かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

闇から生まれる最初の色 「青」についての覚書

2019年08月30日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

 

 

 

 

暗闇から

一番最初に生まれる色彩は、

 

 

 

青といえば、

空の色、

海の色に始まり、

 

 

 青は文字通り水色、空色として地上を代表する色彩となっています。

 

 

 

どちらも無限ともいえる深い空間から生まれた色です。

その深さが極まれば、当然行き着く先はまた「闇」であり、

黒色の世界となります。

 

したがって、プリズムの原理は知らずとも

闇のなかから最初に生まれる色彩は「青」となります。

 

私が中学生のときの担任が美術の先生で、それは厳しく恐い先生でした。
でも、振り返ると今日まで記憶に残る大切なことを
最も多く教えてくれたのもこの先生です。
その先生が何の絵だか記憶はありませんが、私が描いていた絵の闇の部分に
この黒い面に一点だけ青絵の具をつけると深みが出ると教えてくれました。
ひとつのテクニックを教えてくれたにすぎないかもしれませんが、
今思えば黒・闇と青の関係を伝えてくれるものでした。

それともう一つ思い起こされるのは、
小学生のとき、ポスターを描く宿題で山の自然保護だかの絵を描いたことがあり、
そのとき遠くに見える山は青く見えると教わったことを意識して
山なみを三角形の直線を重ねた表現で描いた記憶があります。
これは自分なりにはシンプルに抽象化された表現がうまく出来たつもりでしたが、
なぜか先生の評価は高くなく入選しなかったことが悔しかった記憶があります。
あとで振り返れば、どこかのポスターにあったような表現であったため、
子どものポスターとしては評価されなかったのだろうと解釈しています。 

 

 

古来、人びとは文明を問わず、この青という色彩を

黄金・金色、朱色・赤とともに特別な意味を感じていました。

 

 古代エジプトの黄金と青色だけの彩色。

古代エジプトにおける青の色材は、アフガニスタンのみで産出されるラピス・ラズリ(ウルトラマリン)が珍重されたが、これは極めて貴重なもので、かつ塊状なので加工利用が難しい。そこで、手軽に利用できるウルトラマリン代替の青として、人工的な銅の顔料、エジプシャン・ブルー(エジプト・ブルー)が発明された。これは同時に、人間が化学反応を伴うプロセスで初めて合成した青顔料でもあった。
参照 エジプシャン・ブルーとハン・ブルー
https://sites.google.com/site/fluordoublet/home/colors_and_light/egyptian_blue 

 

黄金・金色や赤・朱色に古来多くの人びとが魅了されてきたことはわかりますが、

かくも青色に多くの人びとが魅了され続けてきたのは、

いったいどのような理由によるものでしょうか。

 

 モスクの装飾もブルーが基調

 

 

同じ古代からの文化でも、
かたや中東から北方や東方に向かうと
赤や朱色が基調になってきます。

赤の文化は、中国、日本ばかりかロシアでも、
「美しい(クラシーバ)」という言葉は 、
「赤い」と同義語であると聞いたことがあります。

こうした色彩文化の違いは、どこからくるのでしょうか。

 

 

 白色の次にあらわれた青色

 

 

 

このように古代から、シルクロードを経て日本にやってきた青色は、

藍色に代表されるジャパンブルーともいわれる色彩にまで進化しました。

それは、鉱物系の色彩から植物系の色彩への変遷ともいえます。

  

志村ふくみ 志村洋子 志村昌司『夢もまた青し 志村の色と言葉』河出書房新社

 

 

 

 

 日本語で「アオ」は、しばしば「黒」や「緑」と同義語であったりします。

このことも、闇から生まれる最初の色が青であることから考えると、

黒や緑などの原初の色彩を総称して「アオ」とする見方が自然に理解できる気がします。

まさに「色即是空」の「色」が「アオ」と似たニュアンスに感じられます。

 

 

青そのものの表現バリエーションでも

水色、空色、青色の周辺に、

藍色、藍鼠、濃藍、濃紺、露草色、納戸色、縹・花田色、群青色、紺、紺青、

紺藍、瑠璃色、瑠璃紺、杜若(かきつばた)色、桔梗色、勝色、熨斗目色、

浅葱色、水浅葱、錆浅葱、新橋色(金春色)、勿忘草色、露草色、白群、

鉄色、鉄紺、青鈍、甕覗(かめのぞき)・・・・など

 

 青が魅力的な松尾昭典さんの陶芸

 

 上の皿は松尾さんの新作で、井戸の底から見上げた夜空をイメージしたものだそうです。
写真ではちょっとわかりにくいですが、金色の星がかすかに散りばめられています。 

 

 

 

