かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

悲しみの時間学

2011年04月28日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜
時間は事件を運んでくるが、その事件を受けとめるための猶予も与えてくれる。

事件と共にやってくる前方の時間はいつも突然で大きく、

悲哀をつれて過去へ去っていく時間は、いつまでも細長く、尾をひく。

去っていこうとする悲哀の時間を、残された者は必死になって引き止める。

時の風化と遺族の激しい追想がぶつかり合ったところに、悲哀の時間が層をなして跡をとどめる。



被災者支援の物資などが、時間とともに必要とされるものが変わるのと同じように、被災者に接するときの心のありようも、時とともに変わることを私たちは知っておかなければなりません。


日航機123便の墜落事故や阪神淡路大震災などの遺族と長い間接してきた精神科医で評論家、ノンフィクション作家でもある野田正彰さんは、
かけがえのない人を事故で喪った遺族の心理過程を整理し、段階ごとの看護や治療の在り方を以下のようにまとめています。
(品切れで入手できない本なので、少し長い引用をさせていただきます。)


第一段階はショックに始まり、第二段階で死亡という事実の否認、第三に怒り、第四に回想と抑うつ状態、そうして第五段階で死別の受容――と、段階を経ると要約できる。


まず、第一段階では、ショックでとり乱すとは逆に異常な平静さを装う人が少なくない。だが、よく診ていれば、平静と呆然が交代しているのがわかるはずである。だから、一応平静に見えても内面は色々なショック状態にあると考え、十二分な配慮が必要である。温かく幼児をつつみこむ思いで対処し、色々な決定を求めてはならない。事務的なことは周囲が代行し、重要な決断については、決断で疲れさせないために「こうしたらどうだろうか」という意見を添えて、遺族に伝えるべきである。

第二段階では、死という事実を客観的には知りながら、主観的にはなお生きているという想念を往き来している。もし、この時、あの人が生きているという希望や情景を遺族が語ることがあれば、無理な励ましや嘘の期待、事実による否定をしてはいけない。遺族の心の地平線に降りていって、死亡しているけれども生きて私に語りかけてくるという想いに、「そうね」と深く同意したい。遺族と同じ想いがしてきた瞬間に、「きっと、そうよ」とだけ言うことが、最大のいたわりである。

第三の怒りの段階では、攻撃的な言動を関係者は受容しなければならない。時には、あえて怒られ役になってあげることも必要である。怒りを外に導き出してあげるのである。加害者への怒り、理不尽な運命への怒りが表出されないと、攻撃性は反転して自己破壊に向かいやすい。後を追って死ぬことを想い、危険にあえて飛び込もうとし、あるいは危険を感じる能力を抑えてしまう。また、自分の身体をいたわることを忘れ、いくつかの症状を無視することになる。

とりわけ怒りから、第四期の抑うつ状態への移行期は、自己破壊の衝動が突出しやすい。そっとしておくと同時に、二次的な事故がおこらないように、時々見守っていないといけない。

また第一期から第三期までの間に、自分が何について泣いているのか――故人の無念な思いを秘めた死についてか、自分から愛する人が奪われたことについてか、それとも自分がこれから先の人生を生きていきたくないと思って泣いているのか、いずれとも分からないままに、激しく泣くことは大切である。閉じこもって泣いている内に、悲しみが形をなしてくるといえる。

こうして第四期の永い回想と抑うつの時期を通り抜ければ、事故の処理に向かって立ち上がれるようになる。この期は、多くの時間、黙って横に居てあげるのは良いことである。

〈略)

補償交渉などは、第四期がすぎてからにすべきである。今日のように、死別後すぐに補償の話を遺族に伝えるのは愚劣なことだ。この段階では、故人をカネと交換する気持ちにさせ、未解決の罪意識をさらに強める。また、多くの弁護士や代理人が行っているような、遺族の感情表出を認めない代行交渉は、喪の作業を阻害する。(略)多くの補償金を取ることこそが有能であると思いこんでいる代理人は、実は遺族の怒りや抑うつを遷延化させている。

