かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

やっぱり室生寺だね。

2009年05月25日 | 歴史、過去の語り方
旅の写真の整理の目途がようやくたち、今日、紀行写真集のダイジェスト版が完成しました。

「第一部 室生寺、奈良への旅」
「第二部 吉野、熊野紀行」
と、ふたつに分けて作成していたのですが、いろいろな文章を考えていると、まだまだ時間がかかりそうなので急きょ、ダイジェスト版を先に作ることにしました。




 今回の旅で新しい発見もたくさんありましたが、今振り返ってみると、やはり室生寺の魅力にまさるところはないと思いました。

 昔(20年くらい前?)に行ったのは12月だったこともあり、中を歩いていてほとんど人に出会った記憶がありませんでした。
 ところが、今回はGW明けとはいえ、テレビのコマーシャルで流れていることもあり、3時ころの到着でしたが、けっこう人がいました。
 


 邪魔な観光客を避けるように道を選んでまわりましたが、わたしたちが奥の院にまで登りついたのは4時ころであったでしょうか。そのころには、もう境内に人影はなくなり、奥の院にいた住職が戸締りをしはじめていました。

 するとアルバイトらしき若い女の子が片付けをし終えて賽銭箱にチャリンとお金を投げ入れた。

 住職が、毎回そんなことしているのかと聞く。

 その娘は、ただ気がすむからだという。

 住職はその返事に気をよくしてか、私たちが時間をかけて降りるのと同じペースでそのバイトらしき女の子にこの木の傷はいつの台風のときのものだとか、ここの羊歯は何なにだと説明しては、手をあわせて拝んでいく。

またあるときは木の切り株にふたり腰を下ろして学校の話などをしていました。



 なにかとても良いものを見せていただきました。
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大久保長安という興味深い人物のこと

2009年05月09日 | 歴史、過去の語り方
今週の「週刊世界百不思議」の特集が
「スクープ!!『徳川埋蔵金』赤城山発掘現場の今」  講談社 580円

でした。

水野智之さん、がんばってるな~。
もう76歳になるそうですが、水野さんはけっこういい本も書いているのですよ。

この発掘に投じた資金は350億円。
掘った坑道の総延長は25kmに及ぶそうです。
SMAPの慎吾君も応援団長になって、特番もつくられたみたいです。

実は、この埋蔵金と直接関係があるわけではないのですが、最近、徳川家康が江戸幕府とつくるにあたってのかなりの財源を工面したといわれる男、大久保長安というとても興味深い人物を知りました。

菅田正昭著『隠れたる日本霊性史 古神道から視た猿楽師たち』(たちばな出版)に書いてあったことです。

これまで、なんとなく怪しい世界の本のような気がして手が出なかった本ですが、とても面白い本でした。


大久保長安(1545~1613)
江戸初期に活躍した、産業・技術の知識に長けた役人。

徳川家康の側近として、佐渡・但馬・石見・甲斐・伊豆などの金銀鉱山や、木曾における林業開発、さらに一里塚の制定など、財政・産業・交通に関する分野で目覚しい活躍をしている。
「特に、佐渡金山では直山制(現代的にいえば、直営事業ながら、その経営に一種の民間活力を導入した鉱山運営)を採用し、選鉱に南蛮流の水銀流し(アマルガム法)をとりいれるなど、先端技術の導入に積極的なイノベーターでもあった。
 さらに、武蔵八王子領主としての石高は三万石(十三万石という説もある)だったが、奉行衆・代官頭とての支配領域の総領高は、百二十万石を超えるといわれるほどの経済的な実力を持っていた。」

とうぜんこれだけの領高があると、様々な利権も発生する。
長安は中風を患い、それが原因で68歳で逝去するが、死んでから生前の姦曲が発覚し、遺子7人に切腹(斬首)が命じられた。既に死んでいる長安も切腹を命じられている。

妬まれたゆえの濡れ衣かどうかはわからないようだが、妬みを買うほどの技能・裁量を長安はどこで身につけたのかということである。

一説では、キリシタンに接触して鉱山技術を獲得したとの疑いももたれ、また、布教に来た韃靼人の子どもであるとも言われたようである。

謎解きは、この長安の出自を辿ることからはじまる。

「長安は武田家お抱えの猿(申)楽衆の大蔵太夫金春七郎喜然の次男として天文十四年(1545)に生まれているのである。しかも、曽祖父は世阿弥の女婿として知られる金春流五世の七郎氏信(禅竹)なのである。」

武田信玄に能楽師として召抱えられた父、金春禅竹の教えの流れを受け継ぐというが、猿楽四座の金春といい、金剛といい、ただの猿楽四座のそれぞれの名前ではない意味があるのではかという推論が出てくる。