この青が洋風表現の場合でも、ブルー、シアンの周辺に

ナイルブルー、ピーコックブルー、ターコイズブルー、マリンブルー、

ホリゾンブルー、スカイブルー、セルリアンブルー、ベビーブルー、

サックスブルー、コバルトブルー、アイアンブルー、プルシャンブルー、

ミッドナイトブルー、ヒヤシンス、ネービーブルー、オリエンタルブルー、

ウルトラマリンブルー、ウイスタリア・・・・など

紫系、青緑系を除いても結構あります。

 

 

 

このように振り返ってみると、「青」という色がもつ性格は

無限の深みのなかに歴史(時間)の深さと、立体(空間)の深さ

を兼ねそなえた色彩であることにあらためて気づかされます。

 

しかもそれは、闇に一番近いところに生まれた色彩であるため、

まだあらゆるノイズ(騒音)も生まれる前の静寂もあわせ持っています。

このことは同時に、わずかなノイズ(騒音)さえも目立つということであり、

自ずと高い精神性もともなってきます。

 

源氏物語の世界にも見られるように、青の隣りにある色彩「紫」が最も高貴な色であるというのも、何かこのような青色の属性から推察できるような気もします。

 

 

現代で、ブルーというとブルーな気分として、落ち込んだ気持ち、沈んだ気分、憂鬱な気分などを指す意味もありますが、これも底の限りなく深いところに落ち込んだような感覚からきているのでしょうか。

いづれにしても、青、ブルーの色は、底はかない「深さ」のようなものを感じさせます。

 

 

そして、

 

闇から生まれる最初の色「青」の究極が、コレ。

 

 

以上、「月夜野百景」リーフレットのシリーズで、夜・闇の意味についてまとめる素材を洗い出してみました。

 

 

 関連ページ  新緑の季節「生命の誕生」が緑色であることの意味

 人の色の好みは、赤だろうが緑だろうが所詮好みの問題にすぎないと思っていました。

ところがこう振り返ってみると、今まで青色が好きだという人は、緑や赤に比べてなにをもって好きと思っているのか推し測りがたい面がありましたが、何かとても高い精神性をもった尊敬すべき人たちのように思えてきました。

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「インビクタス」の詩の表現

2019年08月28日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

I am the master of my fate:  
私が我が運命の支配者

I am the captain of my soul.  
私が我が魂の指揮官なのだ

映画「インビクタス」で知った詩の一節です。


 これはなにも獄中で戦い抜いたマンデラや世界一のラグビーチームを率いた強い意志を有する者、特別な「私」だけの言葉ではなく、普通の人びとが持てる言葉と理解したいので、訳も少しだけ変えたほうがいい気がします。
意訳ということになりますが、

 

我こそが我が運命の支配者

我こそが我が魂の指揮官だ

 

 

  • INVICTUS

    by William Ernest Henley

    Out of the night that covers me,

    Black as the pit from pole to pole,

    I thank whatever gods may be

    For my unconquerable soul.

     

    In the fell clutch of circumstance
    I have not winced nor cried aloud.
    Under the bludgeonings of chance
    My head is bloody, but unbowed.

     

    Beyond this place of wrath and tears
    Looms but the Horror of the shade,
    And yet the menace of the years
    Finds and shall find me unafraid.

     

    It matters not how strait the gate,
    How charged with punishments the scroll,
    I am the master of my fate,
    I am the captain of my soul.

     

    私を覆う夜の闇、
    地中深くに掘られた穴のように暗い闇の中で
    私はどんな神だろうが感謝する
    この屈服せざる魂を私に与え給うたことに

     

    恐ろしい危機的状況の中でも
    私はたじろぎも泣き喚きもしない
    運命のこん棒に殴られ続け
    頭は血まみれでも、その頭は下げない

     

    たとえ怒りと悲しみの果てに
    死の恐怖が迫っているだけだとしても
    何年もの脅しに晒されようと
    私は恐れていないし、これからも恐れない

     

    いかに狭き門だろうが、
    いかなる裁きの法が待っていようが関係ない
    私は自らの運命の支配者であり
    私は自らの魂の指揮官である

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キャビアの梅和え 若いころの思い出の一品

2019年08月25日 | 暮らしのしつらえ

キャビアの梅和え


若いころの思い出の一品を再現してみました。

 

 

これは20代のころ住んでいた小田急線の経堂で、
とても魅力的なママがいた飲み屋で出してくれていたものです。

オーダーするとき「キャビアの梅和えお願いします」というたびに、まわりのお客が振り返った。

とても素敵な憧れのママさんだったけど、画家と一緒に暮らしているらしいとの噂でみんな諦めていた。

ある日そのママさんが坂口安吾のファンだという話になったら、常連のロシア文学の先生がそれに噛みついてきて
、ママも負けずに「あなたは私の何を知っているというの」と激しく反論していた。