私はこのようなマニュアル的な配慮について、書きたくはなかった。気遣いとは、相手と自分との個別的なものであるからだ。知識ではなく、両者の人間性の交渉だからだ。それでもなお、こうして述べたのは、今日の事故に係わる人々――加害者側、警察、マスコミ、社葬をすすめる人、親族などに、いかに遺族の喪を奪う行為が多いか、あきれるが故である。

(以上 野田正彰『喪の途上にて』岩波書店より)

大きな災害ともなると、どうしても組織に依存した対応に流されがちですが、何事も、いかなる場合でも1対1の人間関係において、ものごとはなされなければならないということを、私たちはよく心しなければならないと思います。

             
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目標・期日を決められない仕事は、責任の放棄に等しい

2011年04月24日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
東日本大震災に対する政府や企業の対応をみていて、つくづく感じます。
また自分自身にも、あらためて言い聞かせていることです。

震災や津波によって壊滅的な打撃を受けた自治体や企業、あるいは様々な生活産業を営む人たちの姿。
現地で頑張っている人たちを見ると、被災地の人たちは、決して弱者といえるような立場ではなく、少なくともわれわれのような被災地から遠く離れたところで、経営が苦しいとか売り上げが落ちたとか言っている人たちよりは、ずっとたくましく頑張っている人たちばかりであることは間違いない。
ある評論家は、そうした被災地の人たちをもっと尊敬の念で見るべきだと言ってました。

それに比べて、政府や東電などの対応は、どうしてこれほどまでにもどかしく感じてしまうのでしょうか。
よく見ると、組織の大小にかかわりなく、生きている組織と死んでいる組織の違といったようなものを、しばしば感じさせられます。

震災や津波で大きな打撃を受けた企業でも、インタビューを受けえている社長が、はたして復旧にどれだけ時間がかかるか想像がつかないと応えている姿はよく見ました。災害直後であればそれは無理もないことと思います。

ところが、そうした中で、日産のカルロス・ゴーン社長などは、3月末に大打撃を受けた日産のいわき工場に現地入りしました。周囲が放射能汚染の恐れもあるのにトップが行っても良いのかとの心配をよそに、きちんと調べてあれば判断に迷うことは何もないと直行しました。
そしてゴーン社長は、情況を把握したその日の内に、1ヶ月以内で一部操業開始し、6月には全面操業にこぎつけたいと発表した。

その情況把握能力には関心させられましたが、そのこと以上にさすがと思ったのは、この日程目標は今の情況把握に基づくもので、時間が経てばより具体的な情況がまた見えてくる。そうすればさらに計画は、早くなる可能性も出てくる。と言ったことです。

同じ企業組織でも、途方にくれていつになったら稼動できるか目処が立たないと言っているトップもいる。もちろん、それぞれの被害の程度や業種の環境による差もあることはわかります。

いかし、生きた仕事をしている組織は、必ずと言ってよいほど、今ある条件のなかで、それが60%はおろか30%しか揃わない判断材料であったとしても、そのなかで可能な目標や期日をきちんと決めているものです。

そしてそうした組織ほど、たいていの場合はそれよりも早い期日で目標を達成するものです。
目標や期日を決めていない組織ほど、出来ない理由が次から次へと起こり、後ろへ後ろへずれ込んで行くものです。
実態を細かく見れば、そこには外注メーカーや下請けに対する厳しい圧力もあるかもしれませんが、大事なのは外注であろうが下請けであろうが、その目標のために一致団結できる環境が整っているということです。

計画から半世紀以上経ってもいつ完成するかどうかもわからない八ツ場ダムのもとで蛇の生殺しのような目にあっている地元住民の姿。
放射能汚染で着の身着のままで強制避難させられた住民が、いつになったら帰れるのかもわからない生活をしている実態。
夏に向けて予想される電力不足。それに向けて国民に呼びかけられる節電。代替エネルギーの問題など。

