かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

生産の基礎単位としての「家族」  再録メモ

2017年06月28日 | 暮らしのしつらえ

宇根豊が、平均年齢72歳の百姓に、いつが一番楽しかったかと尋ねたところ、圧倒的に多くの百姓が昭和30年代の前半が一番充実していたと答えたそうです。

そのわけは「家族全員で仕事ができたから」

最近、何かにつけて私は、先の東京オリンピックの頃から日本中の風景(自然景観も人の心の風景も)が変わりだしたということを書いていますが、これほど本質をついた表現はありません。

最近、お店のパートさんと息子さんの進路の話をしていた時、長い目で見たら自営業、個人事業を立ち上げた方が、良い会社へ就職するよりもずっと良いと思うといったようなことを話したら、自分の子供は自営業には嫁には出したくない、と言われ改めてショックを受けました。

かつて国民の8割近くが農家であった時代、今思えばたしかに現金収入はサラリーマンに比べたら少ないので子育て養育費など不安は尽きなかったかもしれませんが、自営業が基本で成り立っていた社会であったことが、どれだけ強い地域を育てていたことかとつくづく感じます。

ところが先のパートさんに限らず、強い経済、強い地域社会をつくるためには、家族労働、自営・個人事業の比率を上げることこそが大事だ、などと言っても容易には受け入れられないことが多いので、とりあえず10年前に関わっていたNPOの場に出したレジュメを以下に転記しておきます。

8、9番目の項目は、今回書き加えたものです。
 

     **** キーワード「家族」について *** * 

 映画や文芸作品などを通じてみる家族は、 もっぱら「家族愛」がその多くのテーマになっていますが、 地域社会の復興においても「家族」「家族労働」「個人事業」といったことがらは、極めて重要な意味を持つと感じます。 

ここで家族というキーワードの「家族愛」以外の側面に注目して整理してみます。 



1、 高度な資本主義が発達した現代でも 、世界中の生産の基本的形態は、いまだに圧倒的多数が「家族労働」 

   ・アジアに限らず、ヨーロッパの経営形態を見ても、 
      家族・血縁による経営形態は根強い。 
      人口構成比からみれば、世界の圧倒的多数が家族労働と個人事業。 
    巨大組織化した企業も、その実態の多くは膨大な下請け中小零細企業で成り立っている。 

  ・家族・血縁にこだわらない組織形態が発展したのは 、 
     アメリカと日本が突出している 
   日本も血縁にこだわるが、養子という血縁を越えた組織が可能な稀な国 
    (企業社会につながる「家」、これは他に例がない) 

最先端産業においても、時代のベクトルは「より小さく」の時代へ移ってきている。 
今は過渡期:「一極集中の巨大化」と「分散化」の時代。 



2、これまで企業に代表される大規規模生産こそが生産力発展の最大条件 とみられ、地域環境を支えていた個人事業、家族労働が限りなく企業に吸収されてきた歴史がある。 


   ・初めに農業労働 → 都会の工業労働者へ 
   ・地元の自営商業労働者→大型SCやスーパーマーケット、 
           チェーン店などの労働者(パート)へ 
  実際にこのことによって見かけの生産性は 飛躍的に増大してきた。 
  


3、自然と社会の再生産を前提とした、膨大な量の無償の労働(自然からの贈与、人間による贈与)によって社会が成り立っていることを忘れて、 一次的な利益につながらないそうした労働をすべて切り捨て、疲弊した自然、地域社会や企業風土、家庭をつくってきてしまった。 

   ・生産の基本部分は大自然からの贈与 
      この贈与に対して企業は代金を払っていない 
   (略奪と破壊の繰り返しで、再生産の構造維持の費用負担をしてない) 
電気・水道などの料金はもとより、化石燃料の消費は、大自然に対してその費用は払ってない。 

   これまで人類は、大自然の恩恵に対する尊敬、崇拝の念をもってその維持・再生産につとめてきた 

この無償の労働の意義や価値を見失うことが 会社から帰ったら役に立たない多くの父親の姿を生んでいる。 会社の利益追求以外のたくさんの仕事が地域を支える。 



4、 安易な企業誘致や産業の育成よりも 、昔からその地に暮している人々による生業(なりわい) の復興支援の方が「強い地域」経済を育てることにつながる。 (大企業依存の地域経済が、いかに脆いものであるかは立証された) 