それ以来、読む前から私は坂口安吾は素晴らしい作家であると確信していますw
 

 念のため、キャビアの梅和えとは、当時から「トンブリの梅和え」のこと。 

 冒頭の写真は、思いついたときに私が作ったものですが、

2枚目、3枚目の写真は、うちの洋子さんが本格的に再現してくれたもの。

梅肉を丁寧に刻みほぐして、ごま油と魚醤をちょっと垂らして作ってくれました。

 

その後、キャビアの山芋和えに進化し、
独立した一品料理に格上げされました。

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結局、大人が問題(加筆転載版)

2019年08月20日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

 

イメージ 1
 
大事なおススメ本でありながら、しばらく版元品切れで入手できなかった本が
ようやく重版され入荷ました。
 

 

 
 
結局、こどもの問題の大半は、
 
大人が問題で、
 
しかも、大人の問題です。
 
 
 
子ともの現場で起きている問題と同じ問題が、
ほんとうは大人の現場でも起きており、
大人の問題と子どもの問題は同時並行で世の中では進行しています。
 
大人の問題に向き合えず、解決できていない問題が、
そのまま子どもの社会でも起こり、
それに答えられない大人、
向き合おうとしない大人がいます。
 
そんな現実にまた新しい始点から問いかける素晴らしい1冊が刊行されたので、
フェアとしてまとめてみました。
 
 
イメージ 3
 
 
 
その1冊とは、
です。
 
こちらの本も、売りたい本でありながら、
なかなか十分な数を仕入れることが出来なかった1冊です。
 
 
イメージ 2
 
この2冊を通じて見えてくるのは、
 
教師であれ、親であれ、友だちであれ、
問題に直面している子どもたちが求めているのは、
問題に対する「答え」ではないということです。
 
また親であれ、教師であれ、
課題に直面している子どもに対して、
常にその答えを持っているとは限らないということです。
 
そこをつい親や教師はごまかしてしまいます。
 
そこをごまかすことなく、子どもと一緒になって考えるというのは、
とても難しいことだからです。
 
その難しいことから逃げて
社会の枠、学校の枠に押し込めてしまう大人たち
 

早世の画家・石田徹也(1973~2005)の作品「囚人」より(部分)
 
 
もう一度考えてみてください。
 
子どもたちに「いじめ」はいけないと教えている大人たちが、
その大人たちの職場や地域で
自分の隣人が「いじめ」や「差別」に直面した現場に居合わせたら、
 
子どもとは違うどのような行動が取れるでしょうか。
 
 
大人自身が容易には解決できない問題が
「親」や「教師」という立場になった途端に
問題に向き合うことを避けたまま
単純な答えを押し付けて誤魔化してはいないでしょうか。
 
たしかに目の前のそうした問題に対処することは
とても難しくやっかいなことばかりです。
でもそれらの課題に向き合うことこそが
教科書で多くのものを学ぶよりもずっと大切なことです。
 
 
すぐに答えは見えなくても
子どもと一緒になって考える力が何よりも必要なことではないかと
これらの本を見ると気付かされます。
 
私たち大人に求められていることは何なのか
そんなことを考えることができたらと思い
このフェアを企画してみました。
 

 

以上、ブログ「正林堂 本の気休め」掲載文を加筆転載しました。 

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「一抜けた」の成功論、幸福論が支持されない時代

2019年08月09日 | これからの働き方・生業(なりわい)

日本経済は、1995年頃をピークにして以降、長い停滞・下降期に入っています。

それは、ただ停滞・下降、デフレ期を続けているというだけでなく、それまでの「一億総中流」ともいわれた分厚い中間層が没落して、人口のボリュームゾーンは、ギリギリの中で生きている低所得層が中心の社会になってしまいました。

このような時代に、「平均」を示した統計データの多くは、私たちの実感にはそぐわないものです。

下図にみられるように、富士山型の中央が平均値にはならないからです。


上図のみなかみ町の部分は私の加筆です。

 

そうした時代では、高齢者に限らず若者までが、這い上がるチャンスを掴もうとして努力している間に、ちょっとした予定外の出費(事故や病気、失業など)がかさむと、再び立ち上がれないような致命的ダメージを受け、瞬く間に貧困層に没落してしまいます。

そればかりか、明日への希望、生きていくのぞみそのものを失ってしまいます。

 

東日本大震災のような災害時など、多くの被災者は家を失った人でさえ支援金・義援金含めても600万円くらいの支援しか受けられていません。

このような実態で「復興」などという言葉がどこから出てくるのでしょうか。

また、こんなときに、どうして東京オリンピック開催などと騒いでいられるのでしょうか。

 

