何事も学ばず、何事も忘れず ~何も変わらない公共事業 ~日本を診る」第41回~」(「世界」2013年3月号)
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