  個人事業・家族労働の生業(なりわい)は、もともと地域の再生産のために必要なことを
  不可分の業務として持っていた。 
  (国や行政にまかせることではなく、 自分たちのものとして必要とする作業) 

  企業誘致やベンチャー育成よりも、既存事業の復興、イノベーションの方が、
  決して簡単ではないが、はるかに容易い。 
  既存事業の復興の能力がないまま、新規事業に手を出しても成功しない。 



5、家族労働、個人事業を中心にした経済構造のが、ワークシェアリングや地域福祉、高齢者の健康維持と生きがいのためにも効果が大きい。 

  ひとりの年収300万円、500万円で家庭を支える労働ではなく、 
  子どもからお祖父さんまでが、出来ることで支えあう構造 の意義。 
  福祉予算を増額することよりも、実際のメリットが多い。 

 生涯、自分が他人が喜んでくれることで、何をしてあげることができるのか 
 持ち続けることが、生きがいになる。 (組織にうもれた肩書き人間が失ったもの) 




6、単一労働の組み合わせによる分業化を推進する企業社会に対して、ひとりひとりが自分の作業を管理して「総合的」に生きていける姿は、人間の一生をみわたしたうえでも限りなく価値がある。 

 「製品開発」「製造」「営業」「販売」、「経理」は、個人事業において特別な意識を持つことなく 、一つの必要な一連の行程として行なっている。ここに本来の人間の営みの姿がある。 



7、利害で結ばれた組織形態である企業にくらべて、地域コミュニティーや家族といった結びつきの関係は、たとえ条件の悪いことが多少あっても、「あきらめない」強さがあり、それが長い人間社会の歴史を築いてきたともいえます。 

   企業や団体などの組織 : 特定の利害で結びついた集団。 
      目的達成のための一定の資質や能力を要求する。 
   家族や地域 : 構成員の能力や資質にかかわりなく、 
      与えられた条件を天賦のものとして受け入れ、 
      多くの場合は、あきらめることのない関係を築きながら問題を解決していく。 

 

 

8、「児童労働の禁止」は、労働環境の一般論としては正しいかもしれませんが、お父さん、お母さんと一緒に子どもが、あるいはおじいちゃん、おばあちゃんが、家族として一緒に働けることは、限りなく尊い。

 

 

9、そもそも「生産」は、子供を産んで育てることを根幹とした「生命の再生産」の活動です。このことを忘れた「経済」が、生命の破壊をもたらす。



* 家族愛や文化、宗教などの精神活動も、この点から見ると、純粋なイデオロギー上の問題ではなく、地球と人類の再生産を維持するための生産活動の大事な一要素であることに気づきます。

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取り戻すのは「権利」ではなく「権理」

2017年06月24日 | 「近代化」でくくれない人々

ずっと私は明治維新というものが、徳川幕府に対する「革命」ではなくて「政変(クーデター)」であったということにこだわる意味を考えているのですが、このことを考え続けていると最近ひとしお、明治維新というものの負の遺産の面が気になって仕方がありません。

「明治政府」などという表現は使わずに「薩長政府」として捉えたほうが、ずっと当時の国の実態がよく見えてくるからです。

このことは最近、渋川市の郷土史家の大島先生の家にお邪魔して色々お話を伺った時に、一層強く感じられました。

その時の大島先生の話をざっくりとまとめると、江戸時代の武士がいかに貧しく、農民はいかに豊かであったかということ、また明治政府によって江戸時代=徳川幕府の歴史がいかに書き替えられたかという話なのですが、本来は、その時の大島先生のお話だけで記事を一度まとめたいほどです。

 

そもそも武士というのは徴税権を持った権力者の側にいたわけです。

最近でこそ貧農史観はだいぶ薄れてきましたが、江戸時代でも時代を下るほどに農民が豊かになり社会の中での発言権もけっこう持っていたことが様々な歴史研究の分野で立証されるようになってきました。

お伊勢参り、善光寺参りなどの長旅に出たり、村の祭り、村芝居に寄付を募り、現代の行政補助などでは考えられないほど豪勢なイベントを行っていたり。

これらのことはほとんどが商人や農民らによって支えられていたもので、藤沢周平の小説などでも伺われますが、当時の中下層の武士たちにそうした余裕はほとんど見られませんでした。