それも、「問題が難しいから決められない」ではなく、
今ある条件の範囲で、いつを目標として作業をすすめるのか、
これを決めずに責任ある約束された仕事などできるわけがない。

いいかげんな目標を出してそれを果たせない責任をとるのは嫌かもしれませんが、だから、責任を取りたくないために目標を出していないにすぎない。

そもそも「決める」という判断は、科学的な根拠がそろってはじめてできるものとは限らない。99%の確率が保証されたら決定しましょうなどというのは、、もともと「決める」必要のないおのずと知れた判断のことです。

様々な技術や知恵と努力を結集するためには、条件がどれだけ揃ったらなどということではなく、まず目標と期日を決めてこそ、そこにより多くのものが集まってくるのだということを、今この時代には、もっともっと強調しなければならない。

「調査、検討し、できるだけ速やかに」
ではなく、
現在、与えられた条件のなかで可能な決定を
「いま下せ!」
ということです。
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天変地異、激動時代の乗り越え方

2011年04月17日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

幕末の1850年代は、大きな災害をもたらす地震のあいついだ時代でした。
その代表が安政の江戸地震です。

(以下、引用)

1853年(嘉永六年)3月11日には、小田原付近を震源とする地震(M6.7)で、小田原の城下町を中心に、全壊家屋2000戸以上、死者24人をだした。
1854年(安政元年)7月9日には、伊賀上野付近を震源とする地震(M7.25)が発生、上野で2000戸あまり、奈良で400戸あまりが倒壊し、1,500人以上の死者をだした。この地震は、木津川断層の活動によるものと考えられる。

そして同じ年の12月23日と24日、安政東海地震と安政南海地震というふたつの巨大地震が続けざまに発生したのである。さらに翌1855年(安政二年)には、江戸の直下を震源として江戸地震が、1858年(安政五年)には、大規模な山地災害を引き起こした飛越地震が発生している。

嘉永から安政にかけては、江戸幕府の鎖国政策が破綻し、幕藩体制の揺らぎがますます大きくなっていく時代であった。
 幕府にとっては、まさに内憂外患の時代だったのである。

           (伊藤和明『地震と噴火の日本史』岩波新書 より)
地震と噴火の日本史 (岩波新書 新赤版 (798))
クリエーター情報なし
岩波書店


 1853年7月8日(嘉永六年六月三日)、ペリー提督率いる黒船が浦賀沖に来航。
    8月21日には、プチャーチン率いるロシア艦隊が長崎に来航。


なんとなく江戸幕府の崩壊期と今が似たような様相を見せていますが、必ずしもこのふたつの時期だけが特別なことというわけではありません。
日本列島の歴史を長いスパンでみると、このような地震、津波、火山の噴火などによる大災害は、日本にとってはずっと宿命としてつきまとってきたものであることがわかります。

地震と津波の二重災害、あるいは大地震が連続して発生(東海地震に多い)することなど、こんな大災害は滅多にくることはないというようなことを、日本人は繰り返し何度も経験してきているわけです。

このような大きな災害がおきる時というのは、同時に社会の大きな転換点になるという見方もあります。

そうした時代には、えてして不公平な社会に対して何かを機会にすべてチャラにしてほしいといった庶民の願望が増えていたり、変革のために闘い続けても絶望感しか現れないような気分が蔓延していたりといった、災害の起きる前から世の中に閉そく感が満ちていることが、少なくありません。
あるお爺さんも、今の日本の堕落ぶりを解決するには戦争でも起きないかぎりだめだ、などといっているのを聞いたことがあります。

そんなときに起きた災害というのは、不謹慎ながら待ってましたとばかりに、これでやっと世の中が変わるとの期待をもたれる面があるのも事実です。

現実に、それを機会に大きな体制の変革が起こることも少なくありません。

しかし、歴史の変化をよく見直してみると、大自然が引き起こすこうした大変動と同じく、大きな変化というものがもたらすものは、凸の部分をへこませ、凹の部分をならし、またその変化が新たな歪みを生じさせるということも多いものです。