  

 

 

 

 

このような時代では、もはや個人で努力した 「一抜けた」の成功論は支持されません。

 

経済に端を発した暮らしの破壊は、社会全体、さらには地球環境レベルで限界に達してしまっているので、右肩上がりの時代のように、多くの人がその「成功モデルに続け」といった期待は持てません。

むしろ生き残りのサバイバル環境にある人の方が多い時代になってしまっています。

圧倒的多数の人びとにとって、暮らしの底上げこそが必死の課題になっているのです。

 

子どもや孫たちの世代にツケを押し付けずに、明日への希望の持てる社会をいかにして取り戻していくかという、極めて政治的課題の解決に立ち向かわなければなりません。

 

というと、すぐに「消費増税やむなし」の理屈に思われがちですが、ここまできた日本が、そのような方法で幸せになれるはずがありません。

そればかりか、そのような思考こそが国民の貧困を加速させてきました。

 

 

 

 

こうした問題は、明らかに財源がないからとか、国の財政危機を解決しなければならないということではありません。

問題の核心は、GDP3位の「世界一の金持ち国家である日本で起きている異常事態」のことです。

 

外貨獲得が至上目的であった敗戦直後の日本と違って、バブル崩壊以後の日本は、ずっと供給に需要が追いつかない時代です。

そんな時代に国民が一生懸命働けば働くほど、貿易黒字が無意味に溜まり、そのドル建てのお金はただ「塩ずけ」にさせられるばかりです。

 

さらに使い道といったら、アメリカ国債を買うとか、高額なポンコツ兵器を買わされるとか、余剰農産物を買わされるとか、詐欺まがいの金融品を買わされるばかりで、いくらお金を稼いでも日本国内の富の蓄積に回されることはありません。

 

 

日本については財務省、その他についてはIMF資料より

 

このような世界一の金持ち大国であることが、アメリカから止まることなく圧力を受け、むしり取られ続ける根本原因になっています。

もはや貿易黒字を増やすことは、日本にとってなんのメリットもありません。

 日本人が一生懸命働けば働くほど、その富は国民の富としてではなく、アメリカにむしり取られるお金として、あるいはアメリカに貢ぐお金として使われるばかりに見えます。

この349兆円分は、日本人がタダ働きをしているも同然なのです。

 

低賃金、長時間労働でそこまでして稼いでいながら、暮らしの貧困は加速するばかり。

国際社会からは、そんな働き方で国際競争で勝とうなんていい加減にしろよと言われてます。

(このあたりの詳しい事情は、大西つねきさんの動画の数々をぜひご参照ください) 

 

だからこそ、今わたしたち日本人が抱えている課題は、右肩上がりの時代に言われていたような「一抜けた」の個別の成功法則ではなく、すべての人々が幸せになれるような社会を目指す、政治目標や課題の実践であり、 限界にきているこの国や地球の生存を守るために、子どもや孫たちの世代に受け継げる環境づくりが最優先になっているのです。

これは、まさにSDGs(だれ一人取り残さない持続可能な開発目標)が掲げている理念です。

 

先の参議院選挙で、女性装の東大教授である安富歩が、ただストレートに「子どもたちのために」を最優先課題にあげていました。

必ずしもその活動から説明十分とは思えませんでしたが、トータルな判断からすれば極めて正しいことだと思います。

もはや自分の事業の延命だけを考えればよい時代ではありません。

残念ながら、自分のことだけ考えていたのでは根本解決にならないのです。

 

確かに、それぞれの事業や暮らしは、世の中全体が変わるまで待ってはいられない切迫した事情がどこにもあります。それは私もまったく同じです。

「一抜けた」の論理ではなく、あんなやり方もあるのか、こんなやり方もあるのかと一人ひとりが、自分にあったこと、自分にしかできないことを見つけていかなくてはならないことにかわりはありません。

 

ですが、仕事でも日常でも同じですが、本来は大事なことこそ先にしなければならないものです。

つい誰もが、目の前のことばかりに追われて「忙しい」を口実にしてその大事なことを後回しにしてしまいます。

 

フィンランドの『人生観の知識』という高校教育の授業では、次のようなことが基本に据えられています。

「市民に知識を得る能力や動機、可能性がない場合、民主主義は単なる選挙権の行使に終わってしまう。養育と教育が、批判的に考える市民を育てることを可能にする。

 国家が組織的なプロパガンダを行う全体主義的な国では、国民は国家のイデオロギーに従順であるように育てられる。そうした国では、批判的な国民は社会的危険、国家制度を揺るがす存在と見なされるので、自分で考える能力を発達させる価値は認められない」