武士というと何か偉そうに感じられますが、実態は江戸幕府の官僚であり、公務員ということです。

地元の過去帳や墓石を片っ端から調べてきた大島先生によれば、差別されてきた農民といえども、江戸初期の段階から墓石にはちゃんと苗字がついていた。被差別民ですらみんな苗字を持っていたというのです。

農民が本当に貧しくなり、また現実的な差別的な地位に陥って行ったのは明治以降の方が酷かったというのです。「貧農史観」というのは、むしろ明治政府によってつくられたイメージであると大島先生はいいます。

とりわけ日清・日露戦争以後、国費を戦争に費やすようになってからは、物心両面で農民の地位は落とされていきました。またそれは戦争への引き金にもなってしまったのですが。

江戸時代、武士が徴税権を持っていながらも無闇に農民への増税に走ることはせずに、実際はできずに、多くの大名や武士は商人から借金をして財政を回していました。いわゆる「大名貸し」の世界です。これによって地方都市でも金貸し業が短期のうちにのし上がる例がとても多かったといいます。しかしそうした人たちは村落社会で地位がすぐに認められることはなかったので、逆に地域により多くお金を還元することで身分が保証されました。

大島先生のこの辺の説明がとても面白かったのですが、無責任なことをあまり書くと先生にご迷惑をおかけするので本題に戻ると、「武士道」評価の根幹にも関わることなのですが、江戸幕府が開国を迫られた時にその会議の効率の悪さ、生産性の低さなどが目立ちましたが、当時の幕府や役人が責任を取るシステムとしては、明治維新前はそれなりに欧米と比べてもかなり優れたシステムが機能していたということです。

それが明治政府になって突然、「勝てば官軍」という言葉が生まれたように、西洋に追いつけ追い越せ、「近代化」の名目のもと、矜持もへったくれもない政策が次々と断行されてしまいました。

最近またその再現を見ているような気がしてならないのですが、日本の長い歴史の中でもどうも薩長が前に出てくると、日本の長所ともいえる古いものを否定せずにその上に新しいものを積み上げていく発想ではなく、大陸的な古いものは完全に破壊して新しいものを作り直す手法に流される傾向が感じられます。

で、国でも企業でも地域共同体でも、変革には強い意志やリーダーシップが必要なことに変わりはありませんが、そこに矜持のあるなしを分けるポイントがどこにあるのかを考えると、一つの言葉の使い方の違いのことを最近知りました。

それが、「権利」という言葉の使い方です。

正確には明治の開国後のことなのかわかりませんが、英語のrightsという言葉を日本語に翻訳した時、それは「権利」ではなく「権理」という字が当てられました。

これが福沢諭吉の翻訳がオリジナルなのかどうかもわかりませんが、『学問ノススメ』の中に「権理通義」(下写真、2行目下部) とあります。

このことは、山脇直司『社会とどうかかわるか』(岩波ジュニア新書)のなかで初めて知ったのですが、この指摘がなかったら文字を見ていてもその違いに私は気づかなかったことと思います。

おそらく福沢諭吉は「権利」か「権理」かを迷って選択したのではなく、rightsという英語を見たときに、ことわりの通義として自然にこの訳を当てたのではないでしょうか。

それはそもそも個人の利益の側から表明するものではなく、社会全体の理(ことわり)のなかで生まれるものなのだということです。

得てして「権利」を主張する側は、右左を問わず、また国家の側、民衆の側を問わず、自分の側にこそ「理(ことわり)」があるのだと言い、互いの利は平行線のまま多数決や力ずくでの決着を図ることになることが少なくありません。

しかし、少なくともスタートの時点から「権利」ではなく、ことわりとしての「権理」を使っていたならば、まず個人の利益に立つものではないのだということが前提として始まるので、議論や考えのすすめ方は随分変わるのではないでしょうか。

つまり自分の側の権利をいかに相手に理解させるか、あるいは相手側に屈服させるかの闘いではなく、初めから自分とは異なる相手側の立場や利益も含み込んだ「理(ことわり)」がどうあるのかがきちんと想定された議論や社会の関係があるということです。

最近私は地域づくりにかかわることが多くなり、その運動スタイルが、「この指止まれ」方式の理念型ではなく、また特別に意識の高い人や能力のある人によって生まれるものでもない、地域運命共同体の折り合いの世界で組み立てるタイプの活動なので、こうしたことをひと際強く意識するなったのかもしれません。

 

