かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

春信、写楽を襖に貼る

2015年12月28日 | 暮らしのしつらえ

かねてから部屋の襖に良寛とか空海の書のようなものを貼りたいと思っていましたが、なかなか良いものには出会えませんでした。

そんなおりに、年末恒例の伊勢崎の古本市で春信の浮世絵が何枚も出ているのにめぐり会いました。 

それが1枚100円は妙に安いと思ったら、画集らしきものを断裁して一枚ずつわけたもので、
裏表の絵が1枚になったものでした。

これを襖に貼るには、裏を使うか表を使うか決断しなければなりません。

でも現代の画集であれば、コート紙への印刷になるところですが、艶のない紙であったので、これをそのまま襖に貼っても違和感ないことが予想されました。 

 

早速ふちをカットして両面テープで仮止めしてみたら、とてもうまくおさまりました。

 

 

 

やはり、春信はいいですね。

日常空間にある暮らしの粋を極めてる感じ。

それが、毎日目にする襖にはとても合います。

 

 

 

 

 江戸の人々の日常のなかに、このような季節を味わう感覚は、はたして庶民の間にどれほど浸透していたのでしょうか。 

  一枚一枚の絵をみていると、どんなにそれが一部の人であったとしても、その着物の柄や着こなし、背景の草木や建物、どれをとっても、もしも現代に再現しようとしたら最高峰の世界がそこに、日常空間として営まれている事実だけで、太刀打ちできない世界であることを思い知らされると思います。

そえられた歌の楽しみ方さえ、これらの絵の世界に比べたら、現代ではどう張り合っても薄っぺらな教養にしかならない。

 

 

     松風の 音だに秋は さびしきに

       衣うつなり 玉川の里

                源俊頼   (千載和歌集)

 

これは、きちんと書き記しておかないと、聞かれたときに答えられない。

 

 

 

  

  秋きぬと 目にはさやかに 見えねども

          風の音にぞ おどろかれぬる 

            藤原敏行   (古今169)

 

 

 

 

       こひしさは をなし心に あらずとも

             今宵の月を 君みざらめや

                 源信明朝臣    (新古今)

 

 

 

 「春信一番、写楽二番」なる企画もかつてあったようです。 

 

 当初、襖に貼るには写楽は派手すぎるかと思いましたが、その心配は無用でした。

  写楽は居間ではなく、事務所として使っている部屋の襖で使いました。

 

 

これでまた、うまい酒がのめる。

 

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「生産と消費」偏重の時代から「創造と育自」の時代へ

2015年12月19日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

私の住んでいる月夜野というまちで、太陽やアマテラス偏重の世界観を方向修正するための、月の復権、旧暦の復権、ツクヨミの神の復権、夜の復権などいろいろ考えているのですが、その歴史的な意義には、とても深いものがあると思っています。ところが、なかなかそれを完結にうまく表現できません。


何度となく、考えていること、思うことを書き続けて練り込んでいくしかありません。
以下は、そうした作業のひとつです。
未整理な文章、ご容赦ください。 

 

 

これまでの「生産と消費」にばかり流される昼の時間をこれ以上増やすのは、「酸化」を促すプロセスです。
カラダによくありません。

この「生産と消費」に偏った世界観が今までの常識でした。
昼の生産時間を限りなく拡大して、夜など寝ること以外はなくてもいいくらいの考えの世界です。

このような豊かさの追求だけでは私たちの幸福感はなかなか満たされないことに気づきだしました。

それは多様な価値軸を否定して、太陽=アマテラスを頂点にしてカミや人に序列をつけたがる側の人たちの世界観です。

天皇家に対する藤原氏のように、成り上がりの側が必要とする権威付けの論理です。
勝者と敗者をわけたがる人たちの世界です。 

 