     岩竹美加子『フィンランドの教育はなぜ世界一なのか』新潮新書

 

何事も小さなことを積み重ねていくことは大事ですが、一般会計100兆円だけの議論ではなく、塩漬け状態同然の対外純資産、349兆円のあり方や、国会審議の対象にならないばかりか、国会議員が要求しても明細が明かされない特別会計400兆円(重複会計を除いても200兆円規模)などをタブー視せず真正面から議論することなしには、もはや「国家経営」を考えることはできません。

MMT(現代貨幣理論)の登場などにより、ようやくお金の根本的な仕組みを含めた議論ができるようにはなってきましたが、いまの政治環境のままでは仮にMMTが受け入れられたとしても、国民の暮らしのためにならないお金がさらにジャブジャブ使われるばかりになってしまうのがおちです。

政局論ではない、もっと根本的な政治経済論議抜きに、これからの国民の幸せはありえないのではないでしょうか。

わたし個人が理想に思い描いているのは、お金をかけずに人がより自由になんでもできる社会なので、より多く稼いでより多く使うことを目標にしている多くの人たちには相手にされないかもしれませんが、今の日本のままでは出口が見出せないだろうということでは一致していると思います。

そもそも「お金」とは何なのかといった根本から、国家経営のあり方や人々の日常の幸せ像について、「民主主義が単なる選挙権の行使」に終わってしまわないためにも、ただ怒りに任せることなく新しい常識の渦を巻き起こしていきたいものですね。

 

 
·
 
怒るな 憤れ
 
怒りは 憎しみに変わるが
 
憤りは 義憤へと変じていく
 
 
怒りは常に 矛先が他者に向けられるが
 
憤りは常に わが胸のうちを顧みさせる
 
 
怒りに 身をまかせてはならない
 
愚かな為政者たちは しばしば 民衆の怒りを利用してきた
 
 
怒るな 憤れ
 
怒って 内なる 愛の火を
 
打ち消してはならない
 
 
             若松英輔 Twitterより
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いま見えている上弦の月は、3時間半前に地球がいた場所

2019年08月08日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

ただ今の月。


いま見えている上弦の月は、3時間半前に地球がいた場所です。

図がないと説明しにくいのですが、地球と月の距離は約38万キロ。

地球は時速11万キロで太陽の周りを公転していて、上弦・下弦の半月のときは、ほぼその公転軌道上に月があるので、上弦の月の時は38万キロ後ろの位置に見えてるということ。

 



だから
「あの月は、いまから3時間半前に僕たちがいた場所だよ」
と上田壮一さんは説明しています。
 

曇った日でも、ツキのあるわが月夜野では、切れ間から顔を出してくれます。

「月夜野百景」
https://www.tsukiyono100.com/moon

 

 

 

 

 

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読書を自己目的化してしまうことへの危惧

2019年08月05日 | 出版業界とデジタル社会
以下は、「かみつけの国 本のテーマ館」に書いた大変古い文章ですが、
いづれ閉鎖するホームページなので、以下に転載しておきます。 
 
 
   本が読まれなくなった。
 本が売れなくなった。
 本屋の仕事をしていると、いたるところでこうした言葉が耳に入ってきます。
 
 もっとも売れない売れないといっているひとですら、それほど本を買って読んでいる時代ではないので、いわずもがなの感もある。
 もちろん、本は読まなくても立派な本を出版することは出来るし、たくさん売ることもできます。むしろ商売上では、読まなくては売ることができないと思い込んでしまうことのほうが害は大きいかもしれません。大手コンビニで成功している販売哲学によれば、作り手や売り手が下手に内容に関知することよりも、読者、利用者の需要を徹底して追いかけることの方がはるかに大事であることを強調しているのは決して間違ったことではありません。
 
 ところが、そこまで考え方も実践も徹底しない人に限って、誰かにもっと売れる本を作ってほしいとお願いするばかりであったり、誰かに本がどんどん売れる(読まれる)システムを作って欲しいとおねだりするばかりになっていることが多いようです。
 相変わらずなんでもたくさんつくり、たくさんおく、これまでの慣れ親しんだ方法が通用しなくなったと知りながらも、脱却できないでいる企業もあまりに多いのではないでしょうか。
 どう考えても、いまのままじっと待っていても、数年で良くなるような世の中ではないのに。
 
 
 こうしたお決まりの現状を見れば見るほど、こじつけといわれるかもしれませんが、本が読まれない(売れない)現実と、不況・デフレが解決する目処のたたない日本の現実は、根をまったく同じくした問題であると感じずにはいられません。
 