またここで私の思う「理(ことわり)」とは、国家の「理(ことわり)」でもなく、また単純に民衆の「理(ことわり)」でもなく、大自然の理(ことわり)にいかに近づけるかということなのですが、中国ではそれを「天」とし、西洋ではそれを「神」としてきました。

これもまた一神教の神のいう「理(ことわり)」と、日本のような多神教・自然崇拝の「理(ことわり)」とでは大変な違いがあり、さらには日本の中でもずっと多神教的宗教観を維持してきた歴史と天皇制を一神教的なものに作り替えてしまった明治政府のそれとは全く別問題で、それこそこれもまた大問題なのですが、それはまた別の機会に整理してみたいと思います。

 

前にもことわっていますが、私は会津育ちのため薩長に対する根深い偏見がぬぐいきれない弱点を抱えているので、薩長の利益やアメリカの利益が国益の名のもとにゴリ押しされる社会が加速してしまっている世相にどうしても我慢がなりません。

身近なところでいっこうに減る気配のないクレーマーやモンスターペアレントなどによって萎縮してしまう教師や公務員の姿、あるいはサービス業に対して同様の消費者の権利を振りかざす姿。どれもみな「権利」が鋭い刃物となって相手を傷つけ萎縮させてしまっています。

 

そこで自分自身も少しでもよって立つところの「理(ことわり)」を取り戻したく、思いつくところを書いてみましたが、こうした「理(ことわり)」とは、必ずしも憲法が保障しているからといって獲得されて当たり前という筋合いのものではなく、アリストテレスが言っているようですが、一人ひとりが楽器を練習するように、手間がかかっても一歩ずつ生涯をかけて身につけていくことにこそ価値があるものなのだと思います。

 

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貧乏神がそれでも神様であることの意味

2017年06月05日 | 無償の労働、贈与とお金

日々真剣に豊かな社会を目指して努力をされている人たちからはひんしゅくを受けるかもしれませんが、私は常々人が貧乏であることは必ずしも悪いことではないと思っています。

なにせ太古の昔から人類の圧倒的多数は、常に貧乏であったからです。

なぜか多くの人はえてして貧乏を自慢(自虐?)のタネにしていますが、この意味で、貧乏であることは何の自慢にもなりません。

私自身20代、30代には考えられなかったことですが、今ではむしろ積極的に貧乏でありたいとさえ思っています。貧乏であることによってこそ、人は鍛えられるものですが、それ以上に現代は、より多く稼ぐことによって加速される物心両面の貧困を散々見せつけられているからです。

 

たしかに、いったん貧乏神にとりつかれると、これから逃れるのは、なかなか容易ではありません。

 

でも日本文化にとりつかれたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、少し違う見方をしていました。


「そういわれましても、この中で私がよく知っているのは貧乏神だけなのです。この神様にはいつもお連れがおいでで、名を福の神と申します。福の神は色白く、貧乏神は黒い色をしておられます」

「それはね」と私は思わず口を出した。「貧は福の影だからだよ。つまりね、貧乏神は福の神の影法師なんだ。私はずいぶんいろいろな所を旅してきたが、福の神の行くところ、必ず貧乏神が付きまとっていた」

 

(略)たしかに貧乏神を追い出す手立てはなかなかないといわれますが、

『地蔵経古粋』という書物に、尾張の国の円浄坊という老師の話がございます。この方は加持祈祷の力によって、貧乏神を退けたそうです。 ある年の暮れの大晦日、円浄坊は弟子や他の真言宗の行者を集め、桃ノ木の枝を手に呪を唱え、その枝で人を追い出す仕草をすると、寺の門という門をぴたりと閉ざし、もう一度真言を誦したのです。するとその晩、円浄坊は不思議な夢を見ました。骸骨の坊主が一人、破れ寺の中でしくしく泣きながら恨みごとを言ってます。

「これほど長くお仕えしたのに、なんと酷(むご)いお仕打ち・・・・・」

その後、円浄坊は生涯、裕福に暮らしたそうです。」

         (小泉八雲『神々の国の首都』講談社学術文庫)


 

 

他方、似たような表現ですが、「貧乏」とは違って「貧相」であることは、無条件に避けた方が良いでしょうね。貧相神は、どうもいないようですから。

神さまだからこそ、やはり貧乏神はお付き合いの意味があるのです。 

不要な焦りや欲さえなくなれば、貧乏神はたくさんの大切なことを私たちに教えてくれます。

私が貧乏神と仲良くなって幸せになりたいと思う理由は、モノやお金をより多く消費することで得られる豊かさではなく、自らがより多く創造する豊かさを求めているからであり、その先にあるのは、より多く稼ぐことではなく、よりお金のかからない社会を根本では目指しているからです。