かたや「創造と育自」を軸に夜の時間を重視する私たちの活動は「還元」のプロセスです。
働いても疲れない弱アルカリ体質の世界です。

それは、夜=月=ツクヨミの復権とともに、たくさんのモノサシを使い分ける世界なので、所属にとらわれない個人のネットワーク型の社会です。


わたしたちは、単に月=ツクヨミだけの復権を願ってるのではありません。
考えているのは、カミや人に序列をつけない「八百万神」「天円地方」(*下記リンク参照)の思想です。昼夜が一体不可分の見方です。
権威を必要としない側の論理です。 

http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/81d0a6e954233dbf780299c2afa81694

また、「生産と消費」が悪いと言っているのではなくて、「生産と消費」以外の時間を限りなく押しやって排除してくような従来の一元的価値観が異常なのではないかという立場です。

夜は暗いから、ただ電気をつけて昼のように明るくすることだけが解決なのだとは考えません。

夜には夜の魅力と、夜ならではの役割りがあるのだという見方なのです。古来、夜こそが、さらには満月の夜こそが、大事な祈りや行事のときでした。さらには、夜こそが子づくりを中心にした生命創造の時間でもあります。

現代では、昼間の仕事の延長や家庭でのテレビやゲームの支配が、夜そのものの本来の価値を、壊滅的といえるほどまでに喪失させています。

精神的な営みの多くは、夜や早朝にこそパワーを発揮します。

つまり太陽の出ていないときです。

売れない時代に今なお「生産と消費」にしがみつく人々は、この夜の時間の創造性や生産性を理解しません。 

生産性は昼の拡大でしか実現できないものと思い込んでいます。


「生産と消費」が中心でなくなったら、どうやって食っていくんだともよく言われます。

でも現実には、「創造と育自」を重視する人の方が自分を育てる生産手段を真剣に求めるので、結果的にこのほうが市場は拡大します。


従来の商品をいかにして売るかではなく、創造にこそ軸足をおくので、無理な営業には期待しません。

もちろんそれは量販型ではない市場になりますが。

「◯◯が売れないから市場の拡大をどうしたら出来るか」のこれまでの対策では、太刀打ちできない社会がすでにはじまっています。

国や業界や会社や組織に何か求めるのではなく「育自」=「自分を育ててプロデュースすること」抜きには、何も解決できないことがようやく認知されだしてきました。

事実わたしの業界でも、商品としての書店店頭の本をより多く消費してくれるような読者家よりも、
自分の専門を持ちその必用に応じて読書を手段としてしている人の方が、
結果的に、自称読書家よりは多く本を読んでいるものです。 

また、多くの学校へ行き、多くの資格を取得している人よりも、
人生に迷い、その都度突破口を求めて試行錯誤を重ねている人の方が
多くのことを勉強しているものです。

 

人口減少時代に入ってモノが売れない時代はこれからもずっと続くと思いますが、

従来型の「生産と消費」の拡大を願うのではなく、

「創造と育自」の時代に入っていくということが想像できれば、

市場の縮小自体はそれほど悲観することではありません。

むしろ人口6,000から7,000万人くらいの超大国以外の先進国標準サイズに日本がなること、

高度経済成長期以前の国土の姿にまで戻して、テクノロジーや知恵を行かせる社会になることは、

とてもすばらしいことであると思えるのではないでしょうか。 

 

 

先に他の場所で、年末の掃除の意義について書きましたが、

掃除を自分ですることの意義は、この「育自」、「自分を育てること」
育ててもらう「育児」が終わってから
さらに、教えてもらう「学校」が終わってから、
本来は、生涯続けなければならないはずの大事なプロセスに気づけることにあります。 

わたしは、それはどんなすぐれた専門学校や大学より、
生涯にわたって自分で組み立て続ける「読書」こそが、
一番の「育自」になるものであると確信してます。 

なにか現状打開のいい考えありますか?と人に尋ねるばかりの生き方ではなく、

その都度、その都度、自分で探し求めているプロセスそのものが、

何より幸せの時間であり、自己実現の瞬間であり、

さらにはそれが新しい市場を生んでいる瞬間なのだと思います。 

 