 
 それは、本が読まれない理由として、本以外のTVに代表されるメディアが発達したことなどがよく言われますが、本を読まずにTVなどの情報で済んでしまっている現状をみると、そうした理由だけでなく、目の前の現実に対する関心自体が薄れていること、問題を深くとらえることに意味を感じなくなってきてしまっていることの方が、より深刻な問題のような気がします。
 
 
 随分古い時代の例で申しわけありませんが、まだパソコンがMS=DOSをOSとして動いていた時代にデータベースソフトでdBASEⅢというのがありました。当時、コンピュータ書の知識もろくに無かった私は、このdBASEⅢ関係の本が突出してよく売れるのが不思議でなりませんでした。
 そんなにこのソフトは普及しているのだろうか?と疑問に思い、コンピュータ書の出版社営業の人に聞いて見ました。すると、かえってきた答えは、このソフトはそれほど普及しているものではないが、とても難しいソフトだから、本がよく売れるのだとのことでした。
 なるほど、と思いました。
 
 わからないから本を頼る。わかりにくいから本が売れる。
 これが基本なのではないでしょうか。
 
 これはなにもコンピューター書や実用書に限ったことではなく、ちょっと拡大解釈すれば、小説のたぐいであっても同じことが言えると思います。
 恋愛や家族のことなど人間関係やひとの心の問題が、誰にとっても容易にはわからないから、様々な他人の生き方を参考にしたり、励まされたり、共感したりする。ひたすら人間存在がわからないから、あらゆる本にたより、またあらゆる分野の本が売れていくのだろうと思います。
 人間存在に代表される、より難解、不可解、理不尽な問題ほど、ひとびとが本に頼るのはごく自然な姿だと思います。
 それなのに、本に頼る必要を感じないという日常生活とは、いったいどのようなものなのでしょうか。答えだけであれば、確かにTV、新聞・雑誌、などいたるところにみることが可能です。
 
 しかし、本を頼らないそれらの知識は、その多くが自ら選択した情報ではなく、川上から流れてくる情報を自動的に受け入れるばかりのものです。
        
 
 
 
 
 このことを、現実に流通している本の実態に即してみると、もっと強く感じます。
 私が以前、別の書店に勤めていたとき、あるお店の増床のために主要都市の大型店を見てまわった時に感じたことがあります。500坪1000坪の大型店といっても、結局はほとんどが「総合実用書店」ではないかといった印象をもったことです。
 
 
 とかく本について多くを語る読書好きの人びとは、どうしてもミステリーなどの小説を読む人達に集中してしまう傾向があります。ところが、現実に読書、本を読む人々の人口構成比は、実際に売れている商品の構成比からみれば、純粋な文芸小説類を読む人々の比率は意外に少なく、むしろ、日常の仕事や生活で必要になる様々な実用的専門書や実用的娯楽書のたぐいが市場の圧倒的多数を占めているのが実情です。
 
 ちょっと業界紙『新文化』に掲載されている、日販調査の「書店販売動向」のデータから、2003年6月の売上げ構成比だけをみてみましょう。
 
 ジャンル別売上構成比(%)      
分類 
平均構成比 
雑誌
37.2
コミック
19.6
児童書
3.0
実用書
10.4
文芸書
6.2
文庫
9.2
新書
2.0
学参書
3.2
専門書
5.7
その他
3.5
合計
100.0
    (2003年6月期)
 
 このなかで、いわゆる文芸小説といわれる分野の本は、文芸書の約半分未満と文庫の3分の2程度のもので、あわせても全体の1割程度。
 しかも、この調査は一般的な書店を立地別、規模別に104店のサンプル店から抽出したデータで、出版市場全体でみると、金額ベースでみれば、もっと比率の高い外売りルートの医学専門書や官庁・学校関係の販売データは含まれていないと思われます。
 
 このデータからも書籍販売に対する考えを、もっと文芸小説重点から改める必要を感じます。もちろん全国の書店の文芸書担当者が、いくら文芸小説が好きであっても、それに偏った仕入れや品揃えをしているわけではないことはわかります。
 しかし、話題にされる比率は、どうしても小説以外のノンフィクションや実用書の仕入れや販売管理については少なく、実際に棚を見れば、主要版元の常備品で埋められているだけの場合がとても多いと思います。
 
 
 
 実際の市場を支えているこれらの広義の実用書人口は、仕事で決算書についての知識が必要になった、友人の結婚式で冠婚葬祭の知識が必要になった、庭に植える花が枯れない方法を知りたい、コンピュータの操作がわからなくて困った、などなど、生活のあらゆる領域、場面の人びとに担われています。
 