自然も社会もその激震によって大きく揺さぶられて新しいものが生まれるのは事実ですが、うわべだけの枠組みの変化は意外とすぐに崩れ去るものです。


地震の周期の歴史を見ていると、幕末明治の大地震が頻発した時期にくらべると、関東大震災から阪神淡路大震災までの間は、ずいぶん長い安定期が続いていたように見えます。
もしかしたら、これからは幕末から明治にかけての時代のように大震災が断続的に起こる時代に入ったといえるのかもしれません。

それだけに、いかなる想定外の大災害が起きても、私たちは起きないはずのないことが起きたのだといったくらいの気持ちで受け入れることも大事なように思えます。
同時に、自然と社会の大きな揺さぶりがあったからといって、簡単に新しい時代に移り変わるものと過剰な期待も慎まなければならないのではないかと感じるのです。

変動は起こるたびに、それまでの歪みが調整されることは事実ですが、その歪みの調整活動が起きることと、そこに新しいものが生まれるかどうかということは、決して何か約束されたことではないということです。

つい最近、リーマンショック、アメリカ発の恐慌がおきた時、私はやっとこれで暴走する剥き出しの資本主義にブレーキをかけることができたと思いました。
ところが、その後の歴史をみると、確かに放任資本主義に対する方向修正はされたかのように見えましたが、現実にはヘッジファンドによる国レベルの経済破壊行為は未だに野放し状態です。

あるいは、それまで想像できなかったような政権交代が起きた場合でも、新しい政権が何をすることが出来るのかは、やはりそれを選択した国民自身がどうしてほしいのかをきちんと表明する力が無い限り、公約違反であろうが、能力不足であろうが、コントロールすることはできないということを今見せつけられています。

いかなる大きな変革であっても、常にそこにいる人が、私たち自身が直面している問題の目の前の現実を一歩変える力が無い限り、大きな変化は決して起こり得ないのではないかと、私は常々感じています。

量的変化の積みかさねが、質的変化に移行することがあるのは事実ですが、それは決して簡単な量の積み重ねだけで自動的に起こるものではありません。


もちろん、上に立つ者のリーダーシップや責任は重要です。
あるいは新しい力をどんどん取り入れていくことも重要です。
だからこそ、私たちがしっかりと見据えなければならないのは、リーダーや賢人におまかせした体制や枠組みの変革だけではないということです。

これまで日本列島が、地震や津波が起こるたびにブルブルっと身ぶるいしてその姿かたちを数メートルずつ変えて、その何千年何万年の積み重ねで今日の美しい日本のかたちがつくられてきたように、1ミリ1ミリの変化の積み重ねで、よりしっかりとした地固めになるような変革こそが、しっかりと見据えられなければならないものと強く感じます。

目の前に直面している問題を、ひとつひとつ解決して乗り越えていくことは、誰にとっても決して簡単なことではありません。
しかし、だからといって力のある人に頼る(もちろんそれも時には必要)ということではなく、常にそこにいる自分たちの力でできる一歩を踏み固めることこそに、真の変革の価値があるのだということを強調したいのです。

今、ライフラインレベルであらゆるものが不足している被災地の人に、このような考えをぶつけることはとても出来ませんが、被災地の人たちの復興の姿がどのようなものであるべきかを考えると、政府の動きが悪いことを批判しているだけでは、大事な事を築いてはいけないのではないかと思わずにはいられません。

では、それは何なのか。
そんなことをひとつひとつ紐解いていけるような本をこれからご紹介していくことこそ、私自身のもうひとつの復興支援としてやらなければならないことと感じている次第です。
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災害と事故『関東大震災』に学ぶ

