本にかかわる仕事をしていながら、わたしには「本のソムリエ」などと名乗れるような自信はまったくありません。
本の世界は、あまりにも広すぎると感じるからです。
分野を限定すれば、可能であるだろうと思うこともあるのですが、分野を限定したとしても、それぞれ相手によって読む人それぞれの色が見えないままでは、なかなかマッチした情報にまではアレンジしきれるものではありません。
これは逃げ口上にしかすぎない。
いかなる場合でも、自分以外の他者がどう感じるかを知ることにしか、コミュニケーションやビジネスの核心はありえないからです。
北海道砂川市のいわた書店、岩田さんの始めた「1万円選書」は、こうしたツボを最も的確に押さえたビジネスモデルであると思います。
「ソムリエ」とまではいかなくても、「情報のデザイン」といったようなコンセプトでは、本に限定することなく私としては、ずっと関わっている世界です。
「かみつけの国 本のテーマ館」http://kamituke.web.fc2.com/のなかでも「コミュニティ・デザイン」は大事なキーワード。「Hoshino Parsons Project」https://www.hosinopro.comフ・デザイン」が核心テーマ。
ところが、最近そこに「デザイン」という言葉を使うとき、妙に引っかかるものをいつも感じてしまうのです。
このことを感じたのは、自分の目指す仕事のレベルが、プロの調理師でもソムリエでもない妻の作る料理の完成度にはとても及ばないと気づいたときです。
別居の妻が毎週末に家に来て料理をつくってくれるのですが、毎度、季節の素材を探し、私の体調を配慮して、調理、盛りつけ、器の選択など、その都度その日ごとに与えられた条件のなかで知恵をはたらかせて絶妙の料理をつくってくれています。
味といい、盛りつけといい、毎回、周り中の友だちから贅沢すぎると非難を受けるほど(笑)すばらしい料理を提供してくれています。
このことを思うと、自分の仕事のレベルは、その日その日であたえられた条件(素材)で最良の調理や盛りつけが出来ているかといえば、とてもそんな水準の仕事は出来てるとはいえません。
仕事の創造性を発揮する世界が違う面もあるかもしれませんが、「創造力」そのものの果実で比較すると完全に負けているのです。
本の情報の表現で、どうして妻の料理のような仕事が、日々の仕事のなかで私には出来ないのでしょうか。
妻の料理に限らず、料理、「食」の世界というのは、多かれ少なかれこのような世界なのだと思います。
なぜかこうした料理の世界では、高度な創造性を発揮していながらテーブルにならんだ「食」の世界を「デザイン」という表現では語られません。
もちろん、フード・デザイン、テーブル・デザインなどの言葉もありますが、日常のなかで繰り広げられるこの高度な「食」のデザインの領域を語るとき、そこに「デザイン」という言葉はあまり使われないし、なぜかふさわしくもありません。
この漠然とした感覚のなかに、なにかとても大事なことが隠れひそんでいるのではないかと思いました。
今もこれからも「情報」の「デザイン」という作業の重要性に変わりはないのですが、自分の仕事の組み立て方、生活の組み立て方を考えたとき、これまでの「デザイン」重視を強調し、訴える方向は、どこか修正を求められているのを感じます。
なぜ、料理を語るときは、どんなにそれが高い創造性を発揮された美しいものであったとしても「デザイン」という表現がふさわしくないのでしょうか。
おそらく、「食」や「料理」の世界は、あまりにも生命の本源的営みであるから、それがいかに創造的ですぐれたものであったとしても、なにか「デザイン以前のもの」として感じられるのかもしれません。
とすれば、
デザインという言葉が飛び交うほどに、生命の本源的な営みからは遠ざかる「商業的匂い」のようなものを感じることになります。
決して「商業」が悪いわけではありません。
強いて言えば、「商業」と「生命の本源的営み」との距離感の問題です。
つまり、「仕事」や「商業」を、どれだけ「生命の本源的営み」として捉えなおせるか、「生命の本源的営み」近づけることができるかということです。
なにかにつけて「賃労働」の枠でしかとらえられない現代の「労働」を敵視する私ですが、それに対する答えを、妻のつくる創造的な料理の世界にみつけたような気がします。
「生命の本源的営み」を軸として考えれば、それは何か「デザイン」されるような方向にあるのではなく、自然生命本来の「輝きを増す」方向に自ずと突き進むのではないでしょうか。
大自然の営みに近づくほど、
日々の生活に深く根付くほど、
それがどんなにクリエイティブな創作であったとしても
それは不思議と「デザイン」とは言えない活動になっていきます。
あとで気づきましたが、パブリック・コードが「デザイン」
パーソナル・コードは、いかにクリエイティブであっても「デザイン」にはならない、ということ。
ひとりひとりがパーソナル・コードを日常で生産できる社会こそが、より「豊か」な社会なのではと思います。
そもそも、大自然がもたらす生産性や美しさに、人間の生産、経済活動など遠く及ぶものではありません。
経済的な発展や文化的な美しさの問題を、現代社会のなかで大自然の生命の営みの枠のなかにどう引きずり降ろすか。
日々の人の営みを「労働」と「生活」を分断することなく、ひとつの「暮らし」「営み」としてとらえ直す作業を、もっともっと語っていかなければならないと思ってます。
それは身の回りの生産活動、生命活動のなかから、「不自然」なものをひとつずつ減らしていくとても手間のかかる作業です。
テーブルに一度の食事が並べられるまでには、料理の腕が求められることに間違いありませんが、そのプロセスは、
○ 新鮮な野菜や魚などの食材を探してにいれる努力。
またはそれに至る生産農家などとの出会い。
○ 鮮度を維持するための保存方法、冷凍・解凍技術など。
○ 出汁づくりや下ごしらえの手間。
○ 調理の技術や相手の好みや体調への配慮
○ 器選びや盛り付けの工夫、料理を出すタイミング
(器などを作る作家との出会い)
○ 食事と会話を盛り上げるお酒の選択
○ これら全体を支える部屋全体のロケーションづくり
などなど、たくさんの要素によって支えられています。
(またそれが伝わるような写真撮影もここではあります)
これらの工程のどこをとっても、現代人の暮らしでは「不自然」なものを減らすことにとても手間がかかるものです。
現代社会に生きる私たちは、こうした「不自然」なものをなくして「自然」な姿に近づくことはとても難しい社会に生きています。
でも「自然」な姿に近づくということは、「余計な手間」をかけないことでもあります。
このそれぞれ違う方向を目指しながらも、その追求の過程でどちらからも「美しさ」が滲み出てくるものです。
それがいかなる領域の活動であっても
1、生命力あふれる素材選び
2、素材の力を活かした加工
3、会話や雰囲気を高める盛り付けや場づくり
などの工程は不可欠なことです。
私たちはこうした多くの学びを通じて、余計な手間をかけない「自然」に、これから少しずつ近づいていけたらとも思っているのですが、妻の料理の姿に学ぶならば、読書という営みも、決して知識や教養をためるためであったり、出版「文化」を守るためでもなく、日常の生命の営みのなかに溶け込んでいく道を少しでもかたちにしていけたらと考えるものです。
それは、言葉を変えれば、より多く稼ぐことでしか実現できないかのような「豊かさ」に真っ向から対峙して、そうではない姿を日々の暮らしの中で立証していくプロセスです。
後になって、こんな本があることを知りました。
久保明教『「家庭料理」と言う戦場 暮らしはデザインできるか?』コトニ社
まだまだ遠い道のりをうまく表現することが出来ませんが、今回、とても大事なポイントを気づかせてもらえた気がしています。