そもそも武田の鉱山技術者たちの能力が長けていたこと、また戦闘においても彼らの穴掘り技術が大いに活躍したことは有名。
かれらから長安が、なんらかの技術を受け継いだことは、容易に想像できることであるが、能楽師と鉱山技師がまったく異なる分野とも言い切れない歴史背景が、少しずつ見え隠れするのです。

この話を進めるには、奈良の東大寺建立のことにまでさかのぼる。

東大寺建立時の奈良の状況や、謎の多い儀式「お水取り」などの話につながるので、来週、奈良に着いてからこの続きは書こうかな。

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古代朝鮮と日本の密接度と距離感

2009年05月08日 | 歴史、過去の語り方
古代史をみていると、ややもするとなにからなにまで渡来人がつくった話になるばかりでなく、歴史上の有名人が皆、渡来人だったということにもなってします。

今月の新刊書では、
林順治 著 『応神=ヤマトタケルは朝鮮人だった』河出書房新社
なんていう本も出ました。

いったいどこまでがほんとうなのか、素人にはまったく見当もつかないものですが、少なくとも近・現代の日本と韓国や中国、日本とアメリカなどの関係よりもずっと密接な関係であったであろうことは想像がつきます。

近世日本が、オランダなどから多くの技術を吸収し、幕末・明治期にイギリス・フランス・ドイツから多くを学び、戦後日本がアメリカから入ってくるものを無心に取り入れていったどれと比較しても、古代日本における朝鮮の影響力の強さはそれらを上回っているのではないでしょうか。

そもそも、渡来人の大半を占める新羅系移民、百済系移民にとって日本は、あこがれの地であったらしいのです。
したがって戦乱の時代の同じ亡命移民であっても、エリート官僚や技術者がこぞって日本にやってきて本国には優秀な人材はいなくなってしまったのではないかとの推論もあるほどです。

5,6世紀ころの日本の人口は、諸説あるものの大体は400万から600万人くらいとみられています。
そのうち都などの都市部にどのくらいの人口が集中していたのかについては、平城京の場合、多く見て20万人、少ない見解で5から6万人といったところらしい。

そのうち下級役人の数は1~2万人、
とすると上級役人の数百から千人くらいの一定数を渡来人が占めたというだけで、その影響力の大きさは想像がつく。
というよりも、経験のない知識や文化をすべて持ち込んでくれた側であることを考えれば、数の比率の問題ではなく、抜擢登用はあたりまえの環境であったことだろう。

でも、渡来人が来る以前の日本人がいなかったわけではない。
当然、新しいものに馴染めない、受け入れない抵抗勢力はあったことだろうと思われます。
そんな視点から物部氏というのは、とても興味深い存在です。
(お勧め本  関裕二『物部氏の正体』新潮文庫)

ヤマト政権内部での覇権争いだけでなく、地方豪族との闘いもすべて渡来人がからんでいるといってもよいほどだ。
前に、物部氏と渡来人二つを祀る貫前神社の珍しい下り参道のことを書きましたが、朝鮮に近い北九州や大和中央のみならず、この東の果ての上毛野国にまで、渡来人は大挙進出してきています。

まったくもって想像しがたいのは、近代以降、他国との関係は、常に戦争したら負けるかもしれない、あるいは負けてしまった列強、大国の影響下にあったといえるのに、古代日本と朝鮮の関係は、決して日本を侵略してきた渡来人が国土全域を席巻したわけではなく、どこまでほんとうかはわからないが、その多くは亡命して流れてきた人々によって関係がつくられてきたということです。

これが歴史上稀にみる面白い関係なのか、どこか歴史の見方が間違っているのか、わたしにはわかりません。

でもそのまま現代に通じる問題であり、ナショナルなものとインターナショナルなものの意味についてつくづく考えさせられるものです。
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天皇以上のタブー「藤原氏の正体」

2009年05月06日 | 気になる本

日本に中国に摸した律令制度を取り入れ、国家という形を確立した藤原鎌足と不比等。
それは既存の日本の勢力とドロドロの戦いのうえになりたっています。

藤原氏の正体 (新潮文庫)関 裕二新潮社このアイテムの詳細を見る


古代国家は、仏教を積極的に取り入れることで国づくりを推し進めた。
当然、天皇がその仏教導入の先頭にいたわけで、当時の天皇は神道の保護には積極的ではなかっただけでなく、その古来の神道のしきたりを持っていた物部氏を排斥すらした。

様々な信仰をもった地方豪族たちのゆるやかな連合体であった当時の日本を、仏教の力と律令制度の名の下に、一元化をはかろうとした中心に藤原氏がいました。

出自のよくわからない藤原鎌足が、どうしてこれほどまでに中枢の権力を握ることができたのか、関裕二さんは、鎌足は百済王豊璋であったと推論しています。
そんな馬鹿なと思いつつも、その論拠にはとても説得力があります。