2011年04月07日 | 歴史、過去の語り方
復興に役立てたい本シリーズ  ②


 災害や事故には、どうしても「運」というものがつきまといます。
 ほんの一瞬の時間の差や、ほんの僅かな場所の違いなどが、人の生死を大きく分けてしまいます。
 しかし、そのほとんど「運」といって差し支えない分かれ目のなかにも、人間のわずかな気配りや注意の差で、「自然災害」といわれるもののなかにも、あるいは「偶然の事故」といわれるもののなかにも、「人災」といわれる側面が必ずといってよいほど潜んでいるものです。

 「天災」、「自然災害」は、常に人間の予想を大きく上回る規模で、突然やってきます。
 さらに「事故」は、通常では考えられないような条件が「たまたま」重なったかのような場面で発生します。
 しかし、その予想をはるかに超えるものでも、通常では考えられないものでも、そこに歴史という時間軸を加えてみるならば、意外と予測可能なものであったり、確率からしても十分ありうるものであったりするものです。
 「災いは忘れたころにやってくる」よいう言葉は、まさにそうした意味からも肝に銘じておくべき言葉であります。


 こうした災害の「天災」「人災」「偶然」「必然」などのすべての要素を、過去の大災害は私たちに見せつけています。
 ここに紹介する吉村昭の『関東大震災』は、まさにそうしたすべてを如実に教えてくれる本です。

関東大震災 (文春文庫)
吉村 昭
文藝春秋


  文春文庫(1977/08)


 関東大震災に関しては、吉村昭の小説にたよるまでもなく、様々な記録、写真集、研究書が刊行されていますが、ひとつの災害をトータルに描きだしているという点で、小説という形態ではありながら、これに勝る本はないのではないでしょうか。


 ぜひご紹介したいポイントは三つあります。

 その第一は、地震予知ということに対する科学者の職責と能力の問題です。
 本書のなかでは、当時の地震学の権威であった東京帝国大学地震研究室の主任教授、大森房吉理学博士と助教授の今村明恒理学博士、ふたりの対比が見事にえがかれています。
 関東大震災の発生前、微震が続いていたとき、ちょうど主任教授の大森は学会で留守にしており、その間、助教授の今村にすべての判断がまかされることになる。
 度重なる地震に、これは大地震がくる前触れではないかとの新聞社からの問い合わせが今村のもとにあいつぐ。今村は、過去の歴史から、ほぼ六十年の周期で大地震が発生している
ことから、記者への表現に気を使いながらも、これが大地震の予兆である可能性が高いと判断する。
 ところが、主任の大森は、科学的な根拠もなくただ周期性だけを根拠にいたずらに危機感をあおるのはよくないとして、今村の判断とマスコミへの発表内容を快く思わない。
 これが世界を代表する日本の地震学界のトップふたりの間に、深い溝を遺すことになる。
 事実上、主任教授の大森が今村助教授に全面的に敗北したことになるが、いつどこで発生するかということを科学的に予測できるかどうかということに関しては、様々な計測技術が進歩した今日でも、この当時とそれほど大きく変わっているわけではない。


 二番目のポイントは、大震災という災害が具体的にどのような災害なのか、小説ならではの表現でありながら、決して虚構や誇張におちいることなく吉村昭がえがききっている点です。
とくに日本の場合、一際顕著なのかもしれませんが、地震による倒壊よりも、その後の火災による被害のほうがはるかに甚大であることを忘れてはなりません。

 これこそ具体的に知ってはじめて驚かされたのですが、避難場所として多くの人びとが集まってきた陸軍被服廠跡で4万4千人にのぼる死者をだしていることです。
 避難してきた少年に医師が大勢の人が死んでいることを聞き、どのくらいのひとかと訊ねられたとき少年は「たくさん」という印象を思わず「5千人くらいは死んだと思います」と答えるが、医師から「法螺を吹くなよ、人が5千人も死んだら大変なことだ」と笑われる。
 ところが、実際にその被服廠跡で死んでいたのは4万人以上であった。