それを太陽やアマテラス偏重の世界観に対する、

月の復権、

旧暦の復権、

ツクヨミの神の復権、

夜の復権

を通じて立証していきたいのです。


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松尾昭典さんにつくってもらった「月香盃」

2015年12月17日 | 暮らしのしつらえ

前からイメージしていたお酒をのむ盃。

ぐい飲みは様々な種類が出ていますが、飲み口の浅い「かわらけ(土器)」の形のようなものをずっと探していました。

戦国武将が出陣前に盃を手にもって飲む姿が、肘をはって飲み干し地面に盃を叩き付けるようなものです。

これは「浅い」ということがポイントです。

「浅盃」というそうですが、そもそも盃という字は「皿二不ズ」と書くくらいです。

皿に近く浅いのが本来の姿なのでしょう。

貝が原型だともいうし。

 

でもこの形は、盃を口に近づけたときに浅いとこぼれやすいので、水平を保つことに気をつかい、どうしても肘がはった姿になります。

肘が脇について呑むのでは、格好がよろしくない。

それは単なるポーズの選択の問題ではなくて、盃のかたちによって決まるものなのです。

以前、そうしたかたちの盃を冷酒器を探していたときにひとつだけ見つけることができて、とても重宝していました。

 

 ところがこの盃、ひょっとしたはずみで割れてしまいました。

 再度同じものを買うかどうかしばらく迷っていました。

そのうちに似たものが見つかるのではないかと思って機会あるごとに探していたのですが、
いくら探しても類似のこうした浅い盃は見つかりませんでした。

 そこで、馴染みの陶芸作家の松尾昭典さんに相談してみました。

こうしたものはイメージが大事なので、現品のないままうまくそのイメージを伝えられるかどうか
不安なまま松尾さんに話してみました。 

すると、酒のみの気持ちはわかってくれたみたいで、その飲むときのしぐさを真似してくれて
なんとなくこちらの気持ちは届いたような感じがしました。

それから1ヶ月くらいたってからでしょうか。松尾さんの工房を訪ねてみると
焼く前の盃がもう出来ていました。

曰く、「馬上盃」をイメージしてつくったみたとのこと。

「馬上盃」? 

揺れる馬の上で呑むための盃は、高台が高い姿になっています。

器の縁を持つのではなく、高台を手にもつようにできているのでしょうか。

でも、こんなふうに浅い構造だったらなおさら馬上ではこぼれやすいことになると思うのですが。

私のイメージからは、高台の高いことがちょっと不安に感じましたが、
他の形状や仕上がりの色のイメージはほぼ共有できているような気はしました。

期待感と不安が混ざったまま、ドキドキしながら待っていたら、
松尾さんから焼き上がりましたとのハガキが届きました。 

 

焼き絞められたそのかたちは、思ったほど高台は高くなく、
何よりも、色味がすばらしいものでした。 

これは、きっとお酒をそそいだら、もっと味がでるだろうと期待されました。

 

 

 

 家に帰って酒をそそいでみると、予想を遥かにこえて、すばらしい風合いがでました。

手に持った感触がすばらしい。

酒をそそいだ表面の色あいは、まるで月の香りを映しこんだような雰囲気が感じられます。

松尾さんにお願いするしかなかった最大の理由、他に類似品がないことがこの現品をみてあらためて痛感しました。 

これは、居酒屋へ行くときにも、

「マイ盃使ってもいいですか?」 

と持ち歩いていきたいようなものです。

 

日本酒好きならば、是非、これで呑んでみてくれ、と見せてあげたい。

 

 これをいただいてきた今日、松尾さんは病院の検査の日でお会いできませんでしたが、

この感動を早く松尾さんに感謝として伝えたい。

 

松尾昭典「泥魚」

http://kamituke.web.fc2.com/page152.html

 

 