 ところが、こうした需要はそれぞれの仕事や生活のさまざまな局面で遭遇する必要にせまられた手段としての読書であるため、それらの本を読んでいる人たちの間では、それが読書の時間であるという意識はあまりもたれていません。
 こうした実用的読書は目立ちこそしないものの、実際には、世の中のミステリーや文芸小説を中心に読書を考えているひとたちよりも、圧倒的多数の読書人口を担っているのが実態であるといえます。
 
 
 このことはもう一方で、先に述べた自分で考えるための読書よりも、より早く答えをみつけるための読書がものすごい勢いで進化している側面ももっています。書店の棚=市場の構造も、みごとにそのような構成に進化しているのも感じます。
 
 これは一概に悪いこととも言い切れません。
 とかくテレビなどの情報(じっと座っているだけで流れてくる「世間」の情報)に慣れてしまうと、「要は何なのか」結論がわかれば良いではないかといった発想が蔓延してきてしまいます。日常の多くのことがらは、スピード化と合理化の時代で、そうした手っ取り早い情報が多く求められているのも事実です。
 しかし、本が、競争相手であるテレビの「早くわかりやすく」の方にばかり歩みよりすぎ、本来、テレビにできない本の強みである「深くじっくり掘り下げて考える」部分を、どんどん放棄し続けてきてしまっている現実も忘れてはなりません。
 
 誰もがテレビのニュースキャスターやコメンテーターの言葉のオウム返しで、ある人を持ち上げ、翌日にはこき下ろす。
 こうした風潮が、日々目前に発生しているこれまでに経験のなかった問題に対して、自分で立ち向かえない個人を多く生み出してしまっているように思えてなりません。
 
 
 だれか早く答えを教えて!
 景気が悪いから仕方がない、会社が悪い、国が悪い、役人が悪い
 そして、誰も責任をとらない。
 いつも飛び交うのは、そんな言葉ばかりではないでしょうか。
「失われた10年」を限りなく延長し続けている原因は、この辺にこそあるのではないでしょうか。
 
 
 もし、今の日本と世界の深刻な事態に対する認識がほんとうにあれば、政治家や経済関係者だけでなく、もっと一般の多くのひとびとが、書店の棚から、国債についての本や税制に関する本、世界経済に関する本や戦争、宗教についての本、さらには企業経営についての本を、今こそむさぼるよに買って読んでいくのではないでしょうか。
 
 どの考えが正しいか間違っているかということよりも、まず、問題に食い込んでいく「気概」の方がなによりも欠落してしまっていると思います。
 今に至って、雑学、教養としての読書は、無いよりあったほうがましかもしれませんが、それだけではあまりにも無力であると感じずにはいられません。
 他人に答えを教えてもらう読書から、自分で答えを見つけ出すための読書が求められているのだと思います。
 
 
 
 
 
 もうひとつ、読書推進派の論調で気になるのは、読書することや知識を得ることは、無条件に正しいといった考えです。
 
 最近私が出会う本には、やたらと「本は読むな!」と書いてあります。
 道元を読んでも出てくるし、昔、気功を教わった先生からもしきりに言われました。
 
 まず、健康な体をつくらずにものを考えたって、いい結論がでるわけないだろう、と。
 
 体が思うように動かない人間が、頭でその矛盾を埋めようとすればするほど、良い結果はでない。健康な体をつくれば、考える前に体が動く。そして自然に良い結果がでる。
 「体は心の容器」であるから、心を問題にする前に健康な体を作れ!と。
 
 
 最近「情念論」にこだわっているお客さんがいて、いろいろ探しあてた古本を渡してあげようと思ったら、あげる前に人手に渡すのはもったいなくなってしまう本を見つけてしまいました。
 それは、中村雄二郎の『現代情念論』です。すでに文庫化されていました。
 
 「したがって、哲学にとって最大の敵ないし障壁は諸科学の細分化でも、技術の加速的な発達でも、政治の優位でもなく、活発で、自由でしなやかな否定を通して自己還帰運動を失い、凝結し、硬化した哲学者自身である。ある種の哲学者は文献学者のように精励であり、ある種の哲学者は科学者のように着実であり、また、ある種の哲学者は政治学者のように政治に対して見識をもち、ある種の哲学者は宗教家のように求道している。そうしたこと自身は大いに結構であるが、それだけに終始して事足れりとするならば、哲学者として怠慢といわなければならない。」
 
 「(略)わたしは上山春平が六年前に行った次のような提言に賛成したい。『学会にでるたびにユーウツになるのですが、わが国の学問のうちでも、哲学ほど共通の問題意識の欠けた学問はないんじゃないか、という気がします。僕は近世、君は古代。僕はカント、君はヘーゲル。僕はカントのカテゴリー論、君は道徳律、など等。テーマは果てしなく分裂します。・・・・・共通の問題意識がなかなか出てこないのも、いきた現実とまともに取り組む気構えが欠けているからじゃないか、と僕は思っています。各人がこれまで身につけた学問的知識は、いかに様々であっても、僕たちのぶつかっている現実の問題を解く手段(必ずしも直接その解決に役立たなくてもよい)としてそれを用いるつもりになれば、共通の問題意識がでてくるに相違ない、と思うのです。』」
 
