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上野国分寺と橘諸兄  ~紫陽花万葉歌に想う~ 

2015年02月09日 | 歴史、過去の語り方

万葉集のなかで紫陽花がうたわれているのは、次の二首だけです。

 

あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にを

     いませわが背子 みつつ偲はむ

                橘諸兄 (巻二十 4448)

 

 あじさいが幾重にも群がって咲くように変わりなく、

 いつまでもおだやかでいてください。

 わたしはこの花を見るたびにあなたを思い出しましょう。(大意)

 

 

 

  言(こと)問はぬ木すらあぢさゐ諸弟(もろと)らが

       練りのむらとに詐(あざむか)えけり

                                       大伴家持 (巻四 773)

  物言わぬ木でさえ、あじさいのような移りやすいものがあります

  諸弟らの巧みな占の言葉に私はだまされました。  (大意)

 

 

紫陽花の折り重なる様子、移ろいやすさをそれぞれうたっています。

 

「万葉集」は橘諸兄と大伴家持、このふたりの力によって編纂されたともいわれます。

紫陽花の歌で、このふたりが共演していることも面白い。

いや、万葉集編さんの中軸ふたりだけが紫陽花をうたっていることには、何か深い意味もありそうな気もしてきます・・・

百人一首が、ただ名歌を集めただけでなく、ひとつひとつの選択に深い意味が込められているのと同じく、万葉集編さんの中心人物であるこの二人だけが紫陽花という題材を選んだことは、憶測かもしれませんが、推測研究の価値は十分あるかと思います。

まして藤原氏圧政の下で、ひと際苦労を分かち合っているこの二人のことですから。

 

橘諸兄と紫陽花については、様々な考察ができそうですが、
以下のような興味深い仮説のサイトもありました。 
http://kntryk.blog.fc2.com/blog-entry-604.html?sp

 

 

 

まだ、これほど目立つ花が、歴史のなかでは『源氏物語』にも『枕草子』にも、

まったく取り上げられていません。

   その後、あらわれてくるのは芭蕉句(発句編・夏)でやっと現れます。

 

アジサイは渋川市の花ですが、この町だけはいつの時代になっても変わること

なくその魅力を伝え続けたいものです。

 

天皇と藤原氏を中心に律令制度を軸としたこの国のかたちがようやくできはじめた天平時代。

災害や疫病とともに、その中枢を担っていた藤原四兄弟をはじめとする多くの議政官が次つぎと亡くなってしまいました。

そんなときに藤原氏以外から聖武天皇を補佐し、大変な国分寺政策の責任者に抜擢されたのが橘諸兄です。

多くの人びとが苦しみのなかにあるときに、仏教による救済を求めて聖武天皇は、東大寺をはじめとする巨大寺院や仏像の建立に人々をかりたてたのです。

そんな無謀な計画は、決して長く続くものではありませんが、その責任を担わされた橘諸兄のこころの内はどのようなものであったでしょうか。

 

「万葉集」は「遷都と仏教支配に失敗した橘氏が仲麻呂勢力に対して行なった文化的戦い」(梅原猛「天平の明暗」中央公論社)との見方もある。

 

この史跡にたって橘諸兄の紫陽花の歌をよんでみると、

日本をおおう大きな政治のうねりと、その職務を背負ったひとりの人間の苦悩の姿、

またそこにかり出された幾多の人びとや高度な技術をもった名もなき職人たちの息吹を感じることができます。

 

 

天平一三年(741)多くの災害や政治の乱れに苦しんだ聖武天皇は、東大寺建立をはじめとする国分寺を国ごとにつくることを命じました。

上野国の国分寺は、750年頃に主な建物が完成したようです。

僧寺は東西約220メートル、南北約235メートルの広さをもち、周囲は築垣(土塀)で囲まれていました。その中央には本尊の釈迦像を祭る金堂と高さ60mにも及ぶ七重塔が建てられていました。

 奈良県で一番高い興福寺の五重塔でも50.1メートル。木造日本一の高さを誇る京都の東寺五重塔でも54.8メートル。

五重と七重の違いはあるものの凄いことに変わりはありません。各地の国分寺も、ほぼ同じ設計図によってつくられていたようですが、上野国分寺は早い時期につくられたこともあり、全国でも規模ともに整ったものだったようです。

 

東大寺の七重塔の推定高100メートルには及びませんが、

おそらく当時は上野国のかなり広いエリアからその姿をみることができたことでしょう。

          

                                   (以上、万葉紫陽花歌手作り栞普及チラシ下書きより)

 

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3 コメント

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あじさゐ歌碑について (春庭)
2012-06-27 18:47:07
はじめまして。
春庭ともうします。子どものころ、正林堂で本を購入していた者です。現在は東京に在住し、大学で日本語学、日本語教育学などを講じております。

さて、メール(正林堂あて)でご連絡申し上げましたが、お返事をいただけないまま、春庭のサイトに小野池の橘諸兄の歌碑の写真をコピーさせていただきました。

春庭のgooブログ2012/06/27のコラムに、万葉集のほか、平安時代後期から江戸時代、近代までのあじさゐを詠った和歌短歌を掲載しました。その中に、橘諸兄の歌碑をコピー掲載させていただきました。お許しいただければ幸いです。

私は、2003年にOCNカフェブログを開設し、2012年3月にgooブログに移転してきました。

かみつけ岩坊さんのgoo記事を拝見させていただいております。(正林堂店長の雑記帖も拝読)
渋川についての記事、なつかしく、また新たに知ることなど、興味深く読ませていただきました。

春庭サイトは、gooのほか、
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/(話しことばの通い路)
http://hal-niwa.blog.ocn.ne.jp/(春庭カフェらパンセソバージュ)
に、日本語言語文化、日本語学などについてのコラムを掲載しております。
gooブログ仲間のなかで何人かと読書記録の交換をしたり、本好きとの交流を続けてきました。

これからも岩坊さんのコラムを続けて読ませていただきます。

小野池歌碑の写真につき、掲載不可である場合、ご連絡くださいませ。

正林堂のますますの商売繁盛と店長さんのご活躍をお祈り申し上げます。
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Unknown (かみつけ岩坊)
2012-06-29 12:39:31
春庭さま。コメントありがとうございます。メール見落とししまったようで大変失礼いたしました。私どもの下手なものでもご利用いただけるものがありましたら、どうぞご活用下さい。
日本語、言葉関係がご専門のようですが、これからの東北の文化に触れて、東日本と西日本ぶんかの違いについて少しまとめる予定ですので、その際はご教示いただけたら幸いです。
ブログ拝見させていただきました。今後ともよろしくお願い致します。
返信する
これはただならぬ発見かも (かみつけ岩坊)
2015-02-09 20:33:28
万葉集の編さんの中心人物である大伴家持と橘諸兄。このふたりだけが紫陽花の歌を詠んでいるというのは、やはりただならぬ意味があるのではないか。これは大変な発見かもしれない。
この記事2012年にアップしたものですが、加筆更新しました。
(参照)橘諸兄は「万葉集」の〈勅撰〉を狙った。http://blogs.yahoo.co.jp/kome_1937/52182453.html
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