しかし、鎌足、不比等にはじまった藤原氏の支配が、歴史の底流をみるといついかなる時代をみても、どの将軍の時代であっても、いかなる天皇の時代であっても、またいかなる政権の時代であっても、脈々と続いていることがわかります。


藤原氏は不比等の四人の子の末裔がそれぞれ、南家(藤原武智麻呂)、北家(房前)、式家(宇合)、京家(麻呂)にわかれ、互いに牽制し、覇を競いあいました。平安時代は、藤原氏内部の権力闘争から始まったと言っていいであろう。そして北家が勝利を収め、摂関政治がはじまるのである。    (関裕二『藤原氏の正体』280頁)

天皇を操り続け、時の政権をも常に左右する力を持った藤原氏、それは現代につながる、トップに責任と権限を与えない官僚制度そのものであるようにも見えます。

一条、二条家や西園寺家、近衛家などに限らず、地方から自力で這い上がる人びとに常に立ちはだかる勢力として根深く日本社会に存在し続けています。

美智子皇后や雅子さんは、そうした表には見えない勢力との闘いのなかで生きているのではないでしょうか。

と言っても、美智子皇后は、民間とはいえ名門中の名門、正田一族の出。
江戸時代には館林の豪商で、近代に入ってからは日清製粉創業家となった。それだけでなく、正田家は学者一族としても知られています。 そこには雅子さんの立場とは比較にならないほどの開きがあります。

もちろん天皇家の内部は、そういった雑音とは無縁ともいって良いほどしっかりとした矜持があるから国民からの信頼を得ているのですが、その周辺に連なる血縁、血脈のネットワークの力は、私たちの想像を超えたものがあります。
それは時としてオモテの政治経済の現象以上の影響力を持っていたりもするものです。 



日本の歴史を通じてこうした絶大なる支配力を持ち続けている藤原氏が(を?)祀る興福寺、春日大社へよることも、今回の旅の楽しみのひとつです。

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旅のイメージ

2009年05月04日 | 歴史、過去の語り方
今月の12日から17日にかけて奈良・吉野・熊野へ行く準備で、いろいろな本を読み漁っているところですが、どうしても欲張りすぎた旅になってしまいがちで、テーマを絞り込むことがとても難しい。

それでも、昔からこちらの方面へ行く時は、いつもこだわっている視点があります。
うまく説明できないこじつけのような話なので、軽く受け流してください。

日本の歴史・文化をたどる時に京都・奈良は誰もがたちよる場所ですが、わたしは昔から京都・奈良というふたつの歴史都市だけでなくずっと気にしている視点があります。
それは、能登半島から紀伊半島にかけての縦の線に蓄積した日本の歴史ということです。
文化、経済、軍事は昔から日本列島の東西に流れ、揺れ動いて来ましたが、その長い歴史を通じてこの縦の線の上では、ぶれることなく過去の歴史が一貫して蓄積されているのを感じるのです。

ふるい文化や思想を否定することなく、そのまま保持したまま新しいものを積み重ねていく日本特有の文化の姿が色濃くみてとれる地域なのです。

こうした見方を気付かせてくれた一番の契機は、白洲正子の『かくれ里』や『近江山河抄』などで知る近江に対する一連の関心でしたが、これらを契機に近江を訪ねるたびに、古代から近代にいたるどの時期をみても、この縦軸が大事な契機になっているのを感じるようになりました。

琵琶湖はただの湖、日本列島の真ん中の穴ぼこではない。
水運の柱である瀬戸内海以上に、中枢の交通の要であったことを信長は知り抜いていました。

神武東征や北九州の文化圏からヤマト文化圏への変遷、源平の戦いはもとより吉野で楠正成と力を蓄えた新田義貞と九州で立て直しをはかった足利尊氏の戦い、戦国の信長が戦った相手たち、あるいは宗教の歴史をたどっても、常に力を蓄えた場所は、なぜか都での政治ではなく、この縦の線上の山の中でした。

個人的に興味のある一向宗なども、ずっと都以外のこの縦の線上で勢力を広げています。

そうした視点をより一層、明快に意識させてくれたのが、日本列島を「〆」(=締める)の時になぞらえた見方です。
これは文字の形状が日本列島の骨格をイメージさせるだけでなく、筆順と筆の筆致も、日本の文化の流れや風水的な気の流れにも合致してみえるのです。

大雑把にいうと、本州を北から南へ走り、跳ね上がったところで朝鮮半島=大陸へとつながる。
そして縦に下ろす先が能登半島から始まり、力強く紀伊半島の先、熊野で終わる。

熊野(伊勢も含む)が死のへの旅立ちの場、補陀落渡海の地であるだけでなく、なんらかのエネルギーが行きつく先としてあるよに私には見えてならない。

まったく感覚的な印象のことですが、ずっとこだわっていることです。
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