 のちに、みなかみ〈月〉の会の結成記念のイベントでこの盃を見せたところ大好評で、月待ちの場でこの盃を使うともっと大事な役割りがあることに気づきました。

それは、縄文時代からある月の再生思想にかかわる考えで、「月ー子宮ー水ー蛇」という「再生シンボリズム」のなかでとらえることができます。

ネリー・ナウマン『生の緒』(言叢社)に以下のような記述があります。

 月の盆に入った液体は、かならず雨となって降り注ぐふつうの水というわけではない—それは不死の飲み物、永遠なる若返りの飲み物でもある。とはいえ、月神の目や鼻、口などから浸出する涙や鼻水、唾液がどうして「生の水」だとみなされるのだろうか。辻褄があわないように見える。しかしそれらは神の分泌物であり、神のさまざまな資質を分有する液体なのである。しかも、各月末に死んでから新月の開始とともに死者の国から登場してくる神そのものの生の液汁であり、それは「原始的思考ではことごとく永遠の復活や不死、永遠性」を表す神にほかならない

 

 月の水を集める道具として縄文土器や土偶の顔のかたちが理解できると大島直行氏が『縄文人の世界観』(国書刊行会)などで強調されていますが、まさにこの「月香盃」も、そのように月の香だけではなく、月の水を生命再生の象徴として集めていただく盃にして活用していきたいと思います。

 

さらに、のちに知ったことですが、ほかの盃の語源説のなかに、「さかづき」は「逆さ月」からきているというのもあることを知りました。

盃に移る月が、逆さまに写って見えることから生まれた言葉であるとのことです。

これまで盃に移る月を写真に撮ろうとしたことはありますが、なかなかうまく撮れません。


       今のところ、これが精一杯で、この月を飲むほす余裕などありません(汗)

 

のちにこの月香盃は、小鉢としてもなかなか素敵な使い方があることを知りました。

 

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カーナビ vs 官僚や医療

2015年12月09日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

私の使っているカーナビ、安物ながらとてもよく働いてくれており、 
いつもとても感謝しています。 

ところが、ひとつだけ、どうにも我慢ならないことがあります。 

利用している地図が古いとか、 
音声ガイドのタイミングが悪いとか、 
しばしば理解に苦しむコースを案内するとか、 
こここそ説明してほしいと思う判断の難しい交差点ではだんまりを決め込むとか、 
そういったことは、まあ技術の限界として理解できないこともないので、 
なんとか許せる。 

ところが、どうゆずっても許しがたいことは、 
ソフトの制約やちょっとしたGPSの判断ミスなどではなく、 
どんな間違い、ミスをおかしても、 
とぼけた顔して 
「リルートします」 
「リルートします」 
を繰り返すことです。 

おまえの能力に制約があることは、こっちは十分わかっている。 
そのことを私は責めない。 

だが、一度として、その制約からくるミスを 
「間違いました」 
と言うことも無く、 
「申しわけありませんでした」 
のひと言もなく、 
「リルートします」 
「リルートします」 
を繰り返すばかりではないか。 

一度として 
「間違えました」も 
「申しわけありません」も 
言うことは無い。 

この根性が、 
性能、スペック、能力の問題ではなく 
どう考えても許せない。 

一度でいいから、 

「リルートします」ではなく、 

「間違えました」 

と私のカーナビにきちんと言わせてみたい。 

 

今の官僚にこの言葉を言わせるのと、 
はたしてどっちのほうが難しいだろうか?

どんなに借金、赤字が膨らんでも
「間違えました」のひと言もなく
「財源が足りないので増税します」 


医療の現場でも同じで、
診断や処方のミスなど、一度として認めることなく
病院をたらい回しにしたり、大量の薬を次々に投与されたり、
どんなに失敗を重ねても費用はみな患者の負担。

裁判することなく、
前回は診断を間違えたので、費用は請求しませんとか、
せめて、申しわけないので半額はことらが負担します、
なんて話し聞いたことがありません。


リルートします。

リルートします。

リルートします。

リルートします。

リルートします。

リルートします。

 

 


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