よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

中国ビジネスとインテリジェンス・リテラシー

2009年06月09日 | ニューパラダイム人間学


以前コンサルティングをしていた巨大企業にS島さんという中国ビジネスの達人級のプロがいた。Sさんは、中国政府、中国共産党、企業、大学に独自の人脈を持ち、Sさんなかりせばその会社の中国ビジネスはまったく進まない状況だった。

その会社は、第二、第三のS島さんを育成しようと躍起になっており、その教育プログラムづくりの一環としてS島さんの能力特性・行動特性を調べてくれと筆者に依頼してきたのだ。

Sさんには、リーダーシップ、対人関係能力、イニチアチブといったコンピテンシーには人を抜きんでたものが備わっている。しかし彼に潤沢にあって、他の中国ビジネス担当者に不足しているものは、ある種の濃密な中国古典と中国社会に対するインテリジェントなオリエンテーションだった。

彼は10代のころから漢文、漢籍に親しんでいて、中国の要人と接するたびに仕事のことはさておき、中国古典に関する意見、知見を交換してきたのだ。わからない部分は手紙で質問したり、後日、研究して新しい解釈を開陳したり、という具合に。S氏の鋭い質問に相手が答えられない時は、その相手は、大学の先生や読書人(知識階級に属する人々)を紹介する。そうして、S氏のまわりには、自然と人脈が形成されることとなった。

こうしてS氏は、インナーサークルの機微な情報・知識を共有するキーパースンになっていった。必然的にビジネスもS氏のまわりに形づくられるようになっていった。S氏はこんな話を、飯を食べながら、酒を飲みながら目を細めて楽しく語ってくれた。宗族外にいる日本人としては、中国ビジネスを進展させるためには、インナーサークル、つまり知人→関係(クアンシー)→情誼(チーイン)→幇会(パンフェ)と呼ばれる人間関係の濃密さを絶対的に強めてゆく集団に受容される必要がある。

知人→関係(クアンシー)→情誼(チーイン)→幇会(パンフェ)に連なるインナーサークルの人間関係はいわば中国社会の法則。共産主義、社会主義市場制度といった外形的な制度を超えて中国社会の深淵に通底している。

インナーサークルに入るためには、知人、関係、情誼、幇会に関する深い理解とともに、Literacy for Nine Chinese Classics(四書五経)をはじめとする漢籍に関する教養が重要となる。もっとも共産党の指導のもと、儒教は脇へ追いやられてきたので、四書五経よりは歴史、文学のほうがウケはいい。

S氏からは本当に多くのことを学んだ。中国でまっとうなビジネスを行うためには、標準的なビジネス系大学院のカリキュラムだけでは不足だ。そこを補完するものとして畏友・麻生川静男氏がピリッとしたことを書いている。

麻生川静男氏のブログより。

<以下貼り付け>

『漢文なんて時代遅れだ、漢文なんて不要だ』、と世間の漢文に対する評価は恐ろしい程低い。私はこういう風潮には大いに反対である。これは漢文自体が不要ではなく、高校の漢文教育が不備だという評価と考えなくてはいけない。従って逆に高校で十分教育できない分だけ一層大学で『漢文を十分に読める』教育をする必要があると考えている。

現在、私は京都大学で一般教養課程で『国際人のグローバル・リテラシー』(Global Literacy for Cosmopolitans)の授業をしている。ここでは、授業の最後の10分に、漢文が読めるようトレーニングをしている。具体的には、漢文のテキスト(返り点なし。ただし句読点はついている標点本)を学生に配布する。学生の一人が書き下し文を読み上げ、他の学生は単に目でテキストを追う、というだけである。この方法を数ヶ月続けると、返り点なしの漢文の読み方のこつを会得できる。

そもそも、なぜ今さら漢文教育に力をいれるかというと、それは次の三つの理由からである。

理由1:我々日本人は漢字の『ネイティブスピーカー』であるので、漢字の意味やニュアンスを正確に知っておくことが必要である。しかし残念ながら、現在の高校までの国語教育では教育指導要領などの縛りがあり十分ではない。また使える語彙(特に抽象単語)を増やすには漢字テストのような、コンテキストから遊離した形式で覚えるのではなく、情感豊かな漢文と共に覚えることが重要である。