お金さえあれば解決するという安易な発想が、こころの世界だけでなく経済を含めた豊かさを生み出す本当の力を育てることを遠ざけてしまいます。

 
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源順の『和名類聚抄』と「名胡桃」の地名由来(伝説と史実の交差点)

2017年06月03日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

月夜野の地名由来と風土 その2

  私たちの地元では、源順(みなもとのしたごう)が東国巡業のおりに、この地へ立ち寄り「おお、よき月よのう」といったことが月夜野の地名由来となったという話が伝説として語られていますが、この源順がどのような人物であるかを知る人は意外と少ないようです。

 

以下に源順についての説明をウィキペディアから抜粋しながら補足してみます。

順は若い頃から奨学院において勉学に励み博学で有名で、承平年間(930年代半ば)に20歳代にして日本最初の分類体辞典『和名類聚抄』を編纂した人物として知られています。

漢詩文に優れた才能を見せる一方で和歌に優れ、天暦5年(951年)には和歌所寄人となり、梨壺の五人の一人として『万葉集』の訓点作業と『後撰和歌集』の撰集作業に参加した。

それまで万葉仮名と呼ばれる難読漢字表記であった万葉集に、源順らが訓読み表記を施したことで初めて万葉集が広く読み親しめるようになりました。

天徳4年(960年)の内裏歌合にも出詠しており、様々な歌合で判者(審判)を務めた。
特に斎宮女御・徽子女王とその娘・規子内親王のサロンには親しく出入りし、貞元2年(977年)の斎宮・規子内親王の伊勢国下向の際も群行に随行している。

これらの実績から三十六歌仙の一人にも名をつらねています。

しかし、この多才ぶりは伝統的な大学寮紀伝道では評価されなかったらしく、文章生に補されたのは和歌所寄人補任よりも2年後の天暦7年(953年)で、順が43歳の時のことであった。
大変な才人として知られており、源順の和歌を集めた私家集『源順集』には、数々の言葉遊びの技巧を凝らした和歌が収められている。また『うつほ物語』、『落窪物語』の作者にも擬せられ、『竹取物語』の作者説の一人にも挙げられる。

天暦10年(956年勘解由判官に任じられると、民部丞東宮蔵人を経て、康保3年(966年従五位下下総権守に叙任される(ただし、遥任

康保4年(967年和泉守に任じられる。
永観元年(983年卒去享年73。

 

つまり、日本初の百科事典ともいえるような『和名類聚抄』を編纂し、また、万葉仮名表記しかなかった万葉集に初めて訓読み表記を施し後の普及の大きな礎を築いたこと。さらには三十六歌仙のひとりであることなども含め、とにかく大変な学者肌の才人であったようです。

それだけに、「おお、よき月よのう」といった月夜野の地名由来が伝説であったとしても、なぜこの源順がこの土地の伝説に関連付けられる人物として選ばれたのか。他の有名人、紀貫之や菅原道眞、あるいは弘法大師でも源義経でもなく、お堅い学者肌の源順が関連付けられたのは、ただ東国巡業のおりに立ち寄ったというだけでは片付けられない背景が何かありそうに思えてなりません。

さらに考えていくと、「竹取物語」の作者である説もあることから、「月夜野」という地名、「月」との関わりにおいても、様々な妄想が湧いてきます。

私のそうした思いの全体像は以前にこのブログで「物語のいでき始めのおや」http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/7126dd5075be149f5a7be232e27eec70
と題して書きましたが、今回は順の代表的仕事である『和名類聚抄』に絞って、少し書いてみます。

 古典文献としては、とても重要な文献でありながら、一般に名の知れた書名などに比べたら、それほどこの「和名類聚抄」という本は広く知られているわけではありません。

それでも、ここ月夜野地域では、特に源順の地名由来伝説とつながることなく「和名類聚抄」の名をしばしば目にすることがあります。

 

ここで再び「和名類聚抄」の概要をまたウィキペディアから引いておきます。

和名類聚抄 

名詞をまず漢語で類聚し、意味により分類して項目立て、万葉仮名日本語に対応する名詞の読み(和名・倭名)をつけた上で、漢籍(字書・韻書・博物書)を出典として多数引用しながら説明を加える体裁を取る。今日の国語辞典の他、漢和辞典百科事典の要素を多分に含んでいるのが特徴。