 周囲が火災でみな焼けているとき、広い空き地を求めて多くの避難者が集まってきますが、その場所が、多くの家財荷物や人びとが密集することによって、その一帯で最も燃えやすい危険な地域になってしまっていたということです。
 これは今日でも忘れてはならない重大な教訓です。
 またそのような密集地で火災が発生すると、やがて信じがたい突風が起きることも知っておかなければなりません。
 同じように避難時に人が密集して危険になる場所として橋の上があります。
 避難民に殴打されながらも、荷物を川に捨てさせた巡査の話が紹介されています。

 久松署管内では警察官が荷物を持った民衆の橋を渡ることを禁じたが、社会的地位の高そうな男が警察官と押問答になった。
 男は荷物を背負いながら橋を渡ろうとし、それを阻止する警察官に、
「自分の財産を背負って公道を行くのが、なぜ悪いのだ。そんなことは法律で定められてはいない」
 と、怒声をあげた。
 それにつづく群集も男に同調して、警察官に罵声をあびせかけ橋上を強引に渡ろうとした。そして、暴行にも及びかけたが、突然男の背負った荷が燃え出し、男は炎につつまれ絶命した。
 この光景を眼にしてから、群集は警察官の言葉にしたがって荷物を捨てたという。
                  『関東大震災』 文春文庫 101ページ

 この一文を読んで、はたして、現代にあってはどうだろうか、と思わずにはいられません。
「自分の財産を背負って公道を行くのが、なぜ悪い」と警官に怒鳴るような人間が、増えていないと良いのですが。



 三番目のポイントは、人災として最も際立った朝鮮人虐殺のことです。
 これも私はこの本で初めて詳しく知ったのですが、朝鮮人が井戸に毒を入れたとか、襲撃してくるといったことがデマであることは、警察も早いうちから調査確認し、治安の安定をはかるように努力をしているのですが、本来、警察の補助的役割をはたすべき自警団が、問題の存在になってしまっています。
 警察は朝鮮人を凶暴化した自警団の手から守るために群馬県下に移送することを決定します。ところが、その計画は、無思慮極まりない危険な行為で、それまで警察署内に閉じ込めていた多くの朝鮮人を兇徒化した自警団たちの面前にさらすことになってしまいます。
 移送の話もまた、いつのまにかトラックにのった朝鮮人が来襲するという話になってしまい、埼玉、群馬を舞台に更なる悲劇を巻き起こすことになってしまったのです。
 群馬が、関東大震災にそのような舞台として関わっていたとは知りませんでした。


 さらにこうした事件を引き起こすひとつの原因になった新聞報道のあり方が、これを機に検閲の強化というながれをつくってしまったことも、今につながる重大な問題です。



松尾章一 『関東大震災と戒厳令』
吉川弘文館 (2003/09)  定価 本体1,700円+税


山下文男 著
『戦時報道管制下 隠された大地震・津波』
新日本出版社(1986/12)  定価 本体2,200円+税

1944年12月7日の東南海大地震は、M80  1945年1月13日の三河大地震はM7.1
いずれも戦時下の報道管制下ということで、多くの国民にはその事実は知らされなかった。



 以上大まかにポイントだけを紹介しましたが、このたった1冊の本が私たちに、大災害というものが、人間や社会に与える様々な傷跡を見事に描き出してくれています。
 それを吉村昭は、いつもの表現方法で、特別な主人公にスポットをあてるような小説としてではなく、ひたすら事実そのものの持っている力を引き出しながら耽々と語りかけてくれます。



 いまの科学技術で、次の大震災が、いつ、どこで起きるかを正確に予測することはまだできません。しかし、いつか、どこかで、大震災が必ずおきることは、ほぼ確かなのです。
 このたった1冊の本が、そうした忘れてはならない大事なことを、多くのひとに伝える大きな力になっているのを感じます。


地震や火山噴火の災害に関しては 群馬大学教育学部の早川由紀夫研究室が
継続的にすぐれた研究をされています。是非、ご参照ください。




井上赳夫・大上和博
『特異日の謎を追う「偶然」の真相』
青春出版社(1996/08)定価 本体1,262円+税

 こうした本はなにかと眉唾ものとして見られがちですが、本書は一見「偶然」と見える大災害、大事故の特定日への集中発生という現象の謎を追い、そこに隠された真相に、あくまでも科学という立場から迫ろうと試みたものです。