 
 
 私自身何度か経験しているのですが、困難な問題にぶつかったとき、手がかりを求めてたくさんの本を買い込んで読むのはいいのですが、読んでいることだけで前に進んでいるような気になってしまい、どんどん読書量の時間は増えるが、自分のそのときの実態は、ただ目前の問題から逃げているだけで、勉強中であることを逃げ口上にしか使っていないのではないかということが多々ありました。
 
 そんなとき、いつも問題を解決してくれるのは、先に答えを見つけることよりも、およその見当をつけたら早く自分の手足を動かして走りだすこと。
 その方が常に、より早くもつれた糸が自然にほぐれてくると感じました。
             (参照ページ議論や分析ばかりしてないで「攻めてみよ!
 
 

 
 このような姿勢を、他方で、技術者や事業家は、昔から自然に身につけているように見えます。
 
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岡野雅行 著 『俺が、つくる!』中経出版(2003/02) 定価 本体1,400円+税
 
 未経験、未開拓の分野に挑む都合、膨大な文献などの資料にも頼りますが、そこで結果を出すには、自分の力を信じて自分の責任でプロセスを突き詰めるしかない。結果がでないときには絶えず仮説、理論を検証し、市場で通用する結果がでるまで、工程を突き詰めていく。
 
 いつまでも理論的に正しいか、可能かどうかにばかりこだわっていては、すばらしい成果はあげられません。
 
 それに対して、特に人文・社会科学系の研究者たちは、実験による明確な検証が難しいだけに、結果をだすために必要なスピードや個々の成果を確実に出すことにたいして、あまりにも無自覚、無責任であるようにみえます。
 まるで難しいことをいろいろやってるんだからいいだろう、とでもいうがごとく姿勢すら感じることもあります。

 
 セブンイレブンの鈴木敏文会長も、こうしたことを鋭く指摘しています。
 
「何か新しい事業やビジネスを始めようとするとき、人はとかく、“勉強”から始めようとし、それが正しい方法であるかのように考えられています。その場合の勉強とはどのようなものかと突き詰めると、結局、過去の経験の積み重ねをなぞる作業にすぎないことが多いのです。しかし、新しいことを始めるとき、最初に必要なのは仮説であり、仮説はそうした勉強からはほとんど生まれることはありません。
(略)
 われわれが常に心に銘じなければならないのは、前例のない新しいことを始めるときには、人の話を聞いても仕方がないということです」
 
 人が勉強しようとするのは、勉強すれば答えが見つかると思うからだろう。しかし、鈴木氏の言葉を借りれば、最初から答えがわかって行うなら、それは「作業」でしかない。あるいは、最初から挑戦を避けるため、勉強して「できない理由」を見つけようとする人間もいるかもしれない。誤解を恐れずに言えば、こうした考え方をするのは、「知能指数的な優秀さ」を持ったタイプに多いのではないか。  
  勝見明著 『鈴木敏文の「本当のようなウソを見抜く」セブンイレブン式脱常識の仕事術』
プレジデント社(2005/01) 定価 本体1,238円+税
 
 
 そもそも、知識は実践のために不可欠なものですが、何を考えているかによってではなく、何を行なったか、何をなしえたかによって人は信頼されるものです。
 
 
 「学問」や「読書」を口実に、至るところでこのような事態を目の当たりにするにつけ、今、深刻な問題が山積しているこの世の中で、ただ「もっと本を読みましょう」といった言葉には、もろ手では賛成しかねる、ということをあえて言わせていただきたいのです。
 
 もちろん、学校などで行なっている読書の習慣づけや活字になれるための読書推進活動などは、教育の一環としてとても良いことだと思います。
 それから、若いときは無条件に膨大な知識を吸収できるだけの欲求、大きな胃袋があります。
 
 
 それはそれで必要なことですが、世の中全体では、「もっと良い本をたくさん読みましょう」といったスローガンではなく、
 「今あなたが直面している問題から逃げずに立ち向かいましょう」、
 「他人のせいにしないで自分のできることを実行しましょう」、
 「わからなければ立ち止まって真剣に考えましょう」
といったような言葉でなければならないと思います。
 
 
 そうすれば必然的に、自己目的化した読書よりもはるかにたくさんの本が、手段として必要になってくるのではないでしょうか。
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