中国の分類辞典『爾雅』の影響を受けている。当時から漢語の和訓を知るために重宝され、江戸時代国学発生以降、平安時代以前の語彙・語音を知る資料として、また社会・風俗・制度などを知る史料として日本文学日本語学日本史の世界で重要視されている書物である。

和名類聚抄は「倭名類聚鈔」「倭名類聚抄」とも書かれ、その表記は写本によって一定していない。一般的に「和名抄」「倭名鈔」「倭名抄」と略称される。

 

こうした百科事典的な性格から、日本各地の地名、風俗などが網羅されている都合、この文献で初めて群馬県の様々な地名も記録に現れています。

群馬県の多くの地名由来の説明もこの「和名類聚抄」から始まります。

下の写真に見られるように、「和名類聚抄」によって初めて利根郡では、4つの地名(沼田、男信、笠科、呉桃)が表記されています。 

 

「沼田」とかの漢字変換が面倒なので、略しますが、この4地名の中に「呉桃」とあるのが現在の名胡桃の地名が最初に文献に記されたものです。

ところが、多くの説明でこの「呉桃」がどうして(なぐるみ)と読めるのかは説明しないまま、引用されていることがあり、当初私はそれは地元贔屓の人による勝手なこじつけなのではないかと、かつて疑ってさえいました。

しかし、この原書を見れば、ちゃんと「奈久留美」との読み表記が小さな字で付けられているのがわかります。

原書では、これだけの表記であるため、利根郡の4地名の一つとして名胡桃があるということは、現在の狭い名胡桃の地域を表す地名が、かつては猿ヶ京や三国峠の方まで含めた地名であったのではないかとの推測も地元贔屓の目からは生まれています。

確かに他の地名、沼田や笠科(片品)などと同等に考えれば自然な類推になりますが、どうも源順が調査採集した地名がこの4つであったということ以外、それぞれの地名エリアに関する情報があるわけではなさそうです。まして、県境はおろか正確な地図そのものがなかった時代のことです。

そうした推測を確定するためにも、「呉桃」(奈久留美)の地名語源を一度たどっておくことは重要です。

 

以下、都丸十九一『続・地名のはなし』から孫引きですが、

尾崎喜左雄博士は『群馬の地名 下』の中(152頁)で次のように述べています。

「なくるみ」に「呉桃」をあてたものであろうか。「呉桃」の「呉」は中国揚子江流域の地方名であり、国名でもあった。わが国の古代ではその地方を「くれ」とよんでいて、「呉」と記している。(中略)「呉桃」は「くれ」の「もも」の意になる。それが「くるみ」であったのだろうか。

尾崎喜左雄『群馬の地名』は、都丸十九一『地名のはなし』とともに、群馬の地名由来の重要文献であるため、その影響力は決して小さいものではありません。

しかし都丸十九一は、これを尾崎博士らしからぬ表現として一蹴しています。

まず、ナクルミに「呉桃」の字をあてたのは和銅六年の「著好字」以来の二字・嘉名の強い行政指導、つまり漢字二文字(中国は一文字に執着)で表現することが日本の場合は適切であるとの指示に従っただけであるとし、「くれ」も「もも」の説明も意味はないとしています。

そもそもクルミは古代に置いて、食料として、また染料として重要な植物で、有用植物が地名になる例は、トチ・クリ・クズ(フジ)・ホドなどとともにきわめて多いとしています。

したがって都丸十九一は、

ナクルミは、胡桃にナを添えてむき出しのえげつなさをソフトなものにしたものと思われる。

と結論づけています。

 

ふたたび「和名類聚抄」にあたってみると、胡桃は以下のように丁寧に記述されています。

あらためて考えてみれば、東日本の縄文文化にとってトチ・クリ・クズ(フジ)は、ひと際重要な役割を担った植物であるだけに、同類のクルミが縄文遺跡の多いこの地で果たしていた役割の多さは十分検討の価値があると思われます。

果たして当時のこの周辺の植生は、どのようなものであったのでしょうか。

また現代の様子から当時の植生の痕跡をたどることは可能なのでしょうか。

毎度のことながら、妄想も含めて、これから気長に調査を続けてみたいと思います。

 

 

 

 

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