 誤解のないように付け加えておくと、本書でいう「日付」の、「何月何日」という表記形式にはあまり意味はない。むしろ一年の何番目の日、たとえば二月一日なら1年の32番目の日というように考えてもらったほうがわかりやすいだ
ろう。
 
 月の満ち欠けと交通事故発生の関連性などは、最近よく指摘されることですが、まだまだもっと科学の目を向けなければならない世界はたくさんあります。


手ごろなおすすめ参考文献


小沢健志 編 『写真で見る関東大震災』
ちくま文庫 (2003/07)
定価 本体1,000円+税


   北原糸子 著              野口武彦 著
『地震の社会史 安政大地震と民衆  『安政江戸地震 災害と政治権力』
    講談社学術文庫         ちくま学芸文庫(2004/12)
     定価 本体1,050円+税      定価 本体900円+税

            (以上、「かみつけの国 本のテーマ館」より転載)
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『三陸海岸大津波』

2011年04月06日 | 歴史、過去の語り方
復興に役立てたい本シリーズ ①


三陸海岸大津波 (文春文庫)
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文藝春秋

吉村昭『三陸海岸大津波』中公文庫 本体514円+税
            文春文庫 本体438円+税 (ただ今重版待ちです)
  原題『海の壁 ―三陸沿岸大津波』中央公論社 昭和45年刊

明治29年、昭和8年に続いて昭和35年のチリ地震津波と三度にわたる大津波を経験した三陸地方。
それは、三陸のリアス式海岸という特有の地形がもたらす災害でったともいえます。

海岸線がギザギザに入り組んだ地形は、河口付近の僅かな平野部に集落が密集し、またその河口に向かったV字に先細っていく地形が、津波の威力が進むにしたがって倍加していき、その破壊力は凄まじいものにしました。
私たちは津波というと、大きな高い波がザブンと襲ってくるような形を想像しがちですが、、実際の津波は、上昇した海面がそのまま長時間にわたって押し寄せてくるものであり、決してひとつふたつのザブンという高波をかぶってすむようなものではありません。

地元の人々はその教訓を活かし伝えるべく様々な努力をしてきました。

にもかかわらず、このたびの東北地方を襲った大地震とその後の津波は、これまでの努力をすべて吹き飛ばしてしまうほどの大惨事となってしまいました。

教訓は役にたたなかったのでしょうか。

死者数
 明治29年の大津波    26,360名
 昭和8年の大津波     2,995名
 昭和35年のチリ地震津波   105名
流出家屋
 明治29年の大津波    9,879戸
 昭和8年の大津波     4,885戸
 昭和35年のチリ地震津波 1,474戸

この数字をみる限り、要因はひとつではありませんが、それまでの教訓を生かした防災設備や意識の向上が被害の減少要因になっていることはうかがえます。

この度の想像を超えた被害の大きさには誰もが絶望を感じてしまいますが、訓練を重ねたおかげで助かった人々、「これより下に家を建ててはならぬ」との先人の教えを守って生き延びることができた村など、それまでの努力があったからこそ救われた命も決して少なくなかったことを忘れてはなりません。

過去の三陸地方を襲った津波とは、どのようなものであったのか。
歴史から私たちはなにを学んだのか。
時とともに薄れる防災意識とどのように闘ってきたのか。

吉村昭が本書を執筆したときは、まだ明治8年の津波を経験した人の証言も僅かながらも得ることができました。
漁師たちが目撃した様々な津波の前兆の証言も見落とせません。

本書は、もっとも簡潔にその概要を知ることができる貴重な1冊です。
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facebookを去った男