理由2:この『情感豊かな漢文』の中には、人としての生き方について、哲学書や宗教書とは比較にならないほど優れた文章が存在している。具体的には司馬遷の史記に代表される史書にはそういった文章が数多く存在している。私の経験から言うと、難解な専門用語の羅列の哲学書を読んで、著者本人ですら理解していない抽象論を弄ぶより、歴史上の人の生きざまを知るほうがはるかに人生について考えさせられる。

理由3:中国は今後、日本にとって非常に重要な国になるとともに中国人との付き合いも増えてくる。従って中国人の深層心理を正しく理解することは、個人のみならず、国家戦略上重要である。中国人にとって、過去の歴史的事実を知っているという事は日本人の理解をはるかに超えて、非常な重みをもつ。そして新しい言い回しや論理より、由緒ある伝統的な文言に引き付けられる傾向が強い。そういった心情の中国人とまともに(あるいはまとも以上に)付き合うことができるためには、日本で漢文と言われている文章(春秋戦国時代から唐・宋まで、望むらくは明・清もふくめて)を読み、内容を理解できる必要がある。

ただ、このような理由で漢文を読み始めるにしても、漢字だけの文というのは興味が湧きにくいもであるのも事実だ。それで、私は最初は故事成句を含む文章からなじむことを勧めている。

いくつか挙げてみよう。

『百聞不如一見』(百聞は一見に如かず、漢書、69巻)。前漢の趙充国は宣帝から羌族(きょう)への対策について下問を受けた。時に趙充国は70歳を超えていたのだが、そのような大役を任せられるのはこの自分しかいないと答え、ついで、『百聞不如一見、敵陣をこの目で確かめないと戦略はたてられない。どうぞ安心して臣にお任せあれ』と宣言した。これを聞いた宣帝は苦笑して『諾、OK』と任せる他なかった。

『騎虎之勢可得下』(騎虎の勢い下るべからず、魏書、96巻)。晋の陶侃が温橋(ただしくは山偏)を援助していたのだが、温橋が戦いに負けていたばかりか、食料も足りなくなったと言って来たのに腹をたてた。温橋は冷静に『敵は今やまさに滅びようとしているではありませんか。騎虎之勢可得下、ここで戦いを中途半端に止める訳には行かないでしょう。』これを聞いた陶侃はもっともだと思い怒りを納めた。

『間不容髮』(間髪をいれず、漢書、51巻)。枚乗が呉王鼻(本当はさんずい偏に鼻)の役人として仕えていた。呉王鼻は漢朝に対して謀反を起こそうとしたので、枚乗は上書して諌めた。『現在の状況を見るに非常事態です。まるで深い穴に落ちた人が切れそうなロープを頼って登ってくるようなものです。ロープが切れずに登りきることができるかできないか、間不容髮です。』

この『間不容髮』の原文を見るまで私は『間髪、をいれない』という風に理解していた。つまり間髪という実体が何かあるように錯覚していたのだ。ところがこれは、『髪の毛が入る間(すきま)も無いほどぴっちりと』という意味で、元は空間的な意味だったのだ。しかし、当時すでに時間的な意味にも転用されていたようだ。

一方ドイツ語でも全く同じ言い回しがある、um ein Haar。本来の意味は『一本の髪の毛の分だけ』であるが、『すんでのところで、間一髪で』という意味に使われている。発想が同じ(空間的なものを時間的表現に転用する)上に同じ単語(髪の毛)を使う発想の一致に驚く。

既に2千年以上も経っているにも拘わらずこのような表現がそのまま現在もなお使われている漢字の生命力の強さ、強靭性(robustness)に私は深い感慨を覚える。

<以上貼り付け>

味わい深い分析だ。つけくわえると「中国人の深層心理」には資本主義的な契約の概念は極めて希薄だ。知人→関係(クアンシー)→情誼(チーイン)→幇会(パンフェ)の外延では契約はかろうじて尊重されるが、情誼、幇会というように人間関係が深まるにつれて資本主義的な契約(ユダヤ・キリスト教を背後論理とする契約)が入り込む余地は消失してゆく。そして強固な人間関係、あるいは人治の関係こそが、契約を超越した紐帯として強固な拘束力を発揮する。

人間関係の外延において、交渉の結果として契約を結ぶのではなく、より親密な人間関係を構築するイニシエーションとして、交渉の手始めとして契約を結ぶのである。

漢文教育あるいは人文教養に比較社会システム論が加わればGlobal Literacy for Cosmopolitansとして申し分ないだろう。中国ビジネスを進展させるためには、以上を含めたインテリジェンス・リテラシーが必須である。


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