2011年04月01日 | 無償の労働、贈与とお金
マーク・ザッカーバーグとダスティン・モスコヴィッツとともにfacebookた創業したひとり、クリス・ヒューズのことは、わたしは映画「ソーシャル・ネットワーク」のなかではじめて知りました。

フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた)
クリエーター情報なし
日経BP社


ザッカーバーグがプログラム開発に専念してパソコンに向かっている間に、資金繰りなどで奔走し、お互いに出来ないことを補い合う不可欠の存在でありながら、互いの仕事の内容を理解できず、溝が深まっていってしまう。

映画のなかでは対立の構図ばかりが強調されていた感じがしたが、実際のヒューズは、他の二人と違ってソフトウエア自体には興味がなかった。

「どうしたら人々がお互いに結びついて物事をシェアしあい、オンラインのコミュニティがユーザーの生活を豊かにできるかを考えることに熱中していた。」

これこそが、ソーシャル・ネットワークのテクノロジーを成功に導く核心部分です。

ヒューズは、facebookが1000万人を超えるユーザーを獲得した2007年2月、まさにこれからという時期にfacebookを退社する。




彼の次のミッションは、新たな企業の立ち上げではなく、当時一兵卒のイリノイ州選出上院議員だったバラク・オバマのために、オンラインによる選挙活動を立ち上げることだった。市民の集団的パワーへのオバマの信念にヒューズは動かされた。
彼はこう言う。
「オバマのためでなければ、そしてあのタイミングでなければfacebookを辞めることはなかったね」

オバマの選挙活動にとってヒューズほどの適任者はいなかった。インターネットを使ってサポーターを組織し、動かすことにかけて、彼の右に出る者はいない。

ヒューズは、数ヶ月もたたないうちに、マイ・バラクオバマ・ドットコム(その後マイボ[MyBo]と呼ばれるようになる)と「チェンジのために投票を」[Vote for Change]という二つのサイトを立ち上げた。
そしてさまざまなツーツを開発する。

そのひとつが、マイボ活動追跡ツールだ。
これは、人々が自分の選挙活動を管理するためのツールだが、重要なのは、このシステムが選挙運動をインタラクティヴなゲームに変えたことだ。しかも、ばかデカい賞品のかかった真剣勝負―――つまり大統領選挙である。

ユーザーはイベントを催すごとに15ポイント、個人の資金集めのサイトに寄付が集まるたびに15ポイント、イベントに参加すると3ポイント、ブログにアップするごとに3ポイントが獲得できる。

またオンラインの活動よりもオフラインの活動にポイントが多く配点された。

マイボは、「コラボレーション」と「健全な競争」というツボにぴったりはまった。
2008年11月の大統領選挙までに7万人を超える個人の資金集めサイトと20万を超える地域の草の根イベントをとおして3000万ドルが集まった。
その上、18歳から35歳の若い世代の投票率は過去最高を記録した。

それはヒューズが25歳になる前のことだった。

シェア からビジネスを生みだす新戦略
レイチェル・ボッツマン,ルー・ロジャース
日本放送出版協会


 上記の本より抜粋





こうしたしくみが、今、このたびの東日本大震災の義援金集めに大きな力を発揮するようになりました。
しかし、日本の場合、まだお金集めのしくみが出来たばかりで、ヒューズのように、

「どうしたら人々がお互いに結びついて物事をシェアしあい、オンラインのコミュニティがユーザーの生活を豊かにできるか」といった、しくみづくりには十分至っているとはいえない。


でも、今、世界中でこうしたインフラが整いつつあることが嬉しくてなりません。

世の中全体が、「所有権」の時代から「利用権」の時代へ移行しはじめている。

アトムの経済からビットの経済に移行しはじめている。

莫大な資本がなくても、これまでの時代に比べたら、劇的に、お金をかけずとも大抵のことは実現可能になった。

もちろん政府の問題はあるが、他人に文句を言っている暇があれば、たいていのことは自分で解決できる時代になった。


すでに手がかりは、ヒューズらが、多くのものをつくってくれている。

さあ、これから始動だ!
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